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二人の儀式は欠くべからざるが如く

 西向きの部屋は昼頃から日が差し込んでくる。

 霧の光度減衰効果によって光量が落ちるものの、 日光は今も人々の暮らしを明るく照らす。

 そして傾いた日が地平線へ近づくに連れて、 真っ白の世界に鮮やかな変化が訪れる。

 紅梅薄暮こうばいはくぼ

 霧に対する一番透過性が高い色は波長の長い赤である。

 蛇鶏の吐く霧はその波長を乱反射させて、 霧一面に浸透させる性質がある。

 燃えるような西日が霧に融けることによって、 世界が紅色に染め上がる。

 時計に目を向ければすでに夕霧の時刻。

 賑やかだった執務室は落ち着きを取り戻し、 窓から差し込む夕陽が部屋の明暗を色濃く滲ませている。

 何もかもが黄昏時に色飾らされた中で、 弓波が沈黙を破った。


「紀伊馬さん」

「わかっておるよ」


 紀伊馬は退室した二人の湯呑を見つめている。


「彼は前へ進むと決めました。 霧の舞台ステージに登壇すると」

「わかっておる」

「まだ迷っていますか」

「……正直、 な」

「紀伊馬さんの迷いは心得ているつもりです」


 うなずくだけで一言も口をきかない紀伊馬。

 この頑なさに弓波は覚えがあった。

 二人が初めて顔を合わせた時を思い出す。

 あの日も真っ赤な夕霧の刻だった。


 当時、 帰宅の身支度をしていた弓波の前に、 紀伊馬がアポイントメント無しで訪れた。

 そして何用かと尋ねるよりも早く「弟子の不始末に妹御を巻き込んでしまった」という弁と共に、 老人はその場で土下座をした。

 何を言ってるのかと問い質す間も無く、 続けざまに真の凶報が飛び込んできた。

 後に語られる≪エモテットアイル≫レポート。

 ≪雷獣≫一匹相手に死者百四十一名。

 その内、 非戦闘員三十八名。

 獣害事件と呼称するのをためらうほどに、 被害が大きすぎる惨状だった。

 この戦いで紀伊馬の弟子は全員討ち死にを果たし、 非戦闘員の脱出に尽力した弓波の妹、 心結もまた運命を共にした。


 だが話はここで終わらない。

 戦闘終結後の事後検証でいくつかの不自然な点が指摘された。

 第一報は≪雷獣≫による救援要請であったが緊急性を要していなかったこと。

 第二報三報も戦況の深刻さを伏せている節があること。

 戦闘員非戦闘員問わず、 近場の人間を巻き込むように戦場を移してること。

 そして、 そもそも相手が≪雷獣≫でなかったこと。

 その誤報を送り続けたのが紀伊馬の弟子達であった等々……こうした様々な状況を一つ一つ繋ぎ合わせていくと、 短慮で無謀なシナリオが否応なく見えてきた。

 そして当然ながら検証の結論はひどく辛辣なものとなって、 これ以上なく立場を悪くした紀伊馬は全責任を負う形で後進の育成から手を引くと、 「弟子殺し」という二つ名を与えられてそのまま表舞台からも消えていった。

 一つの言い訳もせず罵倒を浴びながら、 ひたすらに頭を下げ続けた老人の姿を、 弓波はずっと忘れられなかった。


京八月きょうやづきという名を知っとるかね」


 紀伊馬が重い口を開けた。 弓波は一言「いいえ」と答えた。


「こいつは突き技の一つでな。 左手を差し出すように構えて、 相手が喰い付こうとしたところを右手で突き返すのだ。 前々世紀より更に古くから伝わる剣術の勝負太刀を槍術に取り入れたものだそうな」

「後の先を体現したような技ですね」

「相手の攻撃を躱せればな。 一歩間違えれば左手一本を捨ててしまう。 槍術は利き腕が重要なのはお前さんも知っておろう。 右利きであれば力も制御もほぼ全て右腕が担うものだが、 支えの左腕を失えば精度が極端に落ちてしまう。 だから京八月は極意として伝授される。 こいつは最後の奥の手であり相打ち覚悟の切り札として扱いを強く戒められておるのだ」


 紀伊馬は湯呑に伸ばした手を寸前で止めた。

 飲み残した水面が赤く染まっている。


「弟子達の遺骸を見たらな、 皆左手がズタズタになっておった。 京八月を何度も放ったのだろう。 最後の最後まで死力を尽くしたのだと手に取るようだった。 なぜここまでやったのかと一瞬でも考えた儂は実に愚かであった。 自分で説いたのではないか……街を護るために力を振るえと……お前さんの察し通りだ。 儂は後悔している。 京八月が、 儂の言葉が、 弟子達の逃げ道を塞いでしまったのではないかと。 言うてはならんことはわかっておるが、 こんなものを授けなければ生きて帰って来れたやもしれん。 そう思うと悔やんでも悔やみきれん。 もう過ぎたことだと割り切れんのだ」


 弓波はその問いを返すことができたが、 あえて口には出さなかった。

 最後まで技を振り続けた弟子達が師匠を恨みながら逝くだろうか。

 しかも戦場からの逃亡者はおらず、 全員一人残らず命を賭けて戦いに挑んでいる。

 風評の真偽はどうあれ、 その覚悟には弓波に畏敬の念を抱かせた。

 だからこそ紀伊馬をこのままにしていてはいけない。

 彼らのためにもすべきことがあると説かねばならない。

 弓波は意を決した。


「僕がお願いしているのは、 ただ純粋な強さの体得ではありません。 藪影君が必ず生きて帰ってこられるように、 そのための術を授けてほしいのです」


 直風はマジックスピアの中で標準的なグレードに属している。

 汎用性は限定的で最低限の武装しか積むことができない。

 それでも護身用として務まるくらいの殺傷能力は備えている。

 もしも≪エモテットアイル≫みたいな状況が試験中に起こったら、 彼は逃げ道に逃れてくれるだろうか……いや、 彼女を見ればわかる。 自明の理だ。


「紀伊馬さん。 彼の祖父の言葉を覚えていますか。 藪影辰彦氏のです」


 その名を告げられて、 紀伊馬の顔に驚きの表情が浮かんだ。

 弓波は職務上、 冬一郎の素姓を知り得る立場にあったが、 それ以前に霧と対峙する者の一人として藪影の名は記憶していた。

 歴代スカウト五選の中でも異色と謳われた二つ名「鬼」の藪影。

 どれだけ古い名前であろうとも彼の功績は色あせない。


「二人の話には判断力を柔軟に持たせる意図がありました。 判断基準は本物と偽物の二者択一ではない。 偽物のお茶を本物の作法で淹れることでさりげなく第三の基準を示している。 辰彦氏による感性の磨き方は成程と思わずうなりました。 これなら鬼の眼は継承していそうで期待持てますが鬼の霞戯槍かぎやりはどうでしょう。 両の手を見た限りではしっかり鍛えているものの明らかに握った手ではないです。 あえて伝授しなかったのかそれとも時間が無かったのか……辰彦氏の考えは僕にはわかりませんし、 詮索する気もありません。 なぜなら今問題としているのは辰彦氏ではなく冬一郎君ですから。 霧をただ歩くだけなら今のままでも十分です。 しかしスカウトとなると話は違ってきます。 任務のためならあえて危険地帯に踏み込むのが彼らです。 だから僕達は手を尽くさなければいけないんです。 必ず帰って来られるように」

「……必ず帰って来る」

「辰彦氏が言ったように」

「湯冷ましの温もりを味わうために、 か」

「ええ、 そうです」


 弓波は姿勢を正すと、 真っ直ぐに紀井馬を見据えた。


「若輩者の自分が意見するなど大変失礼かと思いますが……藪影君を鍛えるという行為は、 今の紀伊馬さんに必要なプロセスだと思います」

「弟子の死を冬一郎で拭えと?」

「釣り合わないのは承知しています。 武の才も、 練度も、 命の数すらも足りません。 けどそれは当たり前なんですよ。 新しく弟子入りする者は亡くなった彼らにとって、 弟弟子にあたるんですから」


 紀伊馬は黙って聞き入っている。


「藪影君は彼らの代わりにはなれません。 けど継ぐことならできます。 生き残れば次の世代に繋げてくれますよ。 紀伊馬さんの想いも彼らの願いも、 きっと」

「弟子達のために弟弟子を取れ……か。 それを周囲の人間が許してくれるだろうか」

「そこは僕の仕事ですよ。 任せてください」

「そうか」


 弓波の言葉を噛みしめるように紀伊馬は目を閉じた。

 瞼の裏に写る弟子の顔々を見回す。

 誰もが笑顔を返してくれる。


 ――――愚かな儂を許してくれるか。


 思い出の輪郭が滲んでいく。

 大切なものが零れ落ちないように閉じ堪える。

 古井戸に残った最後の一滴は枯れ果てひび割れた心に沁み渡っていく。

 紀伊馬は右手を握る。

 小指から順々に折り曲げていく。

 それは指力の入れ具合を確認する行為。

 そして再び槍を持つという意志の表れ。

 過去との折り合いをつける儀式が終わるまで弓波は静かに見守っていた。


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