赤狐令嬢を巡る白鼠と蛙のミッションEx ② ――Don’t Shake, Dancing Fool――
避ける隙なんて、まるでなかった。
血液だけで出来ているにしては重い滴が瞼に落ちた途端、僕の意思など完全に無視するかのように、生理的反射に閉ざされた右目。
次の一秒を待たずして、僕の利き目の目尻のフチを、“これはただの血!” そんな風には、決して言い張れないくらい、粘り気がありすぎて、生々しくて、ここが夢の中なのを忘れかねないくらいの、嫌な温かさが伝う。
それを皮切りに、肌の上に容赦なく散った、夥しいくらいの、赤の飛沫。
左腕の中のリベには、“絶対に触れさせたくない!” そんな衝動に突き動かされるまま、右腕どころか半身ごと覆い被さった僕の、左側だけになった視界に、ポーリャちゃんの「今」が、ようやく飛び込んできた。
穿たれていた。“胴を貫通していた”だなんて、言うわけにいかない⋯⋯! 慌てて思い直す。僕に向かって、ポーリャちゃんが目を瞬いた。
「じょうできじゃん」
濡れてくぐもって、それなのに何故か力強くて、熱と輪郭を帯びた、声。
リベの姿なのに、統そっくりな口振り。
痛みの大きさを訊くわけにも行かず、 どうにか吐き気を窄ませたばかりの僕の喉が、微かな悲鳴とともに再び締め上げられた。
僕が気にしたのが、効いたのかもしれない。いや、間違いなく、効いているのだろう。ポーリャちゃんが苦しそうに眉根を寄せる。
ただでさえ白い肌から、さらに血の気が失せた酷い顔色。だと云うのに、
「⋯⋯痛くねえわけじゃないからさ。俺としては、なるべくさっきみたく、普通にしてくれた方が助かる」
喘ぐような口調で、無茶を突っ返してくる。
何言って、そんなの⋯⋯!
少なくとも、大きくて真っ赤で、不穏どころではないお腹の傷に手を添えている張本人が口にしていい台詞じゃあ――「⋯⋯ぅっ、だから、そういうのだっての! 悪ぃけどさ、傷に響く。笙真君は、大人しく笙真君のリベ様だけ見てなよ」
左半分しかない景色の中、くしゃりと顰めた顔で笑う。真っ赤に染まった手の甲で、今にも零れかけていた、目元の涙を拭った彼が、後ろを振り返った。
頬に刷かれた真新しい緋色で、凄絶以外の何ものでもなくなってしまった、リベと同じ顔。その顔に釘付けにされるしかない僕の左目は当然のようにポーリャちゃんの視線を追いかけて、彼の背後で立ち尽くしていた、僕と同い年の、本物と目が合う。
彼女の顔を覆っていたはずの両手は、いつの間にか下げられていて、さっきまで指の間でがらんどうに見えた若草色の双眸が、今はもう愕然一色に塗りたくられていた。
たまらず口を開く。
「リベ、君⋯⋯」
「違う! リベ、そんなつもりじゃ⋯⋯! そんな、つもり、じゃあ⋯⋯」
なんてことを。僕の台詞に被さって、|更に続くはずの一言《彼、キミの命の恩人なんだぞ?》を遮る、痛々しそうに切れた彼女の唇と、同じくらいの、震え声。
青黒く腫れ上がって、半分以上お岩さんみたいな顔貌になってしまった目鼻立ちを、僕に晒しながら、リベが後退った。
「ミナイデ⋯⋯」
一歩、二歩。開いたその隙間を埋めるように、カチカチ。喚ばれたばかりの、銅色の鋏が刃音を上げる。
小さな方のリベを左腕で庇っていた僕の、もたげた首のすぐ右側を、ゔィン!! 虻によく似た低い唸りとともに、鋏が掠める。思わず竦んでしまった僕の首元で、五歳の姿のリベが苦しげに身を捩った。
彼女の頭を抑え込んでいた僕の指先。そのどこかに、無意識に力が籠りすぎていたのかもしれない。
慌てて手のひらごと和らげた、指の間を滑り抜けて、リベの赤毛がもたらしてきた柔らかな手応え。そのくすぐったさに、なぜか安堵しかけてしまった僕の耳朶を、あどけない彼女の声が、「しょうまくんの」、叩いた。
「ばか」
突然の声と同時に、手中にあったはずのリベの体温がふっと掻き消える。
失われた彼女の熱に追い縋ろうとして、咄嗟に空を切った左手に、「!?」、激痛。事態に置き去りにされたまま、裂かれたばかりの左の手首を右手で引き寄せようとする僕に、あーあと云う、
「だから言ったじゃん。あんたのリベ様を見てろよ、って」
どこか場違いじみた、ポーリャちゃんの呆れ声。声と裏腹な完全に土気色としか言えない顔。
形の良いその額に、脂汗が滲んでいた。
「⋯⋯スマホ、貸して。俺がやる。見てらんねえ、し⋯⋯っ」
有無を言わせないくらい、張り詰めた言い回し。
おでこにへばり付く虹色の前髪を、血だらけの人差し指で難儀そうに掻き上げて、五歳のリベの似姿をした彼が、――きっとしんどくて仕方ないのだろう――片膝を突いた姿勢のまま、大きく苦笑いする。
「レベッカお嬢様。今更なんだけど――実はさ、」
無視も誤魔化しも無理なくらい、強く息を弾ませたポーリャちゃんの指先が、僕の肩、いや、そこにあるはずの彼のスマホに触れた。雷に撃たれたみたいな勢いのまま、僕と同じように、リベが彼に視線を向ける。
「おとつい、あんたを助けたのは、俺だよ。笙真君でなくてさ。これがその証拠! 見せてやるよ、」
如何にもお誂向きな、レベッカ様の魔法鋏もあることだしな。
脳裏にほんの一刹那の間だけ浮かんだ、僕にとって見慣れない文字列イメージ。
アルビノの鼠としての僕の赤い瞳に狙いを定めて、真っ直ぐ迫り来ていたリベの鋏。視界の大半を占める、鮮やかな紅だったその軌跡に、銀の筐体に手のひらを押しつけていた、左目の中のポーリャちゃんが一瞥を向けた、次の瞬間。
「読み」の魔法の色をした光が、白鼠の目前で、鋏の切っ先に唐突に絡みつく。すぐさま、解ける光。
残ったのは、くすんで鈍く輝く、虹色とも枯草ともつかない、艶ごと燻したような鋏身だった。カシャンと軽い音をあげて、土の上でバウンドした刃先が、一瞬だけ欠けた姿を見せたあとで、煙みたいに消える。
時間にすればたった数秒にも満たない一連の出来事。けれどそれは、リベにしてみれば想定外の真相だったんだろう。
信じられない。
いっそ緩慢にも見える仕草で、彼女は、ヒトの姿をした僕の方へと振り向いて来た。
“首を横に振って。|お願い。振って、早く《Please,Hurry》⋯⋯!!”
僕の「読み」の魔法越しに見えてしまった、助けを求めようとする彼女の心は、母語交じりの切望にまみれていた。
返事をしない僕のせいで、すぐにでも絶望に変わりかねない、ひどく明確な予兆を帯びて――。
◇
若草色の瞳の奥で、リベの心は切望まみれ。
目の前で、詩人ムーブ全開の先生と同じ顔がかます、そんな一行に圧縮できそうなイチャコラこそ、悪夢の最たるものだろ?
高熱に浮かされているであろう、この身体が見ているはずの錯覚。そう雑に言い切るには、執拗過ぎる痛みのあまり、いよいよ目眩に耐えかねている俺は、目の前の少年の左手首を切り裂いた方の小さなお嬢様に倣うことを決めた。
「笙真君の馬鹿」
奴のリベ様とは全く違う、低く抑えた口調で、呟く。
手首の傷を右手で握りしめた笙真と、彼の首筋に尾を這わせた白鼠が揃って、ものすごく嫌そうな顔と目つきでこちらを見た。
見て、固まった。これまたお揃いのタイミングで。
そりゃそうだよな。俺は思う。
丸い爪先付きの薄い掌と、鼠の前脚が添えられた、俺のEAP。そこから染み渡るように流れ込んでくる、ハッカ油風に味付けされた独特の冷たさ。
レベッカの身体には効果覿面に違いない、懐かしい心地良さを、存分に味わいながら。
土手っ腹に空いた大穴から、中身ぶちまけ中の痩せぎすの五歳児様モドキとか、どうみても最悪にマズい絵面。その極みだしさ?
今にもグズグズになって崩れ落ちそうな膝を意識から追っ払う。痛い。でも夢だから、平気だ。笑うなら膝より口角。痛い。上げろ。笑え。痛ぇ。けど、笑え。
悪態ごと噛み殺して、笑え。
だってさ、
「今あんたを助けに来てるのは、紛れもなく、リベ様の笙真君だぞ?」
ニイ。辛うじて頬を歪ませて俺は言った。言い、切った。




