赤狐令嬢を巡る白鼠と蛙のミッションEx ――Danse Macabre & Raison d’être――
声の主は、笙真だった。レベッカに負わされたはずの頬の傷なんて見当たらない少年。弾かれたように俺たちが見上げてしまったのは、俺が知っている彼よりも、幾らかあどけなくて、今よりもずっと日焼けしていない横顔だった。
先生と同じ、柔らかなはずのブラウンの両目はひどく強張っていた。いやな予感がする。そんな直感で握られかけた俺の拳を、
「笙真君⋯⋯?」
呟いて、ぎゅっと握り込んだお嬢様にも、彼の目が向けられることはなかった。
俺たちの存在なんて見えていないとばかりに、まっすぐに投げられた彼の視線を追って、振り返る。
朝日から置き去りになっていた、小さな木陰。
生成り色と昏い赤の一塊がそこにはあった。
半歩分だけにじり寄った笙真の足元で、ぱきん。竦みたくなるような、枝の折れる音。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯、」
すっかり深くなってしまった襟ぐりの最奥で、
くすみ切った鶸色の双眸が、未だ染められていない、ほつれた銅色に縁取られながら、呆然と笙真を見上げていた。「っ! リベッ」息を呑んで、駆け寄った笙真に抱き上げられてもなお、そのレベッカの無表情はほんの少しだって揺れやしなかった。
「リベ様、」
「⋯⋯⋯⋯」
「リベ」
「⋯⋯」
「⋯⋯統は、どこです?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
返事は皆無。そんな彼女を「読も」うと、笙真の右手がレベッカのおくれ毛を掬い上げた。噛みつくような勢いで、重なる視線。
けれど、それだけだった。虚ろなままのレベッカの瞳から、笙真は何一つ拾い上げられなかったのだろう。
彼女の面に絡みつくようだった虹色の煌めきが二度も爆ぜて、泣き声とも悲鳴ともつかない笙真の息遣いが、響き渡った。
◇
あまりにも不甲斐なさ過ぎる、自分の泣き言を聞かされている僕の身にもなってほしい。
あの日のリベの目から、何も拾えなかっただなんて、見くびられたものだよって、文句の一つくらい言ってやりたくなるぐらい、ようやく飛び込めたリベとポーリャちゃんの夢の中は、破茶滅茶の滅茶苦茶だった。
僕にだけは、知られたくない。ポーリャちゃん側にまで波及してる、リベのそんな希望なんて、「昨日の時点で、とっくに織り込み済みなんだけどな」
夢に呑まれないように、気恥ずかしさを我慢して、声に出す。
見えないだけで、前脚に触れたままの銀色の小さなスマートフォンの感触は、確かにそこにあった。命綱代わりの尻尾の先が絡みつく気配も同じく。
“格好つけすぎ。さっきまで泣きそうだったくせに”
“五月蝿いなあ。そっちこそ目潤みまくってたじゃん”
夢の外で、僕ら全員をエプロン越しの膝に抱えているであろうマーゴットに噛みつき返す。
“それより電池残量は?”
“25” 即答に、“⋯⋯減り、早くない?” 更に返す。一瞬の間のあとに反応が戻ってきた。
“ゼロになっても、ばかねずの魔力って保険があるから”
その言葉に、三日三晩の眠りのことが頭をよぎった。
マーゴットに悟られたくなくて、素っ気ない口調で時刻だけを訊ねると、返ってきたのは、“9時58⋯⋯今、59分になったわ”、というやけに律儀な回答だった。
バッテリーの減り方も時間の進み方も僕が思ってるより、悪くないペースみたい。焦りそうになっていた認識を改める。
夢の中の僕には見られたくないことの体現なんだろうな。リベを背負ったまま半透明になっている二人の姿を視界に置きながら、小さくなったばかりのリベを抱きしめていた、誕生日前日の僕に意識を落とし込む。
予想していたのよりもいくらかキツかった、数秒分のラグを経て、目を開ける。
肩の上に、外にいるはずの、白鼠姿の僕の体重をほんの少しだけ感じながら、腕のなかのリベを左手一本で抱え直す。空いた利き手は、もちろん今のリベのもとへ。
僕の変化に、先に気づいたのは、リベを背負った少年――昴のほうだった。苦笑気味にリベのほうへと首を巡らせた彼は、僕に向かって顎をひいた。
彼に背負われたままのリベの前髪の合間。そこに見えた彼女の片目は、前の朝、ポーリャちゃんが僕に「読ま」せようとしていたリベの目と一緒で、がらんどうだった。僕めがげて、夥しい数の鋏が殺到する。
昨日の再来みたいに、一瞬だけ真っ白になる思考。「大丈夫、認識の手綱を離すな!」リベにしては、おかしなくらい鋭さを帯びた、統そっくりなポーリャちゃんの口調に、意識の真ん中を撃ち抜かれる。
「レベッカ様。その笙真には、隠し事は不要だってよ」「でも」
昴の背中から降ろされたリベが口調を尖らせる。しゃがんだ彼の背に隠れるように縮こまる彼女は、俯いたまま。
「でも、リベは見られたくない⋯⋯」
僕の知っていたはずの背丈で、顔を覆った彼女の両手。
そのすぐ下に覗いている、ひどく切れて、青黒く腫れ上がった唇は、ひと目でわかるくらい震えていた。
それでも僕はリベがいい。――そんな単純な答えで、いいんだろうか。今さらながらに怖気づいてしまう。
「そんな単純な話じゃないよ、って」
いつの間にそうしていたのだろうか。すぐそばの木の幹にもたれかかる姿勢を取って、僕でもリベでもない虚空を見上げていた彼がおもむろに口を開いた。
「外禁解かれた初日の晩にさ、ペギーも言ってたんだ。⋯⋯統のことだけどな」
僕の眼前の十四歳のリベと、僕と、僕の腕の中の小さなリベ、それから肩上の白鼠まで、『俺は全て視界に収めてるぞ』、そう言いたげな素振りを挟んで、僕らをぐるりと見渡した彼が再び口を開いた。
「俺の推測が混ざってるから、どこまでが本当かっつう保証はできないけどな。火のないところには煙は立たないって言うしさ⋯⋯。そっちのお嬢様は、ちょっとくらいは、覚えてんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「俺には言えないこと? 笙真君にも? それとも、言いたくないこと? ⋯⋯⋯⋯へえ、だんまりなんだ? それ、ペギーも関係してることなのに?」
「⋯⋯ッ」
リベがやおら殺気立つ。腐葉土の上に散らばっていた、鋏の幾本かが、ふわりと浮上して、カチカチと雀蜂みたいな威嚇音を立てる。
「お、やってみるか? 幾ら刺しても俺は殺れねえぞ、夢ん中だからな」
「なら、外で目にもの見せてあげるわ!」
「リベ! ポーリャちゃんも! 頭を冷やしなよ」
「「冷えてるけど?」」
あああ、もう! どうしてそこだけ息が合うんだよ?
「「合ってじゃないし!」」
「それを息ぴったしって言うんじゃあ――⋯⋯ねえ、ポーリャちゃん。君、『読め』て、ない⋯⋯?」
問いかけると、彼はひどく照れくさそうな顔になって、頬を掻いてみせた。統と同じ黒髪黒目の少年の姿が墨を溶いたみたいに滲んで、リベと瓜二つにしか見えない、蛙の髪飾りをつけた虹色頭の女の子の格好に変わる。
「ポーリャちゃん、ポーリャちゃんって、笙真君が呼びすぎてるせい、だかんね⋯⋯?」
そんな馬鹿な。思ったら、どうしてか、昴そのままな目つきに睨まれてしまった。ついでに言えば、僕の腕に抱かれていたはずの小さなリベにまで。
新芽みたいに鮮やかな、二対分のジト目に挟まれて、息を呑まされる。
僕と同い年なはずのリベだけは、そのままだった。相も変わらず昏い瞳。僕が一番連れて帰りたいリベは⋯⋯思いかけた事実そのものにぞっとする。ここで決断したら、絶対に良くない。
ほとんど直感的な思考だった。けれど、勘というのは時に得てして正しくって⋯⋯、「笙真君、考えすぎ! 今のレベッカ様の前でその手の考えは全部NGだって――」金切り音みたいに高い、ポーリャちゃんの警句。その最後の一音の、「ば」と重なって、僕の身体が強く押される。
何、と思うより早く彼女の身体を後ろから貫いた、鋏がその勢いのまま、僕の目の前まで肉薄した。反射的に身を捩った僕の前髪を掠めて通過する切っ先。いやに粘り気のある血色のしぶきが、びっと音を立てて、僕の額からほっぺたに、容赦なく振り注いだ。




