幕間 鬼を雇った夜
今から十年ほど昔のこと――。
帝都の夜は、人によって意味を変える。
貴族にとっては、夜会の時間。
商人にとっては、帳簿を閉じる時間。
遊郭にとっては、稼ぎ時。
そして、鬼にとっては――狩りの時間だった。
その夜、帝の行列が襲われた。
*
伊吹は、ただ通りかかっただけだった。
あてはなかった。
黒夜の一族を捨てて、何年が経ったか、もう数えていなかった。
ただ、面白そうな匂いを追って、北へ南へと歩き回っていた。
その夜は、たまたま帝都にいた。
夜風が冷たかった。
秋の終わりの、湿った冷たさ。
着流しの裾が、風に揺れている。
帯に通した刀の鞘が、歩くたびに脇を打って、低く鳴った。
伊吹は表通りを避けて、裏路地を歩いていた。
この容姿は目立って仕方ない。
色んな女から声をかけられたが、伊吹は興味がなかった。
ただ、夜が好きだった。
特に街中は、色んな生き物の気配がある。
それを感じると――少しは鬱屈した気が晴れた。
大通りでは、ガス灯の黄色い光と電灯の白い光が混じり合って、街の色を極彩色にしている。
雨上がりだったらしく、石畳が湿っていた。
水たまりに、街の灯りが歪んで映っている。
遠くから、人力車の鈴の音と、市電のベルが聞こえた。
屋台から漂う、油の匂い。
軒先に下がった提灯の朱色が、夜風に揺れている。
女の笑い声と、男の酔った声。
全部が、人間の匂いだった。
全部が、退屈だった。
(……眠いな)
そう思った瞬間、空気が変わった。
血の匂い。
濃い、複数の鬼の気配。
伊吹は、足を止めた。
路地の向こうから、悲鳴が聞こえる。
大きな提灯の光が、揺れていた。
行列だ。
大層な、立派な行列。
絹の翳がはためき、漆塗りの輿が、煌々と灯る松明に照らされている。
その中で、何人かが倒れていた。
そして、その上に――黒い影。
鬼だ。
しかも、複数。
屈強な体格をしている。
伊吹は、しばらくその光景を眺めていた。
(……ふうん)
帝の行列、というやつだろうか。
よく分からない。
人間の身分制度には、興味がなかった。
ただ、護衛の数は明らかに多すぎた。
よほど偉い人間が、乗っているらしい。
鬼たちは、漆塗りの輿の中にいる者を引きずり出そうとしていた。
護衛は、次々と倒れていく。
刀を抜いている者もいたが、何ぶん相手が悪い。
夜目の利かない人間に、上位の鬼は止められない。
――そのとき。
伊吹は、輿の奥に視線をやった。
御簾が揺れた。
ちらりと覗いたのは、白い仮面。
その奥にいる影は、童のように小さかった。
気配は、人間のものだ。
けれど――。
(……なんだ、あれ)
違和感があった。
弱い。
気配自体は、ひどく弱い。
なのに、その仮面の目には、恐怖も、焦りも、ほとんど感じられなかった。
この状況で、それはあり得ない。
普通の人間なら、もっと騒ぐ。
動転して、逃げ回る。
なのに――あの少年だけ、別の空間から切り取られたみたいだった。
(……気持ち悪いな)
伊吹は、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
興味は、あまりなかった。
ただ――妙に、仮面が目に残った。
それだけだった。
伊吹は欠伸を一つして、通り過ぎようかと思った。
別に、誰が襲われようが、自分には関係ない。
帝が死のうが、行列が壊滅しようが、明日の自分には何の影響もない。
でも――。
(……あの数を、あの仮面の子供が捌けるなら、面白いんだけど)
好奇心がよぎった。
たぶん無理だろう。
全員、死ぬ。
それを見届けるのも、いつもの夜と変わらない気がした。
けれど、そこで別の考えが浮かんだ。
(……あの鬼たち、見覚えがあるな)
黒夜の眷属だった。
完全な本家ではないが、関わりのある一族の鬼たち。
昔、一族を壊滅させて出ていったとき、生き残った連中の系統だろう。
伊吹に対して、強い恨みを持っている可能性が高かった。
――ここで放っておけば、人間を喰い散らかす。
その血の匂いを追って、また別の鬼が集まってくる。
帝都の夜が、もう少し騒がしくなる。
それはそれで、面白いかもしれない。
でも、面倒も増える。
(……仕方ないな)
伊吹は、軽く首を回した。
別に、人間を救うためじゃない。
ただ、あの鬼たちの顔が気に入らなかった。
それだけだった。
次の瞬間、伊吹は路地から飛び出していた。
*
榊恒一は、鞘から刀を抜いた。
刃が松明の光を反射して、ぎらりと光る。
もう、何人目かの鬼が、目の前に迫っていた。
護衛は半分以上が倒れていた。
血の匂いが、夜気に濃く混ざっている。
石畳には、鬼の体液と、護衛の血が、まだらに広がっていた。
帝のお身は、奥の輿の中。
まだ無事だが、時間の問題だった。
恒一は、隊長として最前線に立っていた。
左肩には、すでに傷を負っている。
羽織の生地が裂け、血が滲んでいた。
動きが、わずかに鈍っている。
それでも、退かなかった。
――退けば、終わる。
目の前の鬼が、爪を振り上げた。
大きい。
強い。
恒一の刀では、まともに渡り合えない。
(……ここまで、か)
奥歯を噛んだ。
千鶴の声が、ふと耳の奥で蘇った。
『お兄ちゃん』
ありがとう、と言ったあの声。
まだ、千鶴の死から十年も経っていない。
ここで死ぬのは、構わない。
でも――妹に、まだ何も応えていない。
稀血を無くす道を、まだ作っていない。
ここで死ぬのは、許されない。
恒一は、刀を構え直した。
もう一度、踏み込もうとした、その瞬間――。
目の前の鬼の頭が、すとん、と地面に落ちた。
音もなく、ただ、首が落ちた。
恒一は、瞬きをした。
鬼の体が、ゆっくりと崩れていく。
その向こうに――着流しの少年が立っていた。
黒髪、黒目。
白い肌。
年は十歳前後だろうか。
松明の光に照らされて、少年の輪郭だけが浮かび上がっている。
――その異質な気配は、明らかに人間ではなかった。
(……鬼。また別の……)
恒一の体が、強張った。
刀を握り直す。
だが、その少年は恒一には目もくれなかった。
別の鬼へ、視線を移している。
そして、軽く――手を振った。
それだけで、また鬼が一体、崩れた。
苦痛の声も、断末魔もない。
ただ、輪郭がほどけて、夜気に溶けていく。
「……っ」
恒一は、息を呑んだ。
強い。
異常に、強すぎる。
今まで見てきた、どの鬼よりも。
桁が違う。
なのに――その少年は、暇つぶしのような顔で、ゆっくりと歩いていた。
すれ違いざまに、鬼を斬る。
いや、斬る、ですらない。
ただ、触れる。
それだけで、相手がほどけて消える。
数分も、かからなかった。
数十体いた鬼が、すべて消えた。
残ったのは、半壊した行列と、倒れた護衛と、そして――その少年だけだった。
血の匂いが夜気の中で、ゆっくりと薄れていく。
代わりに、少年のまわりだけ、別の匂いが漂っていた。
甘くて底のない、何かの花のような香り。
恒一は、それが鬼特有の匂いだと、後になって知ることになる。
少年は、ふと振り返った。
恒一と、目が合う。
「……あ、生きてた?」
軽い声だった。
いやに、軽い声。
「君、隊長? 弱いねぇ。代わりに倒しておいたよ。感謝してね?」
「……」
恒一は、答えなかった。
刀を、握ったままだった。
少年はそれを見て、くすっと笑った。
「警戒しなくていいよ。おれ、人間を食べるのあんまり好きじゃないし。特におっさんはね」
あっさりと言う。
冗談なのか、本気なのか、判別がつかない。
「……お前は」
恒一は、ようやく声を出した。
「何者だ」
「鬼だけど?」
即答だった。
「……それは、見れば分かる」
「そっかぁ」
「なぜ、助けた?」
少年は、しばらく首を傾げた。
「あいつら、知り合いだったから」
短く答える。
「気に入らなかった」
それだけだった。
恒一は、しばらくその答えを咀嚼した。
助けたわけではない。
ただ、私怨で殺した。
結果として、こちらが助かっただけ。
それが、目の前の少年の言い分だった。
(……何だ、これは)
恒一は、刀を下ろした。
戦う気力が、わずかに削がれた。
目の前の存在は、戦って勝てる相手ではない。
それは瞬時に分かった。
「……お前、名は」
「伊吹」
「伊吹、か」
「お前は?」
「榊、恒一」
ぽつりと言う。
その間にも、護衛たちが何人か駆け寄ってきていた。
彼らは、伊吹を見て凍りついている。
刀を抜こうとした者を、恒一は手で制した。
「……手を出すな」
短く命じた。
護衛たちは、戸惑いながらも従う。
伊吹は、それを面白そうに見ていた。
遠くで、夜回りの拍子木が、ぽーん、と鳴った。
それが妙に、現実の音として響いた。
*
数日後、伊吹はまた別の路地で、月を見ていた。
屋根の上に寝転がっていた。
帝都の夜は、相変わらずだった。
あの夜のことは、もう半分忘れかけている。
別に、何か変わったわけでもない。
ただ、知り合いの鬼を片付けただけ。
それだけのこと。
なのに――何やら、訪問者があった。
屋根の下から、声がした。
「伊吹」
低い、落ち着いた声だった。
伊吹は、首を伸ばして見下ろした。
あの夜の隊長――榊恒一が、立っていた。
黒の隊服。
路地に差し込む光の中で見ると、思ったより若かった。
まだ三十そこそこ、というところか。
伊吹は、しばらく考えた。
「あー、何だっけ? ああ、榊恒一だっけ?」
ようやく思い出してから手を叩き、片手で恒一に手を振った。
「こんなところに、何の用?」
「話がある」
「おれはないけど?」
「……降りてきてくれるか?」
「めんどいよ〜」
あっさりと言う。
恒一は、しばらく黙っていた。
それから、屋根に向かって、はっきりと言った。
「お前を、雇いたい。帝の勅命だ」
「は?」
伊吹は、初めて少し興味を持った。
「雇う、って? おれを?」
「組織がある。封鬼寮、という」
「ああ、知ってる。鬼を狩る人間の集まりだよね」
「そこに、お前のための特別枠を作る」
恒一の声は、淡々としていた。
伊吹は頬杖をつく。
「おれ、命令されるの嫌いなんだけど?」
「命令はしない」
即答だった。
「お前は、好きにしていい。ただ、必要なときに、その力を貸してほしい」
「ええ〜。なんで?」
「お前のような存在が、必要だからだ」
恒一は、屋根の上の伊吹を見上げた。
「もう隊員を失わずに済むほどの力を持って――鬼を斬ることができる者が必要だ」
「おれは鬼なのに?」
ちょっと楽しくなって、伊吹は口の端を上げる。
恒一の目に、揺るぎはなかった。
「だが、お前なら鬼を狩ることに躊躇しないだろう。それだけでいい」
少しだけ間を置いて、恒一は続けた。
「……ただし、仲間は傷つけるな」
伊吹は、しばらく恒一を見ていた。
風が、屋根の上を吹き抜けた。
瓦が、乾いた音で軋む。
「……ふうん」
短く、口の中で呟く。
「自由なの? 縛られたりしない?」
「自由だ。それは約束する」
「ほんとに?」
「ああ」
短く答えた。
伊吹は、くすっと笑った。
久しぶりに、面白い人間に会った気がした。
怯えるわけでもなく。
伊吹の実力を知りながら、利用しようとしてくる。
そういう男に、伊吹は会ったことがなかった。
「……まぁ、いっか」
あっさりと答える。
「やってもいいよ。退屈してたし」
「そうか」
そんなやり取りで、伊吹は封鬼寮に入ることになった。
そこから、榊恒一とは腐れ縁だ。
*
話は終わったが、恒一はすぐには立ち去らなかった。
(……この少年だったら)
千鶴を、救えただろうか。
ふと、そう思った。
もし、千鶴の隣に、あの少年がいたら。
あの強さがあったら。
千鶴は、まだ生きていただろうか。
答えは、出なかった。
過去は、変わらない。
でも――未来は、変えられる。
いつか、また稀血を持つ者が現れるだろう。
そのときは、あの少年のそばに置こう。
そう、決めた。
今回の一件を機に、恒一は封鬼寮の長官に任じられた。
伊吹の見張り役も兼ねて、という名目で。
恒一は、深く息を吐いて、屋根の上を見上げた。
伊吹は、もうこちらに興味をなくしていた。
(……これでいい)
恒一は、踵を返した。
夜の路地を、ゆっくりと歩き出す。
石畳の上に、自分の影が長く伸びていた。
屋根の上では、伊吹が大きく欠伸をしていた。




