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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ


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5/8

幕間 鬼を雇った夜

 今から十年ほど昔のこと――。

 帝都の夜は、人によって意味を変える。

 貴族にとっては、夜会の時間。

 商人にとっては、帳簿を閉じる時間。

 遊郭にとっては、稼ぎ時。

 そして、鬼にとっては――狩りの時間だった。

 その夜、帝の行列が襲われた。



 伊吹は、ただ通りかかっただけだった。

 あてはなかった。

 黒夜の一族を捨てて、何年が経ったか、もう数えていなかった。

 ただ、面白そうな匂いを追って、北へ南へと歩き回っていた。

 その夜は、たまたま帝都にいた。

 夜風が冷たかった。

 秋の終わりの、湿った冷たさ。

 着流しの裾が、風に揺れている。

 帯に通した刀の鞘が、歩くたびに脇を打って、低く鳴った。

 伊吹は表通りを避けて、裏路地を歩いていた。

 この容姿は目立って仕方ない。

 色んな女から声をかけられたが、伊吹は興味がなかった。

 ただ、夜が好きだった。

 特に街中は、色んな生き物の気配がある。

 それを感じると――少しは鬱屈した気が晴れた。

 大通りでは、ガス灯の黄色い光と電灯の白い光が混じり合って、街の色を極彩色にしている。

 雨上がりだったらしく、石畳が湿っていた。

 水たまりに、街の灯りが歪んで映っている。

 遠くから、人力車の鈴の音と、市電のベルが聞こえた。

 屋台から漂う、油の匂い。

 軒先に下がった提灯の朱色が、夜風に揺れている。

 女の笑い声と、男の酔った声。

 全部が、人間の匂いだった。

 全部が、退屈だった。


(……眠いな)


 そう思った瞬間、空気が変わった。

 血の匂い。

 濃い、複数の鬼の気配。

 伊吹は、足を止めた。

 路地の向こうから、悲鳴が聞こえる。

 大きな提灯の光が、揺れていた。

 行列だ。

 大層な、立派な行列。

 絹の翳がはためき、漆塗りの輿が、煌々と灯る松明に照らされている。

 その中で、何人かが倒れていた。

 そして、その上に――黒い影。

 鬼だ。

 しかも、複数。

 屈強な体格をしている。

 伊吹は、しばらくその光景を眺めていた。


(……ふうん)


 帝の行列、というやつだろうか。

 よく分からない。

 人間の身分制度には、興味がなかった。

 ただ、護衛の数は明らかに多すぎた。

 よほど偉い人間が、乗っているらしい。

 鬼たちは、漆塗りの輿の中にいる者を引きずり出そうとしていた。

 護衛は、次々と倒れていく。

 刀を抜いている者もいたが、何ぶん相手が悪い。

 夜目の利かない人間に、上位の鬼は止められない。


 ――そのとき。


 伊吹は、輿の奥に視線をやった。

 御簾が揺れた。

 ちらりと覗いたのは、白い仮面。

 その奥にいる影は、童のように小さかった。

 気配は、人間のものだ。

 けれど――。


(……なんだ、あれ)


 違和感があった。

 弱い。

 気配自体は、ひどく弱い。

 なのに、その仮面の目には、恐怖も、焦りも、ほとんど感じられなかった。

 この状況で、それはあり得ない。

 普通の人間なら、もっと騒ぐ。

 動転して、逃げ回る。

 なのに――あの少年だけ、別の空間から切り取られたみたいだった。


(……気持ち悪いな)


 伊吹は、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。

 興味は、あまりなかった。

 ただ――妙に、仮面が目に残った。

 それだけだった。

 伊吹は欠伸を一つして、通り過ぎようかと思った。

 別に、誰が襲われようが、自分には関係ない。

 帝が死のうが、行列が壊滅しようが、明日の自分には何の影響もない。

 でも――。


(……あの数を、あの仮面の子供が捌けるなら、面白いんだけど)


 好奇心がよぎった。

 たぶん無理だろう。

 全員、死ぬ。

 それを見届けるのも、いつもの夜と変わらない気がした。

 けれど、そこで別の考えが浮かんだ。


(……あの鬼たち、見覚えがあるな)


 黒夜の眷属だった。

 完全な本家ではないが、関わりのある一族の鬼たち。

 昔、一族を壊滅させて出ていったとき、生き残った連中の系統だろう。

 伊吹に対して、強い恨みを持っている可能性が高かった。


 ――ここで放っておけば、人間を喰い散らかす。


 その血の匂いを追って、また別の鬼が集まってくる。

 帝都の夜が、もう少し騒がしくなる。

 それはそれで、面白いかもしれない。

 でも、面倒も増える。


(……仕方ないな)


 伊吹は、軽く首を回した。

 別に、人間を救うためじゃない。

 ただ、あの鬼たちの顔が気に入らなかった。

 それだけだった。

 次の瞬間、伊吹は路地から飛び出していた。



 榊恒一は、鞘から刀を抜いた。

 刃が松明の光を反射して、ぎらりと光る。

 もう、何人目かの鬼が、目の前に迫っていた。

 護衛は半分以上が倒れていた。

 血の匂いが、夜気に濃く混ざっている。

 石畳には、鬼の体液と、護衛の血が、まだらに広がっていた。

 帝のお身は、奥の輿の中。

 まだ無事だが、時間の問題だった。

 恒一は、隊長として最前線に立っていた。

 左肩には、すでに傷を負っている。

 羽織の生地が裂け、血が滲んでいた。

 動きが、わずかに鈍っている。

 それでも、退かなかった。


 ――退けば、終わる。


 目の前の鬼が、爪を振り上げた。

 大きい。

 強い。

 恒一の刀では、まともに渡り合えない。


(……ここまで、か)


 奥歯を噛んだ。

 千鶴の声が、ふと耳の奥で蘇った。


『お兄ちゃん』


 ありがとう、と言ったあの声。

 まだ、千鶴の死から十年も経っていない。

 ここで死ぬのは、構わない。

 でも――妹に、まだ何も応えていない。

 稀血を無くす道を、まだ作っていない。

 ここで死ぬのは、許されない。

 恒一は、刀を構え直した。

 もう一度、踏み込もうとした、その瞬間――。

 目の前の鬼の頭が、すとん、と地面に落ちた。

 音もなく、ただ、首が落ちた。

 恒一は、瞬きをした。

 鬼の体が、ゆっくりと崩れていく。

 その向こうに――着流しの少年が立っていた。

 黒髪、黒目。

 白い肌。

 年は十歳前後だろうか。

 松明の光に照らされて、少年の輪郭だけが浮かび上がっている。


 ――その異質な気配は、明らかに人間ではなかった。


(……鬼。また別の……)


 恒一の体が、強張った。

 刀を握り直す。

 だが、その少年は恒一には目もくれなかった。

 別の鬼へ、視線を移している。

 そして、軽く――手を振った。

 それだけで、また鬼が一体、崩れた。

 苦痛の声も、断末魔もない。

 ただ、輪郭がほどけて、夜気に溶けていく。


「……っ」


 恒一は、息を呑んだ。

 強い。

 異常に、強すぎる。

 今まで見てきた、どの鬼よりも。

 桁が違う。

 なのに――その少年は、暇つぶしのような顔で、ゆっくりと歩いていた。

 すれ違いざまに、鬼を斬る。

 いや、斬る、ですらない。

 ただ、触れる。

 それだけで、相手がほどけて消える。

 数分も、かからなかった。

 数十体いた鬼が、すべて消えた。

 残ったのは、半壊した行列と、倒れた護衛と、そして――その少年だけだった。

 血の匂いが夜気の中で、ゆっくりと薄れていく。

 代わりに、少年のまわりだけ、別の匂いが漂っていた。

 甘くて底のない、何かの花のような香り。

 恒一は、それが鬼特有の匂いだと、後になって知ることになる。

 少年は、ふと振り返った。

 恒一と、目が合う。


「……あ、生きてた?」


 軽い声だった。

 いやに、軽い声。


「君、隊長? 弱いねぇ。代わりに倒しておいたよ。感謝してね?」


「……」


 恒一は、答えなかった。

 刀を、握ったままだった。

 少年はそれを見て、くすっと笑った。


「警戒しなくていいよ。おれ、人間を食べるのあんまり好きじゃないし。特におっさんはね」


 あっさりと言う。

 冗談なのか、本気なのか、判別がつかない。


「……お前は」


 恒一は、ようやく声を出した。


「何者だ」


「鬼だけど?」


 即答だった。


「……それは、見れば分かる」


「そっかぁ」


「なぜ、助けた?」


 少年は、しばらく首を傾げた。


「あいつら、知り合いだったから」


 短く答える。


「気に入らなかった」


 それだけだった。

 恒一は、しばらくその答えを咀嚼した。

 助けたわけではない。

 ただ、私怨で殺した。

 結果として、こちらが助かっただけ。

 それが、目の前の少年の言い分だった。


(……何だ、これは)


 恒一は、刀を下ろした。

 戦う気力が、わずかに削がれた。

 目の前の存在は、戦って勝てる相手ではない。

 それは瞬時に分かった。


「……お前、名は」


「伊吹」


「伊吹、か」


「お前は?」


「榊、恒一」


 ぽつりと言う。

 その間にも、護衛たちが何人か駆け寄ってきていた。

 彼らは、伊吹を見て凍りついている。

 刀を抜こうとした者を、恒一は手で制した。


「……手を出すな」


 短く命じた。

 護衛たちは、戸惑いながらも従う。

 伊吹は、それを面白そうに見ていた。

 遠くで、夜回りの拍子木が、ぽーん、と鳴った。

 それが妙に、現実の音として響いた。



 数日後、伊吹はまた別の路地で、月を見ていた。

 屋根の上に寝転がっていた。

 帝都の夜は、相変わらずだった。

 あの夜のことは、もう半分忘れかけている。

 別に、何か変わったわけでもない。

 ただ、知り合いの鬼を片付けただけ。

 それだけのこと。

 なのに――何やら、訪問者があった。

 屋根の下から、声がした。


「伊吹」


 低い、落ち着いた声だった。

 伊吹は、首を伸ばして見下ろした。

 あの夜の隊長――榊恒一が、立っていた。

 黒の隊服。

 路地に差し込む光の中で見ると、思ったより若かった。

 まだ三十そこそこ、というところか。

 伊吹は、しばらく考えた。


「あー、何だっけ? ああ、榊恒一だっけ?」


 ようやく思い出してから手を叩き、片手で恒一に手を振った。


「こんなところに、何の用?」


「話がある」


「おれはないけど?」


「……降りてきてくれるか?」


「めんどいよ〜」


 あっさりと言う。

 恒一は、しばらく黙っていた。

 それから、屋根に向かって、はっきりと言った。


「お前を、雇いたい。帝の勅命だ」


「は?」


 伊吹は、初めて少し興味を持った。


「雇う、って? おれを?」


「組織がある。封鬼寮、という」


「ああ、知ってる。鬼を狩る人間の集まりだよね」


「そこに、お前のための特別枠を作る」


 恒一の声は、淡々としていた。

 伊吹は頬杖をつく。


「おれ、命令されるの嫌いなんだけど?」


「命令はしない」


 即答だった。


「お前は、好きにしていい。ただ、必要なときに、その力を貸してほしい」


「ええ〜。なんで?」


「お前のような存在が、必要だからだ」


 恒一は、屋根の上の伊吹を見上げた。


「もう隊員を失わずに済むほどの力を持って――鬼を斬ることができる者が必要だ」


「おれは鬼なのに?」


 ちょっと楽しくなって、伊吹は口の端を上げる。

 恒一の目に、揺るぎはなかった。


「だが、お前なら鬼を狩ることに躊躇しないだろう。それだけでいい」


 少しだけ間を置いて、恒一は続けた。


「……ただし、仲間は傷つけるな」


 伊吹は、しばらく恒一を見ていた。

 風が、屋根の上を吹き抜けた。

 瓦が、乾いた音で軋む。


「……ふうん」


 短く、口の中で呟く。


「自由なの? 縛られたりしない?」


「自由だ。それは約束する」


「ほんとに?」


「ああ」


 短く答えた。

 伊吹は、くすっと笑った。

 久しぶりに、面白い人間に会った気がした。

 怯えるわけでもなく。

 伊吹の実力を知りながら、利用しようとしてくる。

 そういう男に、伊吹は会ったことがなかった。


「……まぁ、いっか」


 あっさりと答える。


「やってもいいよ。退屈してたし」


「そうか」


 そんなやり取りで、伊吹は封鬼寮に入ることになった。

 そこから、榊恒一とは腐れ縁だ。



 話は終わったが、恒一はすぐには立ち去らなかった。


(……この少年だったら)


 千鶴を、救えただろうか。

 ふと、そう思った。

 もし、千鶴の隣に、あの少年がいたら。

 あの強さがあったら。

 千鶴は、まだ生きていただろうか。

 答えは、出なかった。

 過去は、変わらない。

 でも――未来は、変えられる。

 いつか、また稀血を持つ者が現れるだろう。

 そのときは、あの少年のそばに置こう。

 そう、決めた。

 今回の一件を機に、恒一は封鬼寮の長官に任じられた。

 伊吹の見張り役も兼ねて、という名目で。

 恒一は、深く息を吐いて、屋根の上を見上げた。

 伊吹は、もうこちらに興味をなくしていた。


(……これでいい)


 恒一は、踵を返した。

 夜の路地を、ゆっくりと歩き出す。

 石畳の上に、自分の影が長く伸びていた。

 屋根の上では、伊吹が大きく欠伸をしていた。





 

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