幕間 鬼に名をつけた夜
――九年前まで、小夜は母と二人で暮らしていた。
帝都から馬車で半日離れた、稲作と機織りを生業にする小さな村。
父は、小夜が物心つく前に病で亡くなったと聞いている。
母は機織りで生計を立てていた。
昼間は機の前に座り、夜になれば繕い物。
手は荒れていたが、その手で結ってくれる髪の感触は、いつも温かかった。
「小夜、今日もお手伝いしてくれてありがとうね」
夕餉のあと、縁側で梅の枝を見ながら、母はそう言って小夜の頭を撫でた。
庭の梅は、母が嫁いだ年に植えたものだという。
「来年も、咲くといいわね」
その声は、いつも穏やかだった。
怒っているのを、小夜は見たことがない。
大きな声を出すことも、誰かを責めることもない人だった。
ただ静かに、毎日を編んでいくような人。
その隣で、小夜は安心して眠っていた。
――それが、当たり前だと思っていた頃の話だ。
秋の終わりだった。
昼間はまだ日差しが残るのに、夜になると急に冷える季節。
稲刈りの済んだ田が、夕日に焼けて、金色に光っていた。
その日、小夜は家の裏手にある納屋の陰で、小さな子猫を見つけた。
白と灰色のまだら模様。手のひらに乗りそうなほど小さくて、痩せていて、震えていた。
「……お母さん、いないの?」
しゃがみ込んで声をかけると、子猫は警戒しながらも逃げなかった。細い声で、かすかに鳴くから、放っておけなかった。
その日から、小夜はこっそり食べ物を持ち出すようになった。母に見つからないように、小さな器に少しだけ取り分けて。
――その日の夜。月は丸かった。
空気は冷たく、吐く息がわずかに白くなる。
軒先に下げてあった干し柿が、月明かりに照らされて、ゆらりと揺れていた。
遠くの山の稜線が、夜空にくっきりと浮かんでいる。
帝都にはない、深い闇だった。
ガス灯も、電灯も、ここには届かない。
あるのは、月明かりと、家の中の行灯の油の匂いだけ。
十歳の小夜には少し大きめの羽織を、淡い色の木綿の着物の上に重ねていた。
昼間に庭を走り回ったせいで、裾には少しだけ土がついている。
草履の鼻緒が、足の指に少しだけ食い込んでいた。
(今日もいるかな)
小夜は両手で器を抱え、家の裏手へ向かった。
砂利を踏む、しゃり、しゃり、という音だけが、夜の中で響く。
納屋の戸をそっと押すと、木の戸が、低く軋んだ。
「……ねこちゃん?」
返事はない。奇妙なほど静かだった。
月明かりが、板壁の隙間から差し込んでいる。
藁の匂い。乾いた木の匂い。
昼間に運び込まれた、刈り取ったばかりの稲の匂いも、まだかすかに残っていた。
その奥で、がさり、と音がした。
「……っ」
小夜は足を止めた。
子猫じゃない。もっと重くて、低い音。
目を凝らすと、影が揺れる。
そして――ゆっくりと、その輪郭が浮かび上がった。
長い影。
整いすぎた輪郭。
空気が、ひやりと冷える。
(……鬼だ)
本能が叫んだ。逃げろ、と。なのに――
「……怪我、してるの?」
口から出たのは、そんな言葉だった。
月明かりが差し込む。
そこにいたのは、ひとりの少年だった。
漆黒の髪と瞳。白い肌。まだ幼さが残るのに、どこか完成されている顔立ち。そして右目の下――小夜から見て左側に、小さなほくろ。
年は、小夜より少し上――十二歳ほどだろうか。
濃紺とも黒ともつかない着流しをまとっていた。
その着物の肩口が裂けて、血が流れていた。
深い傷だ。
転んだとか、獣に引っかかれたとか、そんなものではないと、すぐにわかる。
刃か、爪か。何か鋭いものに、えぐられたような傷。
血の匂いが、藁の匂いに混じって、納屋の中に薄く漂っていた。
(……これ、鬼がつけた傷?)
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
「……来るな」
少年が低く言った。けれど、明らかに弱っている。
「近づいたら――喰うぞ」
小夜は少しだけ迷って、それでも一歩踏み出した。
「……よしよし、大丈夫よ。何もしないから」
野良の子猫に対するみたいに扱えば、少年の目が細められる。
「……お前、おれが何なのか、分かってるのか」
「うん。鬼、だよね? 合ってる?」
「……近づくなよ」
「……だって怪我してるし」
それだけだった。小夜は器を差し出す。
「これ、食べる?」
「……いらない」
即答だった。でも、その視線は器から逸れなかった。
「ねこちゃんにあげようと思ってたの」
「猫?」
「うん。ここにいたはずなんだけど」
小夜は周囲を見渡す。けれど、子猫はいなかった。
「……いないね」
ぽつりと呟いて、それから少年を見る。
「じゃあ、あなたにあげる」
「いらないと言った」
「でも、お腹空いてるでしょ」
「……」
答えない。小夜は器をそっと床に置いた。
藁の上に置いた器が、わずかに音を立てる。
「……名前、なんていうの?」
「……ない」
「え?」
「名乗る必要がないだろ」
ぶっきらぼうに言う。それで終わり。
小夜は少し考えて、空を見上げた。
納屋の隙間から、月が見えている。
白くて、静かな光だった。
「……じゃあ、つき」
「……は?」
「今日、月がきれいだから」
少年の目が、わずかに見開かれる。
「つきって呼ぶね」
「……勝手に決めるな」
「だって名前ないんでしょ?」
「……」
否定しない。小夜は少しだけ笑った。
「つき。動かないでね」
傷に触れようとすると、少年の体がびくりと強張った。けれど、振り払われなかった。
「……ひどい傷」
「放っとけば治る」
「でも痛いでしょ」
「……」
沈黙。小夜は布を押し当てる。
手のひらに、少年の体温が伝わってくる。
冷たい。
人間とは違う温度。
でも、生きている、と分かる温度だった。
「これ、誰にやられたの?」
「……」
「人間じゃないよね?」
少年の目が、かすかに揺れる。
「……鬼?」
「……お前には関係ない」
「でも、痛そう」
「関係ないって」
言葉は冷たい。けれど声はかすれていて、少しだけ苦しそうだった。
小夜はそれ以上聞かなかった。
帰り際、納屋の入口でふり返ると、少年は器の中身をじっと見ていた。食べるつもりはない、という顔のまま。でも、視線は離れなかった。
(……食べてくれるといいな)
そう思いながら、小夜は戸を閉めた。
帰り道、月が頭の上にあった。
冷たい風が、頬を撫でていく。
遠くで、虫がか細く鳴いている。
秋の終わりの、最後の声だった。
*
次の日。小夜は昼間からそわそわしていた。
(今日は何を持っていこう)
そればかり考えていた。夕餉の膳を見ながら、こっそり一番やわらかそうなものを選ぶ。お椀の端から、少しだけ分ける。母に気づかれないように、素知らぬ顔で。
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てていた。
母が機織りの手を止めずに、夕餉を済ませたか問うてくる。
「……ええ、ごちそうさま」
声が震えそうになって、小夜は急いで碗を伏せた。
(……喜ぶかな)
喜ぶとは言わないだろう。あの少年は何でも「関係ない」と言うから。でも、昨日の視線は嘘をついていなかった。
夜になるのが、待ち遠しかった。
けれど、昼間のうちに納屋へ行くことはできない。
昼間は、人の目があった。
母の目。近所の大人たちの目。通りを行き交う人の声。
小夜が古い納屋へ近づけば、きっと誰かに見咎められる。
野良猫に餌をやっていることさえ、本当は母には内緒だった。
まして、見知らぬ少年を納屋に匿っているなど、言えるはずがない。
だから、あの場所へ行けるのは夜だけだった。
母が眠り、家々の灯りが落ち、猫たちが音もなく路地を渡る時間だけが、小夜の秘密の時間だった。
いつもは早く眠れるのに、その夜はなかなか寝付けなかった。月が高くなるのを待って、小夜はそっと床から抜け出した。
障子の隙間から、月の光が一筋、畳の上に伸びていた。
その光をたどるように、小夜は廊下を抜け、戸口を出た。
「つき?」
納屋の戸を押す。
木の戸の軋みが、昨日より大きく聞こえた気がした。
いた。
昨日と同じ場所に。壁に背をあずけて、目を閉じていた。小夜の気配に気づくと、目を開けた。
「……また来たのか」
「うん」
当たり前みたいに答えながら、小夜は器を差し出す。
「……」
少年は黙ったまま、けれど今日は最初から器を押しやらなかった。小さな間があって、それから無言で受け取った。
器を持つ指は、細くて、白かった。爪の形まで整っている。人間離れした、綺麗な手だった。
(……食べてる)
横に座って、小夜はこっそり顔を見る。食べながら、少年は窓の外を見ていた。表情はない。それなのに、なぜか昨日より近く見えた。
傷の具合を確かめようとすると、今日は昨日ほど抵抗しなかった。
「……痛い?」
「……少しだけ」
初めて、答えが返ってきた。小夜は少しだけ驚いて、微笑んだ。
*
三日目。
小夜は昼間から落ち着かなかった。
お稽古の最中も、針を持つ手が止まる。母に「どうしたの」と聞かれて、「なんでもない」と答えた。なんでもない、はずだった。
(……どうして)
胸がざわざわする。夜になるのが待ち遠しい。それが何を意味するのか、十歳の小夜にはまだよく分からなかった。ただ、会いに行きたかった。それだけは分かった。
夜。器を抱えて、小夜は納屋へ向かった。
今日は歩きながら、何度か深呼吸した。
(……なんで緊張してるの、私)
自分でもよく分からない。でも、心臓がいつもより速かった。
戸を押す。
「つき?」
いた。今日は入口の近くにいた。昨日より、少しだけこちらへ近い場所に。
「……遅い」
開口一番、そう言った。
「え?」
「昨日より遅い」
ぼそりと言う。目は逸らしたまま。
(……待ってた?)
小夜は一瞬だけ固まって、それから頬が熱くなるのを感じた。
「……ご、ごめんなさい。お稽古が長くて」
「別に謝らなくていい」
「でも……」
「来なくてもよかった」
それなのに「遅い」と言う。小夜はその矛盾に気づいて、なんだかおかしくなった。笑いをこらえながら、横に座る。
「今日はね、ちょっと甘いの持ってきたの」
器の中身を見せると、少年がわずかに視線を落とした。
甘く煮た栗だった。母が秋の終わりに作ってくれたもの。
夜気の中で、ほんのりと甘い湯気が立ち昇る。
「……甘いもの、好き?」
「……どちらでもない」
「そう」
小夜は少し考えて、器をそっと差し出した。
「食べてみて」
「……」
少年は一拍おいてから、受け取った。口に入れる。表情は変わらない。変わらないけれど――耳の先が、ほんのわずかに赤かった。
(……かわいい)
そう思った瞬間、小夜は自分で驚いた。
(かわいい、なんて)
鬼なのに。ぶっきらぼうで、冷たくて、全然笑わないのに。
でも、確かにそう思った。
「……つーちゃん、って呼んでいい?」
「呼ぶな」
「じゃあ、つーちゃん」
「……は?」
今度は、はっきりと反応した。
「なにそれ」
「つきって呼ぶよりかわいいでしょ?」
「かわいくない」
「かわいいよ」
「……」
一瞬、沈黙。それから、少年はふいと目を逸らした。否定しない。
(……いいんだ)
小夜は少しだけ嬉しくなった。
その夜、帰り道に小夜は月を見上げた。昨日より丸い気がした。
冷たい風が、田の上を渡っていく。
刈り取られた稲の切り株だけが、月明かりの下で薄く光っていた。
(明日も来よう)
そう思ったとき、胸の奥がまたざわついた。
(……ちゃんと、いてくれるかな)
今度は不安のほうだった。鬼だから、気まぐれに消えてしまうかもしれない。明日行ったら、もういないかもしれない。そう思ったら、胸が痛かった。
(……いてほしいな)
そんなことを思う自分に、小夜は少しだけ戸惑った。
*
四日目、五日目、六日目。
小夜は納屋に通い続けた。
その間に、村の景色が少しずつ変わっていった。
軒先の干し柿が増えた。
畑には霜が下りるようになった。
朝の井戸水に、薄い氷が張る日もあった。
冬が、もうすぐそこまで来ていた。
子猫は、やっぱりいなかった。
(……どこに行ったんだろう。逃げちゃったのかな)
そう思いながら周囲を見渡すと、少年が目を逸らした。
その一瞬の動きが、何かを知っているように見えた。けれど、小夜は聞かなかった。聞いたら、また「関係ない」と言われる気がしたから。
それよりも。
少年と話すことのほうが、小夜には大切になっていた。
話す、といっても、いつも言葉は少ない。少年は多くを語らない。小夜が話して、少年が短く答える。それだけだった。それなのに、不思議と飽きなかった。
「つーちゃんは、外に出ないの?」
「……昼間は出ない」
「どうして?」
「鬼だから」
「夜は?」
「……いろいろある」
「いろいろって?」
「……うるさい」
そっぽを向く。小夜はくすっと笑う。怒ったときの顔が、少し子どもみたいだった。
(そういう顔もするんだ)
そう思うたびに、胸の奥が温かくなる。
ある夜、ふたりで並んで納屋の入口から月を見ていた。
夜気が、少しずつ冷たさを増している。
息を吐くと、白く流れていった。
「……きれいだね」
小夜がぽつりと言う。
「……ああ」
珍しく、即答だった。
横を見ると、少年は月を見上げていた。その横顔が、月明かりに照らされている。白くて、静かな顔。睫毛が長い。右目の下のほくろが、影の中でかすかに見えた。
(……きれい)
思って、小夜はすぐに顔を逸らした。
頬が熱かった。
「どうした」
「な、なんでもない」
「顔が赤い」
「寒いから、かな」
「……柿みたいな顔色してる」
「してない」
少年が、ほんのわずかに目を細めた。笑っているのかどうか、よく分からない。でも、怒ってはいなかった。
(……笑った?)
小夜は胸の中で、こっそり喜んだ。
もっと笑ってほしい、と思った。自分に向けて。それだけのために、また来たいと思った。
*
七日目の夜だった。
その日は雲が多くて、月が隠れていた。納屋の中はいつもより暗く、少年の顔も影の中にある。
小夜はいつも通り横に座って、いつも通り他愛ない話をした。けれどその夜は、少年の様子がどこか違った。
言葉がいつもより少なく、視線が、どこか遠い。
(……どうしたんだろう)
聞こうとして、やめた。また「関係ない」と言われるのが怖かったから。
だから小夜は、ただ隣にいた。
しばらく沈黙が続いて。
外で、風が一度だけ強く吹いた。
納屋の板壁が、低く軋む。
「……いつまで来るつもりだ」
少年が、唐突に言った。
「え?」
「ここに。毎晩」
声は平坦だった。怒っているのか、呆れているのか、よく分からない。
「……つーちゃんがいるから」
小夜は正直に答えた。
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
「……」
少年は黙った。少しだけ間があって、それから静かに言った。
「おれは、ずっとここにいられない」
小夜の胸が、きゅっとなった。
「……どうして」
「鬼だから。いつかは去る」
「……いつ?」
「怪我が完全に治ったら」
月が、雲の隙間からほんの少しだけ顔を出した。納屋の中に、細い光が差し込む。
「――だから、もうお前は来ないほうがいい。風雨を防げる納屋だけ貸してくれたらいいんだ」
少年はそう言いながら、どこか遠くを見ていた。
(……追い払おうとしてる)
小夜には分かった。冷たい言葉で距離を置こうとする、あのいつもの感じ。でも今日は、その声がいつもより静かだった。
「……来るよ」
小夜は言った。
「え?」
「つーちゃんがいなくなるまで、来る」
少年がゆっくり振り返る。
「……なんで」
「会いたいから」
口に出してから、小夜は自分で少し驚いた。でも、撤回する気にはなれなかった。本当のことだったから。
「……お前は」
少年が、小夜を見る。なにか言いかけて、止まった。
また、沈黙。
「……それなら、おれも会いに来る」
ぼそりと、少年が言った。
「え?」
「おれも。ここを去ったあとでも――お前に会いに来る」
それだけだった。
約束とも呼べない、短い言葉。
大仰な誓いでも、きれいな言葉でもない。ただ、事実みたいに言った。
(……来てくれる)
それだけで、胸がいっぱいになった。
「……ほんとに?」
「嘘は言わない」
少年はそっぽを向いたまま。それでも、ほんのり頬が赤くなっていた。
小夜はぎゅっと膝を抱える。
嬉しいのに、なぜか泣きそうだった。
「……絶対だよ」
「……ああ」
短い返事。
「……だから、おれのことを覚えてろ。ずっと」
少年は小夜を見つめて言った。
小夜はきょとんとしたまま、少しだけ間をおいて――。
「……うん」
小さく、けれど確かにうなずいた。
それだけで、十分だった。
その夜、帰り道に小夜はまた月を見上げた。雲が晴れて、まるい月がはっきりと見えていた。
吐く息が、いっそう白かった。
(……会いに来てくれる)
その言葉を、胸の中でそっと繰り返した。
温かかった。
それが、どういう気持ちなのか。十歳の小夜には、まだうまく言葉にできなかった。ただ、大切にしたいと思った。この納屋での夜も、隣にいる少年も。全部。
*
そして――数日後。その夜は、やけに静かだった。
風が止まっている。
空の満月が納屋の屋根を、白く照らしている。
冬の入口の、冷えた夜だった。
息を吐くと、白い湯気がそのまま留まるほどに、空気が動かなかった。
(……いやな感じ)
胸の奥が、ざわつく。それでも、小夜は納屋に向かった。いつも通り。つーちゃんに会いに。
砂利を踏む音が、いつもより大きく聞こえた気がした。
「つーちゃん?」
中に入る。いる。でも――様子がおかしい。治ったはずの肩を押さえ、壁に背を預けている。濃紺の着流しはまた少し破れ、そこに新しい血が滲んでいた。
血の匂いが、納屋の中に濃く漂っている。
「……下がれ」
いつもより強い声。けれど、小夜は立ち止まれなかった。急いで少年のもとへ駆け寄る。
「また怪我してる!?」
「……来るなと言っただろう」
「誰にやられたの!?」
「……」
「……もしかして、この前と同じ鬼?」
小夜の問いかけに、少年の顔がわずかに歪む。それが答えだった。
「……どうして、つーちゃんがこんな目に遭わなきゃいけないの?」
「……黙れ」
「でも、つーちゃんが痛そうだから」
小夜は近づく。その瞬間だった。
納屋の外で、木が軋む音がした。
「……っ」
少年の顔つきが変わる。小夜の腕を掴み、背後へ押しやる。
「下がってろ……っ」
次の瞬間、戸が壊れるように開いた。
冷たい風が、一気に流れ込んでくる。
月の光と、血の匂いと、別の鬼の気配。
鬼だ。
複数いる。
その視線が――小夜に向く。
恍惚。飢え。渇望。
「……っ」
鬼が跳んだ。小夜へ向かって。
――避けられない。
鋭い爪が、胸元を裂いた。
「……っ」
息ができなかった。小夜の体が崩れ落ちる。
着物の前が、じわりと赤く染まっていく。
「小夜!」
少年が抱き止めた。
声が、かすかに割れた。
――初めて、名前で呼ばれた。
「死ぬな……!」
小夜の意識が遠のく。
血がドクドクと脈打っている。こんなに自分の体から血が出ているのを見たことはない。
(……つーちゃん)
呼びたいのに、声が出ない。
血がどんどん広がっていく。
指先から感覚が消えて、視界が白く滲んでいく。
小夜は横たえさせられていた。
視界の端で、狂ったように鬼に立ち向かう彼の姿が見えた。一体、また一体と、鬼を倒していく。
(……会いに来て、よかった)
最後にそう思った。
(約束、したのに……もう会えない、なんて)
全ての鬼を倒してから、少年は息を切らしながら小夜に駆け寄った。
「死ぬな」
少年は唇を噛み切った。血が滲む。
月明かりの下で、その赤だけが、鮮やかに見えた。
そして、小夜の唇に触れる。
血の味。鉄のような、けれど熱い、生々しい味。
熱が流れ込む。強引に、深く。
――それは血の交換。
少年の血が、小夜の血と混ざる。
体の奥で、何かがほどけ、繋がる。
みるみるうちに傷が塞がっていく。驚異的な速度で、散りかけた命が戻る。なのに――。
(……熱い)
体が燃える。苦しい。血が騒ぐ。何かが体内で変質しているのを感じた。
体の奥から、何かが押し出されてくるような感覚。
もとの自分ではなくなる、という直感だけが、はっきりとあった。
遠のいていく意識の中で、小夜は、わずかに目を開けた。
目の前に、少年の顔があった。
その表情は、歪んでいた。
いつも、ぶっきらぼうで、何でも「関係ない」と言うのに。
今、その顔は、泣きそうなほど崩れていた。
(……つーちゃん)
声に出したかった。大丈夫だよって、伝えたかった。
けれど、声が出ない。
唇に残る血の味だけが、生々しく、確かにそこにあった。
その血が、つーちゃんの血だということだけは、分かった。
(……ありがとう)
心の中で、それだけ呟いた。
届いたかどうかは、分からない。
ただ、伝えたかった。
それから、意識が落ちた。
「……どうして」
少年の声が震える。
「怪我は、治ったのに……どうして……」
そのとき、小夜は納屋の中にもうひとつの気配を感じた。
納屋の入口だ。
月明かりの中で、もうひとり少年がいた。
つーちゃんと、同じ顔。
けれど、まるで違う目をした少年。
(……つーちゃんは、双子……?)
そのまま、意識が落ちた。
*
――やってしまった。
朔夜――それが、その少年の本当の名だった。
鬼の家に生まれ、名を持ちながら、弱いゆえに名乗ることを許されなかった。
朔夜は、腕の中の小夜を抱きしめた。
分かっていた。これは契約だ。
人間にしていいものじゃない。それでも――それ以外に彼女を救う方法がなかった。
(……会いに来ると、言った)
あの夜のことを思い出す。そっぽを向いたまま言った。嘘は言わない、と。
それなのに。
このままでは――彼女に会いに来ることも、できなくなる。
「……どうして」
傷は塞がっている。血も止まっている。それなのに小夜の体は熱いままだった。
腕の中の重さが、いつもより軽く感じる。それが怖かった。指先が、かすかに震えている。
「……なにが起きてる?」
「稀血化だよ」
軽い声が振ってくる。
顔を上げると、戸口に朔夜と同じ顔をした少年がもたれかかっていた。
「……伊吹。どうしてここに……」
月明かりの中で、伊吹の黒い瞳が、ゆらりと光っている。
伊吹は肩をすくめた。
「鬼の気配がここに集まってたから追ってきたんだ。そしたら、お前がいて驚いたよ。久しぶりじゃん。いつぶりだっけ?」
「……お前が一族郎党皆殺しにして以来だ。よくも、平然とおれの前に顔を見せたな」
無神経な伊吹の発言に慣れているはずの朔夜でも、さすがに怒りを堪えることができなかった。
伊吹のせいで、朔夜は親戚も友人も失った。こうして当主の息子として命を狙われている。
伊吹は軽く笑う。
「まだ権力争いなんてしてるんだ。不毛だねぇ。誰が当主になっても良いのに」
「……誰でもいいなんて、そんなはずないだろう」
誰よりも当主の座を望まれていたくせに――。
そんな恨み言を抱いてしまう。
双子なのに、どうしてこうも違うのか。性格も能力も。
伊吹は戦闘の天才で、朔夜は――落ちこぼれだ。
伊吹は朔夜が膝に載せている少女を、顎でしゃくる。
「そんなこと言ってる場合じゃないんじゃない? その娘、すぐ死ぬよ。稀血は鬼に狙われやすいから、みんな短命だ」
朔夜は小夜を見た。
眠っているみたいな顔。熱い額。動かない指先。
唇を噛む。
「……おれが当主になる。そして、小夜には手を出させない」
「できるの?」
「……やる」
「出来損ないのくせに?」
「うるさい!!」
叫んで、地面を拳で叩いた。
涙が滲む。
「小夜のために……っ」
静寂が落ちる。
藁の匂いと、血の匂いと、月の冷たさだけが、納屋の中に残っていた。
朔夜は、ゆっくりと小夜の頬に触れた。
ひやりとしているのに、額だけが燃えている。
目を閉じている小夜の睫毛が、震えていた。
その震えが止まるたびに、また少しずつ動く。
まだ、生きている。
でも、もう、つーちゃんと呼ぶ声は、聞こえない。
(……ごめん)
心の中で、それだけ呟く。
――稀血なんかにしまって。
言い訳にしかならないが、これは朔夜も予想外のことだった。
血の交換で、人間が稀血化することなど滅多にない。だから、やってしまったのだ。鬼の回復力なら致命傷を受けた小夜を救えるだろうという期待で。
「……つき」
小夜の口から、そう声が漏れた。意識はないはずなのに。
それでも、朔夜は小夜の額に、自分の額をそっと当てた。
ほんの一瞬、小夜の冷えた指先を握りしめる。
まだ、温かい。
まだ、生きている。
それを確かめてから、ゆっくりと指を離した。そっと藁の上に小夜を寝かせる。
立ち上がると肩の傷が、また鈍く痛んだ。
でも、構わなかった。
(小夜と約束した……)
会いに来ると。
その約束を守るためには――ここで止まっているわけにはいかない。
ただの鬼のままでは、この娘を守れない。
守れる場所まで、上り詰めなければならない。
稀血になってしまった、この娘を。
自分が変えてしまった、この娘の未来を。
(……行く)
そう決めたのに、足がなかなか動かなかった。
最後にもう一度、小夜の顔を見る。
月明かりが、その白い頬を、薄く照らしていた。
眠っているみたいに、穏やかな顔。
ついさっき、笑ってくれた顔と、同じ顔だった。
(……必ず)
声に出さず、誓った。
届かないと、分かっていても。
それでも、誓わずにはいられなかった。
朔夜は、ゆっくりと背を向けた。
納屋の戸口に向かう。
一歩。二歩。
振り返ったら、足が止まる。
そう思って、振り返らなかった。
戸口を抜ける瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。
けれど、その冷たさが、かえって朔夜を支えた。
(……ここから先は、後ろを振り返ってはならない)
心の中で、自分にそう言い聞かせた。
それから、闇の中へと、歩き出した。
*
朔夜が消えた納屋に、静寂が戻った。
伊吹は、しばらくそこに立っていた。
横たわる小夜を見ているわけでも、朔夜が消えた闇を見ているわけでもない。
ただ、何かを考えているような、何も考えていないような、そういう顔だった。
納屋の藁の匂いと、血の匂いが混ざっている。
月明かりが、伊吹の足元を白く照らしていた。
伊吹という鬼のことを、知っている者は少ない。
血統だけを言えば――最上位だ。
鬼の一族の中でも、当主を継げるほどの地位と実力を持って生まれた。
けれど伊吹は、その力に興味がなかった。
一族の中で繰り広げられる権力争い。誰が当主になるか。誰が誰を潰すか。血を売り、駆け引きをし、仲間を喰らう。
それを傍から見て、伊吹は思った。
(……つまらない)
だから伊吹は、ある日、一族を出た。
正確には――全てを壊してから、出た。
ただ、邪魔だったから。そしてつまらなかったから。それだけの理由だった。
鬼たちは伊吹を恐れ、憎んだ。
裏切り者。一族を殺した化け物と呼んだ。
伊吹は気にしなかった。もともと、戻るつもりもなかったから。
(……退屈だ)
いつも、そう思っていた。
強い者が弱い者を喰らって、それを繰り返すだけ。どこへ行っても、同じだった。
だから伊吹は笑う。何でも軽く流す。
どうせ全部、大して変わらないから。
小夜が小さく身じろぎした。
伊吹の目が、わずかに動いた。
「……つーちゃん」
寝言だった。かすれた声。
意識のないまま、それでも確かに呼んでいる。
伊吹はしばらく、その顔を見た。
眠っているみたいな顔。熱い額。動かない指先。
稀血の娘。人間側の異物。どこにも属せない存在。
――自分と、同じだと思った。
その瞬間だけ、伊吹の目から軽さが消えた。
ほんの一瞬、誰にも見せない真顔で小夜を見た。
それから、いつもの笑みが戻ってくる。
「じゃ、もらっていこうかな」
ゆっくりと、小夜を抱き上げた。
とても軽かった。
(……全部どうでもいい)
そう思っていたのに。
なぜか、この娘だけは、退屈しなさそうだった。
そばに置いてみてもいい。そう思えるくらいには興味が湧いた。
――鬼を恐れない、不幸な稀血の少女。
月明かりが、二人の影を、長く納屋の床に落としている。
遠くで、夜風が田を渡る音だけが、低く響いていた。
そして、封鬼寮へ。
すべては、そこから始まった。




