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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ


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6/9

幕間 鬼に名をつけた夜

 ――九年前まで、小夜は母と二人で暮らしていた。

 帝都から馬車で半日離れた、稲作と機織りを生業にする小さな村。

 父は、小夜が物心つく前に病で亡くなったと聞いている。

 母は機織りで生計を立てていた。

 昼間は機の前に座り、夜になれば繕い物。

 手は荒れていたが、その手で結ってくれる髪の感触は、いつも温かかった。

 

「小夜、今日もお手伝いしてくれてありがとうね」

 

 夕餉のあと、縁側で梅の枝を見ながら、母はそう言って小夜の頭を撫でた。

 庭の梅は、母が嫁いだ年に植えたものだという。

 

「来年も、咲くといいわね」

 

 その声は、いつも穏やかだった。

 怒っているのを、小夜は見たことがない。

 大きな声を出すことも、誰かを責めることもない人だった。

 ただ静かに、毎日を編んでいくような人。

 その隣で、小夜は安心して眠っていた。

 ――それが、当たり前だと思っていた頃の話だ。


 秋の終わりだった。

 昼間はまだ日差しが残るのに、夜になると急に冷える季節。

 稲刈りの済んだ田が、夕日に焼けて、金色に光っていた。

 その日、小夜は家の裏手にある納屋の陰で、小さな子猫を見つけた。

 白と灰色のまだら模様。手のひらに乗りそうなほど小さくて、痩せていて、震えていた。

 

「……お母さん、いないの?」

 

 しゃがみ込んで声をかけると、子猫は警戒しながらも逃げなかった。細い声で、かすかに鳴くから、放っておけなかった。

 その日から、小夜はこっそり食べ物を持ち出すようになった。母に見つからないように、小さな器に少しだけ取り分けて。

 

 ――その日の夜。月は丸かった。

 

 空気は冷たく、吐く息がわずかに白くなる。

 軒先に下げてあった干し柿が、月明かりに照らされて、ゆらりと揺れていた。

 遠くの山の稜線が、夜空にくっきりと浮かんでいる。

 帝都にはない、深い闇だった。

 ガス灯も、電灯も、ここには届かない。

 あるのは、月明かりと、家の中の行灯の油の匂いだけ。

 十歳の小夜には少し大きめの羽織を、淡い色の木綿の着物の上に重ねていた。

 昼間に庭を走り回ったせいで、裾には少しだけ土がついている。

 草履の鼻緒が、足の指に少しだけ食い込んでいた。

 

(今日もいるかな)

 

 小夜は両手で器を抱え、家の裏手へ向かった。

 砂利を踏む、しゃり、しゃり、という音だけが、夜の中で響く。

 納屋の戸をそっと押すと、木の戸が、低く軋んだ。

 

「……ねこちゃん?」

 

 返事はない。奇妙なほど静かだった。

 月明かりが、板壁の隙間から差し込んでいる。

 藁の匂い。乾いた木の匂い。

 昼間に運び込まれた、刈り取ったばかりの稲の匂いも、まだかすかに残っていた。

 その奥で、がさり、と音がした。

 

「……っ」

 

 小夜は足を止めた。

 子猫じゃない。もっと重くて、低い音。

 目を凝らすと、影が揺れる。

 そして――ゆっくりと、その輪郭が浮かび上がった。

 長い影。

 整いすぎた輪郭。

 空気が、ひやりと冷える。

 

(……鬼だ)

 

 本能が叫んだ。逃げろ、と。なのに――

 

「……怪我、してるの?」

 

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 月明かりが差し込む。

 そこにいたのは、ひとりの少年だった。

 漆黒の髪と瞳。白い肌。まだ幼さが残るのに、どこか完成されている顔立ち。そして右目の下――小夜から見て左側に、小さなほくろ。

 年は、小夜より少し上――十二歳ほどだろうか。

 濃紺とも黒ともつかない着流しをまとっていた。

 その着物の肩口が裂けて、血が流れていた。

 深い傷だ。

 転んだとか、獣に引っかかれたとか、そんなものではないと、すぐにわかる。

 刃か、爪か。何か鋭いものに、えぐられたような傷。

 血の匂いが、藁の匂いに混じって、納屋の中に薄く漂っていた。

 

(……これ、鬼がつけた傷?)

 

 そう思った瞬間、背筋が冷えた。

 

「……来るな」

 

 少年が低く言った。けれど、明らかに弱っている。

 

「近づいたら――喰うぞ」

 

 小夜は少しだけ迷って、それでも一歩踏み出した。

 

「……よしよし、大丈夫よ。何もしないから」

 

 野良の子猫に対するみたいに扱えば、少年の目が細められる。

  

「……お前、おれが何なのか、分かってるのか」

 

「うん。鬼、だよね? 合ってる?」

 

「……近づくなよ」

 

「……だって怪我してるし」

 

 それだけだった。小夜は器を差し出す。

 

「これ、食べる?」

 

「……いらない」

 

 即答だった。でも、その視線は器から逸れなかった。

 

「ねこちゃんにあげようと思ってたの」

 

「猫?」

 

「うん。ここにいたはずなんだけど」

 

 小夜は周囲を見渡す。けれど、子猫はいなかった。

 

「……いないね」

 

 ぽつりと呟いて、それから少年を見る。

 

「じゃあ、あなたにあげる」

 

「いらないと言った」

 

「でも、お腹空いてるでしょ」

 

「……」

 

 答えない。小夜は器をそっと床に置いた。

 藁の上に置いた器が、わずかに音を立てる。

 

「……名前、なんていうの?」

 

「……ない」

 

「え?」

 

「名乗る必要がないだろ」

 

 ぶっきらぼうに言う。それで終わり。

 小夜は少し考えて、空を見上げた。

 納屋の隙間から、月が見えている。

 白くて、静かな光だった。

 

「……じゃあ、つき」

 

「……は?」

 

「今日、月がきれいだから」

 

 少年の目が、わずかに見開かれる。

 

「つきって呼ぶね」

 

「……勝手に決めるな」

 

「だって名前ないんでしょ?」

 

「……」

 

 否定しない。小夜は少しだけ笑った。

 

「つき。動かないでね」

 

 傷に触れようとすると、少年の体がびくりと強張った。けれど、振り払われなかった。

 

「……ひどい傷」

 

「放っとけば治る」

 

「でも痛いでしょ」

 

「……」

 

 沈黙。小夜は布を押し当てる。

 手のひらに、少年の体温が伝わってくる。

 冷たい。

 人間とは違う温度。

 でも、生きている、と分かる温度だった。

 

「これ、誰にやられたの?」

 

「……」

 

「人間じゃないよね?」

 

 少年の目が、かすかに揺れる。

 

「……鬼?」

 

「……お前には関係ない」

 

「でも、痛そう」

 

「関係ないって」

 

 言葉は冷たい。けれど声はかすれていて、少しだけ苦しそうだった。

 小夜はそれ以上聞かなかった。

 帰り際、納屋の入口でふり返ると、少年は器の中身をじっと見ていた。食べるつもりはない、という顔のまま。でも、視線は離れなかった。

 

(……食べてくれるといいな)

 

 そう思いながら、小夜は戸を閉めた。

 帰り道、月が頭の上にあった。

 冷たい風が、頬を撫でていく。

 遠くで、虫がか細く鳴いている。

 秋の終わりの、最後の声だった。



 次の日。小夜は昼間からそわそわしていた。

 

(今日は何を持っていこう)

 

 そればかり考えていた。夕餉の膳を見ながら、こっそり一番やわらかそうなものを選ぶ。お椀の端から、少しだけ分ける。母に気づかれないように、素知らぬ顔で。

 囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てていた。

 母が機織りの手を止めずに、夕餉を済ませたか問うてくる。

 

「……ええ、ごちそうさま」

 

 声が震えそうになって、小夜は急いで碗を伏せた。

 

(……喜ぶかな)

 

 喜ぶとは言わないだろう。あの少年は何でも「関係ない」と言うから。でも、昨日の視線は嘘をついていなかった。

 夜になるのが、待ち遠しかった。

 けれど、昼間のうちに納屋へ行くことはできない。

 昼間は、人の目があった。

 母の目。近所の大人たちの目。通りを行き交う人の声。

 小夜が古い納屋へ近づけば、きっと誰かに見咎められる。


 野良猫に餌をやっていることさえ、本当は母には内緒だった。

 まして、見知らぬ少年を納屋に匿っているなど、言えるはずがない。


 だから、あの場所へ行けるのは夜だけだった。

 母が眠り、家々の灯りが落ち、猫たちが音もなく路地を渡る時間だけが、小夜の秘密の時間だった。

 いつもは早く眠れるのに、その夜はなかなか寝付けなかった。月が高くなるのを待って、小夜はそっと床から抜け出した。

 障子の隙間から、月の光が一筋、畳の上に伸びていた。

 その光をたどるように、小夜は廊下を抜け、戸口を出た。

 

「つき?」

 

 納屋の戸を押す。

 木の戸の軋みが、昨日より大きく聞こえた気がした。

 いた。

 昨日と同じ場所に。壁に背をあずけて、目を閉じていた。小夜の気配に気づくと、目を開けた。

 

「……また来たのか」

 

「うん」

 

 当たり前みたいに答えながら、小夜は器を差し出す。

 

「……」

 

 少年は黙ったまま、けれど今日は最初から器を押しやらなかった。小さな間があって、それから無言で受け取った。

 器を持つ指は、細くて、白かった。爪の形まで整っている。人間離れした、綺麗な手だった。

 

(……食べてる)

 

 横に座って、小夜はこっそり顔を見る。食べながら、少年は窓の外を見ていた。表情はない。それなのに、なぜか昨日より近く見えた。

 傷の具合を確かめようとすると、今日は昨日ほど抵抗しなかった。

 

「……痛い?」

 

「……少しだけ」

 

 初めて、答えが返ってきた。小夜は少しだけ驚いて、微笑んだ。



 三日目。

 小夜は昼間から落ち着かなかった。

 お稽古の最中も、針を持つ手が止まる。母に「どうしたの」と聞かれて、「なんでもない」と答えた。なんでもない、はずだった。

 

(……どうして)

 

 胸がざわざわする。夜になるのが待ち遠しい。それが何を意味するのか、十歳の小夜にはまだよく分からなかった。ただ、会いに行きたかった。それだけは分かった。

 夜。器を抱えて、小夜は納屋へ向かった。

 今日は歩きながら、何度か深呼吸した。

 

(……なんで緊張してるの、私)

 

 自分でもよく分からない。でも、心臓がいつもより速かった。

 戸を押す。

 

「つき?」

 

 いた。今日は入口の近くにいた。昨日より、少しだけこちらへ近い場所に。

 

「……遅い」

 

 開口一番、そう言った。

 

「え?」

 

「昨日より遅い」

 

 ぼそりと言う。目は逸らしたまま。

 

(……待ってた?)

 

 小夜は一瞬だけ固まって、それから頬が熱くなるのを感じた。

 

「……ご、ごめんなさい。お稽古が長くて」

 

「別に謝らなくていい」

 

「でも……」

 

「来なくてもよかった」

 

 それなのに「遅い」と言う。小夜はその矛盾に気づいて、なんだかおかしくなった。笑いをこらえながら、横に座る。

 

「今日はね、ちょっと甘いの持ってきたの」

 

 器の中身を見せると、少年がわずかに視線を落とした。

 甘く煮た栗だった。母が秋の終わりに作ってくれたもの。

 夜気の中で、ほんのりと甘い湯気が立ち昇る。

 

「……甘いもの、好き?」

 

「……どちらでもない」

 

「そう」

 

 小夜は少し考えて、器をそっと差し出した。

 

「食べてみて」

 

「……」

 

 少年は一拍おいてから、受け取った。口に入れる。表情は変わらない。変わらないけれど――耳の先が、ほんのわずかに赤かった。

 

(……かわいい)

 

 そう思った瞬間、小夜は自分で驚いた。

 

(かわいい、なんて)

 

 鬼なのに。ぶっきらぼうで、冷たくて、全然笑わないのに。

 でも、確かにそう思った。

 

「……つーちゃん、って呼んでいい?」

 

「呼ぶな」

 

「じゃあ、つーちゃん」

 

「……は?」

 

 今度は、はっきりと反応した。

 

「なにそれ」

 

「つきって呼ぶよりかわいいでしょ?」

 

「かわいくない」

 

「かわいいよ」

 

「……」

 

 一瞬、沈黙。それから、少年はふいと目を逸らした。否定しない。

 

(……いいんだ)

 

 小夜は少しだけ嬉しくなった。

 その夜、帰り道に小夜は月を見上げた。昨日より丸い気がした。

 冷たい風が、田の上を渡っていく。

 刈り取られた稲の切り株だけが、月明かりの下で薄く光っていた。

 

(明日も来よう)

 

 そう思ったとき、胸の奥がまたざわついた。

 

(……ちゃんと、いてくれるかな)

 

 今度は不安のほうだった。鬼だから、気まぐれに消えてしまうかもしれない。明日行ったら、もういないかもしれない。そう思ったら、胸が痛かった。

 

(……いてほしいな)

 

 そんなことを思う自分に、小夜は少しだけ戸惑った。



 四日目、五日目、六日目。

 小夜は納屋に通い続けた。

 その間に、村の景色が少しずつ変わっていった。

 軒先の干し柿が増えた。

 畑には霜が下りるようになった。

 朝の井戸水に、薄い氷が張る日もあった。

 冬が、もうすぐそこまで来ていた。

 子猫は、やっぱりいなかった。

 

(……どこに行ったんだろう。逃げちゃったのかな)

 

 そう思いながら周囲を見渡すと、少年が目を逸らした。

 その一瞬の動きが、何かを知っているように見えた。けれど、小夜は聞かなかった。聞いたら、また「関係ない」と言われる気がしたから。

 それよりも。

 少年と話すことのほうが、小夜には大切になっていた。

 話す、といっても、いつも言葉は少ない。少年は多くを語らない。小夜が話して、少年が短く答える。それだけだった。それなのに、不思議と飽きなかった。

 

「つーちゃんは、外に出ないの?」

 

「……昼間は出ない」

 

「どうして?」

 

「鬼だから」

 

「夜は?」

 

「……いろいろある」

 

「いろいろって?」

 

「……うるさい」

 

 そっぽを向く。小夜はくすっと笑う。怒ったときの顔が、少し子どもみたいだった。

 

(そういう顔もするんだ)

 

 そう思うたびに、胸の奥が温かくなる。

 ある夜、ふたりで並んで納屋の入口から月を見ていた。

 夜気が、少しずつ冷たさを増している。

 息を吐くと、白く流れていった。

 

「……きれいだね」

 

 小夜がぽつりと言う。

 

「……ああ」

 

 珍しく、即答だった。

 横を見ると、少年は月を見上げていた。その横顔が、月明かりに照らされている。白くて、静かな顔。睫毛が長い。右目の下のほくろが、影の中でかすかに見えた。

 

(……きれい)

 

 思って、小夜はすぐに顔を逸らした。

 頬が熱かった。

 

「どうした」

 

「な、なんでもない」

 

「顔が赤い」

 

「寒いから、かな」

 

「……柿みたいな顔色してる」

 

「してない」

 

 少年が、ほんのわずかに目を細めた。笑っているのかどうか、よく分からない。でも、怒ってはいなかった。

 

(……笑った?)

 

 小夜は胸の中で、こっそり喜んだ。

 もっと笑ってほしい、と思った。自分に向けて。それだけのために、また来たいと思った。



 七日目の夜だった。

 その日は雲が多くて、月が隠れていた。納屋の中はいつもより暗く、少年の顔も影の中にある。

 小夜はいつも通り横に座って、いつも通り他愛ない話をした。けれどその夜は、少年の様子がどこか違った。

 言葉がいつもより少なく、視線が、どこか遠い。

 

(……どうしたんだろう)

 

 聞こうとして、やめた。また「関係ない」と言われるのが怖かったから。

 だから小夜は、ただ隣にいた。

 しばらく沈黙が続いて。

 外で、風が一度だけ強く吹いた。

 納屋の板壁が、低く軋む。

 

「……いつまで来るつもりだ」

 

 少年が、唐突に言った。

 

「え?」

 

「ここに。毎晩」

 

 声は平坦だった。怒っているのか、呆れているのか、よく分からない。

 

「……つーちゃんがいるから」

 

 小夜は正直に答えた。

 

「そういうことを聞いてるんじゃない」

 

「じゃあ、どういうこと?」

 

「……」

 

 少年は黙った。少しだけ間があって、それから静かに言った。

 

「おれは、ずっとここにいられない」

 

 小夜の胸が、きゅっとなった。

 

「……どうして」

 

「鬼だから。いつかは去る」

 

「……いつ?」

 

「怪我が完全に治ったら」

 

 月が、雲の隙間からほんの少しだけ顔を出した。納屋の中に、細い光が差し込む。

 

「――だから、もうお前は来ないほうがいい。風雨を防げる納屋だけ貸してくれたらいいんだ」

 

 少年はそう言いながら、どこか遠くを見ていた。

 

(……追い払おうとしてる)

 

 小夜には分かった。冷たい言葉で距離を置こうとする、あのいつもの感じ。でも今日は、その声がいつもより静かだった。

 

「……来るよ」

 

 小夜は言った。

 

「え?」

 

「つーちゃんがいなくなるまで、来る」

 

 少年がゆっくり振り返る。

 

「……なんで」

 

「会いたいから」

 

 口に出してから、小夜は自分で少し驚いた。でも、撤回する気にはなれなかった。本当のことだったから。

 

「……お前は」

 

 少年が、小夜を見る。なにか言いかけて、止まった。

 また、沈黙。

 

「……それなら、おれも会いに来る」

 

 ぼそりと、少年が言った。

 

「え?」

 

「おれも。ここを去ったあとでも――お前に会いに来る」

  

 それだけだった。

 約束とも呼べない、短い言葉。

 大仰な誓いでも、きれいな言葉でもない。ただ、事実みたいに言った。

 

(……来てくれる)


 それだけで、胸がいっぱいになった。

 

「……ほんとに?」

 

「嘘は言わない」

 

 少年はそっぽを向いたまま。それでも、ほんのり頬が赤くなっていた。

 小夜はぎゅっと膝を抱える。

 嬉しいのに、なぜか泣きそうだった。

 

「……絶対だよ」

 

「……ああ」

 

 短い返事。

 

「……だから、おれのことを覚えてろ。ずっと」

 

 少年は小夜を見つめて言った。

 小夜はきょとんとしたまま、少しだけ間をおいて――。

 

「……うん」

 

 小さく、けれど確かにうなずいた。

 それだけで、十分だった。

 その夜、帰り道に小夜はまた月を見上げた。雲が晴れて、まるい月がはっきりと見えていた。

 吐く息が、いっそう白かった。

 

(……会いに来てくれる)


 その言葉を、胸の中でそっと繰り返した。

 温かかった。

 それが、どういう気持ちなのか。十歳の小夜には、まだうまく言葉にできなかった。ただ、大切にしたいと思った。この納屋での夜も、隣にいる少年も。全部。



 そして――数日後。その夜は、やけに静かだった。

 風が止まっている。

 空の満月が納屋の屋根を、白く照らしている。

 冬の入口の、冷えた夜だった。

 息を吐くと、白い湯気がそのまま留まるほどに、空気が動かなかった。

 

(……いやな感じ)

 

 胸の奥が、ざわつく。それでも、小夜は納屋に向かった。いつも通り。つーちゃんに会いに。

 砂利を踏む音が、いつもより大きく聞こえた気がした。

 

「つーちゃん?」

 

 中に入る。いる。でも――様子がおかしい。治ったはずの肩を押さえ、壁に背を預けている。濃紺の着流しはまた少し破れ、そこに新しい血が滲んでいた。

 血の匂いが、納屋の中に濃く漂っている。

 

「……下がれ」

 

 いつもより強い声。けれど、小夜は立ち止まれなかった。急いで少年のもとへ駆け寄る。

 

「また怪我してる!?」

 

「……来るなと言っただろう」

 

「誰にやられたの!?」

  

「……」

 

「……もしかして、この前と同じ鬼?」

 

 小夜の問いかけに、少年の顔がわずかに歪む。それが答えだった。

 

「……どうして、つーちゃんがこんな目に遭わなきゃいけないの?」

  

「……黙れ」

 

「でも、つーちゃんが痛そうだから」

 

 小夜は近づく。その瞬間だった。

 納屋の外で、木が軋む音がした。

 

「……っ」

 

 少年の顔つきが変わる。小夜の腕を掴み、背後へ押しやる。

 

「下がってろ……っ」

 

 次の瞬間、戸が壊れるように開いた。

 冷たい風が、一気に流れ込んでくる。

 月の光と、血の匂いと、別の鬼の気配。

 鬼だ。

 複数いる。

 その視線が――小夜に向く。

 恍惚。飢え。渇望。

 

「……っ」

 

 鬼が跳んだ。小夜へ向かって。

 ――避けられない。

 鋭い爪が、胸元を裂いた。

 

「……っ」

 

 息ができなかった。小夜の体が崩れ落ちる。

 着物の前が、じわりと赤く染まっていく。

 

「小夜!」

 

 少年が抱き止めた。

 声が、かすかに割れた。

 ――初めて、名前で呼ばれた。

 

「死ぬな……!」

 

 小夜の意識が遠のく。

 血がドクドクと脈打っている。こんなに自分の体から血が出ているのを見たことはない。

 

(……つーちゃん)

 

 呼びたいのに、声が出ない。

 血がどんどん広がっていく。

 指先から感覚が消えて、視界が白く滲んでいく。

 小夜は横たえさせられていた。

 視界の端で、狂ったように鬼に立ち向かう彼の姿が見えた。一体、また一体と、鬼を倒していく。

 

(……会いに来て、よかった)

 

 最後にそう思った。

 

(約束、したのに……もう会えない、なんて)


 全ての鬼を倒してから、少年は息を切らしながら小夜に駆け寄った。

  

「死ぬな」

 

 少年は唇を噛み切った。血が滲む。

 月明かりの下で、その赤だけが、鮮やかに見えた。

 そして、小夜の唇に触れる。

 血の味。鉄のような、けれど熱い、生々しい味。

 熱が流れ込む。強引に、深く。

 

 ――それは血の交換。

 

 少年の血が、小夜の血と混ざる。

 体の奥で、何かがほどけ、繋がる。

 みるみるうちに傷が塞がっていく。驚異的な速度で、散りかけた命が戻る。なのに――。

 

(……熱い)

 

 体が燃える。苦しい。血が騒ぐ。何かが体内で変質しているのを感じた。

 体の奥から、何かが押し出されてくるような感覚。

 もとの自分ではなくなる、という直感だけが、はっきりとあった。

 遠のいていく意識の中で、小夜は、わずかに目を開けた。

 目の前に、少年の顔があった。

 その表情は、歪んでいた。

 いつも、ぶっきらぼうで、何でも「関係ない」と言うのに。

 今、その顔は、泣きそうなほど崩れていた。

 

(……つーちゃん)

 

 声に出したかった。大丈夫だよって、伝えたかった。

 けれど、声が出ない。

 唇に残る血の味だけが、生々しく、確かにそこにあった。

 その血が、つーちゃんの血だということだけは、分かった。

 

(……ありがとう)

 

 心の中で、それだけ呟いた。

 届いたかどうかは、分からない。

 ただ、伝えたかった。

 それから、意識が落ちた。

 

「……どうして」

 

 少年の声が震える。

 

「怪我は、治ったのに……どうして……」

 

 そのとき、小夜は納屋の中にもうひとつの気配を感じた。

 納屋の入口だ。

 月明かりの中で、もうひとり少年がいた。

 つーちゃんと、同じ顔。

 けれど、まるで違う目をした少年。

 

(……つーちゃんは、双子……?)

 

 そのまま、意識が落ちた。



 ――やってしまった。

 

 朔夜――それが、その少年の本当の名だった。

 鬼の家に生まれ、名を持ちながら、弱いゆえに名乗ることを許されなかった。

 朔夜は、腕の中の小夜を抱きしめた。

 分かっていた。これは契約だ。

 人間にしていいものじゃない。それでも――それ以外に彼女を救う方法がなかった。 

 

(……会いに来ると、言った)

 

 あの夜のことを思い出す。そっぽを向いたまま言った。嘘は言わない、と。

 それなのに。

 このままでは――彼女に会いに来ることも、できなくなる。

 

「……どうして」

 

 傷は塞がっている。血も止まっている。それなのに小夜の体は熱いままだった。

 腕の中の重さが、いつもより軽く感じる。それが怖かった。指先が、かすかに震えている。

 

「……なにが起きてる?」

 

「稀血化だよ」

 

 軽い声が振ってくる。

 顔を上げると、戸口に朔夜と同じ顔をした少年がもたれかかっていた。


「……伊吹。どうしてここに……」


 月明かりの中で、伊吹の黒い瞳が、ゆらりと光っている。

 伊吹は肩をすくめた。

 

「鬼の気配がここに集まってたから追ってきたんだ。そしたら、お前がいて驚いたよ。久しぶりじゃん。いつぶりだっけ?」


「……お前が一族郎党皆殺しにして以来だ。よくも、平然とおれの前に顔を見せたな」


 無神経な伊吹の発言に慣れているはずの朔夜でも、さすがに怒りを堪えることができなかった。

 伊吹のせいで、朔夜は親戚も友人も失った。こうして当主の息子として命を狙われている。

 伊吹は軽く笑う。


「まだ権力争いなんてしてるんだ。不毛だねぇ。誰が当主になっても良いのに」

 

「……誰でもいいなんて、そんなはずないだろう」


 誰よりも当主の座を望まれていたくせに――。

 そんな恨み言を抱いてしまう。

 双子なのに、どうしてこうも違うのか。性格も能力も。

 伊吹は戦闘の天才で、朔夜は――落ちこぼれだ。

 伊吹は朔夜が膝に載せている少女を、顎でしゃくる。 

  

「そんなこと言ってる場合じゃないんじゃない? その娘、すぐ死ぬよ。稀血は鬼に狙われやすいから、みんな短命だ」

 

 朔夜は小夜を見た。

 眠っているみたいな顔。熱い額。動かない指先。

 唇を噛む。

 

「……おれが当主になる。そして、小夜には手を出させない」

 

「できるの?」

 

「……やる」

 

「出来損ないのくせに?」

 

「うるさい!!」

 

 叫んで、地面を拳で叩いた。

 涙が滲む。

 

「小夜のために……っ」

 

 静寂が落ちる。

 藁の匂いと、血の匂いと、月の冷たさだけが、納屋の中に残っていた。

 朔夜は、ゆっくりと小夜の頬に触れた。

 ひやりとしているのに、額だけが燃えている。

 目を閉じている小夜の睫毛が、震えていた。

 その震えが止まるたびに、また少しずつ動く。

 まだ、生きている。

 でも、もう、つーちゃんと呼ぶ声は、聞こえない。

 

(……ごめん)

 

 心の中で、それだけ呟く。

 ――稀血なんかにしまって。

 言い訳にしかならないが、これは朔夜も予想外のことだった。

 血の交換で、人間が稀血化することなど滅多にない。だから、やってしまったのだ。鬼の回復力なら致命傷を受けた小夜を救えるだろうという期待で。

 

「……つき」

 

 小夜の口から、そう声が漏れた。意識はないはずなのに。

 それでも、朔夜は小夜の額に、自分の額をそっと当てた。

 ほんの一瞬、小夜の冷えた指先を握りしめる。

 まだ、温かい。

 まだ、生きている。

 それを確かめてから、ゆっくりと指を離した。そっと藁の上に小夜を寝かせる。

 立ち上がると肩の傷が、また鈍く痛んだ。

 でも、構わなかった。

 

(小夜と約束した……)

 

 会いに来ると。

 その約束を守るためには――ここで止まっているわけにはいかない。

 ただの鬼のままでは、この娘を守れない。

 守れる場所まで、上り詰めなければならない。

 稀血になってしまった、この娘を。

 自分が変えてしまった、この娘の未来を。

 

(……行く)

 

 そう決めたのに、足がなかなか動かなかった。

 最後にもう一度、小夜の顔を見る。

 月明かりが、その白い頬を、薄く照らしていた。

 眠っているみたいに、穏やかな顔。

 ついさっき、笑ってくれた顔と、同じ顔だった。

 

(……必ず)

 

 声に出さず、誓った。

 届かないと、分かっていても。

 それでも、誓わずにはいられなかった。

 朔夜は、ゆっくりと背を向けた。

 納屋の戸口に向かう。

 一歩。二歩。

 振り返ったら、足が止まる。

 そう思って、振り返らなかった。

 戸口を抜ける瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。

 けれど、その冷たさが、かえって朔夜を支えた。

 

(……ここから先は、後ろを振り返ってはならない)

 

 心の中で、自分にそう言い聞かせた。

 それから、闇の中へと、歩き出した。 



 朔夜が消えた納屋に、静寂が戻った。

 伊吹は、しばらくそこに立っていた。

 横たわる小夜を見ているわけでも、朔夜が消えた闇を見ているわけでもない。

 ただ、何かを考えているような、何も考えていないような、そういう顔だった。

 納屋の藁の匂いと、血の匂いが混ざっている。

 月明かりが、伊吹の足元を白く照らしていた。

 伊吹という鬼のことを、知っている者は少ない。

 血統だけを言えば――最上位だ。

 鬼の一族の中でも、当主を継げるほどの地位と実力を持って生まれた。

 けれど伊吹は、その力に興味がなかった。

 一族の中で繰り広げられる権力争い。誰が当主になるか。誰が誰を潰すか。血を売り、駆け引きをし、仲間を喰らう。

 それを傍から見て、伊吹は思った。

 

(……つまらない)

 

 だから伊吹は、ある日、一族を出た。

 正確には――全てを壊してから、出た。

 ただ、邪魔だったから。そしてつまらなかったから。それだけの理由だった。

 鬼たちは伊吹を恐れ、憎んだ。

 裏切り者。一族を殺した化け物と呼んだ。

 伊吹は気にしなかった。もともと、戻るつもりもなかったから。

 

(……退屈だ)

 

 いつも、そう思っていた。

 強い者が弱い者を喰らって、それを繰り返すだけ。どこへ行っても、同じだった。

 だから伊吹は笑う。何でも軽く流す。

 どうせ全部、大して変わらないから。

 小夜が小さく身じろぎした。

 伊吹の目が、わずかに動いた。

 

「……つーちゃん」

 

 寝言だった。かすれた声。

 意識のないまま、それでも確かに呼んでいる。

 伊吹はしばらく、その顔を見た。

 眠っているみたいな顔。熱い額。動かない指先。

 稀血の娘。人間側の異物。どこにも属せない存在。

 

 ――自分と、同じだと思った。

 

 その瞬間だけ、伊吹の目から軽さが消えた。

 ほんの一瞬、誰にも見せない真顔で小夜を見た。

 それから、いつもの笑みが戻ってくる。

 

「じゃ、もらっていこうかな」

 

 ゆっくりと、小夜を抱き上げた。

 とても軽かった。

 

(……全部どうでもいい)

 

 そう思っていたのに。

 なぜか、この娘だけは、退屈しなさそうだった。

 そばに置いてみてもいい。そう思えるくらいには興味が湧いた。

 

 ――鬼を恐れない、不幸な稀血の少女。


 月明かりが、二人の影を、長く納屋の床に落としている。

 遠くで、夜風が田を渡る音だけが、低く響いていた。

 そして、封鬼寮へ。

 すべては、そこから始まった。



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