第三話 食堂の朝、指先に残る熱
二人は黙ったまま、しばらく歩いた。
磨き込まれた板張りの床に、夜明けの光が長く伸びている。
外の中庭から、雀の声が遠く聞こえた。
朝の空気には、夜露と、まだ抜けきらない夏の湿りが混じっていた。
夜の任務は、ほとんど終わっていた。
封鬼寮の中では、夜勤を終えた隊員たちが、ぽつぽつと本館の食堂へ向かいはじめている。
普通の人間にとっては、朝。
けれど、夜通し鬼を追っていた者たちにとっては、ようやく仕事を終えたあとの食事の時間だった。
小夜の頭の中では、まだ「黒夜」という言葉と、伊吹のあの一瞬の顔が、ぐるぐると回っていた。
「それよりさ」
ふいに、伊吹が顔を寄せてきた。
声の温度が、また軽さに戻っている。
「小夜ちゃん、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ〜。華奢なんだから」
「……余計なお世話です」
「余計じゃないよ。倒れられたら困るし」
「倒れません」
「ほんとかなぁ」
そう言いながら、伊吹は当たり前のように食堂の方へ進んでいく。
小夜は一瞬だけ足を止めたが、結局、そのあとに続いた。
封鬼寮の食堂は、本館の一角にある広い部屋だった。
高い天井。太い梁。磨かれた長机がいくつも並んでいる。
大きな窓の向こうでは、空が少しずつ白みはじめていた。
まだ朝日は昇りきっていない。
それでも、薄い光が障子越しに差し込んで、湯気の立つ汁椀や、白い飯の上を淡く照らしている。
食堂には、夜勤明けの隊員たちが集まっていた。
誰もがどこか疲れた顔をしている。
椅子に沈み込むように座っている者。
味噌汁を両手で抱えるようにして飲んでいる者。
卓に肘をついたまま、半分眠っている者。
けれど、伊吹が入ってきた瞬間、空気が少し変わった。
「おう、伊吹。昨夜は派手にやったらしいな」
「やだなぁ、俺はいつも上品でしょ」
「どこがだよ」
通りすがりの男隊員が、笑いながら伊吹の肩を叩く。
伊吹も片手を上げて、その手を受け流すように叩き返した。
「お疲れ。怪我は?」
「擦り傷だけだ」
「ならよかった」
何気ない会話。
気のおけない挨拶。
それだけで、伊吹がこの場所に馴染んでいるのが伝わってくる。
鬼であるはずなのに。
人間ではないはずなのに。
伊吹は、誰とでも同じように笑っていた。
「伊吹様、今日は焼き魚もつけておくよ」
配膳台の向こうから、食堂番の年配の女が声をかける。
「え、いいの? おばちゃん、好き」
「はいはい。そういうのは若い娘さんに言いな」
「小夜ちゃんに言ったら怒られるんだよねぇ」
「そりゃあんたが軽すぎるからだよ」
食堂の女がからからと笑う。
伊吹も、まるで叱られ慣れている子供みたいに笑った。
小夜は、そのやり取りを少し離れたところで見ていた。
(……本当に、誰とでも仲良くする)
自分とは、まるで違う。
小夜は、封鬼寮に来てから九年が経つ。
けれど、いまだに親しい相手はいない。
隊員たちから避けられているわけではない。
ただ、小夜自身がうまく輪に入れないのだ。
何を話せばいいのか分からない。
どう笑えばいいのか掴めない。
気づけば、いつも少し離れた場所に立っている。
「はい、小夜ちゃんの分」
伊吹が戻ってきて、盆を差し出した。
白飯。味噌汁。焼き魚。煮物。漬物。
それに、なぜか甘い卵焼きまで載っている。
「……多くないですか」
「少ないくらいだよ。小夜ちゃん、すぐ残すし」
「頼んでません」
「俺が頼んだ」
「勝手に頼まないでください」
「食べなきゃ大きくなれないよ」
「もう成長期は終わっています」
「え〜、もったいない」
「何がですか」
伊吹はにこにこと笑うだけで答えない。
小夜は渋々、盆を受け取った。
空いている長机の端に腰を下ろす。
伊吹は当然のように、その隣に座った。
「向かいに座ってください」
「なんで?」
「近いからです」
「小夜ちゃん、俺にだけ冷たいよね」
「誰にでもこんな感じです」
「それはそれで心配だなぁ」
軽口を叩きながら、伊吹は味噌汁を啜る。
小夜も箸を取った。
正直、あまり食欲はない。
夜通し動いたあとの体は重く、眠気もじわじわと押し寄せている。
けれど、温かい味噌汁を一口飲むと、思っていたよりも体に染みた。
(……おいしい)
悔しいので、口には出さなかった。
伊吹はそれを見透かしたように、隣で笑っている。
「ね、おいしいでしょ」
「普通です」
「小夜ちゃんの普通は、だいたい好きって意味だよね」
「違います」
「照れなくてもいいのに」
「照れてません」
小夜は焼き魚を少しずつ崩しながら、視線を落とした。
食堂の中は、少しずつ賑やかになっていく。
昨夜の討伐の話。
仮眠室が混んでいるという愚痴。
昼の調査班への引き継ぎ。
誰かの笑い声。
食器の触れ合う音。
湯気と味噌の匂い。
封鬼寮の日常が、そこにはあった。
その輪の中に、伊吹は自然にいる。
小夜だけが、少し外側にいる。
「でさ」
伊吹が、声を落とした。
「このあと、ちょっと付き合ってよ。任務も終わったし、お茶でもさ」
「嫌です」
「即答?」
「嫌です」
「二度も言う?」
伊吹は、にこにこと笑う。
「つれないなぁ〜。ちょっと外でお茶するくらい、いいじゃん。特別区から出してあげられるの、俺くらいなんだし」
その言葉に、小夜は一瞬だけ詰まる。
――確かに。
あの区画から自由に出入りできるのは、伊吹だけだ。
小夜があそこから出られるのは、伊吹の任務についていくときだけ。
家族とは手紙のやり取りはできるが、特区には家族すら入ることはできない。
(――伊吹と一緒なら、久しぶりにお母さんに会えるかな)
そんな気持ちが沸いてくる。
しかし、小夜は頭を大きく振った。
(そんなことを伊吹にお願いしたら、代わりにどんな要求をしてくるかわからないし……)
半年前にそれをお願いしたときは、丸一日、伊吹のやりたいことにつきあわされた。
膝枕したり、髪を好きなように触らせたり――それだけならまだよかった。
問題は、そのあとだ。
(……あれは、さすがに)
箸を持つ手が、ほんの少し止まる。
思い出した瞬間、じわりと頬が熱くなる。
ひと気のない場所に連れ込まれて、壁際に追い詰められて。
逃げようとしたのに、逃がしてもらえなくて。
あの甘い匂いが、鼻の奥に蘇る。
鬼特有の、底のない甘さ。
近づかれるたびに意識が引き寄せられてしまう、あの香りが。
「お願いしたのは小夜ちゃんでしょ?」
なんて、あの軽い声で言われて。
――拒めなかった。
壁に押しつけられた手の冷たさ。
唇を塞がれて、息ができなくなるくらい、長く、深く。
処置でもないのに、何度も、何度も。
あの日の口づけは、いつもの「処置」とは、違う質のものだった。
(……っ)
思わず、指先に力が入る。
あれは“必要な処置”じゃなかった。
ただ、伊吹がしたかっただけだ。
それが分かってしまったから――もう、頼めない。
「どうしたの」
耳元近くで、声がした。
はっとして顔を上げると、伊吹が覗き込んでいる。
距離が近い。
慣れているはずなのに、今日はやけに近く感じる。
食堂の窓から差し込む朝の光が、伊吹の横顔を淡く照らしている。
その光の中で、蜂蜜色の瞳だけが、妙にはっきりと見えた。
「もしかしてさ」
口元が緩む。
「思い出してる?」
「……っ、別に」
「顔、真っ赤だけど」
逃げるように視線を逸らす。
けれど、その顎を軽く持ち上げられた。
指先が、ひやりと冷たかった。
肌に、夜の石畳と同じ温度が触れる。
「ねえ、小夜ちゃん」
甘い声。
――嫌な予感しかしない。
「またお願いしてくれたら、家族のところに連れてってあげるよ」
「……結構です」
即答した。
間髪入れずに。
伊吹は一瞬だけきょとんとして、それから楽しそうに笑った。
「そんな即答する?」
「します」
「へえ」
目が細くなる。
その奥に、わずかに光が宿る。
「でも――また、行きたくなったら」
伊吹は、ほんの少しだけ距離を詰めた。
逃げるほどじゃない、でも近い。
「次は、ちゃんとお願いしてよ」
一拍おいて。
「分かるでしょ?」
そう囁いてから、指先で軽く小夜の唇をなぞった。
びくり、と肩が揺れた。
触れられた瞬間、あの感触が蘇る。
唇に残っている熱まで、思い出してしまう。
冷たい指先と、熱を帯びた唇。
その温度差が、肌の奥にしみていく。
「……っ」
思わず息を呑んで、小夜は一歩だけ身を引いた。
距離が近いまま、視線だけが逸れる。
「……しません」
かすれた声だった。
自分でも驚くほど弱い。
唇をなぞられた場所が、じんと熱を持っている。
それが、余計に腹立たしかった。
「二度と、そんなこと……」
言い切ろうとして、言葉が止まる。
――本当に?
胸の奥で、何かが引っかかった。
小夜はそれを振り払うように、ぎゅっと目を伏せた。
「……ふーん」
面白そうに目を細める。
じっと見られる。
息が、自然と浅くなる。
足が、地面に縫いつけられたように動かない。
近くの卓で、誰かが茶碗を置く音がした。
食堂のざわめきは続いている。
けれど、二人の間だけが、そこから切り離されたように静かだった。
「――その顔で?」
小さく囁かれた。
ぞくり、と背筋が震える。
否定したいのに、言葉が出てこない。
何も言えないまま、数秒が過ぎた。
伊吹は満足そうに笑って、あっさりと手を離した。
「ま、いいや」
いつもと同じ、軽い調子に戻る。
「気が変わったら言ってね、小夜ちゃん」
まるで何でもないことみたいに。
そう言って、茶を飲む。
――なのに。
(……どうして)
胸の奥に、ざらついたものが残る。
もう二度と頼まないと決めたはずなのに。
それでも、ほんの少しだけ。
(……もし)
そんな考えが浮かんでしまった自分に、小夜はぎゅっと唇を噛んだ。
「……冗談はやめてください」
「冗談じゃないんだけどなあ」
伊吹は肩をすくめる。
「俺は小夜ちゃんには本気なんだけど。信じてもらえないよね〜」
軽い。
あまりにも軽い。
だから本気とは思えないのだ。
(いつもこんな調子で、ふざけて……)
そのときだった。
「あ、伊吹様〜!」
「こちらにいらしたんですね」
「昨夜の討伐、お見事でした」
女性隊員たちが、伊吹のもとに集まってきた。
絹の隊服の袂が擦れる音。
白粉の香りと、結い髪の鬢付け油の匂いが、ふわりと近くなる。
「皆、ありがとね〜」
伊吹は自然に笑う。
誰にでも優しく。
誰にでも同じ距離で。
伊吹がモテるのは今に始まったことではない。
鬼特有の妖しい美しさに、帝直属の特務封鬼師という地位、明るく人懐っこいその性格。
――それに、伊吹は強い。
人間の隊員が札と結界で囲み、複数人でようやく狩る鬼を、伊吹は一人で斬る。
軽口を叩きながら、息ひとつ乱さずに。
だから、隊員たちが憧れるのも分からなくはなかった。
分からなくはないからこそ、余計に胸の奥がざらつく。
「伊吹様、見てください。新しい髪飾りをつけてみたんです。どうですか?」
「えっ、いいじゃんいいじゃん。可愛いよ」
伊吹は女性の髪飾りを覗き込み、飾りの端に指先でそっと触れた。
触れられた女性隊員は、顔を真っ赤に染める。
伊吹の戯れを本気にするなんて。
そんなの、危ないに決まっているのに。
(……鬼の甘い言葉に惑わされてる)
鬼は、その優れた容姿と甘い匂いで、人間をたぶらかすものだと古来から言われている。
伊吹に関しては、榊長官が女性隊員たちに注意喚起をしているくらいだ。
(……モヤモヤする)
小夜は気まずくなって視線を逸らした。
――まるで、自分を見ているようで居たたまれない。
まだ少し残っていた食事を盆に載せ、逃げるようにその場から離れた。
(……私は伊吹にとって特別じゃない)
そのはずなのに。
振り返ると、人の隙間の向こうで、伊吹が顔を上げた。
まっすぐ、小夜を見る。
そして、にこりと笑った。
いつもと同じ笑み――なのに。
その意味だけが、違う気がした。
――そう思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。
小夜は振り返らず、廊下へ出る。
その背に、伊吹の視線が残っている気がした。
朝の光は、さっきよりも強くなっていた。
食堂のざわめきが背後に遠ざかっていく。
廊下の先、曲がり角のところで、白衣の女性がこちらを見ていた。
視線が合う。
「……朝霧さん」
やわらかな声だった。
すっと近づいてくる足取りも、無駄がない。
「ちょうどよかった。少しお時間、いただけますか?」
小夜は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「はい」
「定期検査です」
当たり前のように告げられる。
その響きに、小夜はわずかに肩の力を抜いた。
この人は、封鬼寮医官――白瀬透子。
小夜がここに来てから、ずっと担当してくれている人だ。
処置室は、本館の奥まった場所にあった。
扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
白い。
壁も、床も、棚も。
すべてが清潔に整えられている。
窓は曇り硝子。光は入るのに、外は見えない。
硝子戸の棚には、薬瓶がきれいに並んでいた。
ラベルには、墨で丁寧に書かれた漢字。
ヨードチンキ、消毒水、生理食塩水――軍医の処置室を思わせる、几帳面な並び。
薬品の淡い匂いが、静かに漂っていた。
中央に、簡素な診察台。
その横に、器具の並んだ金属製のトレイ。
光がよく入るはずなのに、なぜか薄暗い。
「こちらへ」
白瀬が手で示し、小夜は素直に腰を下ろした。
白瀬は、すぐ隣に立つ。
整った黒髪は後ろでまとめられていて、白衣の襟元まで一切の乱れがない。
肌は白く、指先まで無駄がなく美しい。
表情は穏やかで、やさしい。
夜通し執務をしていたであろうに、白瀬には疲れた様子は見えなかった。
「少しだけ採血しますね。稀血の状態確認のためです」
淡々とした声。
慣れた手つきで、腕に触れる。ひやりとした指先。
「……はい」
「最近、共鳴が強く出ていますか?」
白瀬はそう尋ねながら、手際よく腕の内側を消毒する。
血管を探る指の動きが、正確すぎるほど正確だった。
小夜は最近のことを思い出す。
「……いつもと変わらないと思います。でも、暴走した鬼たちの様子がおかしい気もして……」
針を刺そうとしていた白瀬の動きが、ピタリと止まる。
「……おかしい?」
怪訝そうな白瀬の表情。
小夜は頭を振る。
「いえ……はっきりとは言えないのですが………」
ぷつり、と腕に針が刺さる。小夜は一瞬、顔をしかめた。
「……っ」
小さく息を呑む。
わずかな痛みのあと、皮膚の下を血が引かれていく感覚。
きん、と硝子瓶が小さく音を立てた。
赤く満たされていくシリンジの中身を見つめながら、小夜は問う。
「……採血の頻度が増えていませんか?」
「伊吹様をはじめ、鬼たちの暴走防止措置のためです」
さらりと続ける。
その言葉に、小夜はわずかに視線を上げた。
「……暴走、ですか」
「ええ」
白瀬は穏やかに頷く。
「朝霧さんの血を保管しておけば、いざというときに役に立つでしょうから。念のために、という榊長官のご指示です」
言い切る白瀬の口調は淀みない。
そのまま、血が抜かれていく。
小夜はじっとそれを見ていた。
細い管を流れる赤い色。
(……こんなに、必要なんだろうか)
そんな疑問が浮かぶ。
以前より、回数も増えている。
量も、ほんの少しだけ多い。
「はい、終わりです」
白瀬の声で、思考が途切れた。
針が抜かれる。手際よく処置され、包帯が巻かれる。
「体調に変化はありませんか?」
「……大丈夫です」
「無理はなさらないでくださいね。いつもの鉄剤を出しておきます」
どこまでも優しい顔で微笑む。
「あなたは特別ですから」
その言葉に、小夜はわずかに目を伏せた。
――特別。
その響きが、少しだけ重く感じた。
「では、今日はこれで」
白瀬に鉄剤の入った袋を渡される。
小夜も立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
処置室を出る。
扉が閉まる直前、白瀬が何かを確認するように視線を落としたのが、ちらりと見えた。
トレイの上。
採取された血液の入った瓶。
それを見つめる横顔は――処置室の印象と同じく、無機質だった。
扉が閉まる。
廊下に戻ると、さっきまでのざわめきはもう消えていた。
夜の任務を終えた隊員たちは、それぞれの帰りどころへ流れたあとなのだろう。
代わりに、昼の調査へ向かう班の足音だけが、ぽつぽつと響いていた。
小夜は、包帯の巻かれた腕にそっと触れる。
布越しに、針の跡がじんと熱を持っている。
(……考えすぎ、だよね)
小さく息を吐く。
そう思わないと、いけない気がした。
廊下を歩きながら、小夜は腰紐に下げている結界札の束に手を当てた。
昨夜の任務で消費した分を、作っておかねばならない。
補助班の詰め所で、筆を入れる前の新しい白札を用意してもらおう。
手で触れると、墨の匂いが新しい札ほど濃く立ち昇る。
稀血と共鳴する鈴も、磨いておかなければ。
今日のうちに、明日の準備を全部、済ませておきたい。
そうしなければ、夜になったとき、間に合わない気がした。
窓の外で、朝の日差しが、少しずつ強さを増していた。
松の影が、廊下の奥まで伸びている。
夜露を吸った庭の土の匂いが、開け放たれた窓からかすかに入り込んでいた。
そのまま、小夜は歩き出した。
今日はもう、部屋に戻って眠ろう。
夜通し動いた体には、昼の光は強すぎた。
*
食堂を出たあと、伊吹はひとりで自室に戻った。
封鬼寮本館の東棟。
特務封鬼師に与えられた部屋は、広いわりに物が少ない。
壁際に置かれた文机。
畳の上に放り出された黒い羽織。
窓辺には、誰かが差し入れたまま忘れていった菓子包みが置かれている。
伊吹はそれに目もくれず、窓枠に腰を下ろした。
外は、もう朝だった。
空の東側は白く、朝の光がゆっくりと帝都を起こしはじめていた。
誰かの笑い声。
眠そうな欠伸。
朝の封鬼寮は、まだ少しだけ夜の匂いを残していた。
伊吹は、ぼんやりと窓の外を見る。
(……つまんない)
何となく、思った。
帝都も、封鬼寮も、鬼の世も。
どこへ行っても、同じだった。
強い者が、弱い者を喰らう。
弱い者は、強い者に従う。
あるいは、抗って消える。
兄弟も、一族も、仲間も。
関わるたびに、底が見えた。
だから、笑って、軽くして、流してきた。
どうせ全部、自分には関係ない。
そう思っていた。
(……ああ、でも)
ふと、さきほどの食堂での小夜の顔が浮かぶ。
女性隊員に囲まれていた伊吹を見て、何も言わずに視線を逸らした顔。
食べかけの盆を持って、逃げるみたいに立ち去った、細い背中。
追いかけたいわけでもない。
追いかけて、どうしたいわけでもない。
ただ。
(……気になる)
それだけだった。
伊吹は、窓枠に預けていた手を見下ろす。
さっき、小夜の唇に触れた指先。
ほんの少しだけ、熱が残っている気がした。
鬼の体に、そんなものが残るはずがない。
残るはずがないのに。
伊吹は、その指先を、ゆっくりと自分の唇に当ててみた。
冷たかった。
(……変なの)
小さく笑う。
けれど、いつものようには軽くならなかった。
久しぶりに、何かを感じた。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ、少なくとも今朝だけは、退屈だとは思わなかった。
夜は終わる。
封鬼寮の一日も、ひとまず眠りに沈んでいく。
けれど伊吹は、しばらく窓辺から動かなかった。




