表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/7

第二話 黒夜という名の影

 封鬼寮は、夜明け前がいちばん騒がしい。


 帝都の中心――宮城のほど近く。

 高い塀と結界に囲まれた“封鎖区”。

 その奥にあるのが、封鬼寮本館だ。

 小夜は伊吹と共に石畳の道を抜け、煉瓦造りの正門をくぐる。

 夜の最後の闇が、敷地の松林の奥にまだ淡く残っていた。

 夜露を含んだ松葉の匂いが、湿った朝気にまじる。

 空は東の端だけが、わずかに白み始めていた。

 明けの星が、まだ一つだけ、空の高い場所で揺れている。

 帝都の喧騒は、ここまでは届かない。

 代わりに本館の方から、人の声と足音が、いくつも重なって聞こえてきた。

 討伐帰りの隊員たちが、廊下を行き交っている。

 黒の隊服に、夜の汚れと血の匂いを纏ったまま。

 医務室のほうからは、血止めの薬の匂いと、煮え立った薬缶の音が漏れてくる。

 眠るための朝を迎える者と、これから昼の調査へ出る者が、薄暗い廊下ですれ違っていた。

 建物は和洋折衷の造りで、外観は煉瓦と石の重厚な意匠だ。

 けれど内部には磨き込まれた木の床が続き、行灯の灯が、廊下のあちこちでまだ揺れている。

 どこかで低い咳払いと、誰かを呼ぶ声。

 別の場所では、結界札の墨を擦る音が、規則的に響いていた。

 窓から差し込む光はまだほの白く、建物の奥には夜の薄い影が沈んだままだ。

 封鬼寮。


 ――ここは帝の命のもとに集められた、異質な者たちの拠点だ。


 討伐班。結界班。補助班。索敵班。

 それぞれが役割を持ち、鬼という脅威に対抗している。

 そして、そのさらに奥に、もう一つの区画がある。

 立ち入りを許される者は限られた、特別区。


(……あそこに住んでいるのは、私だけ)


 小夜は歩きながら、無意識に首筋へ触れた。刻印の上に。

 ほんのわずかに、熱が残っている気がする。

 あの区画は、稀血を持つ者を保護するための場所だと教えられている。

 けれど――


(本当に、守られているのはどっちなんだろう)


 胸の底に、冷たいものが沈んだ。

 昔、稀血の者は他にもいたらしい。けれど、いまは小夜以外は誰も残っていない。

 暴走した者。

 鬼に喰われた者。

 長く生きられなかった者。


 ――理由は様々だが、結果は同じだ。いなくなった。


(だから私は――)


 考えかけて、やめる。

 足を止めたくなかった。


 ――そして、封鬼寮本館の最奥にたどり着く。


 長官執務室の前。

 廊下の奥に、ひときわ重厚な区画が広がっている。

 黒塗りの木扉には、余計な装飾はない。

 ただ中央に、封鬼寮の紋が静かに刻まれているだけだった。

 扉の上には、薄く香の匂いが漂っている。

 白檀――封鬼寮特有の、清浄な香りだ。

 夜通し焚かれていたのか、その匂いは、廊下の他の場所より一段濃かった。

 黒塗りの扉の前には、当番の隊員が一人だけ立っている。

 背筋を伸ばし、微動だにしない。

 長時間ここに立っていたはずなのに、疲れの色は見えない。

 その存在が、ここが特別な場所であることを物語っていた。

 小夜は一歩前に出る。


「補助班所属、朝霧小夜。特務封鬼師、伊吹と共に参りました」


 静かに告げる。

 一拍の沈黙。


 ――中に、気配が動く。


 見られているような感覚。

 扉越しに、落ち着いた声がした。


「――入れ」


 小夜は短く息を整え、扉に手をかけた。


「はい」


 短く返事をして、小夜は扉を押し開けた。

 扉の蝶番が、低く軋んだ。

 長官執務室は、ひどく静かだった。

 廊下の喧騒が、扉一枚を隔てた瞬間、嘘のように遠ざかる。

 広い。

 けれど、空間のほとんどは何もない。

 整理された木製の机。

 無駄のない書棚。

 壁際には、地図と結界図が並んでいた。

 窓は格子の入った大きな縦長の硝子窓で、外の松の影が床に伸びている。

 まだ夜の余韻を含んだ光が、硝子越しに静かに落ちていた。

 その光だけが、どこか温度がない。

 まるで、この部屋だけ時間が止まっているみたいに。

 部屋の隅には、ほの暗い行灯が一つだけ点されていた。

 一晩中点されていたのか、芯が、わずかに焦げている。

 小さな鉢植えの蘭が、机の脇に置かれていた。

 白い花が、ひっそりと咲いている。

 それだけが、この部屋で唯一、生きているもののようだった。


 ――人の気配が、薄い。


 自然と、背筋が伸びた。


「――朝霧小夜。伊吹」


 低く落ち着いた声が、室内に響いた。

 封鬼寮長官、榊恒一。

 年の頃は四十代前半。

 黒の詰襟に濃紺の羽織をきっちりと重ねた姿は、無駄がない。

 夜通し執務をしていたであろうに、髪も襟も少しの乱れもなかった。

 整えられた黒髪。

 温度を感じさせない瞳。

 そこに座っているだけで、この場の空気が引き締まる。


「はい」


 小夜は背筋を伸ばして答えた。

 隣を見る。

 伊吹は、壁に寄りかかるように立っていた。

 相変わらずの気の抜けた態度だ。


「数時間前の件だが」


 榊の視線が、まっすぐ伊吹へ向く。


「勝手な先行は控えろ。討伐班との合流前に動くなと、何度言わせる」


「はーい」


 軽い。あまりにも軽い。

 小夜は思わず、隣を睨んだ。

 伊吹は楽しそうにこちらを見る。


「でもちゃんと終わらせたでしょ」


「結果の問題ではない」


 榊の声音は変わらない。


「お前の独断は、周囲を危険に晒す。朝霧も巻き込まれた」


「えー、巻き込んだっていうか、あれは小夜ちゃんが無茶したんですよ」


「伊吹」


 思わず声が強くなる。

 伊吹は、口の端を上げた。


「なに、その顔。怒ってる?」


「怒っています」


「へえ」


 面白がるように目を細める。


 ――どうしてこのひとは。


 小夜は奥歯を噛みしめた。

 榊長官は、封鬼寮の頂点に立つ人だ。

 小夜にとっては、憧れの存在でもある。

 それなのに伊吹は、まるで対等の相手みたいに接する。

 敬意も、遠慮もない。

 榊は小さく息を吐き、話を切り替えた。


「報告を聞こう」


「はい」


 小夜は一歩前へ出た。

 先ほどの鬼は、討伐と同時に砂のように崩れ、ほとんど痕跡を残さなかった。

 それでも、あの一瞬に見たものがある。

 流れ込んできた感覚がある。


「……いつもより強い鬼でした。普段なら、結界札で一瞬は足止めできます。けれど、今回は効きが薄くて」


 小夜は、首筋の刻印に触れそうになって、手を止めた。


「共鳴の反応も強く出ました。鬼の動きを完全には止められず、稀血を一時的に解放するしかありませんでした」


 榊の瞳が、わずかに細くなる。


「そうか……」


 小夜は言うか言わまいか悩みながら、それを口にした。


「……そして、鬼は消える直前、腕に刺し痕のようなものと、手首に拘束痕のようなものが見えました」


「……拘束痕?」


「はい。はっきりとは言えません。けれど、輪のような跡が残っていました。それと……私の共鳴で、鬼におかしな反応がありました」


「おかしな反応?」


 榊の声は淡々としている。

 けれど、室内の空気が、少しだけ重くなった。


「普通の鬼から感じるものとは違いました。飢えや怒りではなくて……まるで、拘束されていたかのような」


 言葉にした途端、あの圧迫感が喉の奥に蘇る。

 逃げ場のない苦しさ。

 縛られていたような、窒息する感覚。

 小夜は無意識に指先を握りしめた。


「はっきりとは言えません。でも、そのときに苦しみを感じて、いてもたってもいられなくなって……」


「鬼に同情するなんて、小夜ちゃんはほんと優しいね」


 伊吹が、ぽつりと言った。

 茶化すような声音だった。

 けれど、なぜかその声は、いつもより少しだけ低く聞こえた。

 小夜は横目で伊吹を見る。


「同情ではありません」


「そう?」


「……言葉になりません。でも、あれはただ暴れているだけの鬼には見えませんでした」


 伊吹は笑っている。

 けれど、その目の奥は、やはり笑っていない。

 榊は二人のやり取りを遮らず、黙って聞いていた。

 やがて、机の上の書類に視線を落とす。

 紙の上を指で軽く叩く音が、やけにはっきりと響いた。


「最近、強い鬼の出没が増えている」


 その一言で、空気が変わった。

 榊は淡々と続ける。


「痕跡が残らない。索敵班の報告も不自然だ。通常の個体ではない」


 一拍置いてから、静かに告げた。


「今回の個体には、通常の鬼には見られない痕跡があった。拘束痕。刺し痕。そして、稀血への異常な反応」


 小夜の首筋の刻印へ、榊の視線がわずかに下がる。

 その視線に、体の奥が冷える。


「索敵班では追えん。討伐班でも判別できん」


 榊は小夜を見る。


「朝霧。お前の稀血なら、同種の反応を拾える可能性がある」


「……私が、ですか」


「そうだ」


 短い返答。

 そこに迷いはなかった。

 続いて榊の視線が、伊吹へ向く。


「伊吹。お前なら、鬼の側の異常を見抜ける」


 伊吹が、肩をすくめる。


「小夜ちゃんを餌にするってこと?」


 軽い声。

 けれど、小夜の胸が一瞬だけ冷えた。

 餌。

 その言葉は、あまりにも正しかった。

 榊は表情を変えない。


「そうさせないために、お前を付ける」


 即答だった。

 伊吹の笑みが、わずかに薄くなる。

 小夜は、その変化に気づいた。

 榊はさらに続ける。


「二人で調査に当たれ。必要なら討伐に移行しろ」


「……承知しました」


 小夜は答えた。

 断れるはずがなかった。

 自分の稀血が、誰かを救う手がかりになるのなら。

 たとえ、それが危険なことだとしても。


「おそらく――黒夜が動いたのではないか、と私は考えている」


 その名が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに冷えた。


「結界札をものともしない上位の鬼。加えて、拘束痕と刺し痕。帝都の内側に、通常の鬼ではないものが入り込んでいる」


 その瞬間だった。


 ――隣の気配が、変わる。


 伊吹の笑みが消えた。

 ほんの一瞬だけ。

 蜂蜜色の瞳が、冷たく沈む。


(……え?)


 小夜は息を止めた。

 ごくわずか。

 けれど確かに、別の顔だった。

 香の匂いが、ふと、一段濃くなる。

 榊は、それを見ていたはずなのに、何も言わない。


(……黒夜)


 その名は聞いたことがある。

 鬼の中でも、異質とされる存在。


 ――これまで、帝都の内側に現れたことは一度もないはず。


 けれど――どうして、伊吹があんな顔をするのだろう。


「俺、指揮系統外じゃなかったっけ?」


 伊吹が、肩越しに笑う。

 もういつもの調子に戻っている。

 けれど、さっきまでの軽さとは、ほんの少し温度が違っていた。


「必要なときは例外だ。お前が最適だろう。――黒夜ならば」


 榊の声に迷いはない。

 命令している。

 けれど、伊吹を従わせているようには見えなかった。

 まるで、互いの弱みを知っている者同士の沈黙だった。

 伊吹は一瞬だけ目を細めて、それから肩をすくめた。


「はいはい、了解〜」


 気の抜けた声。

 けれど、やはり何かが違う。

 小夜の頭の中に、黒夜、という名だけが残った。


「以上だ。下がれ」


 小夜は頭を下げた。

 退室しようと、踵を返した瞬間――


「……朝霧」


 榊の声が止めた。


「はい?」


 振り返る。

 榊は、書類に視線を落としたまま、しばらく沈黙した。

 長官執務室の窓から、淡い朝の光が射している。

 その光が、榊の頬を、わずかに照らしていた。


「……無理は、するな」


 短い声だった。

 いつもの命令の温度ではない。

 ほんのわずかに、低かった。

 小夜は、一拍だけ呆けたように榊を見た。


「……はい」


 頭を下げる。

 伊吹は片手を上げただけだった。

 榊は、もう書類に視線を戻していた。

 まるで、さっきの言葉などなかったかのように。

 扉が閉まる、その直前――小夜が振り向いた一瞬。

 榊が、ふっと顔を上げる。

 その視線が、小夜を捉えた。

 けれど――彼が見ているのは、小夜ではなかった。

 もっと、遠いどこか。

 違う人を、小夜の後ろに見ているような目だった。


(……どうして)


 扉が閉まる。

 蝶番が、また低く軋んだ。

 その音が、室内の余韻を断ち切るみたいに響いた。



 廊下に出た途端、空気が変わった。

 張り詰めていた何かが、すっと抜けていく。

 けれど、完全には緩まない。


(……無理は、するな)


 さきほどの榊の声が、ふと耳の奥で蘇った。

 あの言葉だけ、温度が違った。

 いつもの長官の声じゃない。

 もっと、誰か別の人に向けて言うような響きだった。


(誰に、言ったんだろう)


 考えても、答えは出ない。

 ただ、頬を照らしていた朝のひかりだけが、なんとなく、まだ目に残っていた。

 窓の外を見ると、空の東の端が、すでに淡い橙に染まり始めていた。

 夜明けが、すぐそこまで来ている。

 磨き込まれた板張りの床が、二人分の足音を静かに吸い込んでいく。

 廊下を行き交う隊員たちの数は、さきほどよりも少なくなっていた。

 夜の任務を終えた者は、医務室や仮眠室へと、それぞれの帰りどころへ流れていく。

 遠くから、結界札を綴じる墨の匂いが、かすかに漂ってきた。

 補助班の作業部屋から流れてきたのだろう。

 伊吹の歩幅に合わせると、どうしても距離が縮まる。

 小夜は半歩だけ、意識して間を置いた。

 廊下の突き当たりに、細長い窓がある。

 格子細工の硝子窓から差し込む朝の光が、ようやく床に淡く伸びてきていた。

 二人の影が、その光の中に長く引かれている。


(……黒夜)


 さっきの言葉が、まだ頭の中に残っている。

 あの瞬間の伊吹の顔が、頭から離れない。


(聞いていいんだろうか)


 ちらり、と横を見る。

 伊吹は、もういつもの顔に戻っていた。

 軽くて、飄々として、何も気にしていないみたいな。


(……やめよう)


 聞いたところで、答えてもらえる気がしなかった。

 小夜は息を吐いた。


「小夜、さっきすごく睨んできたねぇ」


「伊吹があんな態度を取るからです」


「ええ〜、いいじゃん別に。怒られるの慣れてるし」


「私は慣れていません」


「真面目だねぇ。そこが小夜ちゃんのいいとこだけど」


 くすくす笑う。

 相変わらずだ。

 軽くて、近くて、何を考えているのか読めない。

 小夜は無意識に歩みを緩めた。

 ここは封鬼寮。

 全員が命令で動く場所のはずだ。

 なのに榊と伊吹の関係は奇妙だ。

 命令するわけでも、服従するわけでもない。

 奇妙な対等感。

 小夜が知っている封鬼寮の論理では、説明がつかない。

 そんな違和感だけが、廊下の薄明かりの中で、ゆっくりと膨らんでいった。


(このひとは……)


 ここにいるのに、どこにも属していない。

 ふわふわと、根無し草のようで。

 いつかどこかへ、何の躊躇もなくいなくなってしまいそうなひと。

 小夜には、伊吹がときどきそんなふうに見える。

 まるで、戦うことだけが、彼をこの場所に繋ぎ止めているみたいに。

 窓の外で、明けの星が、ふっと消えた。

 空が、橙から白へ、ゆっくりと色を変えていく。

 帝都が、これから昼の顔に変わっていく時間だった。

 伊吹の足音が、ずれて重なる。

 二つの音が、磨き込まれた板張りの床に、長く吸い込まれていった。





 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ