第一話 甘い血、赤い痕
――夜は、鬼の時間だ。
帝都の中心からほど近い、繁華街の外れ。
路地の奥に進むほど、賑わいの音は薄れていく。
市電の最終便のベルも、もう遠く消えていた。
大通りを照らしていた電灯の光も、ここまでは届かない。
代わりに、軒先に下がる古い提灯の朱色だけが、ぼんやりと路地を染めていた。
石畳には、雨上がりの湿りが残っており、踏むたびに足音が低く跳ね返ってくる。
路地の奥から、嫌な匂いが漂ってきた。
低く、濁った息。
湿った血の匂い。
(……いる)
小夜は足を止め、息を整えた。
白を基調とした封鬼寮の隊服が、夜の中でほのかに浮かび上がる。腰の帯には結界札の束と、小さな鈴が一つ。背中に金の紋章が入った白い羽織が、踏み出すたび夜風に揺れた。
背の半ばまで伸ばした黒髪。幼さの残る顔立ちに、警戒した眼差しが宿っている。
隣を歩く青年に、緊張している様子はない。
詰襟の黒衣のボタンは外され、襟元は無防備に開いていた。黒の羽織も肩に引っかけるだけで、夜風に揺れるまま。それなのにだらしなく見えないのは、鬼特有の、整いすぎた容姿のせいだろうか。
羽織の内側に血のような赤を纏う伊吹と、清純な白の装いの小夜は、ひどく対照的だった。
「当たりっぽいね」
伊吹が、軽い調子で言う。
その声音は、夜の散歩の途中みたいに気が抜けている。
(……どうしてそんなに、軽いの)
小夜は小さく息を吐いた。
(このひとは、いつもこうだ)
何もなかったみたいに笑って、全部流してしまう。
本音が、見えない。
(――昔は、こんなふうに笑うひとではなかった気がするのに……)
小夜は頭を振る。
今はそんなことを考えていても仕方がない。
これは任務だ。
鬼の討伐。
(この男に真面目さを期待しても仕方ないんだから……)
本来なら、他の隊員と合流してから動くはずだったのに。
『先に行っとこうよ。早く終わらせたいし』
そう言って単独行動を起こそうとするのは、毎度のことだ。
――そのとき、物陰から短い悲鳴が上がった。
「……っ!」
小夜は反射的に駆け出していた。
白い裾が翻り、ブーツの底が石畳を打つ。
角を曲がった路地の奥には、潰れた木箱と、転がった酒瓶。
その先の街灯のない暗がりの路上に、男が倒れている。
その上に覆いかぶさる人影――鬼だ。
牙が、男の首元へと迫っていた。
「っ! その人を離してください!」
小夜が叫ぶと、鬼が顔を上げる。
濁った瞳が、小夜を捉えた。
その瞬間――
ぞくり、と背筋が粟立つ。
(……っ)
胸の奥が、軋む。
――痛い。
喉を裂かれそうな、鈍い苦しさ。
呼吸がうまくできないような圧迫感。
(……違う)
これは、自分の痛みじゃない。
目の前で押し倒されている男のものだ。
喉元に迫る牙。
逃げ場のない恐怖。
それが、そのまま流れ込んでくる。
(……またこうなる)
稀血になってから、鬼に近づくと、こうなってしまう。
鬼の飢えと恐怖。
喉元に牙を向けられた人間の怯え。
強すぎる感情は、境目を失って小夜の中へ流れ込んでくる。
中でも鬼のものは濃く、血の匂いに混じって、胸の奥を直接掻き乱した。
(……気持ち、悪い)
そのはずなのに――違和感があった。
小夜は、わずかに眉を寄せる。
(……これ)
いつもと違う。
鬼の感情は、普通ならもっと単純で、濁っているはずだ。
なのに――焦っている。
何かに怯えているように、切迫した衝動。
視線を鬼に向けると、その腕に、赤黒く腫れた跡があった。
――まるで、何かに刺されたような。
そして、手首には、うっすらと輪の跡が残っていた。
(……なに、あれ……まるで――拘束具のような……)
今まで見てきた鬼には、なかったものだ。
その瞬間、鬼の視線が揺れる。
(……私の、血に、反応してる)
それを察してしまった。
――刻印で稀血の匂いを抑えているはずなのに。
小夜と、目の前の男。
どちらに飛びかかるか、鬼は迷っている。
小夜はとっさに、首筋にある刻印を押さえた。
指先に、わずかに熱がにじむ。
刻印が鬼の気配に応えて、ざわついていた。
鬼は小夜の稀血の気配に引かれていたが――やはり、遠くにいる小夜よりも目の前にいる獲物のほうが気になるようだ。
視線がぎょろぎょろ動く。
――迷っている。
鬼の前に立つのは、いつも怖い。
夜の冷たさが、急に肌に染みてきた。
心臓が、耳の奥で大きく鳴っている。
――それでも、小夜は一歩、踏み出す。
(助けなきゃ……)
小夜は腰紐に下げた束から、結界札を一枚抜いた。
白い札の表面には、朱墨で細かな術式が書き込まれている。
封鬼寮で支給される、標準的な結界札だ。
札を指に挟み、もう一方の手で、帯の鈴に触れる。
息を整える。
恐怖で呼吸が乱れれば、霊力も乱れる。
霊力は、人の魂に宿る力だと教えられている。血筋によって強く出る者もいるが、素質だけで扱えるものではない。
札を読み、印を結び、息を合わせる。
そうして初めて、人の霊力は形になる。
「――留」
札を投げると同時に、鈴を振った。
りん、と澄んだ音が、夜の空気を切る。
札が空中で淡く光って、鬼の足元に貼りついた。
次の瞬間、地面に細い光の線が走り、鬼の足を縫い止める。
「ぐ、あ……っ」
鬼の動きが、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
けれど、それで十分なはずだった。
小夜は男のもとへ駆け寄ろうとした。
――だが。
札の光が、じり、と歪む。
(……っ、保たない)
鬼の力が強い。
それに、小夜自身の呼吸も乱れていた。
流れ込んでくる恐怖と飢えに、霊力の輪郭が崩されていく。
淡い光の線が、いまにも千切れそうに震えた。
その瞬間、小夜の肩に大きな手が置かれた。
「無茶するねぇ〜、小夜ちゃんってば。そのまま突っ込んで、どうするつもり?」
「伊吹……!」
すぐ隣に、彼が立っていた。
蜂蜜色の瞳が、楽しげに細められる。
「危ないって。ほら、下がって。あとは俺がやるからさ」
伊吹はそう言うが、彼が一番興味があるのは、強い鬼を狩ること。
人間の被害には、それほど関心がないように見える。
(――伊吹に任せたら、あの人が無事でいられるかどうか……)
伊吹はただ、小夜を見ている。
「あの人間を助けたいの? 優しいねぇ、小夜ちゃんは」
小夜を試すように。
「でも、その札じゃ長くは保たないよ」
言われなくても、分かっていた。
結界札の光は、もう細く震えている。
鬼の足元で、朱墨の術式がじわじわと滲み始めていた。
「……それなら、その慈悲を俺にもくれる?」
「……っ」
この状況で確実に助けられるのは――彼だけだ。
「小夜ちゃん、ちゃんと言って。何してほしいの? そしたら何でも叶えてあげられるけど?」
そう言って、伊吹は触れそうなほど顔を近づけてくる。
距離が近い。
彼の手が小夜の肩から首筋の刻印へと滑っていく。
指先の冷たさが、襟元から伝わってきた。
――刻印が伊吹の気配に反応しているのを感じた。
(……またこれだ)
わざと、言わせようとする。
――分かっているくせに。
(そうやって、全部『遊び』みたいにする)
頭ではそれを言えばいいだけだと、理解している。
体が動かないだけで。
喉が、うまく動かない。
――目の前では今にも命が消えようとしているのに。
(早く、言わなきゃ……でも……)
「……さーや、ちゃん? 早く言わないと、あの男、死んじゃうよ?」
急かすような声。
倒れた男と、今にも襲いかかりそうな鬼をみつめて――小夜は観念した。
ぎゅっと唇を噛む。
顔が熱い。
耳の先まで、じわりと熱が広がっていくのが分かる。
足先だけが、石畳の冷えを通り越してかじかんでいた。
「……っ」
視線を落とす。
震える指が、強く握りしめる。
そして――
「……お願い、します」
ほとんど消え入りそうな、かすれた声。
けれど、確かに聞こえたはず。
伊吹の目が、ゆっくり細められた。
その表情に、ほんの一瞬だけ――獰猛な何かが宿った気がした。
でも、瞬きをした次の瞬間には、もう、消えていた。
「……なにを?」
絶対にわざとだ。
(……っ)
――知っているくせに。
それでも、逃げられない。
前には、助けなきゃいけない命がある。
小夜はぎゅっと目を閉じた。
声が震えた。
それでも、絞り出すように言った。
「……口づけて、ください」
その瞬間、伊吹の目が愉悦に染まる。
「いいよ」
あっさりと、顔が近づいてくる。
(……っ)
小夜の首筋には、刻印がある。
――それは伊吹が施したものだ。
稀血を封じるためのもの。
そして今は、鬼を正気に戻すために封印を一時的に緩める必要がある。
だからそのための処置だ。
――そう分かっているけれど。
「ほら、時間ないよ」
軽い声にうながされて、小夜は目を閉じた。
互いの唇が触れる。
浅く、けれど確かに。
かすかな、甘い匂いがした。
体の奥で、何かがほどける。
封じられていた力が、流れ出す。
――その瞬間、空気が変質した。
辺り一面に稀血の匂いがひろがる。
提灯の朱色が、揺れた気がした。
風はないのに、空気そのものが、息を呑んだみたいに。
鬼が恍惚の表情で、その場に凍りつく。
「ほら、簡単でしょ」
伊吹が囁いた。
そのまま目に見えない速度で前へ踏み出す。
ためらいもなく、帯刀した刀を抜いて一閃する。
――その一陣の風が、鬼の体を断つ。
まるで、影だけを斬ったみたいに。
鬼の輪郭が、わずかに歪む。
一瞬だけ、鬼の濁った瞳が――何かを訴えるように揺れた。
次の瞬間、砂のように崩れた。
音もなく、風に溶けるみたいに消えていく。
けれど一瞬だけ、小夜の中に何かが流れ込んできた。
(……っ)
飢えでも、怒りでもない。
――苦しさ。
逃げ場のない、圧迫感。
縛られていたような、窒息する感覚。
(……今の)
視線が、消えかけた腕に向く。
崩れながら露わになった皮膚には、赤黒く腫れた刺し跡。
そして手首に残る、輪の跡。
(……やっぱり)
普通じゃない。
内側が、ざわつく。
――どこか、引っかかる。
小夜は倒れている人間の男に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
膝をつくと、石畳の冷たさが隊服の生地越しに伝わってきた。
男の胸元に、指先で触れる。
かすかに息がある。
血は出ているが、致命傷ではない。
(……よかった)
胸をなで下ろす。
「いやー、危なかった危なかった」
振り返った伊吹は、いつもの笑顔だった。
「小夜ちゃんのおかげで助かったよ〜」
その口調に、現実に引き戻される。
「でも、余裕そうでしたけどね」
「そんなわけないじゃん。小夜ちゃんがいてくれたからだよ」
伊吹の実力なら、小夜の稀血に頼ることもなく、誰も怪我させることなく、鬼を討伐できたのではないだろうか。
それなのに、まるでギリギリ勝てましたという演出をいつもする。
(……なんで)
そのとき、通りの向こうから、複数の足音が近づいてきた。
石畳を打つ、規則的な靴音。
「伊吹様!」
隊員たちが駆け寄ってくる。
提灯の灯りが、小走りに揺れていた。
「すごい。すでに討伐済みとは……!」
「お怪我はありませんか?」
女性隊員たちが、自然に距離を詰める。
「んー? 大丈夫大丈夫。小夜ちゃんのおかげで助かったよ」
飄々と笑って受け流す。
女性隊員が気安く伊吹の腕に絡みつく。
そのたび、胸の中が、ざわついた。
それが居心地の悪さからなのか、別の何かなのか、小夜には判別できなかった。
隊員たちの視線が、ちらりと小夜に向いた。
値踏みするような、あるいは牽制するような眼差し。
(……どう見ても、『この女が?』と思われている)
小夜が伊吹と組んでいることも、封鬼寮の特別区に居を構えていることも、特別扱いに見えて面白くないのだろう。
けれど、それはすべて稀血を外に出さないために必要なことだった。
女性隊員たちにとっては、そんなことは関係ないのだろうけれど。
そのとき、ふと、伊吹と目が合った。
にやり、と意味ありげな笑みを浮かべる。
――次の瞬間。
「じゃ、後は任せた」
伊吹は女性隊員たちにそう言って、小夜は彼に腕を引っ張られる。
「え?」
隊員たちのぽかんとした顔を背に、ひと気のない路地へ連れて行かれた。
喧騒が、あっという間に遠ざかる。
石畳の凹凸が、ブーツを通して伝わってくる。
腕を掴む指の力が、思ったより強かった。
体温も高い。
鬼の熱だと承知していても、その温もりを無意識に追ってしまう自分がいた。
「小夜ちゃん」
呼ばれて、顔を上げる。
また目の前にいる。
いつも、すぐに距離を詰めてくる。
「さっき、刻印が弱くなっちゃったでしょ。力を少しだけ解放しちゃったから」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないって」
伊吹の口の端が上がる。
さらに距離が縮まる。
今度は、さっきとは違う熱があった。
(……またこうなる)
小夜はわずかに身を引こうとした。
さきほどの戦闘で、刻印は緩められている。
このままでは稀血のせいで、鬼が寄ってきてしまう。
「ほら、刻印を強化しないとね?」
伊吹の指が、そっと小夜の首筋に触れた。
刻印の上。
熱を帯びたそこを指で円を描くようになぞる。
その感触に、小夜の肩がビクリと揺れた。
指の腹が刻印を擦られるたびに、熱がじわじわと広がっていく。
抑えているのに、奥から何かがにじみ出てくるような感覚。
(……触れるだけで、処置できるはずなのに)
伊吹は、顔を寄せてきた。
「……っ」
逃げる間もなく、唇が重なる。
今度は、さっきよりも深く。
伊吹は、すぐには離れない。
唇が触れたまま、低く囁く。
「キスが一番効くんだよね」
「……本当、ですか?」
「まあ、他でもできるけどさ。……でも、こっちのほうが好きなんだよね」
囁いたあと、伊吹の親指が、小夜の唇の端をそっと拭った。
戦闘の名残の血を、自分のものに塗り替えるみたいに。
かっと頬が紅潮する。
好き、という言葉が頭の中でうまく処理できなかった。
――やっぱり。
必要ない接触なのに、わざとやっているのだ。
伊吹はそんなふうに人をもてあそぶときがある。
胸の奥が、かすかに軋む。
唇の端に、鉄の味がした。
自分の血か、それとも今夜の戦闘の名残か。
甘さと錆が混ざった、奇妙な味だった。
その味が舌の上に残るたび、さっきの戦いの空気が蘇ってくる。
赤黒く腫れた刺し跡。
手首に残る、輪の跡。
「……逃げないでよ」
一瞬だけ、低い声がして至近距離で目が合う。
粘つくような蜂蜜色。
(……喰われる)
捕まえたものを見る目。
その奥に、いつもの余裕とは違う、ほのかな欲が揺れていた。
それを感じて――ぞくり、と震える。
夜の冷たさが、ふと遠のく。
胸の奥だけが、おかしいくらい激しく脈打っていた。
それなのに、離れられない。
指先が、わずかに強くなる。
――やがて、唇が離れる。
「はい、終わり」
いつもの軽さに戻る。
「ほら、もう平気でしょ?」
何もなかったみたいに。
小夜は上気した頬と唇を手で覆って、呆然と立ち尽くす。
怪我は治っていた。
鬼の治癒力のおかげだ。
――でも。
(――恋人でもないのに)
しかも、彼は鬼なのに。
ふしだらではないかと、冷静な自分が頭の隅で思う。
けれど、稀血を抑えるために必要なことだった。
それ以外の方法では、伊吹が納得してくれない。
そう、理屈では納得している。
なのに――
(どうして、こんなふうにされると――逃げられなくなるの)
触れられると鼓動が勝手に跳ねてしまう。
(……ただの、役目でしかないのに……)
どうしても、胸の中のわだかまりを捨てきれなかった。
雨気を含んだ夜風が、路地を抜けていく。
遠くで、また拍子木の音が響いていた。
夜は、まだ深い。
けれど小夜の脳裏には、崩れ落ちる鬼の手首に残っていた、輪の跡が焼きついて離れなかった。




