プロローグ
九年前、私は鬼に殺されかけた。
それから、家には帰っていない。
──あのとき好きになったひとは、本当にこのひとだったんだろうか。
彼は何事もなかったように目を細めて、
「おれだよ」
って言った。
――だから私は、
間違えて、好きになってしまった。
*
それは、ほんの些細な違和感だった。
――鬼の討伐を終えた帰り道。
封鬼寮の任務は、いつも夜に行われる。
人の目が減る時間に現れる鬼を祓うためだ。
その日も、小夜と伊吹は、ひとつの任務を終えたばかりだった。
帝都の表通りからわずかに外れた、ひと気のない裏路地。
石畳は、昼間の熱をすっかり失っていた。
白い編み上げブーツの底から、夜の冷たさがじんわりと伝わってくる。
夏の名残を含んだ夜気が、肌にまとわりついた。
遠くで、市電のかすかなベルが響いていた。
最終便が、まだ走っている時刻だった。
軒下のどこかで、秋を待つ虫が細く鳴いている。
それでも、この路地だけは、妙に静かだった。
まるで、ここだけ夜が深くなっているようだった。
小夜は立ち止まる。
戦闘の余韻が残る呼吸を、少しだけ整えたかった。
腰紐に下げていた結界札は、もう半分以上が消費されている。
「どうしたの、小夜ちゃん」
背後から、軽い声が降ってくる。
振り返るまでもない。
伊吹だった。
この男は、任務帰りだというのに、息ひとつ乱していない。
――鬼だから。
「……なんでもありません」
小夜は不満を隠しきれない硬い声で答え、ゆっくりと視線を向けた。
ガス灯の淡い光が、黒い封鬼寮の制服に身を包む伊吹の顔を、ぼんやりと照らしている。
黒髪黒目が普通のこの国で、伊吹の瞳はひどく異質だった。
甘い液体を溶かしたような、蜂蜜色。
黒いはずの髪も、月光の下では銀を帯びて見える。
年は二十一歳だと聞いている。
小夜より二歳年上だ。
彼を見るたびに、小夜は思う。
――綺麗だ、と。
けれど、その美しさは人間のものではない。
魔物めいていて、ひどく異質なのだ。
そして小夜は知っている。
伊吹はいつも微笑んでいるが、その目の奥はまったく笑っていないことを。
「……小夜ちゃんってさ、ほんと危ないよね」
「危ない……?」
「こんな美味しそうな匂いを振りまいて、俺のそばにいて。よく平気でいられるなぁって思う」
ぞくり、と背筋が冷えた。
伊吹は、鬼でありながら鬼と戦う異端の存在だ。
帝から任命された、単独行動を許された特別な鬼――特務封鬼師。
低級の鬼と違って、伊吹は食べずにいられる側の鬼だった。
それなのに、こういう言い方をされたときは、怖くなる。
封鬼寮に保護されてから、九年間。
伊吹は小夜のずっとそばにいた。
それでも、安心できないときがあった。
「ほらほら、そんなしかめ面はやめようね〜。その顔も可愛いけど」
そう言って、伊吹は馴れ馴れしく小夜に手を伸ばした。
長い指先が、小夜の眉間に触れる。
ひやりと冷たい。
(……鬼の体温だ)
分かっているのに、肌がびくりと反応してしまう。
「……やめて。必要ないときは、触らないで」
小夜は、伊吹の手を振り払った。
手のひらに、わずかに彼の体温が残る。
それが、なぜか落ち着かなかった。
小夜は伊吹の相棒として、任務に同行している。
それが、封鬼寮で与えられた役目だった。
「小夜ちゃん、冷たいなぁ〜。いいじゃん。減るもんじゃないし」
「減る、減らないの問題ではありません。私たちは、恋人同士でも何でもないでしょう」
「えー。つれないなぁ」
軽すぎる言葉と、近すぎる距離。
伊吹のその態度は、真面目な小夜にとって、相容れないものだった。
「稀血に誘われちゃうんだよね〜。ほら、俺も鬼だし。一応」
伊吹は、笑っている。
けれど、小夜は笑えなかった。
小夜の身に宿る稀血は、鬼を引き寄せる。
どんな鬼でも、極上の餌である彼女の血には抗えない。
目の前にいる、最上級の鬼でさえ、例外ではないのだった。
「ねえねえ、ちゅーしようよ。ちょっとだけでいいからさ」
「……お断りします」
小夜は反射的に後ずさった。
けれど、その前に伊吹の腕が腰に回る。
戯れのような仕草のはずなのに、逃げられない。
(この男、力が強すぎる……!)
相手は鬼だ。
小夜が力で敵うはずもなかった。
それでも伊吹の動きは、あくまで戯れのように軽い。
日常の延長で、少し悪ふざけをしているだけ。
そんな顔をしていた。
「そこまで余裕がないわけでは、ないでしょう?」
小夜は伊吹の胸板を、両手で押し留めた。
稀血には、暴走した鬼を鎮める力がある。
いちばん効くのは血だが、唇が触れるだけでも、鬼を落ち着かせることはできた。
任務中、どうしても必要になるときもある。
だからこそ、小夜は知っていた。
伊吹が今、そこまで切羽詰まっていないことを。
「……俺、いまにも倒れて死にそうなの。だから、小夜ちゃん。ちゅーして」
小夜は拳を握りしめ、わなわなと震えた。
(嘘くさすぎる……!)
先ほどまでスキップでもしそうなほど元気だったではないか。
急に危篤状態になるな、と言いたい。
「ね? ……いいでしょ?」
さらりと甘い顔で言われる。
「ちょっとだけ。すぐ終わるから」
「や、やだって……」
気づけば、ますます腰を引き寄せられていた。
近い。
隊服の生地越しに、伊吹の体温が伝わってくる。
指先は冷たいくせに、胸の奥は人間よりも熱い。
その矛盾した温度が、肌にじわりと染みた。
(……近すぎる)
そのまま顔を覗き込まれて、小夜は思わず息を止めた。
かすかに、甘い匂いがする。
血でも汗でもない、人間には出せない甘さ。
花のようでいて、もっと深いところから来るような。
鬼特有の、底のない香りだった。
吸い込むと、頭の奥がぼんやりしてくる。
「ダメだよ。小夜ちゃん――もう俺のものじゃん」
伊吹が、ほんの少しだけ目を細めた。
甘く、誘うように。
――獲物を見るみたいに。
長い指が、首筋の刻印をなぞる。
所有印を確かめるみたいに、ゆっくりと。
「覚えてるでしょ。ちゃんと交換したじゃん、血」
「それは……っ」
ふいに、唇が重ねられた。
柔らかい。
冷たいと思っていたのに、触れた瞬間だけ、驚くほど熱かった。
鬼の体温は、人間と違う。
外側は冷たいのに、奥から、別の熱が滲み出してくる。
首筋にある刻印を通じて、その熱が流れ込んできた。
刻印を覆う伊吹の指先が、ほんのわずかに、震えていた気がした。
気のせいかもしれなかった。
それが自分の役目の一部だと、分かっている。
鬼である伊吹を落ち着かせること。
暴走させないこと。
それでも――
(必要ないときは、口づけなんてしたくないのに……)
ちゅ、と軽くついばまれて、ようやく、唇が離れる。
小夜の顔が、かっと熱くなった。
「こんなので赤くなっちゃって、か・わ・い・い〜」
「強調して言わないで……!」
伊吹は、くすくす笑う。
人懐っこい笑みだった。
気づけば相手の懐に入り込んでいるような、甘くて柔らかい笑み。
「そんな顔してるとさ、誘ってるみたいだよ?」
「……は?」
「ほら、その無防備な感じ」
伊吹の口の端が、上がる。
「俺じゃなかったら危ないよ? いや、俺が一番危ないかー。鬼だし」
アッハッハー、と伊吹は笑っている。
けれど、小夜はまったく笑えなかった。
(あのときの血が、原因なのに……)
まさか、伊吹と血を交換したことで、こんな体質になるとは思っていなかった。
伊吹も予想外だったみたいだけれど――。
(……あれ?)
そのときだった。
胸の奥に、ふと、何かが引っかかった。
伊吹の顔が、近い。
近すぎるほど、近い。
だから、見えてしまった。
左目の下にある、小さなほくろ。
(……左目の、下)
小夜は、動けなくなった。
鬼は、成長すると容貌が変わることがある。
幼い頃は黒かった瞳が、蜂蜜色になることも。
漆黒だった髪が、銀墨を帯びることも。
だから、多少の違いなら不思議ではない。
伊吹だって、幼い頃とはずいぶん変わった。
あの頃より背が伸びて、声も低くなって。
人間離れした美しさを持つ、成鬼になった。
それなのに。
(でも……)
記憶の中の少年は。
小夜を助けてくれた、あの鬼の少年は――。
――右目の下に、ほくろがあったような気がした。
小夜は思わず、伊吹の顔をじっと見つめてしまう。
目の前の伊吹には、左目の下にほくろがある。
小夜から見て、顔の右側に。
伊吹が、少しだけ首を傾げた。
「なに? そんな見つめられると、照れるんだけど」
そう言いながら、さらに距離を詰めてくる。
小夜は視線を逃がそうとした。
けれど、その前に、顎をそっと持ち上げられる。
「見たければ、もっと見ていいよ?」
低い声だった。
冗談めかしているのに、目は笑っていない。
(……っ)
強制的に、視線が固定される。
「いえ……」
言葉が、続かない。
見慣れているはずの顔だった。
九年間、ずっとそばにあった顔。
それなのに、至近距離で見せられると、余計に目を逸らせなかった。
長いまつ毛。
通った鼻筋。
薄く笑う唇。
そして、左目の下のほくろ。
(……こっち、だったっけ)
頬の小さなほくろ。
昔から、あった。
あったはずだ。
ずっと見てきたから、知っている。
知っている、はずなのに。
(違う……気がする)
左か、右か。
それだけの違いだ。
けれど、記憶の中のあの少年は――。
(反対、だったはず……)
そして、少年の双子の鬼は。
反対側に、ほくろがあったはず。
そこまで考えた瞬間、心臓が、どくん、と強く鳴った。
(……違う、よね?)
別人のはずがない。
初恋だった。
血を交わした。
将来を誓い合った。
あの少年が、目の前の伊吹ではないかもしれないなんて。
(そんなこと、あるはずがない)
記憶を辿ろうとするほど、すべてが曖昧になっていく。
あのとき、誰が小夜の手を取ったのか。
誰が血を差し出したのか。
誰が「おれだよ」と言ったのか。
(記憶の中の彼は……どっち?)
間違えていないはずだった。
だって、伊吹は笑って言ったのだ。
――おれだよ、と。
小夜に嘘を吐く理由なんて、ない。
そう思いたいのに、身体が冷えていく。
「小夜ちゃん?」
すぐ近くで、声がした。
はっとして、顔を上げる。
伊吹が、目の前にいた。
「どうしたの」
優しい声だった。
小夜の頬に、伊吹の手が触れる。
指先は、ひやりとしている。
なのに、頬だけが燃えるように熱い。
蜂蜜色の瞳が、妙に深い。
その奥に嘘があるとは、思いたくなかった。
「……なんでも、ありません」
「ほんと?」
「はい」
短く答える。
それ以上、考えたくなかった。
(全部、きっと……気のせいだ)
彼は、あのときの少年。
小夜の大切なひと。
そう思わなければ、すべてが崩れてしまうと思った。
小夜は、わずかな違和感に蓋をする。
侵食していく伊吹の甘さが、本物なのか偽物なのか。
もう、分からなくなっていた。




