表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/3

プロローグ

 九年前、私は鬼に殺されかけた。

 それから、家には帰っていない。


 ──あのとき好きになったひとは、本当にこのひとだったんだろうか。

 

 彼は何事もなかったように目を細めて、


「おれだよ」


 って言った。

 ――だから私は、

 間違えて、好きになってしまった。



 それは、ほんの些細な違和感だった。


 ――鬼の討伐を終えた帰り道。


 封鬼寮の任務は、いつも夜に行われる。

 人の目が減る時間に現れる鬼を祓うためだ。

 その日も、小夜さや伊吹いぶきは、ひとつの任務を終えたばかりだった。

 帝都の表通りからわずかに外れた、ひと気のない裏路地。

 石畳は、昼間の熱をすっかり失っていた。

 白い編み上げブーツの底から、夜の冷たさがじんわりと伝わってくる。

 夏の名残を含んだ夜気が、肌にまとわりついた。

 遠くで、市電のかすかなベルが響いていた。

 最終便が、まだ走っている時刻だった。

 軒下のどこかで、秋を待つ虫が細く鳴いている。

 それでも、この路地だけは、妙に静かだった。

 まるで、ここだけ夜が深くなっているようだった。

 小夜は立ち止まる。

 戦闘の余韻が残る呼吸を、少しだけ整えたかった。

 腰紐に下げていた結界札は、もう半分以上が消費されている。


「どうしたの、小夜ちゃん」


 背後から、軽い声が降ってくる。

 振り返るまでもない。

 伊吹だった。

 この男は、任務帰りだというのに、息ひとつ乱していない。


 ――鬼だから。


「……なんでもありません」


 小夜は不満を隠しきれない硬い声で答え、ゆっくりと視線を向けた。

 ガス灯の淡い光が、黒い封鬼寮の制服に身を包む伊吹の顔を、ぼんやりと照らしている。

 黒髪黒目が普通のこの国で、伊吹の瞳はひどく異質だった。

 甘い液体を溶かしたような、蜂蜜色。

 黒いはずの髪も、月光の下では銀を帯びて見える。

 年は二十一歳だと聞いている。

 小夜より二歳年上だ。

 彼を見るたびに、小夜は思う。


 ――綺麗だ、と。


 けれど、その美しさは人間のものではない。

 魔物めいていて、ひどく異質なのだ。

 そして小夜は知っている。

 伊吹はいつも微笑んでいるが、その目の奥はまったく笑っていないことを。


「……小夜ちゃんってさ、ほんと危ないよね」


「危ない……?」


「こんな美味しそうな匂いを振りまいて、俺のそばにいて。よく平気でいられるなぁって思う」


 ぞくり、と背筋が冷えた。

 伊吹は、鬼でありながら鬼と戦う異端の存在だ。

 帝から任命された、単独行動を許された特別な鬼――特務封鬼師。

 低級の鬼と違って、伊吹は食べずにいられる側の鬼だった。

 それなのに、こういう言い方をされたときは、怖くなる。


 封鬼寮に保護されてから、九年間。

 伊吹は小夜のずっとそばにいた。

 それでも、安心できないときがあった。


「ほらほら、そんなしかめ面はやめようね〜。その顔も可愛いけど」


 そう言って、伊吹は馴れ馴れしく小夜に手を伸ばした。

 長い指先が、小夜の眉間に触れる。

 ひやりと冷たい。


(……鬼の体温だ)


 分かっているのに、肌がびくりと反応してしまう。


「……やめて。必要ないときは、触らないで」


 小夜は、伊吹の手を振り払った。

 手のひらに、わずかに彼の体温が残る。

 それが、なぜか落ち着かなかった。

 小夜は伊吹の相棒として、任務に同行している。

 それが、封鬼寮で与えられた役目だった。


「小夜ちゃん、冷たいなぁ〜。いいじゃん。減るもんじゃないし」


「減る、減らないの問題ではありません。私たちは、恋人同士でも何でもないでしょう」


「えー。つれないなぁ」


 軽すぎる言葉と、近すぎる距離。

 伊吹のその態度は、真面目な小夜にとって、相容れないものだった。


「稀血に誘われちゃうんだよね〜。ほら、俺も鬼だし。一応」


 伊吹は、笑っている。

 けれど、小夜は笑えなかった。

 小夜の身に宿る稀血は、鬼を引き寄せる。

 どんな鬼でも、極上の餌である彼女の血には抗えない。

 目の前にいる、最上級の鬼でさえ、例外ではないのだった。


「ねえねえ、ちゅーしようよ。ちょっとだけでいいからさ」


「……お断りします」


 小夜は反射的に後ずさった。

 けれど、その前に伊吹の腕が腰に回る。

 戯れのような仕草のはずなのに、逃げられない。


(この男、力が強すぎる……!)


 相手は鬼だ。

 小夜が力で敵うはずもなかった。

 それでも伊吹の動きは、あくまで戯れのように軽い。

 日常の延長で、少し悪ふざけをしているだけ。

 そんな顔をしていた。


「そこまで余裕がないわけでは、ないでしょう?」


 小夜は伊吹の胸板を、両手で押し留めた。

 稀血には、暴走した鬼を鎮める力がある。

 いちばん効くのは血だが、唇が触れるだけでも、鬼を落ち着かせることはできた。

 任務中、どうしても必要になるときもある。

 だからこそ、小夜は知っていた。

 伊吹が今、そこまで切羽詰まっていないことを。


「……俺、いまにも倒れて死にそうなの。だから、小夜ちゃん。ちゅーして」


 小夜は拳を握りしめ、わなわなと震えた。


(嘘くさすぎる……!)


 先ほどまでスキップでもしそうなほど元気だったではないか。

 急に危篤状態になるな、と言いたい。


「ね? ……いいでしょ?」


 さらりと甘い顔で言われる。


「ちょっとだけ。すぐ終わるから」


「や、やだって……」


 気づけば、ますます腰を引き寄せられていた。

 近い。

 隊服の生地越しに、伊吹の体温が伝わってくる。

 指先は冷たいくせに、胸の奥は人間よりも熱い。

 その矛盾した温度が、肌にじわりと染みた。


(……近すぎる)


 そのまま顔を覗き込まれて、小夜は思わず息を止めた。

 かすかに、甘い匂いがする。

 血でも汗でもない、人間には出せない甘さ。

 花のようでいて、もっと深いところから来るような。

 鬼特有の、底のない香りだった。

 吸い込むと、頭の奥がぼんやりしてくる。


「ダメだよ。小夜ちゃん――もう俺のものじゃん」


 伊吹が、ほんの少しだけ目を細めた。

 甘く、誘うように。


 ――獲物を見るみたいに。


 長い指が、首筋の刻印をなぞる。

 所有印を確かめるみたいに、ゆっくりと。


「覚えてるでしょ。ちゃんと交換したじゃん、血」


「それは……っ」


 ふいに、唇が重ねられた。

 柔らかい。

 冷たいと思っていたのに、触れた瞬間だけ、驚くほど熱かった。

 鬼の体温は、人間と違う。

 外側は冷たいのに、奥から、別の熱が滲み出してくる。

 首筋にある刻印を通じて、その熱が流れ込んできた。

 刻印を覆う伊吹の指先が、ほんのわずかに、震えていた気がした。

 気のせいかもしれなかった。

 それが自分の役目の一部だと、分かっている。

 鬼である伊吹を落ち着かせること。

 暴走させないこと。

 それでも――


(必要ないときは、口づけなんてしたくないのに……)


 ちゅ、と軽くついばまれて、ようやく、唇が離れる。

 小夜の顔が、かっと熱くなった。


「こんなので赤くなっちゃって、か・わ・い・い〜」


「強調して言わないで……!」


 伊吹は、くすくす笑う。

 人懐っこい笑みだった。

 気づけば相手の懐に入り込んでいるような、甘くて柔らかい笑み。


「そんな顔してるとさ、誘ってるみたいだよ?」


「……は?」


「ほら、その無防備な感じ」


 伊吹の口の端が、上がる。


「俺じゃなかったら危ないよ? いや、俺が一番危ないかー。鬼だし」


 アッハッハー、と伊吹は笑っている。

 けれど、小夜はまったく笑えなかった。


(あのときの血が、原因なのに……)


 まさか、伊吹と血を交換したことで、こんな体質になるとは思っていなかった。

 伊吹も予想外だったみたいだけれど――。


(……あれ?)


 そのときだった。

 胸の奥に、ふと、何かが引っかかった。

 伊吹の顔が、近い。

 近すぎるほど、近い。

 だから、見えてしまった。

 左目の下にある、小さなほくろ。


(……左目の、下)


 小夜は、動けなくなった。

 鬼は、成長すると容貌が変わることがある。

 幼い頃は黒かった瞳が、蜂蜜色になることも。

 漆黒だった髪が、銀墨を帯びることも。

 だから、多少の違いなら不思議ではない。

 伊吹だって、幼い頃とはずいぶん変わった。

 あの頃より背が伸びて、声も低くなって。

 人間離れした美しさを持つ、成鬼になった。

 それなのに。


(でも……)


 記憶の中の少年は。

 小夜を助けてくれた、あの鬼の少年は――。


 ――右目の下に、ほくろがあったような気がした。


 小夜は思わず、伊吹の顔をじっと見つめてしまう。

 目の前の伊吹には、左目の下にほくろがある。

 小夜から見て、顔の右側に。

 伊吹が、少しだけ首を傾げた。


「なに? そんな見つめられると、照れるんだけど」


 そう言いながら、さらに距離を詰めてくる。

 小夜は視線を逃がそうとした。

 けれど、その前に、顎をそっと持ち上げられる。


「見たければ、もっと見ていいよ?」


 低い声だった。

 冗談めかしているのに、目は笑っていない。


(……っ)


 強制的に、視線が固定される。


「いえ……」


 言葉が、続かない。

 見慣れているはずの顔だった。

 九年間、ずっとそばにあった顔。

 それなのに、至近距離で見せられると、余計に目を逸らせなかった。

 長いまつ毛。

 通った鼻筋。

 薄く笑う唇。

 そして、左目の下のほくろ。


(……こっち、だったっけ)


 頬の小さなほくろ。

 昔から、あった。

 あったはずだ。

 ずっと見てきたから、知っている。

 知っている、はずなのに。


(違う……気がする)


 左か、右か。

 それだけの違いだ。

 けれど、記憶の中のあの少年は――。


(反対、だったはず……)


 そして、少年の双子の鬼は。

 反対側に、ほくろがあったはず。

 そこまで考えた瞬間、心臓が、どくん、と強く鳴った。


(……違う、よね?)


 別人のはずがない。

 初恋だった。

 血を交わした。

 将来を誓い合った。

 あの少年が、目の前の伊吹ではないかもしれないなんて。


(そんなこと、あるはずがない)


 記憶を辿ろうとするほど、すべてが曖昧になっていく。

 あのとき、誰が小夜の手を取ったのか。

 誰が血を差し出したのか。

 誰が「おれだよ」と言ったのか。


(記憶の中の彼は……どっち?)


 間違えていないはずだった。

 だって、伊吹は笑って言ったのだ。


 ――おれだよ、と。


 小夜に嘘を吐く理由なんて、ない。

 そう思いたいのに、身体が冷えていく。


「小夜ちゃん?」


 すぐ近くで、声がした。

 はっとして、顔を上げる。

 伊吹が、目の前にいた。


「どうしたの」


 優しい声だった。

 小夜の頬に、伊吹の手が触れる。

 指先は、ひやりとしている。

 なのに、頬だけが燃えるように熱い。

 蜂蜜色の瞳が、妙に深い。

 その奥に嘘があるとは、思いたくなかった。


「……なんでも、ありません」


「ほんと?」


「はい」


 短く答える。

 それ以上、考えたくなかった。


(全部、きっと……気のせいだ)


 彼は、あのときの少年。

 小夜の大切なひと。

 そう思わなければ、すべてが崩れてしまうと思った。

 小夜は、わずかな違和感に蓋をする。

 侵食していく伊吹の甘さが、本物なのか偽物なのか。

 もう、分からなくなっていた。




 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ