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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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エピローグ 梅雨明けの庭

 結界鎮めの儀から、二週間が過ぎた。

 封鬼寮は臨時体制のまま慌ただしく、鬼子保護記録の運用や封じの結界具の手配に追われていた。

 それでも、帝都を覆っていた雨雲は、少しずつ薄くなっていた。

 梅雨明けは、もうすぐそこまで来ている。

 その日、小夜の母が封鬼寮を訪れた。

 封鬼寮の門前に馬車が止まった時、小夜は思わず背筋を伸ばした。

 門の向こうには、雨上がりの庭が広がっている。青葉にはまだ雫が残り、石畳は淡い光を受けて濡れたように光っていた。空には雲が残っているが、雨の匂いはもう薄い。

 馬車の扉が開く。

 降りてきた母は、以前と同じように穏やかな顔をしていた。

 けれど小夜には、少しだけ違って見えた。

 遠く離れた家で待っている母ではなく、今、小夜のいる場所まで来てくれたのだ。

 小夜が選んだ場所を、自分の目で見ようとしてくれている。


「お母さん」


 声をかけると、母――沙代は小夜を見て、柔らかく微笑んだ。


「小夜」


「遠いところまで、ありがとう」


「あなたが招いてくれたんでしょう」


 沙代は少しだけ目を細めた。


「来られてよかった」


 その一言だけで、小夜は胸がいっぱいになった。

 春頃に、小夜は母へ手紙を書いた。

 帝都へ来てほしい、と。

 自分が今、どういう場所で生きているのかを見てほしい、と。

 あの時はまだ、手紙を書くだけで精一杯だった。

 けれど今、母は本当にここにいる。

 封鬼寮の門の前に立ち、小夜のいる場所を見ている。


「ここが、封鬼寮だよ」


 小夜は少し緊張しながら言った。


「怖い場所ではないの。最初は……少し怖かったけど」


「今は?」


「――今は、私の居場所」


 言ってから、自分でも驚いた。

 自然に出た言葉だった。

 居場所。

 かつては檻のように思えた場所を、今はそう呼べる。

 沙代は小夜を見つめた。

 そして、静かに頷いた。


「そう」


 ただそれだけだった。

 けれど、その声にはたくさんのものが含まれていた。

 寂しさ。

 安堵。

 小夜が自分の知らない場所で生きてきたことへの戸惑い。

 そして、それでも生きていてくれたことへの感謝。

 小夜は母を連れて、封鬼寮の庭を歩き始めた。

 庭の青葉は、雨を吸って濃く色づいている。軒先から落ちる雫が、時折、石の上で小さな音を立てた。遠くの訓練場からは、隊士たちの掛け声が聞こえてくる。

 廊下の方では、事務方が書類を抱えて走っていた。


「鬼子保護記録、二冊目も埋まりそうです!」


「榊代理に確認を取ってください!」


「結界布の在庫、また足りません!」


 小夜は思わず足を止めた。

 沙代がそちらを見る。


「忙しそうね」


「うん。最近、特に」


 小夜は少しだけ苦笑した。


「でも、前より少し良い忙しさだと思う」


「良い忙しさ?」


「鬼子の名前を聞くための忙しさなの」


 沙代はすぐには何も言わなかった。

 けれど、小夜の言葉をきちんと受け止めるように、小さく頷いた。

 途中、志乃と白瀬にも会った。

 志乃は小夜の母を前にして少しだけ緊張した様子で、「朝霧さんは無理をするので、見つけたら注意しています」と真面目な顔で言った。白瀬もまた、「今日は診察ではありません。お母様とゆっくり過ごしてください」とだけ告げた。

 沙代は二人に丁寧に頭を下げたあと、小夜を見て、少し安心したように微笑んだ。


「気にかけてくれる人たちが、いるのね」


「うん」


「……よかった」


 沙代の声は静かだった。

 その静けさの奥に、長い間の心配が見えた。

 白瀬や志乃と別れ、再び庭へ出る。

 ふたりで、しばらく黙って歩いていた。

 小夜は、母にこの場所を見せたかった。

 けれど、母に心配をかけたくないとも思っていた。

 封鬼寮は鬼を狩る場所だ。

 結界に囲まれ、刀を持つ隊士たちが行き交い、鬼子の記録が積まれている。

 普通の母なら、娘がそんな場所で暮らしていることに怯えるかもしれない。

 けれど沙代は、怖がるより先に、小夜を気遣う人たちがいることに安堵した。

 それが、小夜には少し泣きたいほど嬉しかった。


「伊吹さんは?」


 沙代がふと尋ねる。

 小夜は瞬きをした。


「今日は……お母さんと二人で過ごした方がいいからって、少し離れていると言っていたの」


「そう」


 沙代はどこか微笑ましそうに言った。


「気にしなくても良いのに。伊吹さんにも挨拶したかったし」


 これまで帰郷するときは伊吹も同伴でないと許可がおりなかったので、母と伊吹は面識がある。


「本人は、今日は邪魔しないって言ってた」


「邪魔?」


「私の大事な時間だから、って」


 そう言うと、沙代は目を細めた。


「相変わらず優しいわね」


 それに素直に同意していいものかわからず視線を泳がせたが、やっぱり優しいかも? と思い直す。


「……うん」


 少し照れくさくて、小夜は視線を落とした。

 伊吹は今ごろ、どこか近くにはいるのだろう。

 完全に離れているとは思えない。

 けれど、母との時間を邪魔しないように、少しだけ距離を取ってくれているのだろう。

 それが伊吹なりの配慮なのだと、小夜には分かっていた。

 庭の奥へ進むと、梅の木があった。

 今は花の季節ではない。

 枝には青い葉が茂り、雨上がりの光を受けて揺れている。

 小夜は母に説明しようとした。


「ここは、春になると梅が――」


 そこで、母の足が止まった。

 小夜も立ち止まる。

 沙代は、庭の向こうを見ていた。

 本館の廊下から、一人の男が歩いてくる。

 榊恒一だった。

 冷泉清成が長官職を解かれた後、封鬼寮は臨時体制に置かれた。その間、長官代理を任されたのが榊だった。

 今の榊は、長官服ではない。

 けれど封鬼寮の廊下を歩く姿は、以前と変わらず背筋が伸びていた。

 小夜は母に紹介しようと口を開きかける。


「お母さん、こちらが――」


 けれど、その前に沙代が小さく息を呑んだ。

 榊もまた、足を止めていた。

 庭に、静かな空気が落ちる。

 雨上がりの青葉が風に揺れ、雫が一つ、石の上へ落ちた。

 小夜には、その沈黙の意味が分からなかった。

 沙代は榊をじっと見ていた。

 榊もまた、沙代から目を離せずにいた。

 まるで、長い時間を隔ててしまった人を見つめるように。


「……恒一さま」


 母の声が、ほんの少しだけ震えた。

 小夜は瞬きをした。


「お母さん……榊長官を知っているの?」


 榊は答えなかった。

 沙代も、すぐには答えなかった。

 ただ二人は、雨上がりの庭で向かい合っていた。

 一瞬だけ、そこに梅の季節の記憶が戻ったような気がした。

 小夜の知らない春。

 小夜の知らない若い母。

 小夜の知らない榊。

 その気配だけが、青葉の奥からふっと立ち上がった。


「……沙代」


 榊がようやく名を呼んだ。

 その声を聞いた瞬間、小夜は小さな違和感を覚えた。

 榊が母の名を呼ぶ声は、いつものものと少し違っていた。

 封鬼寮の隊士に指示を出す声でも、長官代理として場を締める声でもない。

 もっと遠い場所に置いてきたものへ、そっと触れるような声だった。

 沙代は静かに頭を下げた。


「お久しぶりです。恒一さま」


「……ああ」


 榊は短く答えた。

 それきり、また言葉が途切れる。

 小夜は二人を見比べた。


「……本当に、知り合いなの?」


 母は少しだけ困ったように微笑んだ。


「昔の知り合いよ」


「昔の……」


 小夜は榊を見る。

 榊は目を伏せていた。

 その表情は、いつもよりずっと遠くにある。

 小夜がさらに尋ねようとした時、背後から聞き慣れた声がした。


「へえ」


 振り返ると、伊吹が庭木のそばに立っていた。

 いつからそこにいたのか分からない。

 黒に近い紺の着物に薄い羽織を羽織り、いつものように軽く笑っている。けれど、目だけは少しも笑っていなかった。


「伊吹」


「ごめん。邪魔しないつもりだったんだけど、なんか面白そうな空気だったから」


「面白そうって」


 小夜が咎めると、伊吹は肩をすくめた。


「いや。小夜ちゃんのお母さん、榊と知り合いなんだなって」


「そうみたい」


「あー……小夜ちゃん、ほんとそういうところ鈍いよね」


「何が?」


「さあ」


 伊吹はそれ以上言わなかった。

 けれど、その視線は榊と沙代の間に漂うものを見ているようだった。

 小夜には分からない。

 分からないが、何かがある。

 それだけは、さすがに感じ取れた。

 沙代は榊へ向き直る。


「小夜がお世話になりました」


 榊はわずかに眉を動かした。


「……私は」


 何かを言いかけて、言葉を止める。

 世話をした。

 守った。

 閉じ込めた。

 傷つけた。

 そのどれもが事実で、どれか一つだけを選ぶことはできない。

 小夜には、榊がそう考えているように見えた。

 やがて榊は、低く言った。


「守りきれたとは、言えない」


 沙代は静かに首を横に振った。


「それでも、この子は生きています」


 その言葉に、榊は目を伏せた。

 小夜は胸が詰まるのを感じた。

 母は、すべてを知っているわけではない。

 封鬼寮で起きたことも、小夜の血がどう扱われたかも、御所のことも、きっと詳しくは知らない。

 けれど母は、小夜が生きてここに立っていることを見ていた。

 その答えだけを、榊へ差し出した。

 責めるのでもなく。

 許すのでもなく。

 ただ、生きていると言った。

 榊は、長い間その言葉を受け止めていた。

 沙代は少しだけ微笑む。


「……お変わりありませんね」


 榊は沙代を見る。


「――君は、変わった」


「母になりましたから」


 穏やかな声だった。

 けれどその一言は、榊の胸へ深く刺さったように見えた。

 榊はしばらく何も言わなかった。


「……沙代、滞在中に少し時間をくれないか? 聞きたいことがある。ずっと気になっていたことなんだ」


 榊の言葉に、沙代は少し目を見張り、複雑な表情で微笑んだ。


「……わかりました」


 小夜はその横顔を見て、ますます分からなくなる。

 母と榊の間にあるものは何なのか。

 ただの昔の知り合いにしては、あまりにも静かで、重い。

 けれど、今ここで踏み込んでいいものではないことだけは分かった。

 伊吹が小夜の隣へ来る。

 小夜にだけ聞こえる声で、ぽつりと言った。


「小夜ちゃんの周り、秘密多くない?」


「伊吹に言われたくない」


「俺は、小夜ちゃんにはだいたい隠してないよ」


「だいたい、ですか」


「言ったら怒られそうなことは、少しある」


「それは隠しているのでは?」


「そうとも言う」


 小夜が呆れて見上げると、伊吹は目を細めた。

 けれど、その目はまだ榊と母の方を見ていた。

 しかし、沙代がふとこちらを見る。


「小夜?」


「何でもない」


 即答すると、伊吹が隣で小さく笑った。

 小夜はもう一度、庭を見た。

 雨上がりの封鬼寮。

 青葉。

 石畳。

 廊下を走る隊士たち。

 記録を抱えた事務方。

 廊下の先では白瀬が記録簿を抱えて歩き、訓練場の方からは志乃の声も聞こえてくる。

 ここは、かつて小夜が怖いと思った場所だ。

 血を調べられ、鬼の気配に怯え、自分が何者なのか分からなくなった場所。

 けれど今は、母に見せたいと思えた場所だった。


「お母さん」


 小夜は言った。


「なに?」


「ここが、今の私のいる場所なの」


 沙代は庭を見渡した。

 それから、小夜を見る。


「ええ」


 静かな声だった。


「見られてよかった」


 小夜は胸が熱くなった。

 知らない過去は、まだある。

 母と榊の間に何があったのか。

 なぜ母は榊を「恒一さま」と呼んだのか。

 榊が母の名を呼ぶ声が、なぜあんなに違って聞こえたのか。

 分からないことは、まだたくさんある。

 けれど今は、母がここにいる。

 小夜が生きている場所を見てくれた。

 それだけで、十分な気がした。

 沙代が小夜の髪にそっと触れる。


「少し、背が伸びたかしら」


「そうかな」


「ええ。前より、まっすぐ立っているように見える」


 小夜は目を伏せた。

 風が青葉を揺らす。

 雫が光を受けて、小さくきらめいた。

 伊吹が隣で、そっと小夜の指先に触れた。

 母の前だからか、すぐには握らない。

 ただ、触れるだけ。

 ここにいると知らせるように。

 小夜はその手を見て、少しだけ笑った。


 その時だった。

 伊吹の指が、ふっと止まった。

 小夜が見上げると、伊吹は門の方を見ていた。

 いつもの薄い笑みが、消えている。

 

「伊吹?」

 

「……ん。何でもない」

 

 伊吹はすぐに笑い直した。

 けれど小夜も、遅れて気づいた。

 風の中に、かすかな気配が混じっている。

 冷たくて、静かな気配。

 伊吹の鬼気と、よく似た――けれど、もっと遠くて、もっと静かな。

 小夜は門の向こうを見た。

 雨上がりの街路には、誰もいない。

 ただ、遠ざかっていく気配の名残だけが、薄く漂っていた。

 

(……気のせい?)

 

 首筋の刻印は、静かなままだった。

 鈴の音でもない。

 鬼の飢えでもない。

 ただ、懐かしいような、切ないような、名前をつけられない気配だった。

 

「小夜ちゃん」

 

 伊吹が、小夜の指先を軽く握った。

 

「今日は、お母さんの日でしょ」

 

「……はい」

 

 小夜は頷いて、視線を庭へ戻した。

 伊吹はもう、門の方を見ていなかった。

 けれど、繋いだ指先には、いつもより少しだけ力がこもっていた。

 封鬼寮の庭には、雨上がりの匂いが満ちている。

 梅雨明けは、もうすぐそこまで来ていた。





 

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。


第二部はここで一区切りとなりますが、番外編や第三部も執筆中です。

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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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