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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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番外編 白い檻の傷跡

かなりヤンデレ色の強い番外編になっています。

ヤンデレが苦手な方は無理せず、読み飛ばしていただいて大丈夫です。

 澪宮が斎臣と出会ったのは、十の春だった。

 その年の桜は、御所の内廷にも静かに咲いていた。外の通りの賑わいは高い塀と幾重もの結界に隔てられ、ここまで届く頃には遠い夢のように薄まっている。

 澪宮は、御簾の中に座っていた。

 幼い帝は、白い衣をまとい、膝の上で小さな手を重ねている。黒い髪はまだ柔らかく、肩のあたりでまっすぐに落ちていた。顔立ちは人形のように整っていたが、その瞳はあまりに静かで、子どもらしい表情がない。

 斎臣は、御簾の外で深く頭を垂れた。


「鷹司斎臣にございます。本日より、陛下のおそばにてお仕えいたします」


 十八になったばかりの斎臣は、すでに御所の作法を身につけていた。

 声は静かに。

 視線は上げすぎず。

 主の前では、自分の心などないものとして振る舞う。

 けれど、その時の斎臣は、不敬にも思ってしまった。


 ――小さい。


 御簾の中の帝は、あまりに小さかった。

 国の中心に据えられ、帝都結界の核と呼ばれ、誰もが頭を垂れる存在であるはずなのに、そこに座っていたのは白い籠の中に置かれた小動物のような少女だった。

 触れれば壊れそうで。

 目を離せば、どこかへ消えてしまいそうで。

 けれど、逃げ方さえ知らない。


「顔を上げよ」


 澪宮が言った。

 幼い声だった。

 それなのに、言葉だけは帝のものだった。

 斎臣は静かに顔を上げる。

 御簾の向こうから、澪宮がじっとこちらを見ていた。


「そなたが、斎臣か」


「はい」


「朕のそばにいる者か」


「そのように命じられております」


「そうか」


 澪宮は少し考えるように瞬きをした。


「では、そなたはずっとそこにおれ」


 斎臣は静かに答えた。


「陛下がお望みであれば、私はおそばにおります」


 澪宮は斎臣を見つめたまま、ゆっくり頷いた。

 その時、斎臣はまだ知らなかった。

 この幼い帝のそばにいることが、自分の生涯を変えるのだと。

 この白い籠の中に、自分もまた足を踏み入れたのだと。

 年を経るにつれて、澪宮の美しさは少しずつ磨きがかかるようになっていった。

 御簾の外で季節が巡る。

 春には桜の花びらが庭に落ち、夏には御所の池に蓮が開き、秋には朱い葉が回廊を染め、冬には白い息が几帳の影で消えた。

 その間、澪宮は外を知らぬまま成長した。

 幼い頬の丸みは薄れ、黒い髪は長くなり、白い肌はいっそう透けるようになった。御簾越しに見る姿は、月光を含んだ人形のようで、触れることさえためらわれた。

 けれど斎臣は知っていた。

 その美しさの中に、ひどく危うい血が流れていることを。

 澪宮の血には、鬼が混じっている。

 それは御所の奥で隠された秘密だった。

 知る者は限られていた。御所陰陽局の一部。古い祭祀を司る者。そして、澪宮のそばに控える斎臣。

 初めは、ただ記録として知っていただけだった。

 帝の血は特別である。

 鬼の血を帯び、同時に帝都結界を支える。

 その危うさを隠し、守ることが、斎臣に与えられた役目だった。

 けれど、澪宮が十五を過ぎた頃、その血は静かな秘密では済まなくなった。


 ――ある夜、澪宮は倒れた。


 月のない晩だった。

 御簾の中で、澪宮は喉を押さえ、細い息をこぼしていた。黒い瞳の奥に、赤が滲んでいる。白い指先には、爪のようなものが現れかけていた。

 女官たちは怯え、医官は踏み込むことをためらった。

 斎臣だけが、御簾の中へ入った。


「陛下」


 澪宮は返事をしなかった。


『喉が渇く』


 そう言う代わりに、澪宮は自分の手を噛もうとしていた。

 斎臣はその手を止める。

 細い手首が、熱を持って震えていた。


「おやめください」


「……斎臣」


 澪宮の声はかすれていた。


「――喉が、痛い」


「すぐに鎮めます」


「水では、だめだ」


「……分かっております」


 分かっていた。

 澪宮が欲しているのは、水ではない。

 薬でもない。

 人の血だった。

 斎臣はしばらく澪宮を見下ろしていた。

 幼い頃から見てきた少女が、涙を浮かべて耐えている。

 帝として振る舞うことを教えられ、恐れることさえ許されず、誰にも自分の渇きを見せられない少女が、今だけはただ苦しんでいる。


 ――哀れだと思った。


 守らなければならないと思った。

 その時の斎臣の感情は、まだ忠義と呼べたのかもしれない。

 彼は懐から小刀を取り出し、自分の腕に刃を当てた。

 白い肌に赤が滲む。

 澪宮の瞳が揺れた。


「何を……っ」


「陛下。どうぞ、お飲みください」


「な……ならぬ!」


 澪宮は震える声で言った。


「斎臣の血を飲むなど……っ」


「陛下のこのようなお姿を、他の者には見せられません」


「だ、だが……」


「私ならば、決して口外いたしません」


 斎臣は膝をつき、傷をつけた腕を差し出した。


「陛下は、ただ私の腕をお取りください」


 澪宮は泣きそうな顔をした。

 それでも、喉の渇きは残酷だった。

 赤い雫が垂れそうになるのを見て、たまらなくなったのだろう。

 しばらくしてから、彼女は震える手で斎臣の腕を取った。

 おずおずと、やわらかな唇が傷口に触れる。

 小さな牙が、皮膚を破った。

 斎臣は痛みに息を詰めた。


「……っ」


 澪宮の髪が腕にかかる。

 細い喉が、血を飲み下すたびにわずかに動く。

 その姿は痛ましく、恐ろしく、そしてひどく官能めいていた。


 ――彼女のこの姿は、誰も知らない。


 御所の者たちは、帝を御簾の中の尊い存在として見る。

 けれど、彼女の渇きを知っているのは斎臣だけだった。

 この牙を受け止めるのも。

 人としての誇りを傷つけられ、罪悪感に涙をこぼしながら血を飲む澪宮の姿を見るのも。

 この夜から、斎臣の腕には傷が増え始めた。

 初めは浅いものだった。

 澪宮自身が恐れて、強く噛めなかったからだ。

 けれど、歳月が過ぎるにつれ、澪宮の鬼の血は深くなった。渇きは鋭くなり、斎臣の腕に残る傷も増えた。

 純粋な鬼であれば、つけた傷を癒すことができたかもしれない。

 けれど澪宮は鬼ではなく、鬼子だった。

 治す力は不完全で、噛み跡は斎臣の腕に薄く残った。

 白い狩衣の袖の下。

 誰にも見えない場所に、澪宮がつけた傷だけが重なっていく。

 斎臣は、それを消そうとは思わなかった。

 醜いとは思わなかった。

 むしろ、傷が消えないことに、密かな安堵さえ覚えた。

 澪宮が自分を求めた証。

 澪宮の渇きを自分が受け止めた証。

 御簾の中の帝が、誰よりも近いところで自分にすがった証。

 その頃から、忠義という言葉は、少しずつ形を変え始めていた。

 斎臣自身も、それに気づかないふりをしていた。

 夕霧が御所へ来たのは、澪宮が十八になる少し前の秋だった。

 その年の秋は、雨が多かった。

 庭の石はいつも湿っていて、御所の空気には冷えた土の匂いが混じっていた。澪宮は季節の移ろいを御簾の中から見るばかりで、外の雨がどんな感触をしているのかも知らなかった。

 夕霧は、御所に保護された鬼子だった。

 市井で暮らしていたが、鬼の血が目覚めかけたため、御所陰陽局に連れてこられた。身分は低く、礼儀も知らず、御所の空気にも怯えていなかった。

 澪宮とほぼ同じ年頃の少年だった。

 細い体つきで、髪は無造作に結ばれ、目にはいつも外の光のようなものがあった。

 彼は初めて澪宮に会った時、誰もが凍りつくようなことを言った。


「おまえが帝?」


 斎臣は、その場で夕霧を下がらせようとした。

 けれど澪宮が止めた。


「よい」


「陛下」


「よい。面白い」


 澪宮は御簾の向こうから夕霧を見ていた。


「そなたは、朕を怖がらぬのか」


「怖がった方がいいのか?」


「皆、怖がる」


「じゃあ、俺はやめとく」


 夕霧は笑った。

 その笑い方は、御所にはないものだった。

 遠慮も、畏れも、計算もない。

 澪宮はしばらく黙っていた。

 やがて、ぽつりと言った。


「変な者だな」


「おまえもな」


「不敬であるぞ」


「じゃあ、怒ればいい」


「怒り方を知らぬ」


「そうか」


 夕霧は御簾の前に腰を下ろした。

 斎臣が咎めようとしたが、澪宮が小さく首を横に振る。

 その日から、夕霧は時折、澪宮のもとへ呼ばれるようになった。

 名目は、鬼子としての状態を確認するため。

 帝の血との反応を見るため。

 御所陰陽局はそう説明した。

 けれど澪宮にとって、夕霧は初めての同類だった。

 同じように、人と鬼の間にいる者。

 同じように、牙が出る怖さを知る者。

 血を欲しがる自分を、化け物だと決めつけない者。

 そして、澪宮を帝ではなく、ひとりの少女として見る者。


「澪」


 ある日、夕霧は当然のようにそう呼んだ。

 その場にいた女官が顔色を変え、斎臣は息を止めた。

 澪宮だけが、不思議そうに瞬きをした。


「澪?」


「長いだろ。澪宮って」


「朕の名を勝手に縮めるな」


「嫌か」


 澪宮は少し考えた。


「嫌ではない」


「じゃあ、澪」


 夕霧は笑った。

 澪宮は、その呼び名を反芻するように目を細めた。

 斎臣は、二人のやり取りを少し離れたところで見ていた。

 手の中で、扇の骨がわずかに軋む。


 ――澪。


 その名を、斎臣は呼んだことがなかった。

 呼べるはずがなかった。

 彼にとって澪宮は、陛下だった。

 守るべき主。

 御簾の奥に隠すべき秘密。

 血を差し出す相手。

 けれど、夕霧は何も知らない顔で、近しい距離で、その名を呼ぶ。

 そして澪宮は、嫌ではないと言った。

 夕霧は外の話をした。

 市で売っている団子のこと。

 赤い飴のこと。

 雨上がりの土の匂い。

 裸足で走ると石が痛いこと。

 夜の川に映る灯りのこと。

 澪宮は、それを真剣に聞いた。


「団子とは、どのような味だ」


「甘いやつもあるし、しょっぱいやつもある」


「しょっぱい団子?」


「醤油塗って焼くんだよ。焦げるといい匂いがする」


「焦げたものを食べるのか」


「全部焦げたらまずいけど、少しならうまい」


「難しいな」


「食えば分かる」


 夕霧は簡単に言った。


「いつか食わせてやるよ」


 澪宮は目を伏せた。


「朕は、外へ出られぬ」


「じゃあ、連れ出せばいい」


「無理だ」


「なんで」


「朕は帝だから」


「帝って、不便だな」


 夕霧はあっさり言った。

 澪宮は、少しだけ笑った。

 それは、本当に小さな笑みだった。

 けれど斎臣は見逃さなかった。

 澪宮が夕霧の前で笑った。

 斎臣が何年もかけて守ってきた御簾の中で、澪宮が初めて外へ興味を向けるような顔をした。

 その瞬間、斎臣の胸に、静かな殺意が芽生えた。

 それは激しいものではなかった。

 怒鳴るようなものでも、刃を抜くようなものでもない。

 もっと冷たい。


 ――夕霧は危険だ。


 斎臣はすぐに、そう思った。

 帝の秘密を知っている。

 鬼子として不安定である。

 澪宮の御心を乱す。

 外への憧れを植えつける。

 御所の秩序に馴染まない。

 理由はいくらでもあった。

 どれも正しかった。

 けれど、本当の理由はひとつだった。

 澪宮が、自分以外の名を呼ぶのが許せなかった。

 夕霧が消えたのは、冬の初めだった。

 その夜、御所には細い雨が降っていた。

 夕霧は、いつものように澪宮のもとへ来ることになっていた。団子の話の続きをすると言っていた。今度は、雨の日に売れる甘酒の話をすると言っていた。

 けれど、夕霧は来なかった。

 澪宮は御簾の中で待っていた。

 夕暮れが過ぎ、夜になり、燈台の火が小さくなっても、夕霧は現れなかった。


「斎臣」


 澪宮が呼ぶ。


「……夕霧は」


「御所陰陽局にて、別の処置を受けております」


「処置?」


「鬼子として不安定な兆候がございました」


「夕霧は、危険ではない」


「陛下には、そう見えただけです」


 澪宮は斎臣を見た。


「……いつ戻る?」


「戻りません」


 斎臣は静かに答えた。


「陛下のおそばからは、遠ざけました」


 澪宮はしばらく動かなかった。


「……なぜ」


「危険だからです」


「朕にとってか?」


「はい」


「そなたにとってではなく?」


 斎臣は微笑んだ。


「私にとって危険なものは、陛下にとっても危険です」


 澪宮の顔が、少しずつ青ざめていった。

 その夜更け、澪宮は御簾を出た。

 誰にも告げず、白い衣の裾を引きずるようにして庭へ向かった。

 雨はやんでいたが、石は濡れていた。

 冬の空気が肌を刺す。

 澪宮は、夕霧がよく腰かけていた庭石のそばで立ち止まった。

 そこに、赤い紐が落ちていた。

 夕霧が髪を結ぶ時に使っていた紐だった。

 濡れた石の下に半分だけ隠れ、土に汚れている。

 澪宮はそれを拾い上げた。

 指先が震える。

 血の匂いがした。

 ほんの微かな、雨に流されかけた匂い。

 けれど澪宮には分かった。

 夕霧の匂いだった。


「斎臣」


 背後にいた男の名を、澪宮は呼んだ。

 斎臣は傘も差さずに立っていた。

 いつからそこにいたのか、分からなかった。


「……はい」


「……夕霧は、どこへ行った?」


「――遠くへ」


「……嘘だ」


 斎臣は答えなかった。

 澪宮は赤い紐を握りしめる。


「……そなたが、消したのか」


「危険を取り除きました」


「夕霧は危険ではなかった」


「陛下に外の話をしました」


「それが危険か?」


「陛下が外を望むようになります」


「……それは駄目なことなのか?」


「はい」


 澪宮は斎臣を見上げた。

 その瞳に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。

 斎臣はそれを見た。


 ――見てしまった。


 失敗した。

 陛下に気づかれた。

 夕霧を遠ざけるだけでは足りなかった。痕跡を残さないように処理したはずだった。赤い紐も、血の匂いも、澪宮の前に残すべきではなかった。

 失敗した。

 澪宮が自分を怖がっている。


 ――けれど、だから何だというのだろう。


 斎臣は静かに思った。

 澪宮は、もう斎臣から逃げられない。

 喉が渇けば、彼の血を求めるしかない。

 政務も、儀式も、御簾の外とのやり取りも、自分を通すしかない。

 女官たちは何も知らない。

 医官は踏み込めない。

 御所の者たちは、澪宮を尊びながら、同時に恐れている。

 誰が澪宮の渇きを受け止めるのか。

 誰が澪宮の血を隠すのか。

 誰が澪宮の鬼を、帝という名の内側に閉じ込めるのか。

 斎臣しかいない。

 澪宮が恐怖を覚えたとしても。

 夕霧のことで斎臣を憎んだとしても。

 彼女は、斎臣を呼ぶしかない。

 それは夕霧のように愛されるよりも、確かな繋がりのように思えた。

 澪宮はそれから数日、斎臣を避けた。

 御簾の中にいても、斎臣が近づくと顔を背けた。薬湯を差し出しても受け取らず、声をかけても短く返すだけだった。

 斎臣は何も言わなかった。

 ただ、いつも通りそばにいた。

 彼女に逃げ場など、最初からなかった。

 そして、澪宮の喉は、夜になると渇いた。

 夕霧が消えてから四日目の夜だった。

 澪宮は御簾の中で、膝を抱えていた。

 指先が震えている。

 黒い瞳の奥に赤が滲み、唇は血の気を失っていた。

 斎臣は御簾の外に控えていた。

 呼ばれてはいない。

 それでも、澪宮の呼吸の乱れは分かった。


「――陛下」


「来るな……!」


 澪宮の声は震えていた。


「……斎臣、来るな」


「御身に障ります」


「よい」


「よくありません」


 斎臣は御簾を上げ、中へ入った。

 澪宮は立ち上がろうとした。

 けれど足に力が入らず、よろめく。

 斎臣が伸ばした手を、澪宮は払った。


「朕に触るな……っ!」


 小さな手の力は弱かった。

 けれど確かな拒絶だった。

 斎臣は払われた手を見下ろし、静かに微笑む。


「お嫌ですか」


「……怖い」


 澪宮は正直に言った。


「そなたが、怖い……」


「存じております」


「ならば、離れよ!」


「離れれば、陛下はもっと苦しまれます」


「……構わぬ」


「私は、構います」


 斎臣は一歩近づいた。

 澪宮は後ずさる。

 背中が柱に触れた。

 逃げ場はそこで終わった。

 斎臣は、声を荒げなかった。

 優しい声で、静かに逃げ道を塞ぐ。


「では、誰の血をお召しになりますか」


「……」


「女官を呼びますか」


「やめよ」


「医官を呼びますか。御所陰陽局の者を呼びますか。陛下のこのお姿を、彼らに見せますか」


「やめよ!」


 澪宮の瞳が揺れる。

 喉が渇いている。


 ――血が欲しい。


 その欲求に抗おうとして、彼女は涙を浮かべていた。

 斎臣は袖をまくった。

 白い腕には、いくつもの噛み跡が残っている。

 古い傷。

 新しい傷。

 澪宮だけがつけた傷。

 斎臣は小刀で、その傷の近くを浅く切った。

 赤い血が滲む。

 澪宮の喉が、小さく鳴った。唾を飲み込む。


「……やめよ」


「澪宮さまが、私にすがったのです」


 澪宮の目から、涙がこぼれた。


「……言うなっ!」


「私の血でなければ、鎮まらないと」


「言うな……っ」


「私をお求めになった回数をお教えしましょうか?」


 澪宮は顔を赤らめて絶句している。

 斎臣は傷ついた腕を差し出した。


「どうぞ」


 澪宮は首を横に振った。

 けれど、視線は血から離れない。

 人としての心が斎臣を拒んでいる。

 鬼子としての本能が、斎臣の血を求めている。

 その狭間で、澪宮は泣いていた。


「……そなたが、怖い」


「……そうでしょうね」


「なのに」


 澪宮の声が崩れる。


「……朕は、喉が渇いてしまう」


「ええ」


「斎臣の血が、欲しい……どうしようもないほどに」


 斎臣の表情が、ほんの少しだけ歪んだ。

 それは哀れみだったのかもしれない。

 歓喜だったのかもしれない。

 あるいは、その両方だった。


「……お可哀想に」


 斎臣は優しく言った。


「ですが、大丈夫です」


 彼は腕をさらに近づけた。


「――私がいつも、おそばにおります」


 耐えられなくなった澪宮が、とうとう斎臣の腕を取った。

 震える指が、傷跡だらけの腕に触れる。

 斎臣は息を止めた。

 澪宮が唇を寄せる。

 涙が斎臣の腕に落ちた。

 温かい涙だった。

 次の瞬間、牙が皮膚に沈んだ。

 痛みが走る。

 斎臣は顔をしかめた。

 痛い。

 確かに痛い。

 けれど、その痛みが愛しかった。

 澪宮が自分を拒みながら、それでも自分の血を飲んでいる。

 怖いと言いながら、自分の腕にすがっている。

 夕霧の名を胸に抱いたまま、それでも斎臣の血で喉を潤している。


 ――なんと残酷で。


 ――なんと可哀想で。


 なんと美しいのだろう。

 斎臣の口元に、笑みが浮かんだ。

 それを隠しきれなかった。

 澪宮は血を飲みながら、涙をこぼしている。

 斎臣は、空いている手でその髪に触れそうになり、寸前で止めた。

 今触れれば、澪宮はさらに怯えるだろう。

 それでも、離れるつもりはなかった。

 血を飲み終えた澪宮は、力を失ったように斎臣の腕から口を離した。

 唇に赤が残っている。

 それを見て、斎臣の胸が静かに熱くなった。


「……斎臣」


「はい」


「……朕は、そなたが怖い」


 その言葉に胸を痛める資格はない、と思った。

 斎臣は目を伏せる。


「……ええ」


「けれど、そなたがいなければ苦しい……」


 澪宮は問う。


「そなたは、朕の忠臣なのか?」


 斎臣は少し考えた。

 そして、穏やかに答えた。


「一番の忠臣でございます」


 澪宮は泣きそうな顔で笑った。


「嘘つき」


 斎臣は微笑む。


「では、この感情を、何と呼びましょうか」


「知らぬ。知りたくもない」


「……私も、存じません」


 本当は知っていた。

 けれど、その名を口にすれば、決定的に関係が壊れる気がした。

 斎臣は腕の血を布で押さえる。

 澪宮は、その腕に残る傷跡を見ていた。


「……痛いか」


「少しだけです」


「消えぬのか」


「ええ」


「朕がつけたのか」


「はい」


 澪宮の顔が歪む。


「醜い」


 斎臣は、そこで初めて少しだけ表情を変えた。


「いいえ」


 澪宮は斎臣を見る。

 斎臣は自分の腕の傷を見下ろした。

 いくつもの噛み跡。

 白い肌に残った薄い赤。

 時間が経っても消えない、澪宮だけの痕。


「これは、私が貴女様のものだという証ですから」


 澪宮の瞳が揺れる。


「朕のもの?」


「はい」


「……そなたは、朕を閉じ込めるくせに」


「はい」


「……夕霧も消した」


「はい」


「それでも、朕のものだと言うのか」


「はい」


 斎臣は静かに微笑んだ。


「陛下が望まれずとも、私は陛下のおそばにおります。陛下が私を怖がられても、私を憎まれても、喉が渇けば私をお呼びになる」


「……嫌な男だ」


「存じております」


「嫌いだ」


「ええ」


 澪宮は震える息を吐いた。


「……だが、離れるな」


 斎臣の中で、何かが深く沈んだ。

 それは満たされるというより、底のない場所へ落ちていく感覚に近かった。

 澪宮は彼を怖がっている。

 憎んでいる。

 それでも、離れるなと言った。

 斎臣は膝をつき、深く頭を下げた。


「……仰せのままに」


 その声は、いつもの忠臣のものだった。

 けれど顔を伏せた斎臣の口元には、微かな笑みが残っていた。

 澪宮は、それに気づかなかったのかもしれない。

 あるいは、気づいていて何も言わなかったのかもしれない。

 それから、斎臣は夕霧の名を御所から消した。

 記録は移され、関わった者は口を閉じた。

 女官たちは夕霧の話をしなくなり、御所陰陽局の者たちも、あの鬼子が初めからいなかったかのように振る舞った。

 澪宮だけが覚えていた。

 団子。

 赤い飴。

 雨上がりの土の匂い。

 裸足で走ると石が痛いこと。

 夜の川に映る灯り。

 そして、庭石の下に残された赤い紐。

 斎臣は、澪宮が忘れていないことを知っていた。

 それでも構わなかった。

 忘れなくてもいい。

 夕霧が死者として澪宮の中に残るなら、それでいい。

 生きて澪宮を連れ出す夕霧より、記憶の中でしか外を語れない夕霧の方が、ずっと扱いやすい。

 澪宮は時折、斎臣を怖いと言った。

 斎臣はそのたびに、存じておりますと答えた。

 怖がられてもそばにいる。

 嫌われても血を差し出す。

 怯えた目で見上げられても、御簾の外へ出さない。

 それが忠義だと、斎臣は言い続けた。

 何年もかけて作った白い檻の中で、澪宮は静かに息をしていた。

 そして斎臣もまた、その檻の中にいた。

 外から鍵をかける者の顔をして。

 実際には、自分の足首にも同じ鎖が絡みついていることを知りながら。

 澪宮が小夜と出会うのは、それから少し後のことだった。

 御簾の中へ、稀血の娘が訪れる。

 鬼に喰われかけ、それでも鬼のそばにいることを選んだ娘。

 自分の血は自分のものだと言った娘。

 澪宮は、久しぶりに他者へ手を伸ばした。

 斎臣はそれを見ていた。

 御簾の陰で、静かに。

 小夜といる時の澪宮は、夕霧といた時の顔に少し似ていた。

 外を見たがる目。

 恐れながらも、知りたいと望む目。

 誰かを友と呼びたがる、幼い目。

 斎臣の胸に、またあの冷たいものが生まれた。

 けれど今度は、簡単には消せない。

 小夜のそばには、黒夜の鬼がいる。

 あの鬼は危険だった。

 澪宮のそばから小夜を遠ざけようとすれば、必ず噛みついてくる。

 それに、澪宮自身も変わり始めていた。

 斎臣が何かを隠せば、澪宮は問うようになった。

 怖いと言うようになった。

 嫌だと言うようになった。

 それは斎臣にとって、喜ばしいことではなかった。

 けれど、完全に不快でもなかった。

 御簾の奥でただ震えていた澪宮が、自分の足で立とうとしている。

 斎臣はそれを誇らしいと思い、同時に腹立たしいと思った。

 己も、檻の中にいるだけでは、もう澪宮を守れない。

 ならば、檻の方を変えるしかない。

 隠すための檻ではなく、澪宮が外へ立つための見えない囲いへ。

 その夜、澪宮は斎臣を呼んだ。

 御簾は半分だけ上げられていた。

 少し前までなら、斎臣はそれをすぐ下ろしただろう。御所の奥へ忍び込む風も、人の視線も、澪宮に近づくものはすべて遮るべきだと思っていた。

 けれど今は、御簾に手をかける前に、澪宮が言った。


「下ろすな」


 斎臣の手が止まる。


「風が入ります」


「よい」


「お体に障ります」


「少しだけだ」


 澪宮は、御簾の向こうに見える夜の庭を見ていた。

 庭石は月光を受けて白く、青葉の影が静かに揺れている。御所の外までは見えない。けれど、それでも御簾ごしに見るよりは遠くまで見えた。


「……斎臣」


「はい」


「……朕は、そなたが怖い」


「存じております」


「今もだ」


「……ええ」


「だが、そなたがいないのも怖い」


 斎臣は答えなかった。

 澪宮は振り返らない。

 ただ、夜の庭を見つめたまま続ける。


「それも、嫌だ」


「何がでございましょう」


「そなたが怖いのも、そなたがいなければ怖いのも、どちらも朕の中にあることだ」


 澪宮の声は小さかった。

 けれど、確かだった。


「斎臣」


「はい」


「……朕は、少しずつ覚える」


「何を」


「そなたが隠してきたものを」


 斎臣の胸の奥が、静かに軋む。

 澪宮は言った。


「夕霧のことも」


「……」


「鬼子のことも」


「……」


「御所の外のことも」


 斎臣は膝の上で手を重ねた。

 袖の下に、澪宮が残した傷がある。

 今も消えずに、薄く疼いている。


「……お知りになれば、苦しまれることもございます」


「――だが、知らぬままでも、苦しかった」


 斎臣は何も言えなかった。

 澪宮はようやく斎臣を見た。

 黒い瞳の奥に、かすかな赤がある。

 それは鬼の血の色であり、澪宮がずっと隠されてきたものの色だった。


「そなたは、朕が立つ場所を、守れ」


 澪宮は言った。


「隠すためではなく」


 斎臣は、ゆっくりと頭を垂れた。


「……仰せのままに」


「本当に分かっておるのか」


「努めます」


「斎臣」


「はい」


「都合のよい時だけ、努めると言うな」


 斎臣は顔を上げた。

 澪宮が、じっとこちらを見ている。

 かつては、自分の言葉を疑わずに聞いていた少女。

 夕霧を消した夜、赤い紐を握りしめて震えていた少女。

 喉の渇きに耐えきれず、涙をこぼしながら斎臣の腕にすがった少女。

 その澪宮が、今は斎臣の言葉を見極めようとしている。

 怖がりながら、疑いながら。


 ――それでも、逃げずに。


 斎臣は微笑んだ。


「分かっております」


「嘘ではないか」


「嘘も混じっております」


 澪宮は眉をひそめた。


「斎臣」


「ですが、陛下のお言葉を聞くつもりはございます」


「つもりでは困る」


「……では、聞きます」


 斎臣は静かに言い直した。


「陛下が嫌だと仰せなら、私は聞きます」


 澪宮は、まだ疑うように斎臣を見ていた。

 当然だ、と斎臣は思った。

 すぐに信じられるはずがない。

 夕霧を消した男を。

 怖いと言われても離れなかった男を。

 澪宮の渇きを知り、その依存を利用した男を。

 それでも、斎臣はここにいる。


 ――離れるつもりはない。


 澪宮が御簾の外へ出るなら、外へ出た澪宮のそばに立つだけだ。

 檻が不要になったのなら、檻の形を変えればいい。

 壁ではなく、影に。

 鎖ではなく、手に。

 隠すためではなく、立たせるために。

 それでも一番近い場所だけは、誰にも渡すつもりがなかった。

 澪宮は斎臣を見つめたまま、ぽつりと言う。


「そなたは、嫌な男だ」


「存じております」


「怖い男だ」


「はい」


「それでも、朕のそばにいるのか?」


「はい」


「朕が許さなくてもか」


「おそばにおります」


「ならば、朕が許した方がよいのか」


 斎臣は微かに笑った。


「その方が、嬉しゅうございます」


「本当に勝手な男だ」


「そうですね」


 澪宮は呆れたように息を吐いた。

 それから、御簾の向こうの夜をもう一度見る。


「……ならば、まだ許さぬ」


 斎臣は少しだけ目を伏せた。


「左様でございますか」


「そなたは、少し待て」


「私は待つのが得意でございます」


「ふん、嘘だな」


「ええ」


 澪宮は、ほんの少しだけ笑った。

 その笑みは、まだぎこちなかった。

 夕霧に見せた笑みのように自由ではなく、小夜に向ける笑みのように無垢でもない。

 斎臣を怖がり、憎み、頼り、それでも少しだけ自分の言葉で彼を押し返した者の笑みだった。

 斎臣は、その笑みを見つめる。

 腕の傷が、袖の下で疼いた。

 澪宮が自分を求めた証。

 澪宮が自分を拒む理由。

 そのどちらも、同じ腕に残っている。


「斎臣」


「はい」


「御簾は、まだ下ろすな」


「……夜風が入ります」


「少しだけだ」


 斎臣は御簾に伸ばしかけた手を下ろした。


「では、少しだけ」


 澪宮は頷き、また夜の庭へ視線を向けた。

 斎臣はその後ろに控える。

 いつもの場所で。

 けれど、いつもと同じではない場所で。

 白い狩衣の袖の下には、今日も傷がある。

 たとえ醜くても、消したくない傷がある。


 ――これは、私が貴女様のものだという証ですから。


 そう思いながら、斎臣は澪宮の背を見守った。

 澪宮はもう、ただ檻の中にいるだけの少女ではない。

 それでも斎臣は、そばにいる。

 忠義という名で。

 痛みという名で。

 白い檻の名残を、袖の下に抱いたまま。





 

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