第二十一話 消えない名
春日惣一は、封じの結界を張った部屋で目を覚ましていた。
小夜が白瀬に案内されて部屋へ入ると、彼は寝台の上で上体を起こしていた。
顔色は悪い。
目の下には濃い隈があり、唇も乾いている。爪はまだ少し黒く、犬歯も人より長い。けれど、瞳は澄んでいた。初めて会った時のような濁りはない。
彼は、自分の手を見つめていた。
黒く変色した爪。
人のものではなくなりかけている指先。
それを、まるで知らない誰かの手を見るように見つめている。
「春日さん」
小夜が呼ぶと、春日はびくりと肩を震わせた。
顔を上げる。
「……朝霧さん」
「具合はどうですか」
「分かりません」
春日はかすれた声で答えた。
「体は、痛くないです。でも、変な感じがします。自分の体じゃないみたいで」
白瀬が寝台の横に立ち、脈を取る。
「意識は安定しています。鬼化した部分も進行は止まっています。ただし、完全に戻るかどうかは経過を見る必要があります」
春日は白瀬の言葉を聞いていた。
聞いていたが、理解しきれていない顔だった。
「僕は……鬼子、なんですよね」
小夜は息を呑んだ。
白瀬は少しだけ沈黙してから、静かに答える。
「今の分類では、そうなります」
「分類……」
「あなた自身の名前が消えたわけではありません」
白瀬の声は淡々としていた。
「あなたは春日惣一です。その上で、鬼化の兆候が出ている」
春日は唇を噛んだ。
「……でも、僕は人を襲いかけたんですよね」
小夜は何も言えなかった。
春日の声が震える。
「白瀬先生から、少し聞きました。僕は停留所で暴れて……御所へ行こうとして……人に怪我をさせかけたって」
「春日さん」
「僕が、やったんですよね……」
「あなたの意思ではありません」
小夜はすぐに言った。
春日は小夜を見る。
その目は、縋るというより、罰を待つ人のようだった。
「……でも、僕の体がやったんです」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
小夜は返せなかった。
本人の意思ではない。
鈴に呼ばれ、血を揺さぶられ、鬼子として暴走しかけた。
それは本当だ。
けれど、春日自身の体が人を襲おうとしたこともまた、消せない。
その恐怖を、簡単に「あなたのせいではない」と言い切ってしまうことはできなかった。
春日は手を握ろうとした。
けれど黒い爪が見えて、すぐに力を抜く。
「母に、何て言えばいいんでしょう」
「お母様には、まだ詳しい説明はしていません」
白瀬が言った。
「あなたの容体が安定してから、こちらで立ち会って説明します」
「母は、僕を怖がるでしょうか」
小夜は息を吸った。
「怖がるかもしれません」
春日の目が揺れる。
「……そうですよね」
「でも、会いたいと思っているかもしれません」
小夜は言った。
「だから、聞きましょう。春日さんにも、お母様にも」
「聞く……」
「はい」
春日はしばらく小夜を見つめていた。
やがて、小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「朝霧さんは、変な人ですね」
「そうでしょうか」
「……僕が怖くないんですか」
「怖くないわけではありません」
小夜は正直に答えた。
「でも、怖いからといって、春日さんの名前を呼ばない理由にはならないと思います」
春日の唇が震えた。
「名前……」
「はい。春日惣一さん」
その名を口にした瞬間、春日の目に涙が浮かんだ。
彼は何度も瞬きをした。
こぼさないように、必死に堪えているようだった。
「……鬼子って呼ばれると」
春日は小さく言った。
「自分が消えたみたいでした」
小夜の胸が締めつけられる。
「でも、名前を呼ばれると、少しだけ、人間に戻れる気がします」
「はい」
「……僕はまだ、僕でいていいんですか」
小夜は頷いた。
「いいんです」
白瀬も静かに頷いた。
「あなたの記録は、春日惣一の名で残します」
春日は俯いた。
こらえきれなかった涙が、一粒、布団の上に落ちた。
その時だった。
廊下の向こうが、急にざわめいた。
小夜は顔を上げる。
足音が近づいてくる。
隊士たちの声。
事務方の慌てた気配。
そして、聞き慣れた静かな声。
「ここか」
小夜は息を止めた。
白瀬が扉の方を見る。
次の瞬間、部屋の外で榊の声がした。
「陛下。こちらは封じの結界室です。中へお入りになるなら、私と白瀬が同席いたします」
「うむ」
小夜は思わず立ち上がった。
扉が開く。
そこに立っていたのは、澪宮だった。
白い衣ではない。
淡い水色の着物に、薄い羽織をまとっている。御所にいる時ほど神秘的ではなく、少しだけ町の娘に近い装いだった。けれど黒い瞳と白い頬、その静かな佇まいは、やはり普通の少女とは違って見える。
その後ろに、斎臣が控えていた。
小夜は目を見開く。
「澪宮さま……?」
「小夜」
澪宮は小夜を見て、少しだけ頷いた。
「来たぞ」
「どうして、ここへ」
「春日惣一に会いに来た」
小夜は言葉を失った。
御所から出てきた。
澪宮が、自分の意思で。
そして斎臣が、それを止めなかった。
小夜は斎臣を見る。
斎臣は小夜の視線に気づいたが、何も言わなかった。ただ、澪宮の半歩後ろに立っている。
前ではない。
澪宮を遮る位置でもない。
小夜はそれに、目を見張った。
春日惣一は、最初、誰が来たのか分かっていないようだった。
けれど、白瀬と榊が姿勢を正し、斎臣が控えているのを見て、ようやく理解したのだろう。
顔色が変わった。
「へ、陛下……ですか?」
声が裏返る。
春日は寝台から転げ落ちるように下りようとした。
白瀬が慌てて支える。
「春日さん、まだ動いては……!」
「すみません、すみません……っ」
春日は白瀬の手を振り切るようにして床へ下り、結界の内側で額を畳に擦りつけた。
「申し訳ございません! 僕は、御所へ……陛下の御前へ、こんな、こんな姿で……!」
「春日さん」
小夜が呼ぶ。
しかし春日は顔を上げない。
「僕のせいで、御所が……結界が……人が怪我をしたと聞きました。僕が、僕が御所へ行こうとしたから……っ」
「違う」
澪宮の声がした。
部屋の中が静かになる。
春日は額を畳につけたまま、震えていた。
澪宮はゆっくりと結界の前へ歩み寄る。
斎臣がわずかに動いた。
「陛下」
「分かっておる」
澪宮は短く答えた。
それだけで、斎臣は止まった。
澪宮は結界の外に膝をつく。
春日と目線を近づけるように。
「春日惣一」
名前を呼ばれて、春日の肩が大きく震えた。
「は、はい……!」
「そなたのせいではない」
澪宮は静かに言った。
春日は息を呑む。
「ですが、僕は」
「そなたは、呼ばれた」
「……呼ばれた」
「そなたの血を、誰かが勝手に鳴らした。御所へ向かえと、朕の声に似せたものを聞かせた」
澪宮の手が、膝の上で小さく握られる。
「それは、そなたの罪ではない」
春日は顔を上げられないまま、震える声で言った。
「……でも、僕の体が人を襲いかけました」
「うむ」
澪宮は否定しなかった。
「それは、怖かったであろう」
春日は息を止めた。
「……怖かった、です」
「そうか」
「自分が、自分じゃなくなるみたいで」
「うむ」
「喉が渇いて、誰かの血が欲しいと思って、でもそんなこと思いたくなくて……声が聞こえて、行かなきゃって思って……」
春日の声が崩れていく。
「……僕は、人間でいたかったんです」
小夜は唇を噛んだ。
澪宮は春日を見ていた。
黒い瞳の奥に、かすかな赤が静かに揺れる。
「朕もだ」
春日が、初めて顔を上げた。
澪宮は続ける。
「朕も、内側で何かが鳴るのは怖い。自分ではないものが、自分の血を動かそうとするのは怖い」
「陛下……」
「だから、そなたに言いに来た」
澪宮は真っ直ぐに春日を見る。
「そなたは、春日惣一だ」
春日の瞳が揺れた。
「鬼子と呼ばれる血が混じっていても、そなたの名は消えぬ」
春日は、何度か口を開いた。
けれど、言葉が出なかった。
やがて、もう一度深く頭を下げる。
今度は謝罪ではなく、何かを受け取るように。
「……ありがとうございます」
その声は震えていた。
「……陛下に、名前を呼んでいただけるなんて、思いませんでした」
「名を聞けと命じたのは、朕だ」
澪宮は言った。
「ならば、朕が最初に呼ぶ」
小夜の体が震える。
名を聞け。
昨夜の白砂の庭で、澪宮が震えながら口にした言葉。
それを彼女は、ただ命じただけでは終わらせなかった。
自分でここへ来て、春日惣一の名を呼んだ。
春日は涙をこぼしていた。
黒い爪のある手で顔を覆おうとして、途中で止める。
その手を恐れているのだ。
澪宮はそれを見て、少しだけ首を傾げた。
「手が怖いのか」
「……はい」
「そうか」
澪宮は自分の手を見る。
白く細い指。
けれど昨夜、その指先にも爪が伸びた。
鬼の血が、澪宮の中にもある。
「朕も、昨夜、爪が伸びた」
春日は息を呑む。
斎臣の表情が微かに強張った。
けれど、澪宮は続けた。
「怖かった」
「陛下も……」
「うむ」
澪宮は頷いた。
「だが、小夜が言った。危ういからといって、閉じ込めてよい理由にも、壊してよい理由にもならぬと」
春日の視線が小夜へ向く。
小夜は少しだけ息を詰めた。
澪宮はまた春日を見る。
「そなたにも、これから聞かれる」
「聞かれる?」
「何を恐れているか。何を望むか。帰る場所があるか。誰に会いたいか」
春日の唇が震える。
「……母に、会いたいです」
「うむ」
澪宮は頷いた。
「ならば、それを記録せよ」
白瀬が静かに答える。
「はい。すでに面会希望として記録します。容体が安定次第、結界越しに面会を手配します」
春日は信じられないものを見るように白瀬を見た。
「母に、会えるんですか……?」
「状態が安定すれば」
「母は……僕を見て、泣くかもしれません」
「そうですね。泣くかもしれません」
白瀬は淡々と答えた。
「怖がるかもしれません。怒るかもしれません。抱きしめたいと思うかもしれません。それは、会ってみなければ分かりません」
春日は唇を噛んだ。声が震えている。
「……怖いです」
澪宮が小さく頷く。
「怖いなら、怖いと記録せよ」
「記録……」
「そなたが怖いと思ったことも、消してはならぬ」
春日は涙をこぼしたまま、小さく頷いた。
「……はい」
小夜はその様子を見ていた。
胸の奥に、温かいものと痛いものが同時に広がる。
これで春日の苦しみが消えるわけではない。
黒い爪も、鬼子としての血も、これから待つ隔離や検査も、母との面会の不安も消えない。
それでも、春日は今、自分の名前で呼ばれた。
鬼子ではなく。
討伐対象ではなく。
春日惣一として。
「澪宮さま」
小夜はそっと呼んだ。
澪宮が振り返る。
「――来てくださって、ありがとうございます」
澪宮は少しだけ不思議そうにした。
「礼を言われることなのか」
「はい」
「そうか」
澪宮は少し考える。
そして、小夜へ言った。
「……朕も、来てよかった」
その言葉に、小夜は胸を打たれた。
斎臣が、静かに目を伏せる。
その表情は読み取れない。
けれど、小夜には分かった。
斎臣もまた、何かを見ている。
澪宮が御簾の外で、誰かの名を呼ぶ姿を。
守るために隠してきた少女が、自分の足で外へ出て、誰かの前に膝をつく姿を。
それは斎臣にとって、怖いものでもあるのだろう。
けれど、彼はもう止めなかった。
「斎臣」
澪宮が呼ぶ。
斎臣はすぐに頭を下げた。
「はい」
「春日惣一の母に、文を送れ。封鬼寮と御所陰陽局の立ち会いで、面会の用意をすると」
「御意」
「それから」
澪宮は少しだけ考えた。
「面会の前に、母にも聞け」
「何をでしょう」
「怖いか。会いたいか。何を知りたいか」
斎臣の目が、わずかに動いた。
「……はい」
「母の気持ちも、消すな」
斎臣は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
小夜は、その返事を聞いていた。
以前の斎臣なら、きっと澪宮を不安にさせないために、母親の反応を選別しただろう。
泣いたこと。
怖がったこと。
怒ったこと。
澪宮に見せる必要がないと判断したものは、隠したかもしれない。
けれど今、澪宮は言った。
母の気持ちも消すな、と。
そして斎臣は、承知した。
小さな変化だった。
けれど確かな変化だった。
*
春日惣一の部屋を出ると、廊下には朝の光が差していた。
封鬼寮はまだ慌ただしい。
隊士たちは走り、医官は記録を抱え、御所陰陽局の術者たちは結界具の調整に追われている。
澪宮は廊下の途中で足を止めた。
窓の外を見ている。
封鬼寮の庭には、雨上がりの青葉が揺れていた。朝露が葉先に光り、遠くでは隊士たちが傷ついた結界具を運んでいる。
「封鬼寮は、忙しいな」
「はい」
小夜は頷いた。
「昨夜のことがありましたから」
「皆、眠っておらぬのか」
「ほとんどの方は、眠っていないと思います」
「小夜もか」
「少しだけ、後で休みます」
澪宮は小夜をじっと見た。
「小夜は、すぐ後でと言う」
「……そうでしょうか」
「うむ。斎臣もよく言う。後で休みます、と」
斎臣が静かに視線を逸らした。
小夜は思わず少しだけ笑った。
澪宮は真面目な顔で続ける。
「後では、いつまでも来ぬことがある」
「はい」
「だから、休め」
「……はい」
小夜が素直に頷くと、澪宮は満足そうに小さく頷いた。
その仕草が少し可愛らしくて、小夜の表情が和らぐ。
けれど、澪宮の顔色はまだ白い。
御所の外へ出て、春日惣一に会い、名を呼んだ。
それは澪宮にとって、きっと大きな負担だった。
「澪宮さまも、お戻りになったら休んでください」
「うむ」
「本当にですよ」
「小夜も、斎臣のようなことを言う」
「心配しています」
澪宮は瞬きをした。
それから、少しだけ目を伏せる。
「……心配されるのは、嫌ではない」
小夜は胸が温かくなった。
「はい」
斎臣がそっと歩み寄る。
「陛下。そろそろお戻りを」
「うむ」
澪宮は頷いた。
それから、小夜を見る。
「小夜」
「はい」
「春日惣一は、消えぬか」
小夜は少しだけ考えた。
「消えないように、皆で記録します」
「記録すれば、消えにくくなる」
「はい」
「では、たくさん書け」
澪宮は言った。
「春日惣一のことも。他の鬼子のことも。怖かったことも、会いたい人も、帰りたい場所も」
「はい」
「夕霧のように、名だけが朕の中に残るのでは足りぬ」
小夜は目を伏せた。
夕霧。
澪宮の初めての友。
外の話をしてくれた鬼子。
赤い紐だけを残して消えた少年。
澪宮は、その名を忘れない。
けれど、記録は残っていない。
どんな声だったのか。
どんな顔で笑ったのか。
何を望んでいたのか。
何を怖がっていたのか。
それを知る人は、もうほとんどいない。
「これからは、残しましょう」
小夜は言った。
「夕霧さんのことも、澪宮さまが覚えていることを書きましょう」
澪宮の目が小さく動いた。
「夕霧のことも?」
「はい」
「書いてよいのか」
「はい。澪宮さまが覚えているなら」
澪宮はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……書く」
「はい」
「団子のことも、赤い飴のことも、雨上がりの土の匂いのことも」
「はい」
「夕霧が、朕を澪と呼んだことも」
斎臣の表情が、かすかに痛んだ。
澪宮はそれに気づいているのかいないのか、まっすぐ前を見ていた。
「消さぬ」
その声は静かだった。
けれど、以前より少しだけ強かった。
「小夜」
「はい」
「朕は、これからも怖い」
「はい」
「鬼子も怖い。人も怖い。冷泉のような者も、また現れるかもしれぬ」
「はい」
「だが、名を書けば、少しは消えにくくなる」
「はい」
「ならば、聞く。書く。覚える」
澪宮の声は、朝の廊下に静かに響いた。
「朕は、そのために外へ出る」
小夜は息を止めた。
斎臣も、榊も、白瀬も、誰もすぐには口を開かなかった。
御所の奥にいた少女が。
自分の血を恐れ、誰かを好きになることを恐れていた帝が。
今、自分の意思で「外へ出る」と言った。
斎臣が、ゆっくりと頭を下げる。
「――陛下」
声は、少し掠れていた。
「御身をお守りいたします」
澪宮は斎臣を見る。
「隠すためではなく?」
斎臣は息を呑んだ。
それから、深く頭を垂れる。
「……お立ちになる場所を守るために」
澪宮は小さく頷いた。
「なら、よい」
小夜はそのやり取りを見ていた。
何かが、少しずつ変わっていく。
急には変わらない。
斎臣の過去が消えるわけではない。
澪宮の恐怖が消えるわけでもない。
封鬼寮の迷いも、鬼子への恐れも、冷泉の残した傷も、すぐにはなくならない。
それでも、今ここで、確かに一つ変わった。
守るという言葉の意味が。
隠すことから、立つ場所を支えることへ。
少しだけ、形を変えた。
*
澪宮が御所へ戻ったあと、小夜は封鬼寮の門のそばに立っていた。
朝日は完全に昇っている。
雨は降っていない。
青葉についた雫が光り、庭の石畳には隊士たちの足跡がいくつも残っていた。
伊吹は門柱にもたれて、小夜を待っていた。
肩には白い包帯が巻かれている。
小夜が近づくと、伊吹は軽く手を上げた。
「終わった?」
「はい」
「陛下、ちゃんと帰った?」
「はい。斎臣様と一緒に」
「そっか」
伊吹は少しだけ空を見上げる。
「斎臣殿、よく許したね」
「はい」
「少しは変わったのかな」
「変わろうとしているのかもしれません」
「小夜ちゃん、優しいね」
「そうでしょうか」
「うん。斎臣殿にも優しい」
伊吹の声に少しだけ不満が混じっていた。
小夜は彼を見る。
「伊吹」
「なに」
「嫉妬ですか」
伊吹は一瞬、目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑う。
「小夜ちゃんから言ってくれるの、珍しいね」
「聞いただけです」
「うん。嫉妬」
「斎臣様にですか」
「斎臣殿にも、陛下にも、春日惣一にも、ちょっとずつ」
「春日さんにも?」
「小夜ちゃんが名前を呼ぶから」
「それは必要なことです」
「分かってる」
伊吹は肩をすくめた。
「分かってるけど、嫌なものは嫌」
小夜は少しだけ困った。
けれど、以前ほど怖くはなかった。
伊吹の嫉妬は危うい。
けれど彼は今、それを言葉にしている。
何も言わずに奪ったり、閉じ込めたりするのではなく。
小夜に聞こえる形で、嫌だと言っている。
「私は……伊吹の隣に戻ってきます」
小夜はゆっくり言った。
伊吹の表情が止まった。
「小夜ちゃん」
「春日さんの名前を呼んでも、澪宮さまのそばにいても、封鬼寮で誰かの話を聞いても」
小夜は少しだけ恥ずかしくなりながら、それでも続けた。
「戻ってきます」
伊吹の目が、ゆっくりと甘くなる。
「今の、すごくずるい」
「ずるいですか」
「うん」
「では、取り消します」
「だめ」
伊吹は即答した。
「もう聞いたから、俺のもの」
「言葉は物ではありません」
「俺にとっては、かなり大事な約束だから」
伊吹はそう言って、小夜の手に触れた。
強く握るのではない。
指先だけを、確かめるように。
「じゃあ、俺も待ってる」
「はい」
「でも、危なかったら迎えに行く」
「それは……状況によります」
「小夜ちゃんらしい返事だなぁ」
伊吹は笑った。
その笑みは、昨夜の白砂の庭で冷泉を斬ろうとした時のものとは違っていた。
危うさは消えていない。
けれど、その危うさの中に、小夜の言葉を聞こうとする隙間がある。
小夜はその隙間を、大事にしたいと思った。
封鬼寮の緊急鐘は、もう鳴っていない。
代わりに、廊下の向こうから事務方の声が聞こえてくる。
「鬼子保護記録、用紙が足りません!」
「名前の欄を大きくしろって、榊代理が言ってました!」
「医官隊から追加の結界布の要請です!」
小夜は思わず振り返った。
伊吹が笑う。
「忙しそうだね」
「はい」
「世界を変えるって、紙がたくさんいるんだ」
「そうみたいです」
小夜も少しだけ笑った。
世界はまだ優しくない。
鬼子を恐れる人はいる。
討つべきだと言う人もいる。
冷泉のような正しさが、別の顔でまた現れるかもしれない。
それでも、昨日まで鬼として討たれていたかもしれない人が、今日は名前を記録されている。
春日惣一は、春日惣一として呼ばれた。
澪宮は、御簾の奥から出て、その名を呼んだ。
小夜は首筋の刻印にそっと触れた。
熱は穏やかだった。
痛みではない。
誰かの名を繋ぎとめるための、小さな灯のようだった。
「伊吹」
「なに?」
「……今日は、休みます」
伊吹が目を瞬かせた。
「ほんとに?」
「はい。澪宮さまにも、白瀬先生にも休めと言われましたから」
「小夜ちゃんが素直だ」
「失礼ですね」
「いや、すごくいいこと」
伊吹は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、俺も休む」
「伊吹は怪我人なので、当然です」
「小夜ちゃんが寝るなら寝る」
「ひとりで寝てください」
「えー」
「怪我人でしょう」
「小夜ちゃん、最近ほんと厳しい」
「伊吹が言うことを聞かないからです」
「でも、そういう小夜ちゃんも好き」
「……朝からそういうことを言わないでください」
伊吹は楽しそうに笑った。
小夜は顔が熱くなるのを感じながら、封鬼寮の本館へ歩き出す。
廊下の奥では、まだ事務方の声が響いている。
「春日惣一さんの面会希望、記録に追加しました!」
「保護記録の用紙、追加発注かかります!」
「結界室の備品、確認終わりました!」
小夜は足を止めかけた。
けれど、すぐに思い直す。
今は、自分が走らなくてもいい。
誰かの名前を残すために、封鬼寮の人たちが動いている。
その中に、いつか自分もまた加わればいい。
今は、休む。
そう決めることも、きっと必要なのだ。
小夜は首筋の刻印に、もう一度そっと触れた。
灯はまだ、消えていなかった。
梅雨明けは、まだ少し先だろう。
けれど雨の季節は、少しずつ終わりに近づいている。
濡れた青葉の向こうで、朝の光が揺れていた。




