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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第二十一話 消えない名

 春日惣一は、封じの結界を張った部屋で目を覚ましていた。

 小夜が白瀬に案内されて部屋へ入ると、彼は寝台の上で上体を起こしていた。

 顔色は悪い。

 目の下には濃い隈があり、唇も乾いている。爪はまだ少し黒く、犬歯も人より長い。けれど、瞳は澄んでいた。初めて会った時のような濁りはない。

 彼は、自分の手を見つめていた。

 黒く変色した爪。

 人のものではなくなりかけている指先。

 それを、まるで知らない誰かの手を見るように見つめている。


「春日さん」


 小夜が呼ぶと、春日はびくりと肩を震わせた。

 顔を上げる。


「……朝霧さん」


「具合はどうですか」


「分かりません」


 春日はかすれた声で答えた。


「体は、痛くないです。でも、変な感じがします。自分の体じゃないみたいで」


 白瀬が寝台の横に立ち、脈を取る。


「意識は安定しています。鬼化した部分も進行は止まっています。ただし、完全に戻るかどうかは経過を見る必要があります」


 春日は白瀬の言葉を聞いていた。

 聞いていたが、理解しきれていない顔だった。


「僕は……鬼子、なんですよね」


 小夜は息を呑んだ。

 白瀬は少しだけ沈黙してから、静かに答える。


「今の分類では、そうなります」


「分類……」


「あなた自身の名前が消えたわけではありません」


 白瀬の声は淡々としていた。


「あなたは春日惣一です。その上で、鬼化の兆候が出ている」


 春日は唇を噛んだ。


「……でも、僕は人を襲いかけたんですよね」


 小夜は何も言えなかった。

 春日の声が震える。


「白瀬先生から、少し聞きました。僕は停留所で暴れて……御所へ行こうとして……人に怪我をさせかけたって」


「春日さん」


「僕が、やったんですよね……」


「あなたの意思ではありません」


 小夜はすぐに言った。

 春日は小夜を見る。

 その目は、縋るというより、罰を待つ人のようだった。


「……でも、僕の体がやったんです」


 その言葉が、部屋の中に落ちた。

 小夜は返せなかった。

 本人の意思ではない。

 鈴に呼ばれ、血を揺さぶられ、鬼子として暴走しかけた。

 それは本当だ。

 けれど、春日自身の体が人を襲おうとしたこともまた、消せない。

 その恐怖を、簡単に「あなたのせいではない」と言い切ってしまうことはできなかった。

 春日は手を握ろうとした。

 けれど黒い爪が見えて、すぐに力を抜く。


「母に、何て言えばいいんでしょう」


「お母様には、まだ詳しい説明はしていません」


 白瀬が言った。


「あなたの容体が安定してから、こちらで立ち会って説明します」


「母は、僕を怖がるでしょうか」


 小夜は息を吸った。


「怖がるかもしれません」


 春日の目が揺れる。


「……そうですよね」


「でも、会いたいと思っているかもしれません」


 小夜は言った。


「だから、聞きましょう。春日さんにも、お母様にも」


「聞く……」


「はい」


 春日はしばらく小夜を見つめていた。

 やがて、小さく笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。


「朝霧さんは、変な人ですね」


「そうでしょうか」


「……僕が怖くないんですか」


「怖くないわけではありません」


 小夜は正直に答えた。


「でも、怖いからといって、春日さんの名前を呼ばない理由にはならないと思います」


 春日の唇が震えた。


「名前……」


「はい。春日惣一さん」


 その名を口にした瞬間、春日の目に涙が浮かんだ。

 彼は何度も瞬きをした。

 こぼさないように、必死に堪えているようだった。


「……鬼子って呼ばれると」


 春日は小さく言った。


「自分が消えたみたいでした」


 小夜の胸が締めつけられる。


「でも、名前を呼ばれると、少しだけ、人間に戻れる気がします」


「はい」


「……僕はまだ、僕でいていいんですか」


 小夜は頷いた。


「いいんです」


 白瀬も静かに頷いた。


「あなたの記録は、春日惣一の名で残します」


 春日は俯いた。

 こらえきれなかった涙が、一粒、布団の上に落ちた。

 その時だった。

 廊下の向こうが、急にざわめいた。

 小夜は顔を上げる。

 足音が近づいてくる。

 隊士たちの声。

 事務方の慌てた気配。

 そして、聞き慣れた静かな声。


「ここか」


 小夜は息を止めた。

 白瀬が扉の方を見る。

 次の瞬間、部屋の外で榊の声がした。


「陛下。こちらは封じの結界室です。中へお入りになるなら、私と白瀬が同席いたします」


「うむ」


 小夜は思わず立ち上がった。

 扉が開く。

 そこに立っていたのは、澪宮だった。

 白い衣ではない。

 淡い水色の着物に、薄い羽織をまとっている。御所にいる時ほど神秘的ではなく、少しだけ町の娘に近い装いだった。けれど黒い瞳と白い頬、その静かな佇まいは、やはり普通の少女とは違って見える。

 その後ろに、斎臣が控えていた。

 小夜は目を見開く。


「澪宮さま……?」


「小夜」


 澪宮は小夜を見て、少しだけ頷いた。


「来たぞ」


「どうして、ここへ」


「春日惣一に会いに来た」


 小夜は言葉を失った。

 御所から出てきた。

 澪宮が、自分の意思で。

 そして斎臣が、それを止めなかった。

 小夜は斎臣を見る。

 斎臣は小夜の視線に気づいたが、何も言わなかった。ただ、澪宮の半歩後ろに立っている。

 前ではない。

 澪宮を遮る位置でもない。

 小夜はそれに、目を見張った。

 春日惣一は、最初、誰が来たのか分かっていないようだった。

 けれど、白瀬と榊が姿勢を正し、斎臣が控えているのを見て、ようやく理解したのだろう。

 顔色が変わった。


「へ、陛下……ですか?」


 声が裏返る。

 春日は寝台から転げ落ちるように下りようとした。

 白瀬が慌てて支える。


「春日さん、まだ動いては……!」


「すみません、すみません……っ」


 春日は白瀬の手を振り切るようにして床へ下り、結界の内側で額を畳に擦りつけた。


「申し訳ございません! 僕は、御所へ……陛下の御前へ、こんな、こんな姿で……!」


「春日さん」


 小夜が呼ぶ。

 しかし春日は顔を上げない。


「僕のせいで、御所が……結界が……人が怪我をしたと聞きました。僕が、僕が御所へ行こうとしたから……っ」


「違う」


 澪宮の声がした。

 部屋の中が静かになる。

 春日は額を畳につけたまま、震えていた。

 澪宮はゆっくりと結界の前へ歩み寄る。

 斎臣がわずかに動いた。


「陛下」


「分かっておる」


 澪宮は短く答えた。

 それだけで、斎臣は止まった。

 澪宮は結界の外に膝をつく。

 春日と目線を近づけるように。


「春日惣一」


 名前を呼ばれて、春日の肩が大きく震えた。


「は、はい……!」


「そなたのせいではない」


 澪宮は静かに言った。

 春日は息を呑む。


「ですが、僕は」


「そなたは、呼ばれた」


「……呼ばれた」


「そなたの血を、誰かが勝手に鳴らした。御所へ向かえと、朕の声に似せたものを聞かせた」


 澪宮の手が、膝の上で小さく握られる。


「それは、そなたの罪ではない」


 春日は顔を上げられないまま、震える声で言った。


「……でも、僕の体が人を襲いかけました」


「うむ」


 澪宮は否定しなかった。


「それは、怖かったであろう」


 春日は息を止めた。


「……怖かった、です」


「そうか」


「自分が、自分じゃなくなるみたいで」


「うむ」


「喉が渇いて、誰かの血が欲しいと思って、でもそんなこと思いたくなくて……声が聞こえて、行かなきゃって思って……」


 春日の声が崩れていく。


「……僕は、人間でいたかったんです」


 小夜は唇を噛んだ。

 澪宮は春日を見ていた。

 黒い瞳の奥に、かすかな赤が静かに揺れる。


「朕もだ」


 春日が、初めて顔を上げた。

 澪宮は続ける。


「朕も、内側で何かが鳴るのは怖い。自分ではないものが、自分の血を動かそうとするのは怖い」


「陛下……」


「だから、そなたに言いに来た」


 澪宮は真っ直ぐに春日を見る。


「そなたは、春日惣一だ」


 春日の瞳が揺れた。


「鬼子と呼ばれる血が混じっていても、そなたの名は消えぬ」


 春日は、何度か口を開いた。

 けれど、言葉が出なかった。

 やがて、もう一度深く頭を下げる。

 今度は謝罪ではなく、何かを受け取るように。


「……ありがとうございます」


 その声は震えていた。


「……陛下に、名前を呼んでいただけるなんて、思いませんでした」


「名を聞けと命じたのは、朕だ」


 澪宮は言った。


「ならば、朕が最初に呼ぶ」


 小夜の体が震える。

 名を聞け。

 昨夜の白砂の庭で、澪宮が震えながら口にした言葉。

 それを彼女は、ただ命じただけでは終わらせなかった。

 自分でここへ来て、春日惣一の名を呼んだ。

 春日は涙をこぼしていた。

 黒い爪のある手で顔を覆おうとして、途中で止める。

 その手を恐れているのだ。

 澪宮はそれを見て、少しだけ首を傾げた。


「手が怖いのか」


「……はい」


「そうか」


 澪宮は自分の手を見る。

 白く細い指。

 けれど昨夜、その指先にも爪が伸びた。

 鬼の血が、澪宮の中にもある。


「朕も、昨夜、爪が伸びた」


 春日は息を呑む。

 斎臣の表情が微かに強張った。

 けれど、澪宮は続けた。


「怖かった」


「陛下も……」


「うむ」


 澪宮は頷いた。


「だが、小夜が言った。危ういからといって、閉じ込めてよい理由にも、壊してよい理由にもならぬと」


 春日の視線が小夜へ向く。

 小夜は少しだけ息を詰めた。

 澪宮はまた春日を見る。


「そなたにも、これから聞かれる」


「聞かれる?」


「何を恐れているか。何を望むか。帰る場所があるか。誰に会いたいか」


 春日の唇が震える。


「……母に、会いたいです」


「うむ」


 澪宮は頷いた。


「ならば、それを記録せよ」


 白瀬が静かに答える。


「はい。すでに面会希望として記録します。容体が安定次第、結界越しに面会を手配します」


 春日は信じられないものを見るように白瀬を見た。


「母に、会えるんですか……?」


「状態が安定すれば」


「母は……僕を見て、泣くかもしれません」


「そうですね。泣くかもしれません」


 白瀬は淡々と答えた。


「怖がるかもしれません。怒るかもしれません。抱きしめたいと思うかもしれません。それは、会ってみなければ分かりません」


 春日は唇を噛んだ。声が震えている。


「……怖いです」


 澪宮が小さく頷く。


「怖いなら、怖いと記録せよ」


「記録……」


「そなたが怖いと思ったことも、消してはならぬ」


 春日は涙をこぼしたまま、小さく頷いた。


「……はい」


 小夜はその様子を見ていた。

 胸の奥に、温かいものと痛いものが同時に広がる。

 これで春日の苦しみが消えるわけではない。

 黒い爪も、鬼子としての血も、これから待つ隔離や検査も、母との面会の不安も消えない。

 それでも、春日は今、自分の名前で呼ばれた。

 鬼子ではなく。

 討伐対象ではなく。

 春日惣一として。


「澪宮さま」


 小夜はそっと呼んだ。

 澪宮が振り返る。


「――来てくださって、ありがとうございます」


 澪宮は少しだけ不思議そうにした。


「礼を言われることなのか」


「はい」


「そうか」


 澪宮は少し考える。

 そして、小夜へ言った。


「……朕も、来てよかった」


 その言葉に、小夜は胸を打たれた。

 斎臣が、静かに目を伏せる。

 その表情は読み取れない。

 けれど、小夜には分かった。

 斎臣もまた、何かを見ている。

 澪宮が御簾の外で、誰かの名を呼ぶ姿を。

 守るために隠してきた少女が、自分の足で外へ出て、誰かの前に膝をつく姿を。

 それは斎臣にとって、怖いものでもあるのだろう。

 けれど、彼はもう止めなかった。


「斎臣」


 澪宮が呼ぶ。

 斎臣はすぐに頭を下げた。


「はい」


「春日惣一の母に、文を送れ。封鬼寮と御所陰陽局の立ち会いで、面会の用意をすると」


「御意」


「それから」


 澪宮は少しだけ考えた。


「面会の前に、母にも聞け」


「何をでしょう」


「怖いか。会いたいか。何を知りたいか」


 斎臣の目が、わずかに動いた。


「……はい」


「母の気持ちも、消すな」


 斎臣は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 小夜は、その返事を聞いていた。

 以前の斎臣なら、きっと澪宮を不安にさせないために、母親の反応を選別しただろう。

 泣いたこと。

 怖がったこと。

 怒ったこと。

 澪宮に見せる必要がないと判断したものは、隠したかもしれない。

 けれど今、澪宮は言った。

 母の気持ちも消すな、と。

 そして斎臣は、承知した。

 小さな変化だった。

 けれど確かな変化だった。



 春日惣一の部屋を出ると、廊下には朝の光が差していた。

 封鬼寮はまだ慌ただしい。

 隊士たちは走り、医官は記録を抱え、御所陰陽局の術者たちは結界具の調整に追われている。

 澪宮は廊下の途中で足を止めた。

 窓の外を見ている。

 封鬼寮の庭には、雨上がりの青葉が揺れていた。朝露が葉先に光り、遠くでは隊士たちが傷ついた結界具を運んでいる。


「封鬼寮は、忙しいな」


「はい」


 小夜は頷いた。


「昨夜のことがありましたから」


「皆、眠っておらぬのか」


「ほとんどの方は、眠っていないと思います」


「小夜もか」


「少しだけ、後で休みます」


 澪宮は小夜をじっと見た。


「小夜は、すぐ後でと言う」


「……そうでしょうか」


「うむ。斎臣もよく言う。後で休みます、と」


 斎臣が静かに視線を逸らした。

 小夜は思わず少しだけ笑った。

 澪宮は真面目な顔で続ける。


「後では、いつまでも来ぬことがある」


「はい」


「だから、休め」


「……はい」


 小夜が素直に頷くと、澪宮は満足そうに小さく頷いた。

 その仕草が少し可愛らしくて、小夜の表情が和らぐ。

 けれど、澪宮の顔色はまだ白い。

 御所の外へ出て、春日惣一に会い、名を呼んだ。

 それは澪宮にとって、きっと大きな負担だった。


「澪宮さまも、お戻りになったら休んでください」


「うむ」


「本当にですよ」


「小夜も、斎臣のようなことを言う」


「心配しています」


 澪宮は瞬きをした。

 それから、少しだけ目を伏せる。


「……心配されるのは、嫌ではない」


 小夜は胸が温かくなった。


「はい」


 斎臣がそっと歩み寄る。


「陛下。そろそろお戻りを」


「うむ」


 澪宮は頷いた。

 それから、小夜を見る。


「小夜」


「はい」


「春日惣一は、消えぬか」


 小夜は少しだけ考えた。


「消えないように、皆で記録します」


「記録すれば、消えにくくなる」


「はい」


「では、たくさん書け」


 澪宮は言った。


「春日惣一のことも。他の鬼子のことも。怖かったことも、会いたい人も、帰りたい場所も」


「はい」


「夕霧のように、名だけが朕の中に残るのでは足りぬ」


 小夜は目を伏せた。

 夕霧。

 澪宮の初めての友。

 外の話をしてくれた鬼子。

 赤い紐だけを残して消えた少年。

 澪宮は、その名を忘れない。

 けれど、記録は残っていない。

 どんな声だったのか。

 どんな顔で笑ったのか。

 何を望んでいたのか。

 何を怖がっていたのか。

 それを知る人は、もうほとんどいない。


「これからは、残しましょう」


 小夜は言った。


「夕霧さんのことも、澪宮さまが覚えていることを書きましょう」


 澪宮の目が小さく動いた。


「夕霧のことも?」


「はい」


「書いてよいのか」


「はい。澪宮さまが覚えているなら」


 澪宮はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷く。


「……書く」


「はい」


「団子のことも、赤い飴のことも、雨上がりの土の匂いのことも」


「はい」


「夕霧が、朕を澪と呼んだことも」


 斎臣の表情が、かすかに痛んだ。

 澪宮はそれに気づいているのかいないのか、まっすぐ前を見ていた。


「消さぬ」


 その声は静かだった。

 けれど、以前より少しだけ強かった。


「小夜」


「はい」


「朕は、これからも怖い」


「はい」


「鬼子も怖い。人も怖い。冷泉のような者も、また現れるかもしれぬ」


「はい」


「だが、名を書けば、少しは消えにくくなる」


「はい」


「ならば、聞く。書く。覚える」


 澪宮の声は、朝の廊下に静かに響いた。


「朕は、そのために外へ出る」


 小夜は息を止めた。

 斎臣も、榊も、白瀬も、誰もすぐには口を開かなかった。

 御所の奥にいた少女が。

 自分の血を恐れ、誰かを好きになることを恐れていた帝が。

 今、自分の意思で「外へ出る」と言った。

 斎臣が、ゆっくりと頭を下げる。


「――陛下」


 声は、少し掠れていた。


「御身をお守りいたします」


 澪宮は斎臣を見る。


「隠すためではなく?」


 斎臣は息を呑んだ。

 それから、深く頭を垂れる。


「……お立ちになる場所を守るために」


 澪宮は小さく頷いた。


「なら、よい」


 小夜はそのやり取りを見ていた。

 何かが、少しずつ変わっていく。

 急には変わらない。

 斎臣の過去が消えるわけではない。

 澪宮の恐怖が消えるわけでもない。

 封鬼寮の迷いも、鬼子への恐れも、冷泉の残した傷も、すぐにはなくならない。

 それでも、今ここで、確かに一つ変わった。

 守るという言葉の意味が。

 隠すことから、立つ場所を支えることへ。

 少しだけ、形を変えた。



 澪宮が御所へ戻ったあと、小夜は封鬼寮の門のそばに立っていた。

 朝日は完全に昇っている。

 雨は降っていない。

 青葉についた雫が光り、庭の石畳には隊士たちの足跡がいくつも残っていた。

 伊吹は門柱にもたれて、小夜を待っていた。

 肩には白い包帯が巻かれている。

 小夜が近づくと、伊吹は軽く手を上げた。


「終わった?」


「はい」


「陛下、ちゃんと帰った?」


「はい。斎臣様と一緒に」


「そっか」


 伊吹は少しだけ空を見上げる。


「斎臣殿、よく許したね」


「はい」


「少しは変わったのかな」


「変わろうとしているのかもしれません」


「小夜ちゃん、優しいね」


「そうでしょうか」


「うん。斎臣殿にも優しい」


 伊吹の声に少しだけ不満が混じっていた。

 小夜は彼を見る。


「伊吹」


「なに」


「嫉妬ですか」


 伊吹は一瞬、目を丸くした。

 それから、嬉しそうに笑う。


「小夜ちゃんから言ってくれるの、珍しいね」


「聞いただけです」


「うん。嫉妬」


「斎臣様にですか」


「斎臣殿にも、陛下にも、春日惣一にも、ちょっとずつ」


「春日さんにも?」


「小夜ちゃんが名前を呼ぶから」


「それは必要なことです」


「分かってる」


 伊吹は肩をすくめた。


「分かってるけど、嫌なものは嫌」


 小夜は少しだけ困った。

 けれど、以前ほど怖くはなかった。

 伊吹の嫉妬は危うい。

 けれど彼は今、それを言葉にしている。

 何も言わずに奪ったり、閉じ込めたりするのではなく。

 小夜に聞こえる形で、嫌だと言っている。


「私は……伊吹の隣に戻ってきます」


 小夜はゆっくり言った。

 伊吹の表情が止まった。


「小夜ちゃん」


「春日さんの名前を呼んでも、澪宮さまのそばにいても、封鬼寮で誰かの話を聞いても」


 小夜は少しだけ恥ずかしくなりながら、それでも続けた。


「戻ってきます」


 伊吹の目が、ゆっくりと甘くなる。


「今の、すごくずるい」


「ずるいですか」


「うん」


「では、取り消します」


「だめ」


 伊吹は即答した。


「もう聞いたから、俺のもの」


「言葉は物ではありません」


「俺にとっては、かなり大事な約束だから」


 伊吹はそう言って、小夜の手に触れた。

 強く握るのではない。

 指先だけを、確かめるように。


「じゃあ、俺も待ってる」


「はい」


「でも、危なかったら迎えに行く」


「それは……状況によります」


「小夜ちゃんらしい返事だなぁ」


 伊吹は笑った。

 その笑みは、昨夜の白砂の庭で冷泉を斬ろうとした時のものとは違っていた。

 危うさは消えていない。

 けれど、その危うさの中に、小夜の言葉を聞こうとする隙間がある。

 小夜はその隙間を、大事にしたいと思った。

 封鬼寮の緊急鐘は、もう鳴っていない。

 代わりに、廊下の向こうから事務方の声が聞こえてくる。


「鬼子保護記録、用紙が足りません!」


「名前の欄を大きくしろって、榊代理が言ってました!」


「医官隊から追加の結界布の要請です!」


 小夜は思わず振り返った。

 伊吹が笑う。


「忙しそうだね」


「はい」


「世界を変えるって、紙がたくさんいるんだ」


「そうみたいです」


 小夜も少しだけ笑った。

 世界はまだ優しくない。

 鬼子を恐れる人はいる。

 討つべきだと言う人もいる。

 冷泉のような正しさが、別の顔でまた現れるかもしれない。

 それでも、昨日まで鬼として討たれていたかもしれない人が、今日は名前を記録されている。

 春日惣一は、春日惣一として呼ばれた。

 澪宮は、御簾の奥から出て、その名を呼んだ。

 小夜は首筋の刻印にそっと触れた。

 熱は穏やかだった。

 痛みではない。

 誰かの名を繋ぎとめるための、小さな灯のようだった。


「伊吹」


「なに?」


「……今日は、休みます」


 伊吹が目を瞬かせた。


「ほんとに?」


「はい。澪宮さまにも、白瀬先生にも休めと言われましたから」


「小夜ちゃんが素直だ」


「失礼ですね」


「いや、すごくいいこと」


 伊吹は嬉しそうに目を細めた。


「じゃあ、俺も休む」


「伊吹は怪我人なので、当然です」


「小夜ちゃんが寝るなら寝る」


「ひとりで寝てください」


「えー」


「怪我人でしょう」


「小夜ちゃん、最近ほんと厳しい」


「伊吹が言うことを聞かないからです」


「でも、そういう小夜ちゃんも好き」


「……朝からそういうことを言わないでください」


 伊吹は楽しそうに笑った。

 小夜は顔が熱くなるのを感じながら、封鬼寮の本館へ歩き出す。

 廊下の奥では、まだ事務方の声が響いている。


「春日惣一さんの面会希望、記録に追加しました!」


「保護記録の用紙、追加発注かかります!」


「結界室の備品、確認終わりました!」


 小夜は足を止めかけた。

 けれど、すぐに思い直す。

 今は、自分が走らなくてもいい。

 誰かの名前を残すために、封鬼寮の人たちが動いている。

 その中に、いつか自分もまた加わればいい。

 今は、休む。

 そう決めることも、きっと必要なのだ。

 小夜は首筋の刻印に、もう一度そっと触れた。

 灯はまだ、消えていなかった。

 梅雨明けは、まだ少し先だろう。

 けれど雨の季節は、少しずつ終わりに近づいている。

 濡れた青葉の向こうで、朝の光が揺れていた。





 

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