第二十話 名を聞け
夜明け前の帝都には、まだ鬼の匂いが残っていた。
雨は降っていない。
けれど石畳は夜気を含んで濡れたように鈍く光り、路面電車の線路には薄い朝靄が絡んでいた。
昨夜、結界が破れた時に外から入り込んだ鬼たちは、夜のうちに封鬼寮の隊士たちがほとんど討ったという。
それでも、すべてが元通りになったわけではない。
壊れた店の看板。
封じの札が貼られた路地。
鬼子が暴走しかけた家の前で、まだ泣いている家族。
夜明けの街には、そんな傷跡がいくつも残っていた。
封鬼寮もまた、眠っていなかった。
本館の廊下には隊士たちの足音が絶えず、医務室には白瀬をはじめとした医官たちが詰めている。
昨夜保護された鬼子たちは、封じの結界を張った部屋に移され、御所陰陽局の術者と封鬼寮の医官が交代で様子を見ていた。
小夜は、廊下の窓から外を見ていた。
東の空が、少しずつ白んでいる。
眠っていない。
けれど、不思議と目は冴えていた。
首筋の刻印は、もう痛まない。ただ、時折かすかに熱を帯びる。昨夜の鈴の残響が、まだ体の奥に残っているのかもしれなかった。
「朝霧さん」
白瀬の声に、小夜は振り返った。
白瀬は医務室の入口に立っていた。眼鏡の奥の目には疲労が濃いが、その声はいつも通り落ち着いている。
「少しだけ、休んだ方がいいですよ」
「でも……」
「でも、ではありません。あなたは昨夜、澪宮様とかなり深く共鳴しています。今倒れられると、こちらの仕事が増えます」
そう言われると、小夜は返す言葉がなかった。
廊下の壁に背を預けていた伊吹が、薄く笑う。
「白瀬先生、言い方が冷たいようで優しいよね」
「あなたもです、伊吹。肩の傷を放置しないでください」
「掠っただけだし」
「その言葉は、昨夜から五回聞きました」
「数えてたの?」
「医官ですから」
白瀬は淡々と言い、片手に持っていた小さな救急箱を開いた。中には包帯と鋏、消毒液を浸した綿の入った硝子の容器が収められている。
伊吹はそれを見て、少し嫌そうな顔をした。
「ここでやるの?」
「医務室へ行く気があるなら、そちらで構いません」
「……ここでいいです」
「でしょうね」
白瀬は裂けた羽織の下を確認する。
肩口には、鬼の爪がかすめた傷があった。深くはない。けれど、血はまだじわりと滲んでいる。
小夜は眉を寄せた。
「掠っただけではありません」
「小夜ちゃん、白瀬先生みたいな顔してる」
「伊吹が軽く言うからです」
「怒ってる?」
「心配しています」
そう言うと、伊吹は一瞬だけ目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「……そっか」
「なぜ嬉しそうなんですか」
「小夜ちゃんが心配してくれたから」
「心配されるようなことをしないでください」
「それは難しいなあ」
白瀬が消毒液を含ませた綿を傷口に押し当てた。
「痛っ」
「難しいことを言う人には、少し染みる処置になります」
「白瀬先生、地味に怒ってる?」
「怒っていません。消毒です」
白瀬は手早く血を拭い、傷の深さを確かめてから、包帯を巻き始めた。
「縫うほどではありません。ただ、あとで医務室で改めて診ます」
「ええ、まだ診るの」
「当然です」
「小夜ちゃん、助けて」
「診てもらってください」
「味方がいない」
「伊吹の味方だから言っています」
伊吹は少しだけ目を細めた。
「……そういうこと言うの、ずるい」
「ずるくありません」
白瀬が容赦なく包帯を締めた。
「痛っ」
「動かないでください」
「白瀬先生、やっぱり怒ってるよね」
「ただの処置です」
小夜は少しだけ笑いそうになった。
けれど、すぐに胸の奥が重くなる。
廊下の向こうでは、担架が運ばれていた。
人間の隊士。
鬼に襲われた市民。
そして、鬼子として保護された者。
白い布の下から見える手には、まだ黒い爪が残っている。
討たれずに済んだ。
それは救いだ。
けれど、保護されたからといって、苦しみが消えるわけではない。
目覚めた時、自分の手に黒い爪があると知ったら。
自分が人を襲いかけたと知ったら。
自分が鬼子だと告げられたら。
その人たちは、自分をどう思うのだろう。
小夜は胸元で自身の手を握った。
その時、廊下の向こうがざわめいた。
数人の隊士が姿勢を正し、事務方の者が慌てて書類を抱え直している。
廊下の先から、見慣れた人影が歩いてきた。
榊恒一だった。
長官服ではない。
けれど、封鬼寮の本館を歩く彼の背筋は、かつてと同じようにまっすぐだった。少しやつれた顔をしているが、目だけは鋭さを失っていない。
小夜は思わず立ち上がった。
「榊顧問」
榊は小夜の前で足を止めた。
「朝霧。無事か」
「はい。榊顧問こそ……どうして」
「冷泉清成は、封鬼寮長官の任を解かれた」
榊は静かに言った。
廊下の空気がわずかに張る。
「現在は御所陰陽局の監査下に置かれている。写し鈴の作成経路、封鬼寮の報告書の扱い、鬼子暴走事件との関与について、取り調べが行われる」
「冷泉様は……罪を認めたのですか」
「認めてはいない」
榊の声は苦かった。
「鬼子はいつか暴走する。自分は危険を早め、可視化しただけだと言っているそうだ」
小夜は気持ちが沈むのを感じた。
冷泉は、まだ自分の正しさを疑っていない。
家族を奪われた痛みが本物だったからこそ、その正しさは簡単には折れないのだろう。
榊は続けた。
「封鬼寮は、しばらく臨時体制に置かれる。正式な長官が任じられるまで、私が長官代理として戻ることになった」
「榊顧問が……」
小夜はほっと息をついた。
その安堵が顔に出たのだろう。
榊は少しだけ目を細めた。
「安心される資格が、私にあるとは思っていないが」
「それでも、榊顧問がいてくださると安心します」
榊はすぐには答えなかった。
伊吹が横から口を挟む。
「お父さんみたいな人、戻ってきたね」
「伊吹」
小夜がたしなめる。
榊は伊吹を見た。
「君は、朝から余計なことを言う元気があるようだな」
「夜通し戦った後だから、逆に変な元気が出てる」
「医務室へ行け」
「今まさに白瀬先生に捕まってる」
「ならば、黙って治療を受けろ」
伊吹は笑った。
けれど、榊の顔は笑っていなかった。
その疲れた表情を見て、小夜は言葉を飲み込む。
榊は長官職を退いて責任を取った。
今また戻ってきたのは、許されたからではなく、必要だからだ。
封鬼寮が混乱している今、彼のように現場と御所の両方を知る者が必要なのだろう。
榊は小夜へ向き直った。
「朝霧。少し後で会議室へ来てほしい」
「私もですか」
「ああ。帝の勅命が、正式に封鬼寮へ下りた」
小夜は息を呑んだ。
「鬼子についての、ですか」
「そうだ」
榊は頷いた。
「君にも聞いていてほしい」
*
会議室には、封鬼寮の隊士、医官、事務方、御所陰陽局から派遣された術者が集まっていた。
夜通し動いていたせいで、誰もが疲れた顔をしている。
それでも、部屋の空気は緩んでいなかった。
昨夜の結界崩壊。
冷泉の失脚。
鬼子の暴走。
そして、澪宮が自らの血について口にしたこと。
そのすべてが、まだ誰の中でも整理しきれていない。
白瀬もいる。
伊吹は包帯を巻かれた肩を少しだけ不満そうにしながら、小夜の後ろに立っていた。
榊は部屋の正面に立つ。
長官代理。
その言葉はまだ彼に戻りきっていないように見えたが、部屋の中にいる者たちは、自然と彼へ視線を向けていた。
榊は一枚の文書を広げた。
御所から下された勅命。
そこには、澪宮の意思が記されている。
榊は静かに読み上げた。
「――鬼子を見つけ次第討つことを禁ずる」
室内に、小さなどよめきが広がった。
榊は続ける。
「まず名を聞け。帰る場所を聞け。何を恐れ、何を望むかを聞け」
小夜は胸元で手を握った。
昨夜、澪宮が結界庭で言った言葉だ。
震える声だった。
けれど確かに、あの白砂の庭に響いた言葉。
それが今、正式な命になっている。
「血を調べるならば、本人の許しを得よ。本人が意思を示せぬ時は、医官、御所陰陽局、封鬼寮の三者で記録を残せ。移送、隔離、実験の名を借りた拘束を禁ずる」
白瀬の横顔がわずかに動いた。
彼女は何も言わない。
けれど、その言葉がかつての事件にも繋がっていることを、小夜は分かっていた。
小夜の血を、本人の十分な説明と同意なく使ったこと。
その痛みを、澪宮は鬼子への命として広げたのだ。
榊は最後の条を読む。
「人を喰らう寸前の者は封じよ。それでも止まらぬ時のみ、討て」
室内は静まり返った。
命としては難しい。
現場では、一瞬の判断が人命を分けることもある。鬼子を封じようとする間に、誰かが傷つくかもしれない。隊士たちの顔には戸惑いと緊張が浮かんでいる。
榊は文書を下ろした。
「これは、鬼子が危険ではないという意味ではない」
彼の声は落ち着いていた。
「暴走した鬼子は、現実に人を傷つける可能性がある。現場で人命に直接危険が及ぶ場合、討伐の判断は認められる」
隊士たちが息を詰める。
「だが、これまでのように、鬼子というだけで即時討伐の対象とすることはできない。名を聞け。記録せよ。封じられるなら封じよ。本人の意思を無視した血の採取、移送、実験は禁じられる」
榊の視線が、小夜へ一瞬向いた。
そして、すぐに戻る。
「これは、封鬼寮の仕事を軽くする命ではない。むしろ重くする命だ」
誰も異を唱えなかった。
「だが、我々は鬼を狩るだけの組織ではない。人と鬼の境に立つ者を扱うならば、その者がどちらへ倒れかけているのか、見極めなければならない」
白瀬が静かに頷いた。
榊は続けた。
「今後、鬼子の保護記録を新設する。名、年齢、身元、家族、本人の言葉、共鳴時の反応、鬼化の進行度、本人が何を恐れているか、何を望んでいるかを可能な限り記す。記録名は、鬼子番号ではなく本人の名とする」
小夜の胸が熱くなった。
名を聞く。
それだけのことが、こんなにも大きい。
榊は文書を畳んだ。
「不満も、恐れもあるだろう。それでも、これは陛下の勅命であり、昨夜の結界庭で我々が見たものへの答えだ」
室内に沈黙が落ちた。
やがて、年嵩の隊士が低く言った。
「……封じるための結界具が足りません」
榊は頷いた。
「すぐに増産させる」
「医官も足りません」
白瀬が言った。
「鬼子の診察には、通常の鬼傷とは違う知識が必要です。御所陰陽局の術者と協力するなら、手順を統一してください」
「分かった」
「現場の隊士に、鬼子と野鬼の違いを教える時間も必要です」
「それも行う」
「暴走しかけた者の家族への説明は、誰がしますか」
事務方の男が言った。
「家族が拒絶した場合、保護期間はどう扱うのでしょう」
「その規定も必要ですね」
白瀬が答える。
「本人の意思確認ができるまで、医官の管理下に置くべきです。ただし、拘束という形に見えないよう、記録を残してください」
「結界室も足りません」
「旧倉庫を一時的に改修する」
榊が言う。
「御所陰陽局から術者を回してもらう。封鬼寮単独では足りない」
次々に、実務の声が上がり始めた。
恐れは消えていない。
不満もある。
けれど誰も、もう「無理だ」とは言わなかった。
小夜はその様子を見つめながら、静かに息を吐いた。
勅命が、現場の手順へ変わっていく。
理想が、面倒な書類と訓練と結界具の数へ降りていく。
それは地味で、すぐには馴染まないような変化かもしれない。
けれど、本当に世の中を変えるのは、こういうことなのだと思った。
誰かが美しい言葉を口にしただけでは救われない。
その言葉を、誰かが記録にし、手順にし、道具を用意し、夜明けの現場へ持っていく。
――そうして初めて、名前を呼ばれる人が増えていく。
会議が終わるころには、窓の外がすっかり明るくなっていた。
朝日が障子越しに差し込み、会議室の床に薄い光を落としている。
隊士たちはそれぞれ書類や指示を抱え、慌ただしく出ていった。
医官たちは白瀬の周りに集まり、鬼子の診察手順について確認している。
御所陰陽局の術者たちは、結界具の増産と封じ箱の搬入について話し合っていた。
小夜は、その光景を見つめていた。
封鬼寮は、まだ混乱している。
傷も多い。
それでも動いている。
昨夜までとは少し違う方向へ。
「朝霧」
榊に呼ばれ、小夜は顔を上げた。
「はい」
「君にも、これから負担がかかるかもしれない」
「私に、ですか」
「稀血として、鬼子の共鳴反応を感じ取れる者は少ない。君の力が必要になる場面はあるだろう」
伊吹の目が細くなる。
榊はそれに気づいているのか、言葉を継いだ。
「だが、それは君の意思を無視して使ってよいという意味ではない」
小夜は息を止めた。
「依頼する時は説明する。拒む権利もある。君が関わる記録には、君自身の言葉も残す」
榊は静かに言った。
「それも、今回の勅命に含まれる」
小夜の胸が、ゆっくりと温かくなった。
「……はい」
「朝霧」
「はい」
「――今度こそ、君自身の意思を確認する」
榊の声には、悔いが滲んでいた。
かつて、小夜の血をめぐる事件で、封鬼寮も御所も多くのものを曖昧にしてきた。
守るため。
必要だから。
仕方がなかったから。
そういう言葉で、小夜の意思は後回しにされた。
けれど今、榊はそれを繰り返さないと言っている。
小夜は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
榊は少しだけ目を伏せた。
「礼を言われることではない」
「それでも、言いたいです」
榊は何か言いかけ、やめた。
伊吹が横から軽く言う。
「榊、ほんとお父さんみたい」
「伊吹」
「今のは褒めたんだけど」
「褒め言葉として受け取るかどうかは、私が決める」
「厳しいなぁ」
伊吹は笑った。
榊はため息をついたが、その表情は少しだけ和らいでいた。
白瀬が会議室の入口から顔を出す。
「朝霧さん」
「はい」
「春日惣一が目を覚ましました」
小夜の肩が跳ねた。
「春日さんが」
「はい。意識ははっきりしています。ただし、非常に混乱しています。自分が何をしたのか、まだ断片的にしか分かっていないようです」
小夜は思わず一歩踏み出した。
「会えますか?」
白瀬は少しだけ考えた。
「短時間なら。ただし、あなたも疲労しています。深く共鳴しすぎないようにしてください」
「はい」
伊吹が小夜の肩に手を置いた。
「小夜ちゃん」
「分かっています。無理はしません」
「ほんと?」
「……できるだけ」
「小夜ちゃんの『できるだけ』、あんまり信用できないんだよね」
伊吹は困ったように笑った。
けれど、止めはしなかった。
榊が静かに言う。
「春日惣一は、今回の帝のお言葉が最初に届く者のひとりになる」
小夜は顔を上げた。
「最初に……」
「ああ。彼は、鬼子というだけで討たれなかった者だ。名を聞かれ、保護され、これから本人の意思を確認される」
榊の声は重かった。
「我々の彼への対応が、最初の試金石になる」
小夜は深く息を吸った。
春日惣一。
十六歳。
神田の活版所の見習い。
母に頼まれて、砂糖を買って帰る途中だった少年。
鬼子という名だけでは括れない人。
「行きます」
小夜は言った。
「春日さんの名前を、ちゃんと呼びたいです」
榊は頷いた。
白瀬も、静かに道を開ける。
廊下の向こうでは、夜明けの光が少しずつ強くなっていた。
封鬼寮の朝は、まだ慌ただしい。
負傷者の呻き声も、隊士たちの怒号も、書類を抱えて走る事務方の足音も消えていない。
それでも、小夜は思った。
何かが、ほんの少し変わり始めている。
昨日まで、鬼子と呼ばれた瞬間に消されていたかもしれない名前が。
今日からは、記録の一行目に書かれる。
小夜は首筋の刻印にそっと触れた。
熱は穏やかだった。
痛みではない。
誰かの名を繋ぎとめるための、小さな灯のように感じられた。
春日惣一のいる結界室へ向かって、小夜は歩き出した。




