第十九話 境を守る血
帝都の夜が裂けた。
空そのものにヒビが入ったわけではない。
けれど小夜には、そう感じられた。
御所を覆い、帝都を包んでいた見えない膜が、内側から音を立てて破れる。
結界庭の四方に立つ柱が軋み、白砂の上に走った黒い亀裂が、庭の外へ、宮城の壁へ、そのさらに向こうの帝都の町へと広がっていくように感じられた。
遠くで鬼が吠えた。
ひとつではない。
いくつも、いくつも。
その咆哮に重なるように、帝都の各所から悲鳴が上がった。
封鬼寮の緊急鐘が鳴っている。
かん、かん、かん、と硬い音が夜気を打ち、宮城の回廊を震わせ、御所の奥まで届く。
封鬼寮の隊士たちが、結界庭の外で次々に走り出した。御所陰陽局の者たちは顔色を失い、巻物や祭具を抱えて結界柱へ駆け寄る。宮中の重臣たちは御簾の向こうで声を荒らげ、女官たちは几帳の陰で怯えていた。
小夜は首筋を押さえた。
刻印が焼けるように熱い。
そこから全身へ、鈴の残響が流れ込んでくる。
――鬼の飢え。
――鬼子たちの恐怖。
街中で目覚めかける血の悲鳴。
そして、結界庭の中央で苦しむ澪宮の声にならない叫び。
それらが一度に小夜へ押し寄せた。
――息ができない。
膝が崩れそうになる。
しかし倒れる前に、伊吹の腕が小夜を支えた。
「小夜ちゃん」
声が近い。
伊吹の手は温かかった。
「小夜ちゃん、息をして」
伊吹の声が、耳元で落ちた。
「吸って。俺の声だけ聞いて」
小夜は、うまく息を吸えなかった。
耳の奥に鈴の残響が残り、喉が塞がったようになる。
伊吹の手が、小夜の背を強く支えた。
「大丈夫。持っていかせないから」
低い声と一緒に、伊吹の鬼気が刻印へ細く流れ込む。
焼けるようだった熱が、少しだけ形を変えた。
「……吐いて」
小夜は、震えながら息を吐いた。
「そう。もう一回」
伊吹の声に合わせて、少しずつ呼吸が戻ってくる。
「……もう大丈夫……ありがとう。伊吹」
「よかった」
伊吹は小夜の前に立ち、結界の綻びから這い込んできた黒い影を見据えた。
鬼だった。
野鬼。
人の形をわずかに残しているが、理性はほとんどない。長い腕を白砂に突き、裂けた口から涎を垂らしている。御所の結界が破れたことで、外から引き寄せられたのだろう。
その背後にも、いくつもの影が揺れていた。
伊吹は刀を構える。
黒に近い紺の羽織が、歪んだ風に揺れた。
「小夜ちゃん、下がって」
「でも」
「大丈夫。俺は小夜ちゃんのところに戻る」
伊吹は振り返らずに言った。
「だから、小夜ちゃんは陛下の声を聞いて」
その言葉の直後、野鬼が飛びかかった。
伊吹の姿が消える。
刃が月光のように閃き、鬼の腕が宙を舞った。黒い血が白砂へ落ちるより早く、伊吹は身をひねり、二撃目で鬼の喉を裂く。
鬼の体が黒い霧になって崩れた。
だが、次が来る。
結界の裂け目から、別の鬼が肩をねじ込むようにして現れた。
封鬼寮の隊士たちが応戦する。
庭の外から、隊長格の声が飛ぶ。
「市中へ向かう隊は南門へ! 鬼子暴走の報が三件、いや五件入っている! 医官隊を同時に出せ!」
「結界具を持て! 討伐ではなく封じを優先しろ!」
「西区の停留所付近にも鬼影あり!」
小夜はその声を聞きながら、心臓が凍るのを感じた。
帝都中の鬼子が暴走している。
冷泉の写し鈴は、澪宮だけを揺さぶったのではない。
帝都の結界を乱し、市中で眠っていた鬼子たちの血まで一斉に呼び起こしている。
春日惣一のように。
昨日、名を聞かれずに討たれた女のように。
今この瞬間にも、誰かが自分の爪に怯え、牙に怯え、人を喰いたくないと泣いているかもしれない。
小夜は歯を食いしばった。
結界庭の中央で、澪宮が膝をついている。
白い衣の袖が白砂に広がり、黒い瞳の奥では赤が燃えていた。爪は先ほどより長く、息は荒い。
けれど、その顔にあるのは飢えではなかった。
恐怖だった。
「朕は……なんてことを……」
かすれた声が、小夜の中へ流れ込んでくる。
小夜は首を横に振った。
「違います!」
声を張る。
「澪宮さまのせいではありません!」
けれど鈴の残響が強すぎる。
澪宮へ届いているのか分からない。
澪宮は震える手で胸元を押さえ、荒い息を吐いた。
「――鬼子は必ず暴走する」
冷泉の声が響いた。
混乱の中で、その声だけが異様に静かだった。
彼は写し鈴を手に、白砂の上に立っている。
周囲では鬼が侵入し、隊士たちが剣を振るっている。結界柱は不安定に光り、宮中の者たちは恐怖に凍りついている。
それでも冷泉の顔に動揺はなかった。
「ならば、隠しておく方が罪だ」
小夜は冷泉を睨む。
「……そのために、皆を暴走させたのですか」
「眠っていた危険を見える形にしただけです」
「人を苦しめておいて」
「苦しむなら、いずれ苦しんでいた」
冷泉の目は冷たい。
「鬼子は、いつか暴走する。私はそれを早めただけです」
小夜の中で、怒りが静かに膨らんだ。
「……あなたは、鬼子を憎んでいるだけです」
「いいえ」
冷泉は即座に否定した。
「守っているのです。人間を、この国を」
「そのために、誰かを暴走させていいはずがありません……ッ!」
「鬼子を隠しておけば、ある日突然、人を喰らう」
冷泉の声に、初めてわずかな色が混じった。
怒りではない。
憎しみでもない。
もっと古く、乾いた痛みのようなものだった。
「あなたは知らないのでしょう。昨日まで隣家で笑っていた者が、翌朝には血まみれの口で家族の名を呼ぶ光景を」
小夜は息を呑んだ。
冷泉の視線が、遠くなる。
「その女は、前日まで赤子を抱いて笑っていました。私の母に菓子を分け、幼い私の頭を撫でたこともある。人の顔をして、人の声で話し、人として暮らしていた」
結界庭の喧騒が、一瞬遠くなる。
「けれど翌朝、その女は鬼子として目覚めた。私の弟の名を呼びながら、弟の血を啜っていた」
冷泉は瞬きもしなかった。
「人の顔で。人の声で。鬼の飢えを宿して……あんなものは、もはや人ではない」
小夜は何も言えなかった。
冷泉の痛みは、本物だった。
彼が見た恐怖も、本物だった。
けれど、だからこそ恐ろしい。
彼はその一つの傷から、すべての鬼子を同じものとして見ている。
人として暮らしていた日々も、名前も、家族も、本人の恐怖も、すべてを危険という一語で塗り潰している。
「――だから、鬼子は討つべきだと?」
小夜は震える声で問う。
「違います」
冷泉は首を横に振った。
「鬼子は、まず暴かれるべきです。隠され、保護され、人の中に紛れたままにしておくことが罪なのです。危険を危険として扱わず、情に流されるから、次の犠牲者が出る」
「……では、澪宮さまもそうだと?」
「陛下であっても、例外ではありません」
冷泉は結界庭の中央を見た。
「帝が鬼子であるなら、国の中心に置いてはならない。帝都結界の核として隠し続けるなど、人々を欺く行為です」
斎臣が、結界の向こうで冷泉を睨んだ。
「陛下を道具のように語るな……!」
「道具として扱ってきたのは、御所でしょう」
冷泉は返す。
「御簾の中に隠し、血の渇きを隠し、帝都結界のために使い続けた。あなたも同じです、斎臣殿」
「……私は、陛下をお守りしてきた」
「真実を隠して?」
「……必要だったからだ」
「そうでしょう。私にも必要でした」
冷泉の声は静かだった。
「国を守るためなら、陛下であっても討つ。それだけのことです」
斎臣の表情が凍った。
小夜は二人を見る。
澪宮を愛し、守るために秘密にし、閉じ込める斎臣。
澪宮を危険視し、国を守るために暴き、排除しようとする冷泉。
二人は正反対に見える。
けれど、どちらも澪宮本人の声を聞いていない。
守るために閉じ込める。
正すために壊す。
どちらも、澪宮を澪宮として扱っていない。
小夜は澪宮へ視線を戻した。
澪宮の呼吸は乱れている。
赤い目で、何かを堪えるように唇を噛んでいた。
斎臣は結界を破ろうとしているが、澪宮の周囲に渦巻く鬼の血と写し鈴の残響が、それを拒んでいる。
彼の顔に、焦燥が浮かんでいた。
「朝霧小夜殿」
斎臣が叫んだ。
「血を」
小夜は振り返る。
「え……」
「少しでよい。陛下を鎮めるために、あなたの血を」
斎臣の声は必死だった。
そこに悪意はない。
澪宮を救いたいのだ。
小夜にも、それは分かる。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
(また、血……)
また、誰かのために小夜の血を使う話。
小夜が何か言うより早く、澪宮がかすれた声で呼んだ。
「……斎臣」
「陛下、今は」
「嫌だ」
斎臣の動きが止まった。
「……陛下?」
「小夜を、朕のための血にするな」
その声は弱い。
けれど、はっきりしていた。
澪宮は苦しげに息をしながら、小夜を見る。
「……小夜の血は、小夜のものだ」
小夜の胸が熱くなった。
四話で小夜が言った言葉を、澪宮は覚えていた。
血を欲しがりながら、噛まないと約束した少女。
自分の役目に他人を巻き込むことを、まだ学んでいる最中の帝。
その澪宮が今、斎臣を止めた。
――小夜を血として扱うな、と。
「澪宮さま」
小夜は呼んだ。
澪宮が小夜を見る。
赤い目の奥で、恐怖が揺れている。
小夜は首筋に手を当てた。
刻印はまだ熱い。
伊吹の鬼気と、自分の稀血と、澪宮の揺れる血が、どこかで細く繋がっているように感じる。
「……私は、自分の意思を無視して、勝手に血を使われるのは嫌です」
小夜は言った。
斎臣が息を呑む。
「――でも、私が決めて、私が使うなら、それは違います」
「朝霧小夜殿」
「血を差し出すという意味ではありません」
小夜は首を横に振った。
「私は、私の意思で澪宮さまの声を聞きます」
斎臣は言葉を失った。
小夜は澪宮へ向き直る。
結界の乱れがまだ二人の間にある。
写し鈴の残響は、澪宮の血を揺さぶり続けている。
けれど小夜は一歩踏み出した。
足元の白砂が熱を持ったように感じた。
首筋の刻印がさらに強く熱くなる。
伊吹が背後から声を上げる。
「小夜ちゃん!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
「それでも、行きます」
伊吹は息を詰めた。
その間にも、庭の端で新たな鬼が結界の裂け目から侵入する。
伊吹は小夜の方へ行きたいのを堪え、刀を構え直した。
「……絶対、戻って」
「はい」
小夜は澪宮へ手を伸ばした。
結界の乱れが指先を弾く。
痛みが走った。
けれど小夜は引かなかった。
「澪宮さま」
小夜は声を張る。
「鈴を聞かないでください。私の声を聞いてください」
「小夜の、声……」
「はい」
澪宮の赤い瞳が小夜を捉える。
その目の奥には、飢えではなく、溺れかけた子どものような恐怖があった。
「澪宮さまは、何をしたいのですか」
「朕は……」
澪宮は胸を押さえる。
爪が伸び、白い頬に赤が差す。
けれど、彼女は小夜の声を聞こうとしている。
「……朕は、呼びたくない」
「はい」
「壊したくない」
「はい」
「……でも、隠れたくもない」
澪宮の声が、少しずつ強くなる。
「もう、何も知らぬまま守られるのは嫌だ」
斎臣の顔が歪んだ。
小夜は結界の向こうへ、さらに手を伸ばす。
「それが、澪宮さまの意思ですね」
「うむ」
澪宮は震えながら頷いた。
「――朕の意思だ」
その瞬間、澪宮の周囲で荒れていた鬼の血の渦が、わずかに形を変えた。
暴走が完全に止まったわけではない。
けれど、澪宮自身の声が、その中心に立った。
冷泉が眉を寄せる。
「なぜ、鎮まる」
小夜は冷泉を見なかった。
澪宮だけを見ていた。
「澪宮さまは、あなたの鈴の言うことを聞きません」
小夜は言った。
「澪宮さまは、自分で選べます」
冷泉の目が冷たくなる。
「情の言葉で、血の危険が消えるとでも」
「消えません」
小夜は即座に答えた。
「でも、危険だからといって、閉じ込めていい理由にも、壊していい理由にもなりません」
斎臣と冷泉、二人へ向けて、小夜は言った。
「危ないから閉じ込めるのも、危ないから壊すのも、同じです。その人がどう生きたいかを、聞いてください」
白砂の庭に、声が響いた。
斎臣は言葉を失っていた。
冷泉は小夜を見据える。
伊吹は、鬼の爪を受け流しながら、ほんの一瞬だけ小夜を見た。
その目に、苦しそうな誇らしさがあった。
しかし冷泉は、まだ退かなかった。
「……あなたの情が、いつか帝都を焼く」
冷泉は静かに言った。
「鬼子はいずれ人を喰う。帝は国を滅ぼす。今日、あなたが止めたとしても、次はどうする?」
「……次も、名前を聞きます」
小夜は答えた。
「何を恐れているのか、何を望んでいるのか、聞きます」
「その間に人が死ぬぞ」
「――だから、封じます。止めます。必要なら戦います。でも、最初から鬼としてだけ扱いたくありません」
「甘い」
「……それでも、です」
冷泉の手が、写し鈴へ伸びた。
小夜は息を呑む。
伊吹が動こうとする。
だが、その前に斎臣の結界が冷泉の手元を縛った。
「――その鈴を、これ以上鳴らすことは許しません」
斎臣の声は低かった。
冷泉の眉がわずかに動く。
「斎臣殿。あなたは真実を隠し続けるのですか」
「私は、陛下を傷つけるものに寛容ではありません」
「国より陛下を選ぶと」
「そんなの当然です」
斎臣は迷わず言った。
「――私は昔から、そういう男です」
冷泉が冷ややかに笑う。
「だから、御所は腐る」
「そうかもしれませんね」
斎臣は一歩踏み出した。
「ですが、あなたの正義に陛下を差し出す気はない」
冷泉の手が結界に縛られる。
しかし彼もまた御所陰陽局の術を読み、封鬼寮長官として与えられた結界具を持っていた。袖から護符が落ち、斎臣の術に絡みつく。
斎臣と冷泉の術が、白砂の上で火花のように弾けた。
その隙を突くように、結界の裂け目から大きな鬼が飛び込んでくる。
隊士の一人が弾き飛ばされた。
伊吹がその前に入る。
鬼の爪が伊吹の肩をかすめ、羽織を裂いた。
小夜は悲鳴を上げかける。
伊吹は笑った。
「大丈夫。掠っただけ」
そのまま刀を逆手に持ち替え、鬼の脇腹を裂く。鬼が吠え、伊吹へ噛みつこうとした瞬間、伊吹は懐へ踏み込み、喉元から頭部へ刃を抜いた。
黒い霧が散る。
その向こうで、封鬼寮の鐘がまだ鳴っている。
市中では、もっと多くの戦いが起きている。
小夜には見えない。
それでも、共鳴で分かる。
――恐怖。
――混乱。
鬼子として目覚めた者たちの泣き声。
封じようとする隊士たちの必死の声。
白瀬のような医官たちが走る気配。
誰かが「殺すな、封じろ」と叫んでいる。
その声に、小夜は救われるような気がした。
冷泉の正義だけが、封鬼寮のすべてではない。
名を聞こうとする者たちもいる。
小夜は澪宮の手を強く握った。
「……澪宮さま」
「小夜」
「立てますか」
澪宮は、苦しげに息をしながら小夜を見た。
「立たねば、ならぬか」
「立ちたいですか」
澪宮は目を伏せた。
長い沈黙のように感じた。
実際には、ほんの数呼吸だったのかもしれない。
やがて、澪宮は小さく頷いた。
「……立ちたい」
小夜はその手を支えた。
「では、立ちましょう」
澪宮は震える足で立ち上がった。
斎臣が反射的に駆け寄ろうとする。
けれど、途中で止まった。
今、彼が前に出れば、また澪宮を隠してしまう。
守るために覆い隠してしまう。
斎臣は手を伸ばしかけたまま、強く拳を握った。
澪宮が彼を見る。
「斎臣」
「……陛下」
「もう、隠さなくてよい」
斎臣は息を呑む。
小夜はその横顔を見た。
斎臣の中で、何かが壊れ、何かが形を変えようとしている。
やがて彼は深く息を吸い、澪宮の前ではなく横へ立った。
両手で印を結ぶ。
白い結界が、小夜と澪宮の周囲に広がった。
それは御簾のように姿を隠すものではなかった。
澪宮がそこに立つための場所を守る結界だった。
「……御身の周りは、私が守ります。せめて、そのくらいはさせてください」
斎臣の声は低い。
「ですが、どうか無茶だけはなさらぬよう」
「分かった」
澪宮は小さく頷いた。
冷泉はその様子を見ていた。
彼の手から写し鈴を奪おうと、斎臣の結界がさらに絡みつく。冷泉は護符で抗うが、伊吹が鬼を斬りながら冷泉との距離を詰めた。
「長官様」
伊吹の声が軽くなる。
それがかえって恐ろしい。
「その鈴、まだ持ってるつもり?」
「封鬼寮の特務が、長官に逆らうのですか」
「小夜ちゃんを傷つけるやつは、長官でも何でも敵だよ」
「ははっ、黒夜の鬼らしい」
「え〜、褒めてる?」
「危険だと言っています」
「そっかぁ」
伊吹は笑いながら続ける。
「俺もお前のこと危険だと思ってるから、お揃いだね」
冷泉が護符を放つ。
伊吹はそれを斬った。
斎臣の結界が冷泉の手首を縛り、伊吹の刃が写し鈴の鎖を断つ。
銀の鈴が宙に舞った。
小夜は息を呑む。
冷泉が手を伸ばすより早く、伊吹が柄でそれを弾き飛ばした。鈴は白砂に落ち、斎臣の結界に包まれる。
御所陰陽局の者が慌てて封じの箱を持って駆け寄った。
冷泉は初めて、はっきりと表情を歪めた。
「……それを封じても、真実は消えません」
「よい。消えぬなら、朕が言う」
澪宮の声が響いた。
庭の混乱が、少しだけ静まる。
鬼と戦っていた隊士たちも、御簾の向こうの者たちも、冷泉も斎臣も、その声に意識を向けた。
澪宮は立っていた。
小夜の手を借り、斎臣の結界に守られ、それでも自分の足で。
赤い瞳はまだ完全には戻っていない。
爪も少し伸びたままだ。
白い衣の裾は白砂で汚れている。
それでも、彼女は帝だった。
隠された鬼子ではなく、自分の言葉で立とうとしている帝だった。
「冷泉」
澪宮は震える声で言った。
「そなたは、朕の血を暴こうとしたな」
「隠されていた真実です」
「ならば、朕が言う」
ざわめきが広がる。
斎臣が青ざめた。
「陛下、おやめください」
「斎臣」
「……それを口になされば、もう戻れません」
「戻らぬ」
澪宮は斎臣を見た。
「朕は、もう隠れぬ」
斎臣は唇を引き結んだ。
それ以上、止めなかった。
澪宮は前を向く。
「朕の血には、鬼が混じっている」
御簾の向こうで、誰かが息を呑んだ。
宮中の重臣たちがざわめく。
御所陰陽局の者が巻物を落とし、封鬼寮の隊士たちが一瞬だけ動きを止めた。
冷泉の目が鋭くなる。
彼は勝ったと思ったのかもしれない。
けれど澪宮は続けた。
「だが、この血は穢れではない」
その声はまだ細い。
けれど庭に響いた。
「人の血だけでは届かぬ場所がある。鬼の血だけでは保てぬ境がある。朕は、その間に立つために生まれた」
小夜の身が震えた。
――境守り。
古い血の名。
歪められ、閉じ込められ、役目として使われてきたもの。
けれど今、澪宮はそれを自分の言葉で言い直している。
「鬼子は危険です」
冷泉が言った。
声は冷静だった。
それでも、そこには焦りが混じっていた。
「あなたの血が、今、帝都結界を壊した!」
「……違います!」
小夜が言った。
冷泉が小夜を見る。
「澪宮さまの血を、あなたが無理に揺さぶったんです」
「……揺さぶれば壊れるものを、どうして国の中心に置けるのです」
「揺さぶって壊した人が言うことではありません」
伊吹が低く言った。
冷泉は伊吹を無視し、澪宮を見た。
「陛下。どれほど美しい言葉で飾っても、鬼子が暴走する事実は変わりません」
「うむ」
澪宮は頷いた。
「危うい血であることは、朕も知っている」
冷泉がわずかに目を細める。
「ならば」
「だからこそ、隠してはならぬ。だが、危ういからといって、名を奪い、問わずに討ってよいわけではない」
澪宮は小夜の手を一度見た。
小夜は頷く。
澪宮は顔を上げた。
「これより、鬼子を見つけ次第討つことを禁ずる」
庭が揺れた。
斎臣が驚いたように澪宮を見る。
澪宮は続ける。
「まず名を聞け。帰る場所を聞け。何を恐れ、何を望むかを聞け」
小夜の目に涙が滲んだ。
昨日、名を聞かれずに討たれた女。
春日惣一。
夕霧。
名を奪われ、鬼子という言葉の中に押し込められた者たち。
澪宮は、そのすべてに届くように言っていた。
「血を調べるならば、本人の許しを得よ。封じられる者は封じよ。人を喰らう寸前の者は止めよ。それでも止まらぬ時のみ、討て」
「陛下」
冷泉の声は冷たかった。
「……その甘さが、いずれ帝都を滅ぼします」
「甘さではない」
澪宮は、はじめて冷泉を真正面から見た。
「そなたは真実を白日の下に晒したと言った。ならば、これも真実だ」
「何を……」
「朕の血は危うい。鬼子も危うい。人もまた、恐れれば残酷になる」
冷泉は黙った。
「ならば、危うさを知った上で、どう扱うかを決めねばならぬ。隠すことも、問わずに討つことも、どちらも朕は選ばぬ」
小夜は澪宮の横顔を見た。
彼女はまだ震えている。
でも、もう籠の中で泣いていた少女ではなかった。
冷泉はしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「……帝都を滅ぼすおつもりですか」
澪宮は目を伏せない。
「そうなったときは、朕が責めを負う」
「負えるとでも?」
「逃げぬ」
短い言葉だった。
けれど、その一言が冷泉の顔を歪ませた。
彼は理解できないのだろう。
鬼子であることを認め、危険であることも認め、それでも逃げずに立つということが。
冷泉はもう一度、何か術を使おうとした。
しかし斎臣の結界が彼の腕を完全に封じ、伊吹がその背後に回っていた。
「もう終わりだよ、長官様」
伊吹の声は軽い。
「斬らないであげてるんだから、ありがたく捕まって」
「――あなた方は、後悔する」
冷泉は小夜と澪宮を見た。
「血は、必ず血を生む。今日の選択が、次の犠牲を呼ぶだろう……!」
「その言葉も、記録に残します」
斎臣が静かに言った。
「あなたが何を信じ、何をしたのか。すべて」
「隠さないのですか」
冷泉は皮肉に笑った。
斎臣は澪宮を見た。
澪宮も斎臣を見ていた。
少し前の斎臣なら、きっと隠した。
――澪宮を守るために。
――御所を守るために。
真実など不要だと言って。
けれど斎臣は、ゆっくり首を横に振った。
「……もう、隠しません」
その声は、かすかに苦かった。
「陛下が、そう望まれないので」
澪宮の瞳が揺れた。
冷泉は、それ以上何も言わなかった。
封鬼寮の隊士たちが冷泉を取り囲み、写し鈴は御所陰陽局の封じ箱に収められた。
それでも戦いは終わっていなかった。
結界はまだ完全には戻っていない。
庭の外では、鬼の影がうごめいている。市中からは封鬼寮の鐘が鳴り続け、遠くで隊士たちの声が重なっていた。
澪宮は本物の勅鈴へ向き直った。
斎臣がすぐに支えようとする。
澪宮は一度だけ彼を見る。
「斎臣」
「はい」
「朕を支えよ」
斎臣は息を呑んだ。
隠せ、ではない。
下がらせろ、でもない。
支えよ。
その命を受け、斎臣は澪宮の横に膝をついた。
「……御意」
小夜も澪宮の手を支えたまま、勅鈴を見つめる。
本物の勅鈴は、白い絹の上で静かに震えていた。
先ほどまでの写し鈴とは違う。
その響きは、血を裂くものではない。
乱れたものを元の場所へ戻すような、澄んだ気配だった。
澪宮は目を閉じる。
小夜は、澪宮の呼吸を感じた。
まだ不安定だ。
それでも、澪宮の中にある血は、もう冷泉の鈴に支配されていない。
澪宮自身の意思が、その中心にある。
りん、と本物の勅鈴が鳴った。
清らかな音が、結界庭に広がる。
白砂の亀裂に光が流れ、四方の結界柱が淡く輝きを取り戻した。空気の裂け目が少しずつ縫い合わされていく。
伊吹が、最後に侵入してきた鬼を斬った。
黒い霧が散り、庭の外の気配が遠ざかる。
封鬼寮の隊士たちが、御所の外へ走っていく。市中の戦いはまだ続くだろう。けれど、帝都全体を覆う結界は、少しずつ戻り始めていた。
小夜の首筋の刻印も、穏やかな熱へと変わっていく。
痛みではない。
誰かの意思を繋ぎとめるための、あたたかな熱のように感じられた。
澪宮が目を開ける。
赤は完全には消えていなかった。
黒い瞳の奥に、薄く残っている。
けれどそれは、隠すべき穢れの色ではなかった。
人と鬼の境に立つ者の、消えない証のように見えた。
儀式が終わった時、澪宮は立っているのがやっとだった。
それでも倒れなかった。
斎臣が横から支えている。
小夜はその手を離す。
澪宮は小夜を見る。
「小夜」
「はい」
「……朕は、言えたか」
「はい」
小夜は頷いた。
「ちゃんと、言えました」
澪宮はほんの少しだけ目を伏せた。
「……怖かった」
「はい」
「でも、隠れなかった」
「はい」
斎臣が、かすれた声で言う。
「……陛下」
「斎臣、怒っておるか」
「……いいえ」
斎臣は首を横に振った。
「……ただ、どうお守りすればよいのか、まだ分かりません」
澪宮は斎臣を見る。
「では、覚えよ」
斎臣は息を呑んだ。
それから、深く頭を下げる。
「……はい」
その声は、これまでの斎臣のものとは少し違っていた。
澪宮を閉じ込めるためではなく、澪宮が立つ場所を守るための返事のように、小夜には聞こえた。
伊吹が小夜の隣へ戻ってきた。
羽織は裂け、肩には浅い傷がある。
小夜は目を見開いた。
「伊吹、怪我を……」
「掠っただけ」
「掠っただけではありません」
「まあまあ。小夜ちゃんが怒るくらいには元気ってことで」
「白瀬先生に診てもらってください」
「はいはい」
伊吹は少し笑ったあと、御所陰陽局に囲まれて連れていかれる冷泉を見た。
「あいつ、助ける価値あった?」
小夜は冷泉を見た。
冷泉は捕らえられても、膝を折っていない。
その横顔には敗北よりも、静かな確信が残っている。
――自分は間違っていない、と。
きっと、まだそう思っている。
「……あります」
小夜は言った。
伊吹は、小さく息を吐いた。
「ほんと、俺以外のやつにも甘い顔をするんだから」
小夜は、少しだけ笑った。
けれど、すぐに表情を引き締める。
まだ終わっていない。
市中には鬼子たちがいる。
鬼に襲われた人々もいる。
封鬼寮は今夜、夜明けまで動くだろう。
それでも、小夜は白砂の庭に立つ澪宮を見た。
御簾の中から出た帝。
鬼の血を持つことを、自分の言葉で名乗った少女。
名を聞け、と命じた人。
世界は、すぐには変わらない。
冷泉のように恐れる人はいる。
斎臣のように隠そうとする人もいる。
それでも、今日、ひとつだけ変わった。
鬼子という名で消されていた人々に、名前を聞くという命が下った。
小夜は首筋の刻印に触れた。
熱はもう、ほとんど穏やかになっている。
(……きっと、少しずつ、変わっていく)
たとえ、傷だらけの始まりだったとしても。
(――良い方へ、変えていける)
遠くで、封鬼寮の鐘が鳴っている。
けれどその音はもう、絶望だけを告げるものではなかった。
戦うために。
救うために。
名を聞くために。
帝都の夜へ、隊士たちが走っていく音だった。




