第十八話 結界鎮めの儀
結界鎮めの儀は、午後に行われることになった。
急に決まった儀式にもかかわらず、宮城の奥にある結界庭には、すでに人が集められていた。
白砂の庭を朱塗りの回廊が囲み、四方には古い結界柱が立っている。柱には細かな文字が刻まれ、近づくと皮膚がわずかに粟立つような気配があった。
庭の中央には、白い絹が敷かれている。
その上に置かれていたのは、銀の鈴だった。
斎臣が以前、本物の勅鈴だと告げたものだ。
小夜は庭の端に立ち、その鈴を見つめていた。
本物の勅鈴は、不思議なほど静かだった。風が回廊を抜けても、鈴は少しも鳴らない。
これまで小夜が聞いてきた鈴の音とは違う。耳を裂くような不快さも、血を引っ張られるような感覚もない。
ただ、そこにある。
水底に沈んだ月のように、冷たく清らかだった。
(……あれじゃない)
小夜は首筋に手を当てた。
衣の襟の下には、伊吹が刻んだ刻印がある。
刻印は、勅鈴そのものには強く反応していなかった。
けれど、まったく落ち着いているわけでもない。皮膚の下で、細い火種のような熱がくすぶっている。
小夜は庭の反対側へ視線を移した。
冷泉清成が立っていた。
白い長官服。整えられた黒髪。耳元で揺れる、小さな銀の飾り。
その銀飾りが光を受けるたび、小夜の首筋がかすかに熱を持つ。
伊吹も同じものを見ていた。
彼はいつものように軽く笑ってはいない。蜂蜜色の瞳を細め、冷泉の手元と袖口を静かに観察している。
「小夜ちゃん」
低く呼ばれ、小夜は顔を上げた。
「はい」
「息、浅くなってる」
言われて初めて、自分の呼吸が細く乱れていることに気づいた。
結界庭の白砂。四方に立つ結界柱。中央に置かれた勅鈴。御簾や几帳の向こうから注がれる宮中の視線。そして、庭の向こうで静かに立つ冷泉。
そのすべてが、小夜の体を強張らせていた。
「怖い?」
伊吹が尋ねる。
小夜は少しだけ迷った。
「……少し」
「じゃあ、俺に合わせて」
「合わせる?」
「息を」
伊吹は、小夜の手首にそっと指を添えた。
脈を確かめるような触れ方だった。強く掴むのではなく、けれど小夜が崩れそうになればすぐ支えられる距離だった。
「吸って」
低い声に促され、小夜は息を吸った。
「吐いて」
小夜はゆっくり息を吐く。
伊吹の指先が、手首の脈をなぞる。刻印ではなく、血の流れを確かめるような触れ方だった。
「もう一回」
「……はい」
小夜はもう一度息を吸い、ゆっくり吐いた。
御所の視線も、冷泉の気配も消えない。けれど、伊吹の声だけが近くに残る。
「小夜ちゃんが崩れたら、俺が困る」
「……私が、ですか」
「うん」
伊吹は少しだけ目を細めた。
「陛下も、結界も、御所も、今は全部面倒だけど」
その声が、ほんの少し低くなる。
「俺にとって一番まずいのは、小夜ちゃんが持っていかれること」
「持っていかれる……?」
「鈴に。御所に。冷泉に。陛下の苦しみに。それから、鬼の血に」
小夜の肩が小さく揺れた。
堕ち鬼。
人でありながら、鬼の血や呪いに触れ、鬼へと堕ちた者たち。夫を亡くした女性のことも、稀血だった榊の妹のことも、小夜は思い出さずにはいられなかった。
伊吹は、小夜が鬼化して我を忘れることを恐れているのだ。
伊吹の指が、小夜の手首に軽く力を込める。
「小夜ちゃんは、すぐ誰かの痛いところに手を伸ばすから」
「……それは」
「悪いって言ってないよ」
伊吹は庭の中央を見た。
白い衣をまとった澪宮が、勅鈴の前に立とうとしている。
「でも、引っ張られすぎたら、俺が引き戻す」
小夜の緊張が、ほんの少しだけほどけた。
「……お願いします」
そう言うと、伊吹の目がわずかに甘くなる。
「うん」
彼は、小夜の手首からすぐには指を離さなかった。
「小夜ちゃんが俺を頼ってくれる時は、俺はちゃんと聞こえる」
「……はい」
「だから、儀の間、今の呼吸を覚えてて」
小夜は頷き、視線を前へ戻した。
怖さは消えていない。
けれど、呼吸はもう乱れていなかった。
結界庭の中央へ、澪宮が進み出た。
今日は御簾の中ではない。
白い衣をまとった少女が、人々の前に立っている。宮中の重臣たちは御簾や几帳の向こうから、御所陰陽局の者たちは記録の巻物を手に、封鬼寮の隊士たちは警護として庭の外周から、それぞれ彼女を見ていた。
斎臣は澪宮のすぐ後ろに控えている。
けれど今日の澪宮は、斎臣の影に隠れていなかった。
顔色は白い。
それでも、前を見ていた。
小夜はその姿を見て、胸が締めつけられた。
澪宮は怖いはずだ。
噂も、人目も、冷泉の視線も。
それでも彼女は立っている。
自分の意思で、御簾の外へ出たのだ。
御所陰陽局の者が祝詞を上げ始めた。
低い声が白砂の庭に広がり、四方の結界柱が淡く光る。中央の勅鈴がかすかに震えたが、まだ音は鳴らない。
その時、冷泉が一歩前へ出た。
「それでは、結界の乱れを測るため、補助祭具を用います」
斎臣が振り返った。
「補助祭具?」
「御所陰陽局の古記録に基づいた共鳴具です。本鈴を鳴らす前に、周囲の鬼気を測定する必要があります」
「そのようなものは聞いておりません」
「今、申し上げました」
「冷泉殿」
斎臣の声が低くなる。
冷泉は淡々と答えた。
「何か不都合が?」
「儀式の手順にないものを、陛下の御前へ持ち込むことは許しません」
「結界の乱れを正しく測るためのものです」
「許しません」
斎臣の表情が険しくなった。
小夜の首筋が、強く熱を持つ。
「……伊吹」
「うん」
伊吹の声は低かった。
「来るね」
冷泉の手が、袖の内側へ入った。
その瞬間、伊吹が動いた。
黒に近い紺の羽織が翻る。庭にいた者たちが声を上げるより早く、伊吹は冷泉との距離を詰め、その手首を押さえていた。
冷泉の袖口から、小さな銀の鈴が覗いた。
本物の勅鈴よりずっと小さい。
けれど、その形はよく似ていた。
庭の空気が冷える。
斎臣の目が鋭くなる。
「冷泉殿。それは何です」
「補助祭具です」
「鳴らすおつもりでしたか」
「――必要な測定ですから」
冷泉は手首を押さえられても、表情を変えなかった。
伊吹は鋭い目つきで吐き捨てた。
「測定って言えば、何でも許されると思ってる?」
「黒夜の伊吹。離しなさい!」
「嫌だね。小夜ちゃんの刻印が反応してる。これ、普通の祭具じゃないでしょ」
冷泉の視線が小夜へ向いた。
小夜は首筋を押さえたまま答える。
「本物の勅鈴には、ここまで反応しません。でも、その鈴には反応しています」
御簾の向こうで、ざわめきが起きた。
斎臣が冷泉へ近づく。
「その鈴をこちらへ」
「儀式の進行を妨げるおつもりですか」
「陛下の御身を害する恐れのあるものを、陛下の前で鳴らさせるわけにはいきません」
斎臣の声には、いつもの穏やかさがなかった。
冷泉はしばらく斎臣を見ていた。
やがて、ゆっくりと指の力を抜く。
小さな写し鈴が、伊吹の手によって取り上げられた。
斎臣がそれを受け取り、符で包む。
銀の鈴は、符に包まれた瞬間、かすかに震えた。けれど音は出なかった。
小夜は息を吐いた。
――間に合った。
そう思った。
澪宮も、胸元に置いていた手を少しだけ下ろす。
斎臣が澪宮の方へ振り返った。
「陛下。ご安心ください。危険は取り除きました」
澪宮は小夜を見た。
「小夜」
「はい」
「今の鈴は、悪いものだったのか」
「……少なくとも、澪宮さまに近づけてよいものではなかったと思います」
澪宮は小さく頷いた。
「そうか。なら、よかった」
その声に、わずかな安堵が混じった。
伊吹も冷泉の手首を離したが、彼のそばから離れなかった。
「長官様」
「何です」
「これで終わりじゃないよね。まだ何か企んでいるんじゃない?」
冷泉は答えなかった。
その沈黙に、小夜の胸がざわつく。
次の瞬間だった。
庭の外れ、結界柱の陰で、人影が揺れた。
小夜は振り返る。
そこにいたのは、春日惣一だった。
彼は封鬼寮で保護されていたはずだった。
まだ十六歳の少年。
神田の活版所で見習いをしていて、母に頼まれて砂糖を買って帰る途中で、鬼子として目覚めた少年。
その春日惣一が、青ざめた顔で立っていた。
牙は戻りきっていない。
けれど爪は黒く、目の奥には赤い濁りが滲んでいる。
彼の手には、小さな銀の鈴が握られていた。
「春日さん……? なぜ……」
小夜の声が震える。
春日惣一は泣いていた。
黒くなりかけた指で、鈴を握りしめている。
「朝霧、さん……」
その声は、確かに春日惣一のものだった。
「止めてください……」
小夜は息を呑む。
「……僕、鳴らしたくない」
伊吹が動こうとした。
けれど、その前に春日惣一の指が震える。
「でも、御声が……鳴らせって……」
「春日さん、手を離して!」
小夜が叫ぶ。
春日惣一は必死に首を横に振った。
「離したい。でも、指が……動かない……!」
顔色を変えた斎臣が符を放とうとする。
伊吹が地を蹴る。
けれど、間に合わなかった。
春日惣一の指が、鈴に触れた。
――りん。
音は細かった。
けれど、その一音が小夜の首筋を焼いた。
「っ……!」
小夜の首筋の刻印が熱くなる。
首筋から背骨へ、背骨から体の奥へ、冷たい針を通されたような感覚が走った。
同時に、澪宮が胸元を押さえる。
「小夜……」
澪宮の声が震えた。
「――鈴が、内側で鳴っておる」
黒い瞳の奥に、赤が滲む。
白い指先から、爪のようなものが伸びかけた。
けれど澪宮は誰にも牙を向けていない。
ただ、苦しんでいた。
――喉が渇く。
――痛い。
――怖い。
――誰かが呼んでいる。
――誰かが、朕の中を勝手に鳴らしている。
その感情が、小夜の中に流れ込む。
小夜は膝をつきそうになりながら、どうにか踏みとどまった。
伊吹の指が、小夜の手首に強く触れる。
「呼吸」
低い声が耳元で響いた。
「小夜ちゃん、息をして」
小夜は息を吸った。
うまく吸えない。
それでも、伊吹の手がある場所を頼りに、どうにか自分を繋ぎ止める。
「澪宮さまは、呼んでいません!」
小夜は叫んだ。
「呼ばされているんです!」
結界庭の柱が軋んだ。
白砂の上に、細い亀裂のような影が走る。空気が歪み、遠くの帝都の方から獣の吠える声が聞こえた。
封鬼寮の隊士たちがざわめく。
御所陰陽局の者が悲鳴を上げる。
宮中の御簾の向こうで、人々が息を呑む気配がした。
春日惣一はその場に膝をついた。
鈴を握った手を震わせながら、涙をこぼしている。
「ごめんなさい……僕、鳴らしたくなかった……」
小夜は彼へ駆け寄ろうとした。
しかし、伊吹が小夜の腕を押さえる。
「今はだめ」
「でも」
「小夜ちゃんが近づいたら、春日惣一の鬼の血も、もっと反応する」
その通りだった。
春日惣一の喉が、稀血の匂いに反応している。
彼自身は嫌がっているのに、牙が小夜の方を向きかけていた。
冷泉だけが、静かに立っていた。
伊吹に止められ、鈴を取り上げられたにもかかわらず、少しも焦っていない。
その目は、澪宮と春日惣一を見ている。
そして、ようやく小さく口を開いた。
「やはり、反応しましたか」
小夜の背筋が冷えた。
「冷泉長官……あなたは」
「皆さん、ご覧ください!」
冷泉の声は、結界庭によく響いた。
「――これが、隠されてきた帝の真実です」
斎臣が澪宮の前に出ようとする。
しかし、澪宮の周囲で結界が乱れ、彼の足を弾いた。
「陛下!」
「斎臣……」
澪宮の声は苦しげだった。
冷泉は続ける。
「鬼子は必ず暴走する。それが市井の娘であろうと、活版所の少年であろうと、帝であろうと、変わりません」
庭がざわめいた。
斎臣が怒声を上げる。
「冷泉清成!」
「私は、危険を危険と証明しただけです」
その声は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「陛下の御身を傷つけたな!」
「傷つく真実なら、最初から隠しておくべきではなかった」
小夜は冷泉を睨みつける。
耳の奥で、鈴の音がまだ鳴っている。
けれど、澪宮の苦しみの方が強かった。
誰かが、自分の中を勝手に暴いている。
誰かが、自分の血を証拠として並べようとしている。
その恐怖が、小夜にも流れ込んでくる。
斎臣は必死に結界を張ろうとしていた。
しかし、澪宮の周囲で荒れ狂う鬼の血と帝都結界の歪みが、彼の術をはじき返す。いつもなら澪宮のそばに当然のように踏み込む男が、今は半歩も近づけずにいた。
「陛下を隠せ!」
斎臣が叫んだ。己の狩衣を脱いで、澪宮にかぶせる。
「誰も陛下を見るな!」
御所の者たちが慌てて動こうとする。
けれど冷泉の声が、それを止めた。
「隠してどうなります」
冷泉は春日惣一の手から転がり落ちた写し鈴を見下ろし、斎臣へ視線を戻す。
「また御簾の奥へ戻すのですか。鬼子である帝を。人の国の中心に据えたまま」
「冷泉、黙れ!」
斎臣の声は、怒りで濁っていた。
「陛下をそんな呼び方するんじゃない!」
「鬼子は鬼子です」
冷泉の声は揺れなかった。
「たとえ、玉座に座っていても」
澪宮が苦しげに息を吐く。
小夜は一歩踏み出そうとした。
その瞬間、首筋の刻印がさらに熱くなり、視界が揺れた。
――鬼の飢え。
――人の恐怖。
――澪宮の苦痛。
帝都のどこかで眠っていた鬼子たちの悲鳴が、細い糸になって小夜の中へ流れ込んでくる。
小夜は歯を食いしばった。
伊吹が小夜の肩を支える。
「小夜ちゃん、無理しないで」
「でも、澪宮さまが」
「分かってる。でも今の小夜ちゃんも危ない」
伊吹の声は近い。
その近さに、小夜はどうにか自分を保った。
冷泉は、澪宮だけを見ていた。
「陛下。あなたは国を守っているつもりで、鬼子を呼んでいる」
「違う……!」
澪宮の声は細い。
「朕は、呼んでおらぬ……っ」
「では、なぜ鬼子たちは御所へ向かったのです」
「……そんなの、知らぬ!」
「なぜ帝都結界は、あなたの御不調とともに揺らぐのです」
「それは……」
「なぜ、あなたの血はこの鈴に反応するのです」
澪宮の顔が歪む。
その問いは刃だった。
答えを求めているのではない。答えられないように追い詰めている。
小夜は息を吸い、声を張った。
「澪宮さまを責めないでください!」
冷泉の視線が、小夜へ向く。
「責めているのではありません。確かめているのです」
「あなたは、澪宮さまを壊そうとしているだけではないのですか!?」
「……いいえ」
冷泉は静かに言った。
「私は、真実を白日の下に晒そうとしているだけです」
その言葉に、庭の空気がさらに冷えた。
伊吹の目が鋭くなる。
冷泉は続ける。
「鬼子は必ず暴走することを」
写し鈴が、白砂の上でかすかに揺れた。
冷泉の指先が、わずかに白くなる。
握りしめた手に力が入りすぎている。
彼自身も、気づいていないのかもしれない。
「ならば、隠しておく方が罪でしょう」
「……そのために、鬼子を暴走させたのですか?」
小夜の声が震えた。
冷泉は答えない。
それが答えだった。
小夜の頭が、怒りで真っ白になる。
春日惣一。
街中で討たれた女。
名を聞かれなかった鬼子。
彼らは冷泉にとって、人ではなかったのだ。
証明のための材料。
真実を見せるための犠牲。
伊吹が、一歩前へ出た。
「へえ。小夜ちゃんを餌にして、陛下まで壊そうとしたんだ」
伊吹の声が低い。
「帝都を守るためには、必要な犠牲です」
冷泉は伊吹を見た。
「ふうん」
伊吹が笑った。
その笑みを見た瞬間、小夜の背筋に冷たいものが走った。
軽い笑みではない。
伊吹が、本気で斬る時の顔だった。
「じゃあ、お前も必要な犠牲ってことでいいよね?」
「伊吹!」
小夜が叫ぶより早く、伊吹の姿が動いた。
黒に近い紺の羽織が翻り、冷泉との距離が一瞬で詰まる。庭にいた封鬼寮の隊士たちが反応する暇もなかった。
冷泉は護符を放つ。
白い結界が彼の前に立った。
伊吹の刃がそれを斬り裂く。
乾いた音を立てて結界が砕け、白砂の上に光の破片が散った。
冷泉の表情がわずかに動く。
伊吹は止まらない。
「――黒夜の鬼」
冷泉が低く言った。
「あなたもまた危険だ」
「小夜ちゃんの前でそれ言う?」
「その娘を守るという名で、いつか全てを壊す」
伊吹の目が細くなる。
刃が、冷泉の喉元へ向かった。
小夜は叫んだ。
「伊吹、駄目です!」
刃が止まる。
冷泉の喉まで、ほんの指一本分の距離だった。
伊吹は振り返らない。
息が荒い。
刀を握る指が白くなっている。
わずかに、震えていた。
怒りでも、緊張でもない。
止めたくないという意志が、その指の震えに表れていた。
――止まれない。
止まれないかもしれない。
その緊張が、白砂の庭に張りつめる。
「……なんで」
「私のために殺さないでください」
「小夜ちゃんのためじゃないよ」
伊吹の声は低かった。
「俺が嫌だから殺すだけ。責任を感じなくても良い」
「……それでも、止まってください」
「……小夜ちゃん」
「私の前で、私を理由に誰かを殺さないでください」
白砂の庭に、沈黙が落ちた。
伊吹の肩がわずかに震える。
――怒り。
――殺意。
それを押しとどめる苦しさだ。
やがて伊吹は深呼吸してから、ゆっくりと刃を下ろした。
「……小夜ちゃんの、そういうところが嫌い」
「嫌いですか」
「嘘」
伊吹は、冷泉から目を離さないまま言った。
「好き。腹立つくらい」
小夜は胸が痛くなった。
けれど、そこで安心する暇はなかった。
春日惣一が、地面に落ちた鈴へ手を伸ばしていた。
泣きながら、必死に首を横に振っている。
「いやだ……もう、鳴らしたくない……」
その声とは裏腹に、黒い爪が鈴を拾い上げる。
斎臣が叫んだ。
「伊吹殿!」
伊吹が振り返る。
小夜も手を伸ばした。
「春日さん!」
春日惣一の目から、涙が落ちた。
「ごめんなさい……!」
彼の指が、鈴に触れる。
――りん。
二度目の音は、一度目よりも深かった。
音というより、血を直接震わせる何かだった。
その瞬間、世界が止まった。
白砂の庭。
四方の結界柱。
御所の重臣たち。
封鬼寮の隊士たち。
すべてが、息を呑む。
澪宮の白い指先から、爪が伸びていく。
まるで、内側から鬼が押し上げてくるように。
黒い瞳の奥で、赤がゆっくりと広がっていく。白絹の上に墨の一滴が落ち、じわじわと染み込んでいくようだった。
澪宮の白い肌に、薄く血管が浮き上がる。
その血管が、ほんのりと赤く脈打っていた。
別の何かが、彼女の中で目覚めかけている。
「小夜……朕は、知らない」
澪宮の声は、いつもの幼い帝の声ではなかった。
「……朕の中で、誰かが目覚める」
小夜は息を呑んだ。
「やめてくれ……朕は、こんなものになりたくない」
澪宮の指先が震える。
白い衣の裾が、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
誰かを傷つけたのではない。
澪宮自身の指から、爪が伸びる時に滲んだ血だった。
小夜は、その瞬間を見ていた。
澪宮の中で、何かが決壊する瞬間を。
そして、結界が壊れた。
結界庭の四方に立つ柱が、同時に軋んだ。
白砂の下から黒い亀裂が走る。
空気がひび割れる。
帝都を覆っていた見えない膜が、内側から破れるような音を立てた。
遠くで、鬼が吠えた。
ひとつではない。
帝都のあちこちから、いくつもの咆哮が重なって響く。
同時に、街の方角から人々の悲鳴が上がった。
街の外から鬼が入ってくる。
市中で眠っていた鬼子たちの血が、いっせいに揺さぶられている。
封鬼寮の緊急鐘が、遠くで鳴り始めた。
かん、かん、かん、と硬い音が帝都に響く。
隊士たちが走り出す。
御所陰陽局の者たちが叫び、宮中の人々が逃げ惑う。
斎臣は澪宮のもとへ駆け寄ろうとするが、暴走した澪宮の結界に阻まれて近づけない。
伊吹は冷泉を斬るのを諦め、すぐに小夜の前へ戻った。
庭の外、崩れた結界の隙間から黒い影が這い込んでくる。
――鬼だ。
伊吹は刀を構える。
春日惣一は、白砂の上に倒れ込んでいた。
手から離れた写し鈴が、血のついた指先のそばで転がっている。
小夜は彼に駆け寄りたかった。
けれど澪宮もまた、白砂の中央で胸を押さえている。
爪が伸び、瞳の赤が濃くなっている。
それでもその顔にあるのは、飢えではなかった。
恐怖だった。
「小夜……」
澪宮がかすれた声で呼ぶ。
「朕が、結界を壊したのか……?」
「違います!」
小夜は叫んだ。
けれど鈴の残響が強すぎて、声が届いているのか分からない。
冷泉だけが、静かに立っていた。
写し鈴によって崩れていく結界庭を見ている。
その顔に、喜びはなかった。
あるのは、ひどく冷たい確信だった。
帝都の方角から、さらに大きな悲鳴が上がる。
封鬼寮の鐘が鳴り続けている。
冷泉は澪宮を見た。
そして、静かに告げた。
「――鬼子は、必ずこうなる。それを証明する」
その言葉の向こうで、帝都の夜が裂けた。




