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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第十七話 約束の甘味

 通達を受けたあと、小夜は伊吹に半ば部屋へ押し戻され、短い仮眠を取った。


「小夜ちゃんが倒れたら、陛下どころじゃないからね」


 そう言われて布団に入ったものの、深く眠れた気はしなかった。

 澪宮のこと。

 冷泉のこと。

 二日後の儀のこと。

 白い紙に書かれた自分の名前。

 それらが頭の中を行き来しているうちに、夕刻が来た。

 その日の夕刻、小夜は御所へ上がった。

 正式な出仕ではなく、澪宮の見舞いという形だった。

 伊吹も同行した。

 御所の奥で、噂が育っていた。

 はじめは、ほんの小さな囁きだったという。

 鬼子が御所へ向かったらしい。

 その鬼子は、帝の御声を聞いたと言ったらしい。

 近ごろ陛下の御身が優れぬのは、帝都結界の揺らぎと関わりがあるらしい。

 誰が最初に口にしたのかは分からない。

 けれど噂というものは、乾いた草に火が移るように広がっていく。ひとつの声が次の声を呼び、いつの間にか形を変え、御所の廊下や几帳の向こう、女官たちの袖の陰、宮中の男たちの低い会話の中に潜り込んでいた。


 ――帝が、鬼子を呼んでいるのではないか。


 ――帝都の鬼子は、御所の奥にいる何かに引かれているのではないか。


 澪宮の名を直接口にする者はいない。

 それでも、噂はそこにあった。

 見えない霧のように、御所の中を薄く覆っている。

 内廷の廊下には、いつも以上に人の気配が少なかった。

 遠くで衣擦れの音がしても、小夜たちが近づくとすぐに途切れる。障子の向こうで誰かが息を呑み、几帳の陰に隠れるように姿を消した。

 小夜は首筋に手を当てた。

 刻印は、まだ熱くない。

 けれど、皮膚の奥が落ち着かなかった。

 小夜の隣を歩く伊吹も、いつものように軽く笑ってはいなかった。蜂蜜色の瞳が、御所の白木の廊下と、その向こうに立つ人影を静かに見ている。


「嫌な空気だね」


 伊吹が小さく言った。


「はい」


「御所って、もともと好きじゃないけど、今日は特に息苦しいな」


 小夜は頷いた。

 御所の空気は、いつもどこか人を従わせるように硬い。けれど今日は、その硬さの奥に、恐れが混じっていた。


 ――澪宮が鬼子かもしれない。


 ――鬼子が帝であるかもしれない。


 そんな疑いを、誰も表で言わない。

 言わないからこそ、余計に濃くなっている。

 御簾の間の前に着くと、斎臣が待っていた。

 白い狩衣に身を包み、髪はいつものように隙なく結い上げられている。整った微笑みも変わらない。

 けれど小夜は、その目元に疲労の影を見た。


「朝霧小夜殿。黒夜の伊吹殿」


 斎臣は深く一礼した。


「本日もお越しいただき、恐れ入ります」


「澪宮さまのご様子は」


「……今は、落ち着いておられます」


 斎臣は静かに答えた。


「ただし、長くはお話しになれません」


「噂のことを、澪宮さまは……」


「陛下のお耳に入れる必要のないことです」


 即座に返ってきた言葉に、小夜は息を詰めた。

 斎臣は穏やかに続ける。


「宮中の舌は、放っておくと毒になります。切るべきものは、早めに切らねばなりません」


「切る、とは」


「噂の根を、という意味です」


 斎臣は微笑んだ。

 けれど小夜には、その言葉が噂だけを指しているようには聞こえなかった。

 伊吹が低く目を細めた。


「斎臣殿って、ほんと物騒なことを優しい顔で言うよね」


「あなたにだけは言われたくありません」


「俺は物騒な顔で物騒なこと言うから、まだ親切でしょ」


「親切の意味をご存じないようですね」


 二人のやり取りはいつも通りのようでいて、少しも軽くなかった。

 小夜は斎臣の横顔を見た。

 夕霧の話を聞いてから、斎臣を見る目は変わってしまった。

 この人は、澪宮を守っている。

 それは本当だ。

 けれど同時に、澪宮の世界を狭めてきた人でもある。

 守るためなら真実を隠し、遠ざけ、消すことをためらわない。

 その怖さを、小夜はもう知らないふりができなかった。


「陛下がお待ちです」


 斎臣は身を引いた。

 御簾の間に入ると、澪宮は几帳のそばに座っていた。

 今日は御簾が上げられている。

 夕暮れの薄い光が障子越しに差し込み、澪宮の白い衣を淡く染めていた。


「小夜」


 澪宮は、小夜を見るなり少しだけ身を乗り出した。


「来たな」


「はい。お加減はいかがですか」


「斎臣が、よいと言っておる」


「澪宮さまご自身は?」


 澪宮は少し考えた。


「……少し、胸がざわざわする」


 小夜は目を伏せた。


「二日後の儀のことですか」


「うむ」


 澪宮は小夜の袖に視線を落とした。


「掴んでもよいか」


「はい」


 小夜が近づくと、澪宮はそっと袖を掴んだ。

 今日は力が弱い。

 怖いのだろう。

 小夜は隣に膝をつく。

 伊吹は柱のそばに座り、斎臣は少し離れて控えた。

 澪宮は小夜をじっと見ていたが、ふと、首を傾げた。


「小夜」


「はい」


「その髪のものは、花か」


 小夜は自分の髪に触れた。

 今日は、母から昔もらった小さな髪飾りをつけている。飾りは派手ではないが、白い小花を模した細工が付いていた。


「はい。母が昔、買ってくれたものです」


「母」


「はい」


「外で買ったのか」


「そうです。帝都ではありませんが、町の市で」


 澪宮は髪飾りを見つめる。


「外には、そういうものが売っているのか」


「はい。髪飾りも、簪も、綺麗な布もあります」


「甘いものもあるか」


 小夜は少し驚いた。


「甘いものですか」


「夕霧が言っていた」


 澪宮の声が、少しだけ柔らかくなる。


「団子。赤い飴。蒸した饅頭。どれも、朕は知らぬ」


 小夜は、夕霧の話を思い出した。

 団子の味。

 雨上がりの土の匂い。

 裸足で走ると石が痛いこと。

 市で売っている赤い飴。

 それは、澪宮がずっと御所の奥で聞いていただけの外の世界だった。


「団子は、甘い餡を乗せたものや、醤油を塗って焼いたものがあります」


「醤油を塗っておるのか」


「はい。香ばしくて美味しいです」


「それなら、餡とは?」


「小豆を甘く煮たものです」


 澪宮は真剣な顔で聞いていた。

 その表情があまりにも真面目で、小夜は少しだけ微笑む。


「澪宮さまは、甘いものがお好きですか」


「分からぬ。あまり食べたことがない」


「では、今度一緒に食べてみましょう」


 澪宮の目が、小さく動いた。


「一緒に?」


「はい」


「御所の外でか」


 小夜は少し迷った。

 御所の外へ澪宮が出るのは簡単ではない。

 それでも、言いたかった。


「また帝都を観光しましょう。今度は、澪宮さまが食べたいものを探すために」


 澪宮は小夜の袖を握りしめた。


「約束か」


「はい。約束です」


「……小夜は、約束を忘れぬか」


「忘れません」


「夕霧も、団子を食べさせると言った」


 小夜の胸が痛む。

 澪宮は視線を落とした。


「……でも、夕霧は消えた」


「私は、消えません」


 小夜は言いかけて、少しだけ言葉を止めた。

 ずっとそばにいるとは、言えない。

 けれど、約束を軽く扱いたくはなかった。


「少なくとも、私は約束を忘れません」


 澪宮は小夜を見た。

 その黒い瞳の奥に、かすかな赤が静かに揺れる。


「ならば、朕も忘れぬ」


「はい」


「小夜と団子を食べる」


「はい」


「赤い飴も」


「はい」


「饅頭も」


「たくさんですね」


「夕霧が言っていたものを、全部確かめる」


 澪宮は、ほんの少しだけ胸を張った。

 それがあまりに可愛らしくて、小夜は微笑みそうになった。

 伊吹が柱のそばから不満そうに口を挟む。


「小夜ちゃんと陛下、仲良くなりすぎじゃない?」


 澪宮が伊吹を見る。


「友だからな」


「それ、便利に使ってない?」


「便利とは何だ」


「いや、いいけど」


 伊吹は小夜を見る。


「小夜ちゃん、俺とも団子食べに行くよね?」


「伊吹はいつでも食べに行けるでしょう」


「そういう問題じゃない」


「どういう問題ですか」


「小夜ちゃんと行くかどうかの問題」


 澪宮が真剣に頷いた。


「それは大事だな」


「陛下、そこは分かるんだ」


「友と食べる団子は、ひとりで食べる団子と違うのであろう」


 小夜は言葉を失った。

 その通りだ。

 食べ物そのものより、誰と食べるか。

 夕霧が澪宮に伝えたかった外の世界も、きっとそういうものだったのだろう。

 斎臣が静かに口を挟んだ。


「陛下。御所の外へお出ましになる話は、軽々にお決めになるものではございません」


 澪宮は斎臣を見る。


「分かっておる」


「でしたら」


「だから、儀をつつがなく終える」


 斎臣の表情が、かすかに強張った。

 澪宮は小夜の袖を掴んだまま、まっすぐ前を見た。


「皆が朕を疑うなら、朕が立つ。朕が帝都結界を鎮められると示せば、妙な噂は消えるのだろう」


「陛下……あの儀は、御身に負担が大きすぎます。私は反対です」


 斎臣の声が低くなる。


「隠れておれば、噂は消えるのか」


「――私が消します」


「斎臣が消すものは、いつも朕には見えぬ」


 部屋の空気が止まった。

 小夜は息を呑む。

 斎臣の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「陛下」


「夕霧も、見えなくなった」


 澪宮の声は静かだった。

 責めるというより、ただ事実を置く声だった。

 だからこそ、斎臣は何も言えなかった。


「……朕は、もう何も知らぬまま守られるのは嫌だ」


 澪宮は小夜の袖から手を離した。

 その手を、自分の膝の上に置く。


「……怖い」


 小さな声だった。


「だが、小夜がいるなら、朕は少し怖くない」


 小夜の胸が熱くなる。


「おそばにいます」


「伊吹も」


 澪宮が柱のそばの伊吹を見る。


「小夜の鬼も来い」


「言われなくても行くよ」


 伊吹は静かに答えた。


「小夜ちゃんが行くなら、俺も行く」


 斎臣が眉をひそめる。


「黒夜の鬼を儀式の場に入れることは……」


「小夜を守るものだろう」


 澪宮は斎臣を見た。


「小夜を呼ぶなら、小夜の鬼も呼ぶ」


 伊吹が少しだけ目元を緩めた。


「陛下、俺の扱いが雑じゃない?」


「違うのか」


「違わないけど」


「なら、よい」


 そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。

 けれど斎臣の表情は硬いままだった。


「陛下。どうかお考え直しを」


「斎臣」


 澪宮は彼を見た。


「これは、朕の儀であろう」


 斎臣は言葉を失った。

 御所の奥で、誰よりも澪宮を守ってきた男。

 その彼が、今は澪宮の言葉に止められている。

 小夜は、澪宮の横顔を見た。

 怖いと言った少女が、それでも自分で立とうとしている。

 その姿は危うい。

 とても危うい。

 けれど、美しかった。

 その時、部屋の外から取次の声がした。


「冷泉長官がお見えです」


 斎臣の目が冷える。


「通すな」


 しかし、澪宮が先に言った。


「通せ」


「陛下」


「儀の話であろう」


 斎臣は一瞬、躊躇した。

 けれど澪宮の視線を受けて、やがて低く命じる。


「……通しなさい」


 冷泉清成は、静かに御簾の間へ入ってきた。

 白い長官服。

 整えられた黒髪。

 耳元には、小さな銀の飾りが揺れている。

 小夜の首筋が、かすかに熱を持った。

 まだ音はしない。

 けれど、体が先に警戒している。

 冷泉は深く礼をした。


「陛下。二日後の結界鎮めの儀につき、最終の確認に参りました」


 澪宮は冷泉を見た。


「朕は、出る」


「ご英断かと存じます」


 冷泉の声は静かだった。


「御身を疑うような不敬な噂は、本来ならば口にすることすら許されぬもの。ですが、消すには証が要ります。陛下ご自身が帝都結界を鎮める御姿を示せば、誰もそれ以上は申せますまい」


「健やかではない」


 澪宮はぽつりと言った。

 冷泉はわずかに顔を上げる。


「ですが、お立ちになる」


「うむ」


「ならば、それで十分です」


 小夜は冷泉を見た。

 その言葉は澪宮を励ましているようにも聞こえる。

 けれど、どこか冷たい。

 澪宮が健やかであるかどうかなど、彼にはどうでもいいのではないか。

 立つこと。

 人前に出ること。

 何かを証明すること。

 それだけが重要なのではないか。

 冷泉の視線が小夜へ向いた。


「朝霧小夜殿にも、ご同席いただけるとのこと」


「はい」


「稀血として、結界の揺らぎを感じ取った際には、正確に証言してください」


「証言……」


「あなたは鬼子事件の重要な共鳴者です。あなたの反応は、儀の記録にも意味を持つ」


 伊吹の目が冷えた。


「小夜ちゃんを道具みたいに言うね」


「事実を申し上げただけです」


「その言い方が嫌いなんだよ」


「あなたにも立ち会っていただきます、黒夜の伊吹」


 冷泉は伊吹へ視線を移した。


「帝直属の特務封鬼師として」


「へえ」


「万一、儀の場で鬼気の乱れが起きた場合、封鬼寮は即応する責務があります」


「誰に即応しろって?」


「状況に応じて」


 冷泉の声は変わらない。


「鬼を止める。それが封鬼寮の役目です」


 小夜の背筋が冷えた。


 ――鬼。


 その言葉が、澪宮のいる場で、あまりに平然と置かれた。

 斎臣の声が低くなる。


「冷泉殿。御前では言葉を選びなさい」


「失礼いたしました」


 冷泉は形だけ頭を下げた。


「ですが、備えは必要です。儀の正当性を担保するためにも、御所陰陽局、封鬼寮、宮中の重臣が立ち会うべきでしょう」


「正当性ねぇ」


 伊吹が口の端だけで笑う。


「ずいぶん好きだね、その言葉」


「必要なものです」


 冷泉は淡々と答えた。


「後に、誰も事実を捻じ曲げられぬように」


 小夜の気持ちが、重く沈む。

 冷泉の言うことは、表面だけ見れば正しい。

 噂を消すため、澪宮が結界を鎮める。

 記録を残すため、封鬼寮が立ち会う。

 万一に備え、特務封鬼師がいる。

 何ひとつ、おかしくないように聞こえる。

 けれど、その正しさの形が怖かった。

 正しい手順。

 正しい記録。

 正しい備え。

 それらがすべて、誰かを追い詰めるために並べられている気がした。

 澪宮の表情はほとんど変わらない。

 けれど、袖の端を握る指が、少しだけ震えている。

 斎臣はその様子を静かに見ていた。

 彼の顔には、いつもの微笑みが戻っている。

 けれど、小夜には分かった。

 斎臣は怒っている。

 澪宮が小夜を選び、伊吹を呼び、冷泉の前で自分の意思を口にしたことに。

 そして何より、それを止められなかった自分に。

 冷泉は深く一礼した。


「それでは儀式をつつがなく執り行えるよう、準備を整えます」


 その言葉が、なぜか小夜にはひどく冷たく聞こえた。

 冷泉が去ったあと、御簾の間には重い静けさが残った。

 澪宮はしばらく何も言わなかった。

 やがて、小夜の髪飾りへもう一度視線を向ける。


「小夜」


「はい」


「団子の約束は、儀が終わった後だな」


 澪宮は小さく頷いた。


「ならば、朕は無事に儀を終わらせる」


 それは幼い決意だった。

 外へ出るための、小さな約束。

 御簾の中から一歩進むための理由。

 小夜はその決意を、美しいと思った。

 だからこそ、怖かった。

 冷泉が何を考えているのか分からない。

 斎臣がどこまで澪宮を守ろうとするのかも分からない。

 儀式の場で何が起こるのか、まだ何も見えない。

 けれど、小夜は思った。

 二日後、澪宮が立つなら。

 小夜もそばに立つ。

 たとえ、その場所に罠があるとしても。

 たとえ、自分の血や反応が誰かに利用されるとしても。

 澪宮が「小夜がいるなら怖くない」と言ったなら、その言葉を裏切りたくなかった。



 御所を出る頃、空は薄紫に暮れていた。

 宮城の門を抜けると、帝都の夕暮れの匂いがした。

 どこかで団子を焼く匂いが、風に混じって流れてくる。

 醤油の焦げる香ばしい匂い。

 甘い餡の匂い。

 澪宮は、まだこの匂いを知らない。

 小夜は立ち止まり、ほんの少しだけ振り返った。

 御所の屋根は、夕闇の中に沈みかけている。

 あの奥に、澪宮がいる。

 二日後、大勢の視線の前に立つ少女がいる。


「小夜ちゃん」


 伊吹が隣で呼んだ。


「はい」


「怖い?」


 小夜は少しだけ考えた。


「怖いです」


「うん」


「でも、行きます」


「知ってる」


 伊吹は息を吐いた。


「じゃあ、儀式のときは、ちゃんと隣にいる」


「またですか」


「『隣にいて』って、小夜ちゃんが前に言ってくれたし」


 小夜は息を呑む。


「……はい」


 伊吹は満足そうに目元を緩めた。


「約束」


「今日は、約束が多いですね」


「いいんじゃない。約束は多い方が、帰ってくる理由になる」


 その言葉に、小夜は胸を突かれた。

 帰ってくる理由。

 澪宮にも、そういうものが必要なのかもしれない。

 団子を食べる約束。

 赤い飴を確かめる約束。

 小夜がそばにいる約束。

 伊吹が隣にいる約束。

 小夜はもう一度、御所の方を見る。

 夕暮れの空の下、宮城は静かだった。

 静かすぎるほどに。


 ――二日後、その静けさがどうなるのか。


 小夜はまだ知らない。




 

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