第十六話 朝餉の湯気と白い通達
封鬼寮の食堂には、明け方の朝餉の湯気が立っていた。
大きな釜から立ちのぼる味噌汁の匂い。炊きたての米の匂い。夜の任務を終えた隊士たちが、濡れた外套を入口の衣桁に掛け、低い声で言葉を交わしている。
御所の外へ出た翌朝、封鬼寮はいつも通り騒がしかった。
いつも通り、というのは不思議な言葉だ。
鬼が出ても、鬼子が暴走しても、帝都のどこかで誰かが傷ついても、封鬼寮には朝が来る。隊士たちは食事を取り、刀を手入れし、結界具を点検し、夜の出動に備える。
小夜は湯飲みを両手で包み、食堂の隅に座っていた。
茶は温かい。
けれど、胸の奥はまだ少し冷えていた。
昨日、澪宮は御所の外を見た。
牛鍋屋の匂いに驚き、路面電車の音に肩を震わせ、飴売りの声に目を丸くしていた。
そして、街中で討たれた鬼子を見た時、白い顔をさらに白くした。
鬼子は、見つかれば討たれる。
暴走すれば、名を聞かれる前に斬られることもある。
澪宮はそれを知らなかった。
御所の中で、守られ、隠され、閉じ込められていたからだ。
小夜は湯飲みを見下ろした。
茶の表面に、食堂の灯りが揺れている。
「昨日の北町の鬼子、身元が分かったらしいぞ」
少し離れた卓で、隊士の一人が小声で言った。
「身元?」
「紙問屋の娘だと。十七か十八くらいだったらしい」
小夜の指が、湯飲みの縁で止まる。
別の隊士が息を吐いた。
「討った後で分かったのか」
「ああ。爪も牙も出てたから、現場じゃ野鬼と見分けがつかなかったって話だ」
「……名があったんだな」
その言葉のあと、食堂に短い沈黙が落ちた。
名があった。
家があった。
もしかすると、待っている人もいた。
けれど暴走した瞬間、彼女は鬼子と呼ばれた。
討伐対象と呼ばれた。
小夜は首筋を押さえる。
刻印は熱くない。
それでも、肌に細い痛みが残っていた。
「朝霧さん」
声をかけられ、小夜は顔を上げた。
神崎志乃が、盆を持って立っていた。盆の上には小さな皿が二つある。ひとつには塩漬けの梅、もうひとつには小さく切られた羊羹のようなものが載っていた。
「隣、いい?」
「はい」
志乃は小夜の隣に腰を下ろし、盆を卓に置いた。その動きは少しだけ勢いがあったが、羊羹の皿だけは小夜の方へきちんと寄せられる。
「これ、賄いのおばさんから。今日は朝霧さん、顔色が悪いからって」
「私にですか」
「そう。甘いものでも食べなさいって」
小夜は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「私に言われても困る。あとでおばさんに言ってちょうだい」
志乃はそう言って、自分の湯飲みに口をつけた。けれど、その視線はすぐに小夜の顔色へ戻る。
「昨日も、無理してたでしょ」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすいわよ」
志乃は少しだけ眉を寄せた。
「朝霧さん、隠すの下手だもの」
「……そうでしょうか」
「そう。前からずっと」
志乃は湯飲みを置き、少しだけ視線を逸らした。
「伊吹様のことも、前から分かりやすかったし」
「なっ……」
小夜は思わず声を詰まらせた。
志乃は、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「気づいてないと思ってたの? 無理よ。あれだけ伊吹様ばかり見ておいて」
「……見ていた、というほどでは」
ない、はずだ。
そう思いたかった。
「見てた」
断言された。
小夜は湯飲みを持ったまま、何も言えずうつむいた。
頬に朱がのぼる。
「まあ、私も最初は、つけ入る隙くらいあると思ってたけど」
志乃は、少しだけ悔しそうに唇を尖らせた。
「でも、今はもう違うわ」
「……違う、のですか」
「うん」
志乃は湯飲みを両手で包む。
「伊吹様、朝霧さんの前だと変だもの」
「変……?」
「変よ。前から変だったけど、最近はもっと変」
小夜は複雑な気持ちになった。
「それは、良い意味でしょうか」
「半分くらいは」
「半分……」
「残り半分は、見ている方が居たたまれないという意味」
俯いて、視線を逃がす。
志乃はそんな小夜を見て、少しだけ口の端を上げた。
「でも、よかったんじゃない」
「何がですか」
「朝霧さんが、前より人間っぽくなったこと」
小夜は瞬きをした。
「……私は元から人間ですが」
「そうだけど、いつも食堂でも居づらそうにしてたし。人形みたいに感情を押し殺してるように見えた。だから、前よりもあなたのことをいいなって思ってる」
志乃は早口で言う。照れくささを隠すためかもしれない。
志乃は羊羹の皿を、小夜のほうに指で小さく押した。
「ご厚意なんだから、食べなさいよ」
小夜は思わず口元を押さえた。
最初に来た時は、ここが怖かった。
高い塀と結界に囲まれた場所。
保護の名で閉じ込められる場所。
自分の血が、自分以外のものにされてしまうかもしれない場所。
けれど今、小夜の前には温かい茶があり、志乃がいて、賄い婦がくれた甘いものがある。
食堂の向こうでは、隊士たちが事件の話をしながらも、味噌汁を飲み、米を食べている。
ここは、事件を処理するだけの場所ではない。
人が生きて、戻ってきて、また出ていく場所だ。
「……少し、馴染んできたのかもしれません」
小夜がぽつりと言うと、志乃が首を傾げた。
「何に?」
「ここにいることに」
志乃は小夜を見た。
それから、少しだけ表情を緩める。
「それなら、よかった」
「はい」
「ただ、慣れすぎるのも危ないわよ」
「危ない?」
「封鬼寮は落ち着く場所でもあるけど、落ち着いていると急に出動鐘が鳴るからね」
小夜は思わず瞬きをした。
志乃は真面目な顔で続ける。
「茶を飲み終える前に走ることもあるし」
「……そうですね」
小夜は同意して苦笑した。
「それに、女の隊員ってお見合いでも嫌厭されちゃうんだから。女らしくないってね」
志乃はそう言って肩をすくめる。
その時、背後から声がした。
「俺も仲間に入れてよ」
振り返る前に、伊吹はもう小夜の反対側に座っていた。
「聞く前に座っているじゃないですか」
「俺の席は小夜ちゃんの隣って決まってるから」
伊吹は悪びれずに目を細め、小夜の前の皿を見る。
「珍しい。甘いものだ」
「賄いの方がくださったんです」
「へえ。小夜ちゃん、愛されてるね」
「心配されてるんです」
志乃がすかさず言った。
「伊吹様はそうやってすぐ変な言い方をするから、朝霧さんが困るでしょう」
「でも困らせたいんだよね〜」
「そういうのは、好きな女性にしてはいけません」
「志乃ちゃん、相変わらず厳しいなあ」
「目が覚めましたから」
「ひどい」
「事実です」
伊吹が面白そうに目を細めた。
「何が見えるの?」
「伊吹様は、朝霧さんが絡むと本当に面倒くさいということが」
「え〜、ひどいなあ」
そう言いながら、伊吹はなぜか嬉しそうだった。
小夜は口元を押さえた。
「今、笑った?」
「笑っていません」
「笑ったよ。志乃ちゃん、見た?」
「見ました」
小夜が困ると、志乃は少しだけ得意そうに湯飲みを持ち上げた。
「朝霧さんは、隠すのが下手ですからね」
伊吹が横から小夜を覗き込む。
「だって。小夜ちゃん、俺のこと好きなのも隠せてなかったって」
「……伊吹、聞いていたんですか」
「全部聞いてた。ごめんね、怒った?」
「……怒ります」
恥ずかしくて、耳まで熱がのぼってしまう。
「怒った小夜ちゃんも可愛い」
志乃が深いため息をついた。
「……本当に、見せつけられる側の身にもなってほしいわ」
その言い方は呆れていた。
けれど、そこに以前のような棘はなかった。
「毎日分かりやすく二人でいちゃつかれたら、馬鹿らしくもなるんだから。あーぁ、私はなんで伊吹様にあんなに執心してたんだろう」
「い、いちゃついてなんか……」
「してる」
志乃は真顔だった。
「今のがそう。お見合いがうまくいかない私への当てつけとしか思えない」
小夜は返す言葉を失った。
少し離れた卓で、隊士の一人がこちらを見て、隣の男に小声で言った。
「伊吹さん、朝霧さんの前だと本当に大人しいな」
「大人しいか?」
「前よりは」
「まあ、前よりはな」
二人はそれだけ言って、何事もなかったように味噌汁をすすった。
小夜は真っ赤になって、小さく震える。
会話が周囲に丸聞こえだった。
伊吹は聞こえていたらしく、楽しそうに目元を緩めていた。
その軽さに、胸にあった固いものが少しだけほどける。
けれど、食堂の空気は完全には明るくならなかった。
隊士たちの話は、また鬼子のことへ戻っている。
「……冷泉長官の方針だと、今後は暴走鬼子も即時討伐になるんですかね」
「さあな。でも、現場で迷えば人が死ぬ」
低い声が、卓を越えて届く。
志乃が湯飲みを置いた。
「……現場の人間ほど、迷うと思う」
「志乃さんもですか」
「うん」
志乃はまっすぐ答えた。
「鬼子と分かっていても、目の前で人を喰おうとしていれば止める。止まらなければ斬るしかない。でも、斬ったあとで人間だったときの名を知るのは、きついかも」
小夜は何も言えなかった。
封鬼寮は鬼を討つ組織だ。
けれど、討つ者たちが何も感じていないわけではない。
それを忘れていたわけではないが、今は前よりもはっきり分かる。
小夜が見た鬼子の恐怖。
澪宮が知った外の現実。
隊士たちが背負ってきた判断。
それぞれの場所に、違う苦しさがある。
「朝霧さん」
食堂の入口から白瀬の声がした。
小夜が顔を上げると、白瀬が数枚の書類を持って立っていた。いつもの白衣の上に、薄い羽織をかけている。
食堂の中が少し静かになった。
白瀬は小夜の卓まで来ると、書類を一枚差し出した。
「御所から通達がありました」
「御所から?」
小夜は紙を受け取る。
細い筆文字で、儀式の日程と立会人の名が記されていた。
その中に、自分の名前がある。
朝霧小夜。
その隣に、黒夜の伊吹。
「これは……」
「結界鎮めの儀です」
白瀬は淡々と言った。
「陛下ご自身が、結界庭にて帝都結界を鎮める儀を行うそうです」
小夜の心臓が、きゅっと縮む。
「陛下が?」
(お体は、大丈夫なのかしら……)
昨日の澪宮の血の気の失せた顔を思い出す。
「二日後とは急ですけれどね」
白瀬の声は変わらない。
けれど、その目は少し厳しかった。
「ですが、表向きの理屈は筋が通っています」
「理屈?」
「宮中で噂が広がっています。鬼子が帝の御声を聞いた。御所へ向かった。陛下の御不調と帝都結界の揺らぎが関係しているのではないか、と」
小夜は唇を噛んだ。
志乃も黙っている。
伊吹だけが、紙を横から覗き込み、嫌そうに目を細めた。
「これ、誰の提案の儀式なの?」
「冷泉長官です」
「やっぱりなぁ」
伊吹は低く息を吐いた。
「嫌な予感しかしないんだけど」
「表向きは、陛下をお守りするための提案です」
白瀬は書類をもう一枚広げた。
「陛下に疑いを向けるなど不敬。だからこそ、陛下ご自身が健やかに帝都結界を鎮める御姿を示すべきである。そうすれば、宮中に広がる噂を鎮められる、と」
「正論みたいなこと言ってるけどね」
伊吹の声が冷える。
「ええ。正論の形をしています」
白瀬は小夜を見る。
「おふたりには立ち会いが求められています。伊吹さんは帝直属の特務封鬼師として。朝霧さんは、鬼子事件における稀血の共鳴証言者として」
「私も、ですか……」
「はい」
白瀬は少しだけ目を伏せた。
「それに、陛下ご自身が望まれたそうです」
小夜の指が、紙の端を握りしめる。
「澪宮さまが?」
「……小夜がいるなら、怖くない、と」
その言葉は、胸に温かく落ちた。
同時に、重くもあった。
澪宮が小夜を頼ってくれている。
それは嬉しい。
けれど、あの少女がどれほど怖がっているのかを思うと、息が詰まる。
御所の外で鬼子討伐の現実を見たばかりの澪宮が、今度は大勢の前で結界を鎮める儀式に立つ。
それは、どれほど心細いことだろう。
「行きます」
小夜は言った。
伊吹が小夜を見る。
「即答だね」
「澪宮さまが望まれたなら、参加するしかないでしょう」
「小夜ちゃんの、そういう優しいところ、ほんと気に食わないなあ」
伊吹はそう言いながらも、怒っているわけではなかった。
ただ、目の奥が冷えている。
「俺以外にも優しいから」
「伊吹」
「分かってる。ただの嫉妬」
志乃が呆れたように言う。
「今、この場でそういうことを言うんですか」
「だって本当だし」
「本当でも言わなくていいときがあります」
「志乃ちゃんまで小夜ちゃんみたいなこと言うんだから」
「朝霧さんがまともなんです」
白瀬が静かに咳払いをした。
「話を戻します」
伊吹は肩をすくめた。
白瀬が書類を畳む。
「朝霧さん。御所へ行くなら、気をつけてください」
「はい」
「儀式の場では、あなたの稀血が強く反応する可能性があります」
小夜は息を呑んだ。
「私の稀血が、ですか」
「ええ。陛下、勅鈴、帝都結界、鬼子の血。今回の件に関わるものが、一か所に集められます」
白瀬の声は淡々としていた。
「あなたは、そこにあるものを拾いすぎるかもしれません」
「拾いすぎる……」
「誰かの恐怖。鬼の飢え。結界の乱れ。陛下の苦痛。そういうものが一度に流れ込めば、あなた自身が持ちません」
伊吹の顔から笑みが消えた。
「白瀬先生」
「はい」
「それ、かなり嫌な話だね」
「私もそう思います。冷泉長官は、朝霧さんの反応に意味を持たせようとするでしょう。でも、朝霧さん。あなた自身まで、その意味に呑まれないでください」
白瀬は静かに答えた。
「だから、異変を感じたらすぐに離れてください。耐えようとしないこと。あなたは祭具ではありません」
小夜は書類を見つめた。
自分の名がある。
澪宮が望んだ名。
冷泉に利用されるかもしれない名。
同じ名前が、違う意味を持たされている。
小夜はゆっくり息を吸った。
「それでも、行きます」
伊吹はしばらく小夜を見ていた。
やがて、諦めたように息を吐く。
「だと思った」
「止めないんですか」
「止めたいよ」
伊吹は小夜の手元にある書類を指で軽く叩いた。
「でも、陛下が小夜ちゃんを呼んで、小夜ちゃんが行くって言うなら、俺は隣に行く方を選ぶ」
「ありがとうございます」
「ただし」
伊吹が小夜の顔を覗き込む。
「少しでも変だと思ったら、俺を見ること」
「御所の怖さに勝つためですか」
「覚えてた?」
「はい」
伊吹は満足そうに目を細めた。
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫なのですか」
「小夜ちゃんが俺を見るなら、少しは」
その言葉は軽い。
けれど、伊吹の手は卓の下で小夜の指先に触れていた。
強く握るわけではない。
ただ、ここにいると知らせるような触れ方だった。




