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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第十五話 名も知らぬ鬼子

 春日惣一が通ったという停留所は、百貨店から少し歩いた先にあった。

 そこだけ、先ほどまでの華やかさが薄れているように見えた。

 路面電車の線路が濡れた光を返し、停留所の屋根からは雨の名残がぽたりと落ちている。


「白瀬先生の地図では、この停留所の近くです」


 小夜は懐から折り畳んだ地図を取り出した。

 春日惣一は、ここで鈴の音が強まったと言っていた。


「御所へ向かうなら、ここを抜けて橋の方へ行くのが早いね」


 伊吹が周囲を見回す。

 小夜は周囲に意識を向けた。

 人々の気配が多すぎて、ひとつひとつを拾うのは難しい。

 けれど、胸の奥にかすかなざわめきがあった。

 鬼の気配。

 いいえ、鬼とは少し違う。

 人の気配の中に、薄く混じる異質な血。

 小夜は足を止めた。


「小夜ちゃん?」


「少し、変な感じがします」


 伊吹の目が細くなる。

 その瞬間、路面電車の停留所で鐘が鳴った。

 ちりん、と明るい音。

 それに紛れるように、もう一つ、細い音がした。


 ――りん。


 小夜の首筋で、刻印が熱を持った。

 澪宮が、息を呑む。


「澪宮さま?」


「小夜」


 澪宮は胸元を押さえた。

 顔色が、見る間に白くなる。


「鳴っておる……」


「鈴が、ですか」


「違う。朕ではない。朕が呼んでいるのではない」


 澪宮の瞳の奥で、赤が揺れた。


「誰かが、朕の声を真似ている」


 斎臣が即座に澪宮を支えた。


「陛下」


 その声には、初めてはっきりと焦りが滲んでいた。


「陛下、私を見てください。息を、ゆっくり」


「鈴が……」


「分かっております」


「違う。朕ではない。朕が呼んでおるのではない」


「分かっております。陛下は何もなさっておりません」


 斎臣は澪宮の周囲に指で印を切った。

 薄い結界が生まれ、二人を包む。

 人々は最初、彼らを気にしていなかった。

 だが、次の瞬間、停留所の人混みから悲鳴が上がった。

 若い女が、両手で顔を覆っている。

 その爪が黒く伸びていた。

 口元から牙が覗き、瞳が赤く濁っている。


「いや……いや、何これ……!」


 彼女は震えていた。

 近くにいた子どもが、母親の後ろへ隠れる。

 女の鼻先がぴくりと動いた。

 その視線が、子どもの喉元へ向く。

 小夜の中に、激しい感情が流れ込んだ。


 ――怖い。


 ――喉が渇く。


 ――食べたい。


 ――食べたくない。


 ――違う。


 ――私は、人間。


 ――私は、こんなものじゃない。


「伊吹!」


「分かってる」


 伊吹はすでに動いていた。

 人混みを割り、女が子どもへ飛びかかる寸前で、その腕を受け止める。

 爪が伊吹の袖を裂いた。

 周囲からさらに悲鳴が上がる。


「下がって!」


 小夜は声を張った。


「皆さん、そこから離れてください!」


 斎臣が片手で澪宮を支えたまま、もう片方の手で符を放つ。

 御所の結界術だった。

 淡い光の壁が人々と暴走した鬼子の間に立ち、逃げ遅れた者たちを押し出すように道を作る。

 斎臣は戦闘型ではない。

 けれど、守りの術は強かった。


「陛下、こちらへ」


「斎臣、あれは」


「ご覧にならないでください」


「でも」


「――ご覧にならないでください」


 斎臣の声は強かった。

 澪宮はそれでも、伊吹と鬼子の方を見ていた。

 暴走した女は、伊吹の腕の中で暴れる。

 伊吹は刀を抜いていない。

 片腕で相手の爪を受け流し、足を払って体勢を崩す。鬼子の力は人間のものではなかったが、伊吹の動きはそれ以上に速い。

 小夜は鬼子の感情を追った。


 ――殺したいのではない。


 ――食べたいのでもない。


 ――食べたいと思わされている。


 内側で鳴る鈴が、彼女の血を引き裂いている。


「伊吹、この人はまだ自分で抗っています!」


 小夜は叫んだ。


「殺さずに、止めてください!」


「最初からそのつもり!」


 伊吹は鬼子の爪を避け、背後へ回り込む。

 黒い紐のような封具を袖から引き出し、女の両腕を縛った。封具に刻まれた文字が光り、鬼子の動きを鈍らせる。

 女は苦しげに叫んだ。


「御声が……行かなきゃ……御所へ……」


 小夜の背筋が冷えた。

 やはり同じだ。

 春日惣一と同じ声を聞いている。


「御所へ、戻らなきゃ……!」


「戻る場所じゃないよ」


 伊吹は低く言い、女を地面へ押さえ込んだ。


「小夜ちゃん、白瀬先生を呼べる?」


「はい!」


 小夜が懐から式神の折り紙を出して、封鬼寮に連絡しようとした時だった。

 澄んだ声が、背後から響いた。


「その必要はありません」


 人々が左右に割れる。

 白い長官服の男が、そこに立っていた。


 ――冷泉清成。


 朝の光の中で、その眼差しは異様に冷たく見えた。

 耳元には、小さな銀の飾りが揺れている。

 小夜の背筋が、ひやりとした。


「冷泉長官……」


 冷泉は、小夜には目もくれず、地面に押さえ込まれた鬼子を見下ろした。

 女は泣いている。

 牙を剥き、爪を黒く伸ばしたまま、それでも涙を流していた。


「助け……」


 小さな声だった。

 小夜は一歩踏み出す。


「冷泉長官、この人はまだ……っ」


「ただの鬼子です」


 冷泉は淡々と言った。


「人を襲いかけました」


「でも、殺さなくても止められます。封具で押さえていますし、封鬼寮で保護すれば」


「保護?」


 冷泉はそこで初めて小夜を見た。


「朝霧小夜。封鬼寮は慈善の場ではありません」


 冷泉の指が、懐の符に触れる。

 小夜は息を呑んだ。

 伊吹の顔色が変わる。


「待って」


 伊吹が女を押さえたまま言った。


「俺が捕まえた。まだ殺す段階じゃないよ」


「あなたの判断ではなく、長官である私の判断です」


 冷泉は符を放った。

 白い光が地面を走る。

 伊吹がとっさに女から手を離し、小夜の方へ飛び退いた。

 その瞬間、伊吹の腕が、小夜の肩を強く抱き寄せた。

 光が直撃しないよう、自分の体で覆うように。

 小夜は息を呑む。

 伊吹の体は、いつもより少し冷たかった。

 次の瞬間、鬼子の足元に封術の陣が広がる。

 女が悲鳴を上げた。

 光が爪を、牙を、赤い瞳を焼く。


「やめてください!」


 小夜が叫んだ。

 けれど術は止まらなかった。

 女の体が大きく震え、やがて力を失って崩れ落ちる。

 人々の悲鳴は、もう聞こえなかった。

 通り全体が、息を止めたように静まり返っている。

 小夜はその場に立ち尽くした。

 女の手が、力なく地面へ落ちる。

 その拍子に、袂から何かが滑り出た。

 小さな紙包み。

 封が解け、中身が濡れた石畳へ散らばる。

 飴玉だった。

 色のついた小さな飴が、三つ、四つ。雨上がりの光を受けて転がり、水たまりの縁で止まった。

 誰かに買って帰る途中だったのかもしれない。

 子どもがいたのかもしれない。

 小夜には、もう確かめようがなかった。


 ――殺された。


 たった今まで、怖いと泣いていた人が。

 助けて、と言いかけた人が。

 小夜の目の前で、討たれた。

 名前も、まだ聞けなかった。

 伊吹の腕は、まだ小夜の肩に回っていた。

 その指が、わずかに震えている。


「……殺さなくても、止められました」


 小夜の声は震えていた。

 冷泉は表情を変えない。


「今は、でしょう」


「え……」


「次は? その次は? あなたが常にそばにいて止められる保証があるのですか」


 小夜は言葉を失った。

 冷泉の目は、少しも揺れていない。


「鬼子は、人の姿をしていても鬼の飢えを持つ」


 彼は静かに言った。


「昨日まで人として笑っていた者が、明日には隣人の喉を裂く。情に流されれば、帝都は滅びます」


「……でも、あの人は怖がっていました」


「恐怖が人を殺さない保証にはなりません」


「冷泉長官……」


「鬼は鬼です」


 その言葉に、澪宮が小さく息を呑んだ。

 小夜は振り返る。

 斎臣の結界の中で、澪宮は青ざめた顔をしていた。

 帽子は少しずれ、白い手袋をはめた手が震えている。


「鬼子は……討伐対象なのか」


 澪宮の声は、かすれていた。

 斎臣が黙り込んでいる。

 小夜も、すぐには答えられなかった。

 冷泉だけが、当然のように言う。


「人を喰らうならば、鬼です」


 澪宮の瞳の奥で、赤が小さく揺れた。


「ならば、朕も……」


「陛下」


 斎臣の声は低かった。


「――その先は、口になさいませんよう」


 澪宮は唇を閉じた。

 けれど、言葉にならなかった恐怖は消えないのだろう。


 ――自分も鬼子なら。


 ――自分の中にも鬼の血があるなら。


 暴走すれば、今の女と同じように討たれるのか。

 小夜にも、その澪宮の問いが聞こえた気がした。

 冷泉の視線が、澪宮へ向く。

 その目は、澪宮の身分に気づいているのかいないのか分からないほど冷静だった。


「御所の方々には、目に毒でしたかな」


 斎臣の表情が冷える。


「冷泉殿」


「失礼。ですが、現場とはこういうものです」


 冷泉は血の跡ひとつない白い袖を整えた。


「御所は、危険なものを美しい布で隠すのがお得意だ」


「……何を仰りたいのです」


「いいえ。別に」


 冷泉は淡々と答えた。


「封鬼寮は、現場で血を見る組織だということです」


 斎臣の目が鋭くなる。

 伊吹も冷泉を見ていた。

 いつもの軽い笑みはない。


「長官様」


「何です」


「今の鬼子、殺す必要あった?」


「ありました」


「即答だね」


「迷う理由がありません」


 伊吹の指が、わずかに動く。

 小夜はそれに気づき、反射的に伊吹の袖を掴んだ。


「――伊吹」


「分かってる」


 伊吹は低く答えた。


「今は、斬らない」


 今は。

 その言葉に、小夜は不安になったが、それ以上言えなかった。

 冷泉は、倒れた鬼子の体を一瞥する。


「遺体は封鬼寮が回収します。周囲の聞き取りも行う。一般人には、野鬼による被害未遂として処理するように」


「野鬼ではありません」


 小夜は思わず言った。


「……彼女は、人として暮らしていた方です」


「だから何です?」


 冷泉の声に温度はなかった。


「人として暮らしていれば、人を喰らう鬼ではないと?」


「……っ、違います。そうではなく」


「朝霧小夜。あなたの稀血は、鬼の感情に引きずられやすい。恐怖に触れ、哀れみを覚えたのでしょう」


 小夜は息を詰める。


「――ですが、哀れみで帝都は守れません」


「……哀れみでは、ありません」


「では何です?」


 小夜は答えようとして、言葉に迷った。


 ――何なのだろう。


 あの人を助けたいと思ったことは、哀れみなのか。

 人として暮らしていた者を、鬼子だからという理由だけで切り捨てたくないと思うことは、甘さなのか。

 小夜には、まだはっきりした答えは出せなかった。

 けれど、ひとつだけ分かる。


「……少なくとも、怖がっている人を問答無用で殺したくはありません」


 冷泉の目が、わずかに細くなる。


「――優しいことです」


 褒めている声ではなかった。


「ですが、優しさは時に、次の犠牲者を生みます」


 小夜は何も言えなかった。

 冷泉は斎臣へ視線を移す。


「鷹司殿。貴き御方をお連れのようですが、この場に長く留まるべきではないでしょう」


「言われるまでもありません」


 斎臣は澪宮を支えながら答えた。

 澪宮は、まだ倒れた鬼子を見ていた。

 その顔は青白く、唇は色を失っている。


「……小夜」


 澪宮が小さく呼ぶ。


「はい」


「あれは、朕が見てはならぬものだったのか」


 小夜はすぐには答えられなかった。

 斎臣が先に言う。


「陛下が御心を痛める必要はございません」


「だが、見た」


「忘れてください」


 澪宮は斎臣を見る。


「忘れれば、あれはなかったことになるのか」


 斎臣は、ほんのわずかに言葉を失った。

 小夜は胸が締めつけられた。

 澪宮は、今日初めて御所の外へ出た。

 見たかった帝都を見た。

 路面電車も、カフェーも、笑う人々も見た。

 そして同じ日に、鬼子がどう扱われるのかを見てしまった。

 自分と同じ血を持つかもしれない者が、討伐される瞬間を。


「澪宮さま」


 小夜は静かに言った。


「あったことを、なかったことにはできません」


 澪宮が小夜を見る。


「……でも、見たから考えられることもあると思います」


「考える……」


「はい」


 澪宮は倒れた鬼子の方へ視線を戻した。


「……朕は、知らなかった」


 その声は、ほとんど息のようだった。


「鬼子が、このように扱われることを」


 斎臣が苦しげに眉を寄せる。


「陛下」


「斎臣は、知っていたのか」


 斎臣は答えなかった。

 その沈黙が答えだった。

 澪宮はゆっくり目を伏せる。


「そうか」


 小夜は何も言えなかった。

 冷泉はそんな澪宮を、じっと見ている。

 その目の奥にあるものは読めない。

 ただ、彼がこの場を偶然訪れたとは思えなかった。

 耳元の銀飾りが、風に揺れる。

 音はしない。

 けれど小夜の耳には、さきほどの鈴の残響がまだ残っていた。

 斎臣が澪宮を支え、静かに言う。


「戻ります」


「……うむ」


 澪宮は頷いた。

 もう外を見たいとは言わなかった。

 御所へ戻る道のりは、来る時とはまるで違っていた。

 路面電車の音も、カフェーの香りも、活動写真館の看板も、澪宮はもう見ていない。

 小夜もまた、ほとんど言葉を発せなかった。

 伊吹は隣にいる。

 いつもなら軽口で場を崩す彼も、今は黙っていた。

 御所の門が近づいてきた時、澪宮がふと足を止めた。


「……小夜」


「はい」


「外は、広いな」


「はい」


「楽しいものも、多かった」


「はい」


「……怖いものも、多い」


「……はい」


 澪宮は、小夜の袖を掴もうとして、途中で手を止めた。


「袖を掴んでもよいか」


 小夜は頷いた。


「はい」


 澪宮は、そっと小夜の袖を掴んだ。

 その指は冷たく震えている。


「……小夜」


「はい」


「あの女も、友がいたのだろうか」


 小夜は一瞬、言葉に詰まる。


「いたと思います」


「……家族も」


「はい」


「……名も」


「はい」


 澪宮は、小さく唇を噛んだ。


「鬼子、と呼ばれると、名が消えるのだな」


 小夜は息を呑んだ。

 その言葉は、澪宮自身にも向けられているようだった。

 帝。

 鬼子。

 境守り。

 結界の核。

 役目を表す名ばかりが積み重なり、澪宮自身の名を押し潰していく。


「消えません」


 小夜は言った。


「少なくとも、私は消したくありません」


 澪宮は小夜を見る。


「小夜は、難しいことを言う」


「そうでしょうか」


「うむ」


 澪宮はほんの少しだけ、目を伏せた。


「でも、忘れたくない」


 その言葉に、小夜は頷いた。


「私もです」


 御所の門の内側に入る直前、小夜は一度だけ振り返った。

 遠くの通りには、まだ人々のざわめきが残っている。

 倒れた鬼子は、封鬼寮の隊士たちによって運ばれていくところだった。

 白い長官服の冷泉が、その様子を静かに見ている。

 小夜と目が合った。

 冷泉は頭を下げない。

 ただ、淡々とこちらを見返した。

 耳元の銀飾りが、また揺れた。

 小夜の胸がざわつく。

 冷泉清成。

 封鬼寮の新長官。

 鬼子を危険だと言い切り、ためらいなく討伐した男。

 彼の正しさは、冷たすぎる。

 その冷たさが、何より恐ろしかった。

 御所へ戻ると、澪宮はすぐに休むことになった。

 斎臣が御簾の中へ付き添い、小夜たちは控えの間で待つよう言われた。

 しばらくして、斎臣だけが戻ってくる。

 顔色はいつも通り整っていたが、目元にはわずかな疲労が見えた。


「陛下はお休みになられました」


「澪宮さまは、大丈夫なのですか」


「御身に大きな異常はございません。ただ、鈴の影響を受けられたことと、市中での出来事により、お疲れです」


「鈴は、澪宮さまにも影響するのですね」


 小夜が尋ねると、斎臣は少しだけ目を伏せた。


「陛下の中にも、鬼の血がございます」


 その答えは静かだった。


「本来ならば、御所の勅鈴は帝都結界を整えるもの。陛下を傷つけるものではありません」


「では、今日の音は」


「本鈴ではない」


 斎臣の声が低くなる。


「誰かが、御所の鈴を模しているのでしょう」


「御所の鈴を、模す……」


 小夜の脳裏に、冷泉の耳元で揺れていた銀飾りが浮かんだ。

 小鈴のような飾り。

 音はしなかった。

 けれど、あれを見るたび落ち着かない気持ちになる。

 伊吹も同じものを思い浮かべたのだろう。


「斎臣殿」


「何でしょう」


「冷泉長官って、御所の勅鈴について知ってるの?」


 斎臣はすぐには答えなかった。


「新長官として、必要な範囲の記録には触れているでしょう」


「必要な範囲って?」


「それ以上は、私から申し上げることではありません」


「ふうん」


 伊吹は目を細めた。


「斎臣殿、冷泉嫌いでしょ」


「好き嫌いの問題ではありません」


「嫌いなんだ」


 斎臣は答えなかった。

 小夜は、その沈黙を見つめる。

 斎臣は怖い。

 けれど今日、澪宮が苦しんだ時、彼は本気で焦っていた。

 彼は澪宮を苦しめる者ではない。

 少なくとも、今日の鈴を鳴らした者ではないように見えた。

 それでも、斎臣には何かを隠している気配がある。

 小夜の中で、疑いの形が少し変わっていく。

 斎臣ではないのなら。

 澪宮でもないのなら。

 誰が、あの鈴を鳴らしているのか。


「小夜ちゃん」


 伊吹が静かに呼んだ。


「今日はもう戻ろう」


「はい」


 小夜は頷いた。

 疲れが一気に押し寄せていた。

 眠気ではない。

 もっと深いところが、重く沈んでいる。

 御所を出る前、小夜は振り返った。

 御簾の奥に、澪宮はいる。

 今日、初めて御所の外を見た帝。

 そして、鬼子が討伐対象として扱われる現実を知った少女。

 彼女は今、何を思っているのだろう。

 御所の外は、澪宮にとって、きっと美しいだけの世界ではなくなった。

 それでも小夜は、今日のことをなかったことにはしたくなかった。

 封鬼寮へ戻る馬車の中で、伊吹はしばらく黙っていた。

 小夜もまた、窓の外を流れる帝都の町並みを見ていた。

 夕暮れが近づき、百貨店の窓に橙色の光が反射している。路面電車の鐘が鳴り、通りの向こうではカフェーの灯りがともり始めていた。

 さきほど人が死んだ場所にも、やがて夜が来る。

 帝都は何事もなかったように動き続ける。


「小夜ちゃん」


「はい」


「……今日の鬼子、怖がってたね」


「はい」


「でも、次の瞬間には人を殺してたかもしれない」


 小夜は膝の上で手を握った。


「分かっています」


「冷泉の言ってること、全部間違ってるわけじゃない」


「はい」


 それが、苦しかった。

 冷泉のしたことは許せない。

 けれど、鬼子が危険だという言葉を完全に否定することもできない。

 春日惣一も、今日の女性も、自分の意思ではなかったとはいえ、人を襲いかけた。


 ――助けたい。


 でも、助けようとする間に誰かが傷ついたら。

 その責任を、小夜は負えるのだろうか。


「でも」


 小夜は言った。


「それでも、私は問答無用で殺したくありません」


「うん」


「少なくとも、名前を聞きたいです。何が怖かったのか、何を聞いたのか、どうしてそうなったのか。何も聞かずに鬼子だから殺すのは、嫌です」


 伊吹は小夜を見た。

 少しだけ、優しい目だった。


「小夜ちゃんらしいね」


「甘いでしょうか」


「甘いと思う」


 小夜は胸がちくりと痛んだ。

 伊吹は続ける。


「でも、俺はその甘さ、嫌いじゃないよ」


「……本当ですか」


「うん。小夜ちゃんがそう言うなら、俺はできるだけ殺さずに止める」


「できるだけ、ですか」


「小夜ちゃんを守る方が優先だから」


 伊吹は、そこだけは譲らない声で言った。


「でも、小夜ちゃんが名前を聞きたいなら、聞けるところまでは付き合う」


 小夜の胸が、少しだけ温かくなる。


「ありがとうございます」


「ただし、無茶はだめ」


「はい」


「共鳴で引きずられそうになったら、俺を呼ぶ」


「はい」


 伊吹はようやく少し笑った。

 小夜も、ほんの少しだけ笑う。

 けれど、脳裏によぎる影は消えなかった。

 冷泉の白い服。

 耳元の銀飾り。

 鬼子を討った時の迷いのなさ。

 そして澪宮の青ざめた顔。

 鬼子は、討伐対象なのか。

 その問いは、小夜の中にも残り続けた。

 封鬼寮に戻るころ、空はすでに暮れかけていた。

 鬼狩りたちの夜が、また始まろうとしている。

 けれど小夜は、その夜の闇よりも、昼の帝都で見た白い光の方が怖かった。

 正しさの顔をした冷たい光。

 あの光が次に誰を照らすのか、小夜にはまだ分からなかった。







 

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