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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第十四話 御所の外

 鬼を狩る者の朝は、普通の人々の朝とは少し違っている。

 鬼は夜に動くから、鬼を追う者も夜に目を覚ます。

 夜半に呼び出され、明け方に戻り、朝日が差し込むころに眠る。それが、ここしばらくの小夜の暮らしだった。

 けれど最近、その時間が少しずつずれている。

 原因は、澪宮だった。

 御所からの呼び出しは、たいてい昼前に来る。

 帝の御身に合わせるのだから当然なのだろうが、鬼狩りの時間で動いていた小夜たちにとっては、ひどく早い。

 この日も、小夜はまだ眠気の残る頭を抱えながら、封鬼寮本館の廊下を歩いていた。

 夜明け前にようやく眠ったはずなのに、まだ朝の光が白い。

 庭の青葉は雨の名残で濡れ、軒先から落ちる雫が石畳に細い音を立てていた。


「小夜ちゃん、眠そう」


 隣から伊吹が覗き込んでくる。

 彼もまた、いつもより少しだけ目元が重そうだった。

 それでも身支度は整っている。黒に近い紺の着物に薄い羽織を引っかけ、短く整えた銀墨色の髪は、朝の光でやわらかく光っていた。


「伊吹も眠そうです」


「眠いよ。俺、鬼を狩るために夜に生きてるのに、最近は陛下に会うために朝起きてる」


「伊吹は寝ないで隊員たちと花札で遊んでいたからでしょう」


「小夜ちゃんも一緒に遊べばいいのに」


「……煙草臭いのは苦手なんです」


 伊吹はあくびを噛み殺した。


「夜は鬼を追って、昼は御所に呼ばれて、俺たちいつ寝るの?」


「時間を見つけて眠るしか」


「小夜ちゃん、真面目」


「伊吹が不真面目なんです」


「眠い時は不真面目にもなるよ」


 そんなことを言いながらも、伊吹は小夜の歩幅に合わせてくれている。

 小夜は首筋に手を当てた。

 刻印は静かだった。

 ただ、ここ数日続いている御所通いの疲れは、確かに体に残っている。澪宮のそばにいると、あの人の孤独や不安が薄く流れ込んでくることもある。それは鬼の飢えほど激しくはないが、少しずつ小夜の中に重なっていった。

 それでも、小夜は御所へ行かないという選択をしたくなかった。

 澪宮は、小夜を待っている。

 そして帝都では、春日惣一のように、本人も知らないまま鬼子として目覚める者がいる。

 その両方から目を逸らすことはできない。

 廊下の先で、白瀬が待っていた。

 眼鏡の奥の目は、いつもより険しい。


「朝霧さん。伊吹」


「白瀬先生」


「昨夜、春日惣一の容体は安定しました。ただ、まだ鬼化した部分は戻っていません」


「そうですか……」


 小夜は眉を寄せた。

 春日惣一は、人として暮らしていた少年だ。

 けれど今は牙と爪を残したまま、結界の中で保護されている。


「それと、彼の供述にあった停留所周辺を調べる必要があります。御所へ向かった途中で何を見たのか、どこで鈴の音が強まったのか。現場を確認しなければなりません」


「私も行きます」


「そう言うと思っていました」


 白瀬は小さく息を吐いた。


「ですが、御所からも使者が来ています。本日も朝霧さんに出仕を、とのことです」


 小夜は言葉に詰まった。

 伊吹が半眼になる。


「陛下、小夜ちゃんを呼びすぎじゃない?」


「伊吹」


「だってそうでしょ。こっちは鬼子の調査をしたいのに、毎日御所に呼ばれていたら動けないよ」


 小夜も同じことを思っていた。

 澪宮を放っておけない。

 けれど、鬼子の事件も放っておけない。

 どちらかを選ばなければならないのだろうか。

 迷っていると、白瀬が言った。


「榊顧問にも相談しました。現場確認はできれば今日中に行いたい。春日惣一の記憶が薄れないうちに、周辺の気配を辿るべきです」


「でも、御所へ行かないわけには」


「ええ。ですから、まずは御所へ。そこで事情を話し、早めに戻る許可を得てください」


 小夜は頷いた。


「分かりました」


「無理はしないように」


 白瀬は小夜の顔色を見た。


「最近、睡眠がかなりずれています。稀血は感情の影響を受けやすい。疲れている時ほど、共鳴に引きずられます」


「はい」


「伊吹も、寝ていない顔をしています」


「俺は大丈夫」


「そう言う人ほど危ない」


 白瀬は静かに咳払いをした。


「御所の迎えが来ています」


 小夜は背筋を伸ばした。

 眠気はまだ残っている。

 けれど、今日も行かなければならない。



 御所に着いた小夜たちが案内されたのは、いつもの御簾の間ではなかった。

 澪宮は、内廷の小部屋にいた。

 御簾はない。

 代わりに几帳が立てられ、その奥で斎臣が控えている。

 澪宮は、いつもの白い衣ではなく、少し変わった装いをしていた。

 白に近い水色の着物に、深い藍の袴。

 髪は長く垂らさず、低い位置で結われている。その上には、小さな洋帽が載っていた。白い手袋をはめ、肩には薄いショールまで掛けている。

 顔を隠すための変装なのだろう。

 けれど白い頬と黒い瞳、動きの少ない人形めいたたたずまいのせいで、かえって目立っていた。

 小夜は思わず足を止めた。


「澪宮さま……?」


 澪宮は、帽子のつばに指を添えた。


「小夜。朕は、町の娘に見えるか」


 小夜は答えに迷った。

 伊吹が少し黙ってから、にこりと笑う。


「うん。町の娘を一度も見たことがない人が考えた町の娘って感じ」


「伊吹」


 小夜がたしなめると、澪宮は不思議そうに首を傾げた。


「違うのか」


「とてもお綺麗です。ただ、少し目立つかもしれません」


「帽子をかぶった」


「帽子だけでは、少し……」


「そうか」


 澪宮は真剣に考え込んだ。


「外は難しいな」


 小夜は改めて澪宮を見る。

 小夜自身も、御所の者に用意された服に着替えていた。

 淡い藤色の小紋に紺の袴を合わせ、足元には編み上げ靴を履いている。髪はいつものように長く下ろすのではなく、耳の後ろでゆるくまとめ、白いリボンを結んでいた。

 封鬼寮で稀血として扱われている時よりも、少しだけ年相応の娘に見える。

 その姿を見た伊吹が、ふっと目を細めた。


「……小夜ちゃん、かわいい」


 小夜は思わず瞬きをした。


「そういうことを急に言わないでください」


「だって、町娘っていうか、このまま俺が連れて帰りたい感じ」


「帰りません」


「じゃあ、ちゅーしてもいい?」


「よくありません」


 小夜が即答すると、伊吹は小さく息を抜くように笑った。


「残念。せっかくすごく似合ってるのに」


 その言い方が思ったより真面目で、小夜は少しだけ言葉に詰まる。


「……からかわないでください」


「からかってないよ」


 伊吹は甘く目を細めた。

 小夜は顔面がじわりと熱くなるのを感じて、視線を逸らした。


「伊吹は、すぐそういうことを言います」


「恋人だからね」


「ここは御所ですよ」


「じゃあ、帰ったらもっと言う」


「そういう意味ではありません」


 伊吹は楽しそうに目元を緩めた。

 そのやり取りを、澪宮がじっと見ている。


「小夜は、褒められると赤くなるのか」


「澪宮さま」


「顔が赤い」


「赤くありません」


「赤い」


 澪宮は真剣だった。

 小夜は返事に困る。

 伊吹がふっと息を抜くように笑った。


「陛下、いいところ見てるね」


「伊吹は黙ってください」


「はいはい」


 澪宮は小夜の姿をもう一度眺めた。


「小夜は、町の娘に見える」


「そうでしょうか」


「うむ。少し悔しい」


「悔しいのですか」


「朕も町の娘になる」


「ならなくてもよろしいかと」


 斎臣が低く言った。

 彼は今日は、薄灰色の洋装をまとっていた。白い手袋をはめ、髪は帽子の下へすべて収めている。

 市中の紳士に見えなくもない。

 けれど背筋の伸び方と、静かな目元が、御所の奥の気配を少しも消していなかった。

 伊吹はそんな斎臣を見て、目を細める。


「斎臣殿、一般人というより、一般人を観察しに来た人みたい」


「あなたにだけは言われたくありません」


「俺は自然体だから」


「自然体で目立つのが問題なのでは」


 斎臣の言葉に、小夜は少しだけ頷きそうになった。

 伊吹は黒に近い紺の着物に薄い羽織を引っかけ、足元だけは革靴を履いている。袴はなく、どこか崩れた書生のような格好だった。

 けれど銀墨色の髪と蜂蜜色の瞳のせいで、どう見ても普通の青年ではない。

 本人に隠す気がないのも問題だった。


「それで」


 伊吹が澪宮を見る。


「陛下、その格好で何をするつもり?」


「御所の外へ行く」


 澪宮は当然のように言った。

 小夜は目を見開く。


「御所の外へ?」


「うむ」


 斎臣の表情が険しくなる。


「陛下。まだお許ししたわけではございません」


「小夜は鬼子の調査へ行くのであろう」


 澪宮は小夜を見た。


「小夜が御所へ来ると、調査へ行けぬと、榊から陳情が届いた。ならば、朕が小夜と一緒に行けばよい」


「澪宮さま、それは」


「小夜と一緒なら、朕は安定する」


 澪宮は少しだけ胸元に手を置いた。


「それに、朕も見たい」


「何をですか」


「帝都」


 その一言は、静かだった。

 けれど小夜には、そこに込められた切実さが分かった。

 澪宮は帝だ。

 帝都の中心にいる。

 けれど、帝都を知らない。

 御簾の中から、報告として聞くだけの都。

 自分が守っていると教えられた場所を、彼女は一度も自分の目で見たことがないのかもしれない。

 斎臣は強く首を横に振る。


「御身に万一があってはなりません」


「だから、斎臣も来ればよい」


「そういう問題ではございません」


「では、どういう問題だ」


 澪宮は斎臣を見た。

 昨日、斎臣の言葉を聞いて以来、小夜は彼を見る目を変えずにはいられなかった。けれど今日の澪宮は、そんな小夜の迷いよりもずっと強く、「御所の外へ出たい」と願っていた。

 澪宮は無表情だが、今日は引く気がないようだった。


「朕は昨日、小夜に言われた。自分のことは、自分の意思で決めるのだと」


 小夜は息を呑んだ。

 斎臣の視線が、一瞬だけ小夜に向く。


「陛下」


「朕は、御所の外を見たい」


「……」


「斎臣」


 澪宮の声は幼い。

 けれど、帝の響きもあった。


「これは朕の意思だ」


 斎臣はしばらく黙っていた。

 その沈黙の間、小夜は何も言えなかった。

 自分が澪宮に伝えたことが、こうして形になっている。

 それは嬉しい。

 けれど、その結果として澪宮を危険に晒すかもしれないと思うと、胸が締めつけられる。

 やがて斎臣は、深く息を吐いた。


「……内々の視察、という扱いにいたします」


 澪宮の目がわずかに開く。


「よいのか」


「よいとは申し上げておりません。ですが、陛下がどうしてもと仰せなら、私が同行いたします」


「うむ」


「護衛も少数つけます。ただし、人目につく行動はお控えください。御身に異変があれば、ただちに御所へ戻ります」


「分かった」


 澪宮は頷いた。

 そして小夜を見る。


「小夜、行くぞ」


「はい」


 小夜は戸惑いながらも頷いた。

 伊吹が小声で言う。


「小夜ちゃん、これ任務?」


「任務です」


「陛下と帝都歩きするのも?」


「……任務です」


「便利な言葉だね」


 小夜は返事をしなかった。



 御所の外へ出る時、澪宮は帽子のつばを両手で押さえていた。

 門をくぐる瞬間、その足が一度だけ止まる。

 小夜は隣に立った。


「澪宮さま」


「ここから先が、御所の外か」


「はい」


 澪宮は、ゆっくりと息を吸った。


「空気が違う」


「そうですね」


「匂いが多い」


 その言葉に、小夜ははっとする。

 御所の中は、香と白木と雨の匂いがする。

 けれど外には、もっと多くの匂いがあった。

 濡れた土。

 馬の汗。

 路面電車の油。

 焼き菓子の甘い香り。

 人々の衣の匂い。

 町の喧騒と一緒に、それらが入り混じっている。

 澪宮にとって、それは眩暈がするほどの情報なのかもしれない。

 斎臣がすぐに身を寄せる。


「陛下、お戻りになりますか」


「戻らぬ」


 澪宮は小夜の袖をそっと掴んだ。

 そして、はっとしたように小夜を見る。


「小夜、袖を掴む」


「はい」


「先に言った」


「はい。ありがとうございます」


 澪宮は少し得意そうに頷いた。

 伊吹が後ろで小さく息を抜く。


「陛下、成長が早いね」


「小夜に教わった」


「小夜ちゃんは俺の先生でもあるんだけどな」


「張り合わないでください」


 小夜が言うと、伊吹は楽しそうに肩をすくめた。

 市中へ出ると、澪宮は何もかもに反応した。

 路面電車が鐘を鳴らして停留所へ入ってくると、澪宮は足を止めた。


「あれは何だ」


「路面電車です」


「箱が走っておる」


「はい。人を乗せて走ります」


「御所の牛車より速いのか」


「たぶん、かなり速いです」


「乗る」


「今日は調査です」


「少しだけ」


「澪宮さま」


「少しだけでも、だめか」


 小夜は困って斎臣を見た。

 斎臣は即座に首を横に振る。


「だめです」


 澪宮は少しだけ不満そうにした。

 しばらく歩くと、カフェーの前へ出た。甘い珈琲と焼き菓子の香りが漂っていた。

 澪宮は帽子のつばの下から、じっと店内を見つめる。


「女たちが、笑っている」


「お茶を飲んでいるのだと思います」


「茶を飲むと笑うのか」


「そういうわけでは……」


「小夜と飲めば、朕も笑うか」


 小夜は返答に詰まった。

 伊吹がすかさず言う。


「小夜ちゃんとなら、たぶん笑うよ。俺は嫉妬で死ぬけど」


「死ぬな」


 澪宮は真面目に言った。


「小夜の鬼が死ぬと、小夜が消えるかもしれぬ」


 伊吹の笑みが一瞬だけ薄くなる。

 小夜も胸がちくりと痛んだ。

 澪宮の言葉には、時折、深い恐怖が滲む。

 まだ小夜は、その理由を知らない。

 けれど、澪宮の中に「好きになったものは消える」というような怯えがあるのではないかと、小夜は薄々感じ始めていた。


「伊吹は簡単には死にません」


 小夜は静かに言った。

 伊吹が小夜を見る。


「そうですね?」


「うん」


 伊吹は笑い直した。


「小夜ちゃんがそう言うなら、死なない」


 澪宮は少し安心したように頷いた。


「なら、よい」


 百貨店の前へ着くころには、通りはずいぶん賑わっていた。

 人力車が行き交い、路面電車の停留所には人だかりができている。洋装の紳士、袴姿の学生、日傘を持った令嬢、買い物帰りの主婦、新聞売りの少年。

 帝都は、生きていた。

 御所の中で聞く報告書の文字ではなく、声と足音と匂いを持って、そこにあった。

 澪宮は、ただ立ち尽くしていた。


「これが、帝都か」


「はい」


 小夜は答えた。


「人が多い」


「はい」


「皆、朕を知らぬ」


「今は、変装していますから」


「よいな」


 澪宮は小さく呟いた。


「誰も、朕を知らぬ」


 それは寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。

 斎臣は澪宮の半歩後ろに立ち、周囲を警戒している。その横顔は硬い。

 伊吹は小夜の隣で、通りの向こうを見ていた。

 その伊吹を、通りすがりの女たちが振り返る。


「見て、あの方」


「異国の方かしら」


「でも、お着物だわ」


「目の色が……綺麗」


 囁き声は小さかったが、小夜の耳には届いてしまった。

 伊吹は気づいているのかいないのか、いつものように涼しい顔をしている。

 いや、たぶん気づいている。

 気づいていて、気にしていないのだ。

 そのことが、なぜか少しだけ面白くなかった。

 小夜は視線を逸らす。

 伊吹だけではない。

 斎臣もまた、通りを行く女たちの視線を集めていた。

 薄灰色の洋装に整った横顔。涼やかで、貴公子然としていて、雑踏の中にいても一人だけ御所の静けさをまとっているように見える。


「あの方も素敵ね」


「でも、少し近寄りがたいわ」


 そんな囁きにも、斎臣は眉ひとつ動かさなかった。

 伊吹が横目で見て、肩をすくめる。


「斎臣殿、人気じゃん」


「任務中です」


「照れないの?」


「照れる理由がありません」


「つまんないなぁ」


 その時、店先から出てきた若い女性が、足元の水たまりを避けようとして体勢を崩した。


「あっ」


 伊吹が自然に手を伸ばす。

 倒れかけた女性の腕を、軽く支えた。


「危ないよ。怪我はない?」


 声は柔らかかった。

 女性は伊吹の顔を見上げ、はっと息を呑む。


「あ、ありがとう、ございます……」


「うん。気をつけて」


 伊吹はにこりと笑って、すぐに手を離した。

 それだけだった。

 何もおかしなことはない。

 転びかけた人を助けただけだ。

 それなのに、小夜の胸がほんの少しだけざわついた。


(……別に、普通のことだし)


 そう思おうとした。

 思おうとしたのに、女性が頬を染めたまま伊吹を見送っているのが目に入ってしまう。

 小夜は、気づかれないように眉を寄せた。


「小夜」


 澪宮がぽつりと言った。


「はい」


「小夜の鬼は、他の女にも笑うのだな」


 小夜は足を止めそうになった。


「え」


「今の女に、笑った」


「それは、怪我がないか確認しただけで……」


「小夜の時とは違う笑い方だった」


 澪宮は無表情のまま、じっと小夜を見る。


「だが、小夜は面白くなさそうな顔をした」


「していません」


「していた」


 澪宮は真剣だった。

 伊吹が隣で、小さく吹き出した。


「陛下、よく見てるね」


「小夜ちゃん、妬いた?」


「妬いていません」


「じゃあ、面白くなかった?」


「……それも違います」


「違うんだ」


 伊吹は楽しそうに口の端を上げた。


「俺、誰にでも笑えるけど」


 伊吹は小夜の手を取った。

 往来の中で、当然のように。


「小夜ちゃんに向けてる顔とは、全然違うよ」


「そういうことを、ここで言わないでください」


「じゃあ、帰ったら言う」


「そういう意味ではありません」


 澪宮が二人を交互に見る。


「小夜は、顔が赤い」


「澪宮さま」


「小夜の鬼は、嬉しそうだ」


「陛下、もっと言って」


「伊吹は黙ってください」


 小夜が声を上げると、伊吹は楽しそうに肩を揺らした。

 その時だった。

 遠くで、かすかに鈴の音がした気がした。


 ――りん。


 耳で聞こえた音ではない。

 体の奥を、細い糸で撫でられるような感覚だった。

 小夜は思わず息を止める。

 さっきまでの気恥ずかしさが、すっと冷えていく。

 百貨店の前の人波。

 路面電車の鐘。

 人々の話し声。

 靴音。

 そのすべてに、あの鈴の名残が紛れているような気がした。


「小夜ちゃん?」


 伊吹の声が、すぐに近くなる。


「どうしたの」


「……いま、少し」


 小夜は首筋に手を当てた。

 刻印が、薄く熱を持っている。


「鈴の音が、残っているような気がして」


 伊吹の笑みが消えた。

 彼は周囲を一瞥する。

 斎臣もすぐにこちらを見た。


「鈴ですか」


「はっきり聞こえたわけではありません。ただ……人が多いせいか、少し、感覚が乱れたようで」


 澪宮が小夜の袖を握る手に力を込めた。


「小夜、苦しいのか」


「大丈夫です」


 そう答えたものの、肌のざわつきは消えなかった。

 人の匂い。

 鬼子の記憶。

 春日惣一の恐怖。

 御所へ戻らなければならないという声。

 そのすべてが、人混みの中で薄く重なっている。

 小夜は息を整えようとした。

 けれど、うまくいかない。


「小夜ちゃん」


 伊吹が低く呼ぶ。


「こっち見て」


 言われるまま顔を上げると、蜂蜜色の瞳がすぐ近くにあった。

 往来のざわめきの中で、伊吹だけがはっきり見える。


「怖い?」


「……少し」


「じゃあ、俺を使って」


「使う?」


「うん」


 伊吹は繋いだままの手を、ほんの少し持ち上げた。


「刻印、強めてあげようか」


 小夜は息を呑んだ。

 その言葉だけで、首筋が熱くなる。


「ここで、ですか」


「見えないようにするよ」


「そういう問題では」


「鈴の名残、気持ち悪いでしょ」


 伊吹の声は甘い。

 けれど、目は真剣だった。


「俺の鬼気で上書きすれば、少し楽になる」


 小夜は返事に迷った。

 刻印を強める。

 それはつまり、伊吹との繋がりを深くすることだ。

 必要な処置だと分かっていても、頼むには勇気がいる。

 まして今は、御所の外とはいえ、人通りの多い市中だ。

 小夜は一度、視線を落とした。

 伊吹は待っている。

 強くうながすのではなく、小夜が自分で言うのを待っている。

 それが余計に、気持ちを落ち着かなくさせた。


「……伊吹」


「うん」


「少しだけ、刻印を強めてもらえますか」


 声が小さくなった。

 言ってから、恥ずかしさが遅れて込み上げる。

 伊吹の目が、分かりやすく甘くなった。


「小夜ちゃん」


「鈴の音が、少し残っている気がするので」


「うん。理由はそれでいいよ」


「それで、とは」


「小夜ちゃんが俺に触れてほしいって言ってくれたことの方が、大事だから」


「そういう意味ではありません」


「でも、俺を頼った」


 伊吹は嬉しそうに目を細めた。


「よくできました」


 顔に朱がのぼる。


「子ども扱いしないでください」


「してないよ。恋人扱い」


「もっと悪いです」


「悪くないでしょ。俺は嬉しい」


 伊吹はそう言って、小夜を人波から少しだけ隠すように立った。

 斎臣がわずかに眉を寄せる。


「黒夜の伊吹殿」


「大丈夫。噛まないよ」


「当然です」


「触るだけ」


「それも、場所をお考えください」


「考えてるって」


 伊吹は軽く答えながら、小夜の耳元へ身を寄せた。

 人目から隠すように、羽織の袖で小夜の首元をさりげなく覆う。

 指先が、襟元のすぐ下に触れた。

 刻印の近く。

 触れた瞬間、伊吹の鬼気が細く流れ込んでくる。


「……っ」


 小夜の肩が、わずかに震えた。

 痛みではない。

 冷たい水の上に、甘い熱が広がっていくような感覚だった。

 鈴の名残が、少しずつ遠ざかる。

 代わりに、伊吹の気配が濃くなる。

 危うくて、甘くて、逃げ場のない鬼の気配。

 けれど今は、それが怖さよりも先に、小夜を落ち着かせた。


「大丈夫?」


 伊吹が低く囁く。


「……はい」


「嫌?」


「……嫌ではありません」


 伊吹の指が、刻印の上でほんの少し止まった。


「今の、いい子」


「伊吹」


「だって、ちゃんと答えた」


「そういう言い方は」


「小夜ちゃんが俺を頼って、嫌じゃないって言ってくれた」


 伊吹は、少しだけ口元を緩めた。


「俺、今日はかなり機嫌よくなった」


「任務中です」


「うん。だからこれくらいで我慢してる」


「これくらい、ですか」


「そう。ほんとは、もっと褒めたいし、もっと触りたい」


 俯いて、視線を逃がす。

 伊吹は、そこで指を離した。

 それ以上はしない。

 ただ、乱れた襟元を整えるように、布をそっと戻す。


「はい。おしまい」


 小夜は、ゆっくり息を吐いた。

 鈴の名残は、まだ完全には消えていない。

 けれどさっきよりずっと遠い。

 首筋のざわめきも、少しだけ静まっていた。


「……ありがとうございます」


「うん」


 伊吹は満足そうに頷いた。


「また怖くなったら言って。小夜ちゃんからのおねだりなら、何回でも聞くから」


「おねだりではありません」


「俺にはそう聞こえた」


「違います」


「違わないよ」


 肩が小さく震える。

 澪宮が、じっと二人を見ている。


「小夜は、刻印を強めると落ち着くのか」


「澪宮さま」


「小夜の鬼は、役に立つのだな」


 伊吹が肩をすくめた。


「陛下、今の言い方はけっこう好き」


「そうか」


「うん。もっと褒めていいよ」


「伊吹は役に立つ」


「うーん、陛下に言われてもあんまり嬉しくないな」


「難しい」


 澪宮は真剣に言った。

 小夜は思わず息を吐く。

 緊張が、少しほどけた。

 斎臣だけが少し離れたところで、理解しがたいものを見るような顔をしていた。


「……そろそろ、調査を進めるべきでは」


 斎臣が静かに言った。

 小夜ははっとして、伊吹の手をほどこうとする。

 けれど伊吹は、ほんの少しだけ指に力を込めてから離した。

 その動作があまりにも自然で、顔がじわりと熱を持つ。

 伊吹は何も言わず、ただ目元を緩めていた。

 澪宮は、そんな二人を不思議そうに見ている。


「外は、忙しいな」


「そうですね」


「音も、匂いも、人も、たくさんある」


 澪宮は帽子のつばをそっと押さえた。


「だが、悪くない」


 その声が、ほんの少しだけ柔らかかった。

 小夜は頷いた。


「はい」


 御所の外は、澪宮にとって眩しすぎる場所なのかもしれない。

 それでも、彼女は今、自分の足でその場所に立っている。

 小夜はそれが嬉しかった。

 その時、ふたたび、小夜の耳の奥で細い音がした。


 ――りん。


 遠く、けれど確かに。

 誰かが呼ばれている。

 雨上がりの帝都の、どこかで。

 小夜は、伊吹の袖を、そっと握り直した。






 

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