第十三話 白い檻
「夕霧の話を、なさいましたか」
小夜は喉が乾くのを感じた。
澪宮は答えない。
斎臣は責めるような声ではなかった。
むしろ、あまりにも優しい。
だから怖かった。
「陛下。あの鬼子のことは、もう忘れた方がよろしいと申し上げたはずです」
「……忘れられぬ」
「忘れられます」
斎臣は微笑んだ。
「陛下が望まれるなら、いずれ」
「朕は望んでおらぬ」
澪宮の声は小さかった。
けれど、確かに拒んでいた。
斎臣の目が、ほんの少しだけ細くなる。
小夜は澪宮の手を離さず、斎臣を見た。
「斎臣様」
「何でしょう、朝霧小夜殿」
「夕霧さんは、本当に遠くへ移されたのですか」
斎臣は、すぐには答えなかった。
沈黙は短かった。
けれど、小夜には長く感じた。
「陛下のおそばからは、遠ざけました」
「遠ざけた、とは」
「言葉通りです」
伊吹が、柱のそばから立ち上がった。
「殺したの?」
軽い声だった。
しかし、その場の誰も、それを軽口とは思わなかった。
斎臣は笑みを崩さない。
「殺す、という言葉は正確ではありません」
「じゃあ、何をしたの」
「危険を取り除きました」
小夜の背筋が冷える。
澪宮の手が震えた。
伊吹は、ゆっくりと笑った。
「それ、殺したって意味に聞こえるけど」
「どう受け取られるかは、お任せします」
「最低だね」
「黒夜の鬼にそう言われるとは、光栄です」
斎臣の声は穏やかだった。
小夜は信じられない思いで彼を見る。
「夕霧さんは、澪宮さまの友達だったのではありませんか」
「友」
斎臣はその言葉を、静かに繰り返した。
「陛下に友など不要でした」
澪宮の肩が震える。
小夜の中で、怒りが静かに膨らんだ。
「どうして、そんなことを」
「陛下には、私がおります」
あまりにも当然のように、斎臣は言った。
「私は、陛下のそばにいるために生きております。陛下の御身を守り、陛下の渇きを鎮め、陛下が帝であり続けられるよう支える。それが私の役目です」
「――でも、澪宮さまのお気持ちは……」
「陛下の御身が守られなければ、気持ちなど残りません」
斎臣の声は、少しも荒れない。
「夕霧は、陛下に外を望ませた。御所の外へ心を向けさせた。陛下が御身を顧みず、逃げ出したいと願う前に、遠ざける必要がありました」
「それを、澪宮さまのためだと言うのですか」
「はい」
即答だった。
小夜は言葉を失う。
斎臣は、迷っていない。
自分がしたことを悪だと知っているのかもしれない。
それでも、澪宮のためならば正しいと信じている。
あるいは、正しいかどうかさえ、彼には重要ではないのかもしれない。
「陛下をお守りするためなら、真実など不要です」
斎臣は静かに言った。
「必要なのは、陛下が今日も息をしておられることです」
「真実が不要だなんて、そんなこと……」
「真実が陛下を傷つけるなら、私は隠します」
斎臣の視線が、小夜へ向く。
「真実が陛下を外へ連れ出すなら、私は断ちます」
「……それは、守っているのではなく、閉じ込めているだけではありませんか」
「閉じ込めなければ、守れないものもあります」
小夜は澪宮の手を握りしめた。
澪宮は、何も言わない。
顔色は白く、唇がわずかに震えている。
「澪宮さま」
小夜はそっと呼んだ。
「大丈夫ですか」
澪宮は小夜を見た。
それから、斎臣を見る。
「斎臣」
「はい」
「……夕霧は、死んだのか」
初めて、澪宮がその問いを口にした。
斎臣は、穏やかに微笑んだままだった。
「陛下が知らなくてよいことです」
澪宮の瞳が、揺れた。
それは答えだった。
少なくとも、澪宮にはそう聞こえたのだろう。
「……そうか」
澪宮は小さく呟いた。
「やはり、消えたのだな」
「陛下」
「朕が好きになったから……」
「違います」
斎臣の声が、わずかに強くなった。
「あれは、陛下のせいではありません」
「なら、誰のせいだ」
「私です」
斎臣は、迷わず言った。
澪宮が息を呑む。
「陛下が罪を負う必要はございません。私がすべて負います」
「斎臣」
「それで陛下がお健やかであれば、私は構いません」
その言葉は、献身に聞こえた。
けれど小夜には、それが澪宮をさらに縛る鎖に見えた。
私が罪を負う。
だからあなたは何も知らなくていい。
だからあなたは何も決めなくていい。
だからあなたは、私のそばにいればいい。
そう言っているように聞こえた。
伊吹が、小さく笑う。
「斎臣殿ってさ」
「何でしょう」
「自分が悪者になればいいって顔してるけど、結局、陛下に何も選ばせてないよね」
斎臣の目が、初めてはっきりと冷たくなった。
「黒夜の鬼に、何が分かるのです」
「分からないよ」
伊吹はあっさり認めた。
「でも、小夜ちゃんが嫌がることをしたら、俺は小夜ちゃんに怒られる。それくらいは分かる」
「それが何か」
「斎臣殿は、陛下に怒られる気がないんだね」
斎臣は黙った。
伊吹は続ける。
「陛下に嫌だって言われても、守るためならやめない。怖いって言われても、そばにいる。友達を消しても、真実はいらないって言う」
伊吹は、少しだけ笑みを深めた。
「それ、愛って言うの?」
「忠義です」
「同じくらい気持ち悪いね」
「伊吹」
小夜は慌てて止めた。
けれど、斎臣は怒鳴らなかった。
ただ静かに、伊吹を見ている。
「あなたも同じでしょう」
斎臣は言った。
伊吹の表情が消える。
「朝霧小夜殿を守るためなら、斬る。遠ざける。閉じ込める。そういう顔をしておられるのに」
「俺は小夜ちゃんに聞くよ」
「彼女が答えられるときだけでは?」
小夜の息が詰まった。
その言葉は、伊吹にも刺さったのだろう。
伊吹はすぐには答えなかった。
斎臣は静かに続ける。
「あなたと私は、そう違いません」
「一緒にしないでくれる?」
「違うとお思いなら、違うままでいればよろしい」
斎臣は微笑んだ。
「いつまで、そう言っていられるかは存じませんが」
室内に、重い沈黙が落ちた。
小夜は、伊吹の袖をそっと掴んだ。
伊吹の手が、小夜の手に重なる。
その指先は、少しだけ冷えていた。
「澪宮さま」
小夜は改めて澪宮を見る。
「私は、今日のことを忘れません」
澪宮は小夜を見る。
「でも、今は無理に答えを出さなくてもいいと思います」
「答え……?」
「夕霧さんのことも、斎臣様のことも、怖いと思う気持ちも、全部すぐに決めなくていいと思います」
小夜は声を柔らかくした。
「ただ、澪宮さまの気持ちは、澪宮さまのものです。誰かに消されなくていいものです」
澪宮の瞳に、また涙が浮かぶ。
「小夜」
「はい」
「……小夜は、消えぬか」
「今は、消えません」
「今は」
「はい。今は、ここにいます」
澪宮は、小さく頷いた。
「それでよい」
斎臣は何も言わなかった。
ただ、小夜と澪宮の繋いだ手を静かに見ていた。
その目が何を考えているのか、小夜には分からない。
けれど、少なくとも歓迎しているようには見えなかった。
やがて斎臣が立ち上がる。
「陛下。お疲れです。本日はここまでになさるべきです」
澪宮は、今度は抵抗しなかった。
ただ、小夜の手を離す前に、そっと指先に力を込める。
「また来い」
「はい」
「夕霧のことを、忘れるな」
「忘れません」
「朕が忘れても」
小夜の胸がぎゅっと引き絞られる。
「忘れません」
澪宮はようやく手を離した。
斎臣が澪宮のそばへ寄る。
小夜は立ち上がり、頭を下げた。
「また参ります、澪宮さま」
「うむ」
澪宮の声は小さかった。
御簾の間を出る時、小夜は一度だけ振り返った。
斎臣は澪宮の背後に控えている。
その姿は、守る者のようでもあり、檻そのもののようでもあった。
*
御所を出るまで、伊吹はほとんど喋らなかった。
馬車に乗ってからも、しばらく沈黙が続いた。
小夜は隣に座る伊吹を見る。
彼は窓の外を眺めている。
灰色の空と濡れた帝都の町並みが、その瞳に映っていた。
「伊吹」
「なに」
「怒っていますか」
「怒ってるよ」
伊吹はすぐに答えた。
「斎臣様に?」
「斎臣殿にも。自分にも」
小夜は息を止める。
伊吹は窓の外を見たまま続けた。
「あの人の言ってること、全部気持ち悪いって思った。でも、分かるところがないわけじゃないのが嫌だ」
「伊吹は、違います」
「小夜ちゃんがそう言ってくれるうちはね」
伊吹は小さく笑った。
その笑みは、少し寂しそうだった。
「俺も、小夜ちゃんを守るためなら何でもしたいと思う。邪魔なものは消したいし、危ないものは近づけたくない。小夜ちゃんが俺の知らないところで誰かに笑うのも、ほんとは嫌」
「伊吹」
「でも、小夜ちゃんが嫌だって言うなら、やめる」
伊吹は、ようやく小夜を見る。
「やめる努力をする。ちゃんと聞く。斎臣殿みたいには、なりたくないから」
小夜の胸が熱くなった。
伊吹の危うさは、消えない。
たぶん、これからもずっと小夜を困らせる。
けれど彼は、小夜の言葉を聞こうとしてくれている。
そのことが、とても大事なのだと思った。
「伊吹は、斎臣様みたいにはなりたくないんですよね」
「うん」
「なら、大丈夫です」
伊吹は、少しだけ目を細めた。
「そんな簡単に信じていいの?」
「簡単ではありません」
小夜は少し考えてから、言った。
「でも、伊吹は私が嫌だと言ったら、止まろうとしてくれます」
「止まれるとは限らないよ」
「止まろうとはしてくれます」
伊吹はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ目を細める。
「……小夜ちゃん、俺に甘いよね」
「そうでしょうか」
「うん。すごく甘い」
伊吹は小夜の顔を覗き込んだ。
「俺が調子に乗ったらどうするの」
「怒ります」
「怒った小夜ちゃんもかわいいから困る」
「伊吹」
「ほら、怒った」
「まだ怒っていません」
「じゃあ、もっと口説いていい?」
「駄目です」
「残念」
伊吹は、本当に残念そうに言った。
その声があまりにいつもの調子で、小夜は少しだけ肩の力が抜けた。
重いものが消えたわけではない。
夕霧のことも、澪宮の涙も、斎臣の言葉も、伊吹の中にある危うさも、そのままだ。
それでも、伊吹が小夜の言葉で戻ってくる。
小夜の「駄目です」で、ほんの少し笑ってくれる。
そのことが、今は救いのように思えた。
「ありがとうございます」
「お礼言われることじゃないよ」
「それでも、言いたいです」
伊吹は困ったように笑った。
「小夜ちゃん、最近ほんとずるい」
「何がですか」
「俺がちゃんとしようって思うことばっかり言う」
「それは、いいことでは」
「いいことだよ。俺には大変だけど」
小夜は少しだけ笑った。
けれど、すぐにその笑みは薄れる。
夕霧。
消えた鬼子。
澪宮の初めての友。
そして、真実など不要だと言った斎臣。
小夜の中で、斎臣への疑いはもう消えなかった。
春日惣一が見た白い服の男。
御所へ鬼子を入れなかった者。
まだ早い、と言った者。
それが斎臣なのか、まだ分からない。
けれど斎臣ならやりかねないと思ってしまった。
そのことが、小夜には怖かった。
「小夜ちゃん」
「はい」
「また斎臣殿のこと考えてる」
「……すみません」
「謝ることじゃないよ」
伊吹は小夜の手に触れた。
馬車の揺れに合わせて、指先が少しだけ重なる。
「でも、俺のことも考えて」
「今、ですか」
「うん」
「伊吹のことは、さっきまで考えていました」
「ほんと?」
「はい。斎臣様とは違う、と」
伊吹の目が、ゆっくりと細められる。
「それだけ?」
「それだけ、とは」
「俺のこと、ちゃんと好きな男として考えた?」
小夜は息を呑んだ。
顔に熱が集まる。
「今、そういう話をする場面ですか」
「こういう場面だからするんだよ」
伊吹の声は軽い。
けれど、その目は逃がしてくれそうになかった。
「小夜ちゃんが俺を怖いものとしてだけ見たら、俺は斎臣殿に似てくるかもしれない」
「そんなことは」
「あるよ」
伊吹は薄く笑った。
「俺、危ないからね」
否定できなかった。
伊吹は危ない。
それでも、小夜の言葉を聞こうとしてくれる。
その危うさと甘さが同じところにあるから、小夜はいつも揺れてしまう。
「でも、小夜ちゃんが好きだって顔してくれると、少しまともになろうって思える」
「好きだって顔……」
「してるよ」
「していません」
「してる」
伊吹は小夜の頬に指先で触れた。
逃げられないほど強くはない。
けれど、小夜が逃げないことを知っている触れ方だった。
「口づけしていい?」
あまりに自然に聞かれて、小夜は一瞬、返事を忘れた。
馬車の外で、車輪が濡れた石畳を踏む音がする。
灰色の空。
湿った帝都。
御所の白い檻は、少しずつ遠ざかっている。
「……聞くんですね」
「聞くよ」
「どうして」
「嫌って言われたら、止まらなきゃいけないし」
「止まるために聞いているんですか」
「うん」
「では、嫌じゃなければ?」
「止まらなくていいってことになる」
小夜は言葉に詰まった。
確認しているのに、少しも遠慮していない。
むしろ、答えを待っているだけだ。
嫌なら止まる。
嫌ではないなら、近づく。
伊吹の中では、きっとそれだけなのだろう。
「伊吹」
「うん」
「今の言い方は、少しずるいです」
「知ってる」
「知っているなら」
「でも聞いたよ」
伊吹の指が、小夜の頬を撫でる。
「前みたいに聞かずにするより、だいぶ偉いと思わない?」
「自分で言わないでください」
「じゃあ、小夜ちゃんが褒めて」
「褒めません」
「厳しい」
伊吹は困ったように笑った。
けれど、その目は小夜から離れない。
「嫌?」
小夜はすぐには答えられなかった。
斎臣の言葉が、まだ耳に残っている。
彼女が答えられるときだけでは。
その言葉は、伊吹にも、小夜にも刺さっていた。
けれど、今の伊吹は聞いている。
小夜の答えを待っている。
それが、たとえ危うい欲のためでも。
小夜が嫌かどうかだけは、確かめようとしている。
「……嫌では、ありません」
伊吹の表情が止まった。
それから、甘く深くなる。
「言ったね」
その声は、ひどく優しいのに、獲物を見つけた鬼のようだった。
「言いましたけど、一回だけです」
「まだ何も言ってないのに、一回って決められた」
「伊吹は決めておかないと、調子に乗ります」
「もう乗ってる」
「降りてください」
「無理」
伊吹は、ひどく嬉しそうに笑った。
「小夜ちゃんが嫌じゃないって言った」
「それを理由にしないでください」
「理由にするよ」
伊吹の声が、少しだけ低くなる。
「俺にとっては、すごく大事な許しだから」
小夜は、逃げなかった。
逃げたいとも思わなかった。
そのことが、少し怖くて、でも温かかった。
伊吹の顔が近づく。
唇が触れた。
軽い口づけだった。
そのはずだった。
けれど離れたあとも、伊吹の距離は近いままだった。
小夜は、どうしていいか分からないまま、伊吹を見上げる。
「もう一回」
「駄目です」
「嫌?」
「……嫌ではありませんが」
「じゃあ、もう一回」
「駄目です」
「小夜ちゃん、難しい」
「伊吹が都合よく解釈するからです」
伊吹は楽しそうに目を細めた。
「うん。してる」
「認めないでください」
「だって、嬉しいから」
その声が、あまりにも甘かった。
斎臣の白い檻を見た後だからこそ、身に沁みた。
伊吹も危うい。
伊吹も、きっと小夜を閉じ込めたいと思うことがある。
それでも伊吹は、小夜に聞いた。
小夜の「駄目です」で止まった。
たとえ、嫌かどうかを都合よく聞こうとしていても。
その差が、今の小夜には大きかった。
「斎臣様みたいには、ならないでください」
小夜は小さく言った。
伊吹の笑みが、少しだけ消える。
「うん」
「私が嫌だと言ったら、聞いてください」
「うん」
「嫌ではないと言っても、何でも許したわけではありません」
「うん」
「分かっていますか」
「分かってる」
伊吹は小夜の手を握った。
「小夜ちゃんが嫌じゃないって言ったら、俺は嬉しい。でも、それで全部もらえたと思うほど馬鹿じゃないよ」
「……本当ですか」
「たぶん」
「伊吹」
「本当」
伊吹は目元を緩めた。
「でも、嬉しいのは本当」
その言い方があまりに素直で、小夜は困ってしまった。
伊吹は、小夜の手を持ち上げる。
今度はその指先に、そっと口づけた。
「これは?」
「……今、聞きませんでしたよね」
「手はさっきから触ってたから、いいかなって」
「よくありません」
「嫌?」
小夜は答えに詰まった。
「……嫌では、ありませんけど」
「じゃあ、よくできました」
「伊吹」
小夜が睨むと、伊吹は楽しそうに笑った。
小夜も、少しだけ笑ってしまう。
笑ってから、俯いた。
澪宮は、友だからやめると言った。
夕霧は、澪宮を澪と呼んだ。
斎臣は、閉じ込めなければ守れないと言った。
伊吹は、小夜が嫌なら止まろうとすると言った。
どの言葉も、小夜の中に残っている。
「伊吹」
「なに?」
「私は、たぶん、難しいです」
「うん。知ってる」
「すぐには答えられないことが多いです」
「うん」
「でも、ちゃんと聞いてくれるなら……私も、ちゃんと言います」
伊吹の目が、静かに細められた。
「うん」
その返事は、いつもよりずっと優しかった。
「言って。ちゃんと聞くから」
小夜は、小さく頷いた。
馬車の外で、雨上がりの帝都が流れていく。
御所の白い檻は遠ざかっていた。
けれどそこに残してきた澪宮の手の冷たさは、まだ小夜の指先に残っている。
その指先を、今は伊吹が包んでいた。
重いものが消えたわけではない。
それでも、小夜は伊吹の隣にいた。
*
小夜と伊吹が去ったあと、御簾の間には静けさだけが残った。
澪宮は、畳の上に座ったまま、自分の手を見つめていた。
小夜の手のあたたかさが、まだ指先に残っている。
夕霧の赤い紐の記憶も、同じ指先に絡みついている気がした。
斎臣は澪宮の前で膝をついている。
「陛下」
「斎臣」
「はい」
「……怒っておるか」
「いいえ」
斎臣は穏やかに答えた。
「陛下に怒ることなど、ございません」
「……夕霧のことを話した」
「そのようですね」
「悪かったか」
「陛下が話したいとお思いになったのなら、私は止められません」
澪宮は、斎臣を見る。
「止めるであろう」
斎臣は少しだけ微笑んだ。
「次からは」
その言葉に、澪宮の指が小さく震える。
斎臣はそれに気づき、そっと澪宮の手を取った。
冷たい手を、両手で包む。
澪宮は逃げなかった。
逃げなかったが、安心したわけでもなかった。
「……小夜も、消えるか」
澪宮は小さく尋ねた。
斎臣は、澪宮の手を包んだまま答える。
「陛下がお望みでないなら、消えません」
「斎臣が、消さぬのか」
斎臣は一瞬だけ沈黙した。
それから、静かに言う。
「あの娘には、黒夜の鬼がついております」
「うむ」
「無理に遠ざければ、かえって陛下の周りが騒がしくなるでしょう」
「なら、小夜は消えぬか」
「今は」
澪宮は顔を上げる。
「……今は」
「ええ。今は」
斎臣の声は優しかった。
優しいのに、底が見えなかった。
澪宮の喉が、小さく震える。
「斎臣」
「はい」
「そなたは、ときどき怖い」
斎臣の指が止まった。
けれど表情は変わらない。
「存じております」
澪宮は息を呑む。
斎臣は、その手を自分の額に押し当てた。
祈るように。
縋るように。
閉じ込めるように。
「それでも、陛下のおそばにいるのは私です」
声は、どこまでも優しかった。
澪宮は何も言えなかった。
御簾の外では、雨上がりの青葉が風に揺れている。
遠い日の夕霧の笑い声は、もう聞こえない。
ただ、斎臣の手の熱だけが、冷たい指先に残っていた。




