第十二話 夕霧
封鬼寮から御所へ向かう道は、昨日よりも静かに見えた。
雨は降っていない。けれど空にはまだ雲が残り、濡れた石畳の隙間には小さな水たまりが残っていた。
小夜は、馬車の窓の外を見ていた。
昨夜、春日惣一が口にした言葉が、ずっと頭から離れない。
御声が聞こえた。御所へ行けって。
でも、御所には入れてもらえなかった。
白い服の男がいた。
それが誰なのか、まだ分からない。
分からないはずなのに、小夜の頭にはどうしても一人の姿が浮かんでしまう。
白い狩衣。整った微笑。澪宮の渇きを自分の血で鎮める男――鷹司斎臣。
「小夜ちゃん。また斎臣殿のこと考えてた?」
「……分かりますか」
「分かるよ。小夜ちゃん、疑いたくない相手を疑ってる時、すごく分かりやすい顔する」
小夜は膝の上で手を握った。
「決めつけるのは、よくないと思うんです。春日さんの記憶は混乱していました。白い服の男と言っても、斎臣様とは限りません。御所には白い狩衣を着た方が他にもいるでしょうし。でも……」
小夜は言葉に詰まった。
伊吹は急かさなかった。
ただ、小夜の手に自分の指を重ねる。
「斎臣様には、澪宮さまを守りたいという理由があります。もし、鬼子が御所に近づくことを危険だと思ったなら、止めたかもしれません」
「止めただけならね。でも、あの白い服の男が鈴と関係してたら?」
小夜は答えられなかった。
伊吹の声が、少しだけ低くなる。
「春日惣一は、御所に行けって声を聞いた。なのに、御所には入れてもらえなかった。まだ早い、と言われた。つまり誰かが、鬼子を御所の近くまで呼んで、でも中には入れなかった。それ、何のためだろうね」
小夜は胸元を押さえた。
考えれば考えるほど、答えは暗い方へ傾いていく。
「斎臣様は、澪宮さまを守っている方です」
「でも、守るためなら何でもする顔をしてる」
小夜は、否定できなかった。
陛下が口にしてよい血は、私のものだけです、と言った声。
あれは献身だった。けれど、ただの献身だけではなかった。
「小夜ちゃん。今日、斎臣殿と二人きりにはならないで。陛下とも、できれば。斎臣殿の近くで、陛下と小夜ちゃんが仲良くなりすぎるのが一番危ない気がする」
小夜は顔を歪めた。
まだ友というものを覚え始めたばかりの少女が、手探りで小夜に近づいてくる。
その澪宮に、危険があるとは思いたくない。
けれど、澪宮が誰かを好きになることを、斎臣は本当に許すのだろうか。
「伊吹。私が誰かと仲良くしても、消さないでください」
伊吹は、一瞬だけ黙った。
それから、唇の端だけで笑う。
「……誰の話?」
「約束してください」
「小夜ちゃんが、その人を俺より大事にしなければ」
「伊吹」
「冗談。……半分」
「半分でも嫌です。嫌だと言ったら、やめてくれるのではないですか」
「小夜ちゃん、最近それ言うの上手くなったね」
伊吹は小夜の手を持ち上げ、指先に軽く額を寄せた。
「小夜ちゃんが嫌だって言うなら、しない。少なくとも、する前に聞く」
「する前に、ではなく、しないでください」
「……分かった。絶対とは言えないけど、頑張る」
それが伊吹の精一杯の譲歩なのだろう。
伊吹は御所の方角を見る。
その横顔から、軽薄な色が薄れていた。
「でも斎臣殿は、そういう約束をしてなさそうだよね」
小夜は返事ができなかった。
御所へ着くと、斎臣がいつものように出迎えた。
その姿は、昨日までと何も変わらない。
だからこそ、小夜は背筋が冷えるのを感じた。
「朝霧小夜殿。黒夜の伊吹殿。本日もお越しいただき、恐れ入ります。陛下は昨日より落ち着いておられます。あなたが来ると分かってから、朝餉も少し召し上がりました」
その言葉は穏やかだった。
けれど小夜には、その裏にあるものが読めなくなっていた。
伊吹が隣で、にこりと笑う。
「斎臣殿、今日も白いね。白い狩衣って、御所では珍しくないんだなと思って」
小夜の心臓が、ひやりとした。
斎臣の微笑みは崩れない。
「御所の装束としては、特別珍しいものではございません。何か気になることでも?」
「別に」
伊吹はあっさり引いた。
けれど二人の間に流れた空気は、少しも軽くなかった。
内廷の廊下を進みながら、小夜は斎臣の背を見つめた。
袖口から、かすかに見える手首。古い傷痕。
あの人は確かに澪宮を支えている。
でも、その支えは澪宮を自由にしているのだろうか。
それとも、より深く縛っているのだろうか。
御簾の間に入ると、澪宮はすでに待っていた。
「小夜。来たな。今日は遅くない」
「昨日と同じ時刻です」
「朕が昨日より早く起きたから、早い」
小夜は少しだけ笑った。
澪宮はちらりと伊吹を見る。
「小夜の鬼も来た。今日も見張るのか」
「うん。陛下が小夜ちゃんを抱き枕にしないか見張る」
「今日はしない。昨日、小夜が困ったから。友だから、やめる」
小夜の胸が温かくなった。
「覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」
澪宮は少し考え込み、やがて小さく頷いた。
「なら、よい」
今の澪宮には少しずつ自分の言葉が増えている。
小夜は嬉しく思った。
それと同時に、恐ろしくもあった。
澪宮が小夜に懐くほど、斎臣の目が静かになる。
それが、なぜか怖い。
しばらく、聞き取りが続いた。
春日惣一が目覚めたことは、すでに御所にも伝わっていたらしい。
小夜は慎重に言葉を選んだ。
御声を聞いたこと。御所へ行けと言われたこと。御所には入れてもらえなかったこと。白い服の男がいたと言っていたこと。
そこまで話した時、斎臣の表情は変わらなかった。
ただ、澪宮の肩が小さく震えた。
「御所には入れなかったのか。鬼子が御所の近くへ来たのに。……朕は、呼んでおらぬ」
澪宮の声に、微かな怯えが混じる。
「分かっています。澪宮さまが呼んだとは思っていません」
澪宮は、小夜の言葉を確かめるようにじっと見つめた。
斎臣が静かに口を挟んだ。
「陛下。ご心配には及びません。御所の警備は厳重です」
澪宮は斎臣を見た。
「斎臣は、知っていたのか。鬼子が御所の近くへ来たこと」
「報告は受けております」
「なぜ言わなかった」
「陛下のお心を乱すほどのことではないと判断しました」
小夜は息を呑んだ。
澪宮は黙る。
今の小夜には分かる。
澪宮は、何かを言おうとして飲み込んだ。
「澪宮さま。何か、気になることがありますか」
澪宮はすぐには答えなかった。
斎臣の視線が、小夜に向く。
穏やかだ。けれど、近づきすぎるなと告げられているようだった。
澪宮は、小夜の袖を見つめる。
「小夜。今日は、少し話したい。昔のこと」
斎臣が、わずかに動いた。
「陛下」
「斎臣。少し、外せ」
室内が静かになった。
斎臣は微笑んだままだった。
「陛下。それは……私がいては、ならない話でしょうか」
澪宮は答えなかった。ただ、目をそらす。
斎臣の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
しかし彼は、それ以上食い下がらなかった。
「……では、薬湯をお持ちいたします。すぐに戻ります」
斎臣は立ち上がり、一礼して部屋を出ていった。
その背中が廊下の向こうに消えるまで、誰も口を開かなかった。
澪宮は、斎臣が完全に離れたのを確かめてから、小夜の袖をそっと掴んだ。
今日は、先に言わなかった。
けれど小夜は何も言わなかった。
澪宮の指が震えていたからだ。
「小夜。……朕は斎臣を、怖いと思うことがある」
小夜は息を止めた。
澪宮は自分でもその言葉に驚いたように、目を伏せる。
「だが、斎臣は朕のためにいる。怖いと思っては、ならぬ」
その声があまりにも小さくて、小夜は二の句が継げない。
小夜は、ゆっくり首を横に振る。
「怖いと思ってはいけない気持ちなんて、ないと思います。怖いと思ったなら、それも澪宮さまの気持ちです。誰かのために、消さなくていいものです」
澪宮は、小夜の袖を握りしめた。
彼女の指は今日も冷たい。けれど、そこに縋る力があった。
「夕霧という鬼子がいた」
澪宮は静かに話し始めた。
「一年前に出会い、半年ほど前に……いなくなった。朕と同じくらいの年だった。少しだけ、兄のようでもあった。よく笑った。よく怒った。朕を、陛下と呼ばなかった」
「……ご友人、ですか」
「その時は、友というものを知らなかった。今なら、そうだったのだと思う」
小夜は黙って頷いた。
澪宮の視線が、少し遠くなる。
「夕霧は、御所に保護された鬼子だった。表向きは、鬼化の兆候がある者を保護するため。実際には、朕の血の不安定さを調べるために置かれていたのだろう。同じ鬼子だから、と大人たちは言った」
小夜は呼吸が重くなるのを感じた。
保護。その言葉が、急に冷たいものに聞こえた。
保護と管理の境目は、どこにあるのだろう。
「夕霧は、朕を恐れなかった」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「初めて会った時、夕霧はこう言った。おまえ、ほんとに外に出たことないのか、と。朕は、おまえとは朕のことか、と聞いた。夕霧は、他に誰がいるんだ、と笑った」
その光景が、小夜の中に浮かんだ。
閉じ込められた幼い帝。そこへ現れた、少し口の悪い鬼子の少年。
彼は帝を帝としてではなく、一人の子として見た。
「夕霧は、外の話をした。団子の味。雨上がりの土の匂い。裸足で走ると、石が痛いこと。市で売っている赤い飴。夜の川に映る灯り。朕の知らぬものばかりだった」
澪宮は、自分の膝の上に視線を落とす。
「夕霧は言った。澪、おまえ、ここにいたら干からびるぞ、と」
「澪、と呼んだんですね」
「うむ。その名で呼ばれたのは、初めてだった」
小夜は、何も言えなかった。
澪宮という名さえ、御所の中では帝の名の一部でしかなかったのかもしれない。
けれど夕霧は、彼女を澪と呼んだ。帝ではなく、澪として。
「それで、夕霧さんは……」
小夜が尋ねると、澪宮の指が小夜の袖を強く握った。
「ある日、来なくなった」
声が急に平らになる。
「斎臣は、遠くへ移したと言った。あれは朕のそばに置くには危険だったと」
「危険……」
「夕霧は危険ではなかった」
澪宮の声に、初めてはっきりとした感情が滲んだ。
「朕の名を呼んだ。朕を笑わせた。外の話をした。それだけだ。でも、斎臣は言った。夕霧は朕の血を乱す。帝の秘密を知りすぎた。御所の外へ心を向けさせる。だから、遠ざけたと」
「……その後、夕霧さんには?」
「会っておらぬ」
澪宮は淡々と答えた。
けれど、その手は震えている。
「その夜、御所の奥で血の匂いがした」
小夜は息を呑んだ。
「翌朝、夕霧が結んでいた赤い紐だけが、庭の石の下に落ちていた。斎臣は、何も言わなかった」
澪宮は小夜を見る。
黒い瞳の奥に、深い恐怖があった。
「……それから、朕は誰かを好きになるのが怖い。好きになると、消えてしまう。小夜も、消えるかと思った」
澪宮の手が、小夜の袖から離れかける。
小夜は、反射的にその手を取った。
冷たい指を、両手で包む。
「私は、ここにいます」
「今はな」
「はい。今は、ここにいます」
小夜は、嘘をつかなかった。
ずっといるとは言えない。
けれど、今この瞬間は、澪宮の手を離したくなかった。
澪宮は小夜の手を見つめる。
「――小夜には、鬼がいる。小夜の鬼はとても強い。斎臣でも、容易には殺せぬ」
小夜は息を止めた。
伊吹の目が細くなる。
「――陛下。それ、けっこう怖いこと言ってるよ」
「そうか」
澪宮は小夜に視線を戻す。
「だから、小夜は消えぬと思った。小夜には、強い鬼がいる。だから、朕が好きになっても、消えぬ」
その言葉は、可愛らしいほどまっすぐで、同時にひどく歪んでいた。
小夜は胸が苦しかった。
誰かを好きになることが、相手を危険に晒すことと結びついている。
だから澪宮は、伊吹という強い守りがある小夜にだけ、安心して懐ける。
それは友情だった。けれど、深い恐怖に根を張った友情だった。
その時、伊吹がふと、小夜の顔を覗き込んだ。
いつもの軽い笑みで。けれど、その目だけは少しも軽くなかった。
「……小夜ちゃん。俺、強くてよかった?」
その問いの裏には、いつもより重い意味があった。
「……はい」
「小夜ちゃんを守れるくらいで」
「……はい」
「もっと強くなる」
軽い口調だった。けれど、その声だけは、本気だった。
小夜は、繋いだ手にそっと指を絡め直した。
「澪宮さま。もし、斎臣様のことで怖いと思うことがあったら……私に言ってください」
澪宮は瞬きをした。
「斎臣は、朕のためにいる。斎臣がいなければ、朕は眠れぬ。喉が渇いた時も、斎臣がいなければ困る」
「それでも。怖いと思ったなら、それも澪宮さまの気持ちです。消さなくていいんです」
澪宮は、何も言わなかった。
ただ、小夜の手を握り返した。
その時だった。
「何のお話ですか」
斎臣の声がした。
小夜は振り返る。
いつの間に戻っていたのか、斎臣が御簾の間の入口に立っていた。手には薬湯の器を持っている。
微笑んでいる。いつものように、穏やかに。
けれどその場の空気が、音もなく凍った。
澪宮の指が、小夜の手の中でびくりと震える。
斎臣は静かに器を置き、膝をついた。
「夕霧の話を、なさいましたか」




