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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第十二話 夕霧

 封鬼寮から御所へ向かう道は、昨日よりも静かに見えた。

 雨は降っていない。けれど空にはまだ雲が残り、濡れた石畳の隙間には小さな水たまりが残っていた。

 小夜は、馬車の窓の外を見ていた。

 昨夜、春日惣一が口にした言葉が、ずっと頭から離れない。

 御声が聞こえた。御所へ行けって。

 でも、御所には入れてもらえなかった。

 白い服の男がいた。

 それが誰なのか、まだ分からない。

 分からないはずなのに、小夜の頭にはどうしても一人の姿が浮かんでしまう。

 白い狩衣。整った微笑。澪宮の渇きを自分の血で鎮める男――鷹司斎臣。


「小夜ちゃん。また斎臣殿のこと考えてた?」


「……分かりますか」


「分かるよ。小夜ちゃん、疑いたくない相手を疑ってる時、すごく分かりやすい顔する」


 小夜は膝の上で手を握った。


「決めつけるのは、よくないと思うんです。春日さんの記憶は混乱していました。白い服の男と言っても、斎臣様とは限りません。御所には白い狩衣を着た方が他にもいるでしょうし。でも……」


 小夜は言葉に詰まった。

 伊吹は急かさなかった。

 ただ、小夜の手に自分の指を重ねる。


「斎臣様には、澪宮さまを守りたいという理由があります。もし、鬼子が御所に近づくことを危険だと思ったなら、止めたかもしれません」


「止めただけならね。でも、あの白い服の男が鈴と関係してたら?」


 小夜は答えられなかった。

 伊吹の声が、少しだけ低くなる。


「春日惣一は、御所に行けって声を聞いた。なのに、御所には入れてもらえなかった。まだ早い、と言われた。つまり誰かが、鬼子を御所の近くまで呼んで、でも中には入れなかった。それ、何のためだろうね」


 小夜は胸元を押さえた。

 考えれば考えるほど、答えは暗い方へ傾いていく。


「斎臣様は、澪宮さまを守っている方です」


「でも、守るためなら何でもする顔をしてる」


 小夜は、否定できなかった。

 陛下が口にしてよい血は、私のものだけです、と言った声。

 あれは献身だった。けれど、ただの献身だけではなかった。


「小夜ちゃん。今日、斎臣殿と二人きりにはならないで。陛下とも、できれば。斎臣殿の近くで、陛下と小夜ちゃんが仲良くなりすぎるのが一番危ない気がする」


 小夜は顔を歪めた。

 まだ友というものを覚え始めたばかりの少女が、手探りで小夜に近づいてくる。

 その澪宮に、危険があるとは思いたくない。

 けれど、澪宮が誰かを好きになることを、斎臣は本当に許すのだろうか。


「伊吹。私が誰かと仲良くしても、消さないでください」


 伊吹は、一瞬だけ黙った。

 それから、唇の端だけで笑う。


「……誰の話?」


「約束してください」


「小夜ちゃんが、その人を俺より大事にしなければ」


「伊吹」


「冗談。……半分」


「半分でも嫌です。嫌だと言ったら、やめてくれるのではないですか」


「小夜ちゃん、最近それ言うの上手くなったね」


 伊吹は小夜の手を持ち上げ、指先に軽く額を寄せた。


「小夜ちゃんが嫌だって言うなら、しない。少なくとも、する前に聞く」


「する前に、ではなく、しないでください」


「……分かった。絶対とは言えないけど、頑張る」


 それが伊吹の精一杯の譲歩なのだろう。

 伊吹は御所の方角を見る。

 その横顔から、軽薄な色が薄れていた。


「でも斎臣殿は、そういう約束をしてなさそうだよね」


 小夜は返事ができなかった。

 御所へ着くと、斎臣がいつものように出迎えた。

 その姿は、昨日までと何も変わらない。

 だからこそ、小夜は背筋が冷えるのを感じた。


「朝霧小夜殿。黒夜の伊吹殿。本日もお越しいただき、恐れ入ります。陛下は昨日より落ち着いておられます。あなたが来ると分かってから、朝餉も少し召し上がりました」


 その言葉は穏やかだった。

 けれど小夜には、その裏にあるものが読めなくなっていた。

 伊吹が隣で、にこりと笑う。


「斎臣殿、今日も白いね。白い狩衣って、御所では珍しくないんだなと思って」


 小夜の心臓が、ひやりとした。

 斎臣の微笑みは崩れない。


「御所の装束としては、特別珍しいものではございません。何か気になることでも?」


「別に」


 伊吹はあっさり引いた。

 けれど二人の間に流れた空気は、少しも軽くなかった。

 内廷の廊下を進みながら、小夜は斎臣の背を見つめた。

 袖口から、かすかに見える手首。古い傷痕。

 あの人は確かに澪宮を支えている。

 でも、その支えは澪宮を自由にしているのだろうか。

 それとも、より深く縛っているのだろうか。

 御簾の間に入ると、澪宮はすでに待っていた。


「小夜。来たな。今日は遅くない」


「昨日と同じ時刻です」


「朕が昨日より早く起きたから、早い」


 小夜は少しだけ笑った。

 澪宮はちらりと伊吹を見る。


「小夜の鬼も来た。今日も見張るのか」


「うん。陛下が小夜ちゃんを抱き枕にしないか見張る」


「今日はしない。昨日、小夜が困ったから。友だから、やめる」


 小夜の胸が温かくなった。


「覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」


 澪宮は少し考え込み、やがて小さく頷いた。


「なら、よい」


 今の澪宮には少しずつ自分の言葉が増えている。

 小夜は嬉しく思った。

 それと同時に、恐ろしくもあった。

 澪宮が小夜に懐くほど、斎臣の目が静かになる。

 それが、なぜか怖い。

 しばらく、聞き取りが続いた。

 春日惣一が目覚めたことは、すでに御所にも伝わっていたらしい。

 小夜は慎重に言葉を選んだ。

 御声を聞いたこと。御所へ行けと言われたこと。御所には入れてもらえなかったこと。白い服の男がいたと言っていたこと。

 そこまで話した時、斎臣の表情は変わらなかった。

 ただ、澪宮の肩が小さく震えた。


「御所には入れなかったのか。鬼子が御所の近くへ来たのに。……朕は、呼んでおらぬ」


 澪宮の声に、微かな怯えが混じる。


「分かっています。澪宮さまが呼んだとは思っていません」


 澪宮は、小夜の言葉を確かめるようにじっと見つめた。

 斎臣が静かに口を挟んだ。


「陛下。ご心配には及びません。御所の警備は厳重です」


 澪宮は斎臣を見た。


「斎臣は、知っていたのか。鬼子が御所の近くへ来たこと」


「報告は受けております」


「なぜ言わなかった」


「陛下のお心を乱すほどのことではないと判断しました」


 小夜は息を呑んだ。

 澪宮は黙る。

 今の小夜には分かる。

 澪宮は、何かを言おうとして飲み込んだ。


「澪宮さま。何か、気になることがありますか」


 澪宮はすぐには答えなかった。

 斎臣の視線が、小夜に向く。

 穏やかだ。けれど、近づきすぎるなと告げられているようだった。

 澪宮は、小夜の袖を見つめる。


「小夜。今日は、少し話したい。昔のこと」


 斎臣が、わずかに動いた。


「陛下」


「斎臣。少し、外せ」


 室内が静かになった。

 斎臣は微笑んだままだった。


「陛下。それは……私がいては、ならない話でしょうか」


 澪宮は答えなかった。ただ、目をそらす。

 斎臣の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。

 しかし彼は、それ以上食い下がらなかった。


「……では、薬湯をお持ちいたします。すぐに戻ります」


 斎臣は立ち上がり、一礼して部屋を出ていった。

 その背中が廊下の向こうに消えるまで、誰も口を開かなかった。

 澪宮は、斎臣が完全に離れたのを確かめてから、小夜の袖をそっと掴んだ。

 今日は、先に言わなかった。

 けれど小夜は何も言わなかった。

 澪宮の指が震えていたからだ。


「小夜。……朕は斎臣を、怖いと思うことがある」


 小夜は息を止めた。

 澪宮は自分でもその言葉に驚いたように、目を伏せる。


「だが、斎臣は朕のためにいる。怖いと思っては、ならぬ」


 その声があまりにも小さくて、小夜は二の句が継げない。

 小夜は、ゆっくり首を横に振る。


「怖いと思ってはいけない気持ちなんて、ないと思います。怖いと思ったなら、それも澪宮さまの気持ちです。誰かのために、消さなくていいものです」


 澪宮は、小夜の袖を握りしめた。

 彼女の指は今日も冷たい。けれど、そこに縋る力があった。


「夕霧という鬼子がいた」


 澪宮は静かに話し始めた。


「一年前に出会い、半年ほど前に……いなくなった。朕と同じくらいの年だった。少しだけ、兄のようでもあった。よく笑った。よく怒った。朕を、陛下と呼ばなかった」


「……ご友人、ですか」


「その時は、友というものを知らなかった。今なら、そうだったのだと思う」


 小夜は黙って頷いた。

 澪宮の視線が、少し遠くなる。


「夕霧は、御所に保護された鬼子だった。表向きは、鬼化の兆候がある者を保護するため。実際には、朕の血の不安定さを調べるために置かれていたのだろう。同じ鬼子だから、と大人たちは言った」


 小夜は呼吸が重くなるのを感じた。

 保護。その言葉が、急に冷たいものに聞こえた。

 保護と管理の境目は、どこにあるのだろう。


「夕霧は、朕を恐れなかった」


 少しだけ、声が柔らかくなる。


「初めて会った時、夕霧はこう言った。おまえ、ほんとに外に出たことないのか、と。朕は、おまえとは朕のことか、と聞いた。夕霧は、他に誰がいるんだ、と笑った」


 その光景が、小夜の中に浮かんだ。

 閉じ込められた幼い帝。そこへ現れた、少し口の悪い鬼子の少年。

 彼は帝を帝としてではなく、一人の子として見た。


「夕霧は、外の話をした。団子の味。雨上がりの土の匂い。裸足で走ると、石が痛いこと。市で売っている赤い飴。夜の川に映る灯り。朕の知らぬものばかりだった」


 澪宮は、自分の膝の上に視線を落とす。


「夕霧は言った。澪、おまえ、ここにいたら干からびるぞ、と」


「澪、と呼んだんですね」


「うむ。その名で呼ばれたのは、初めてだった」


 小夜は、何も言えなかった。

 澪宮という名さえ、御所の中では帝の名の一部でしかなかったのかもしれない。

 けれど夕霧は、彼女を澪と呼んだ。帝ではなく、澪として。


「それで、夕霧さんは……」


 小夜が尋ねると、澪宮の指が小夜の袖を強く握った。


「ある日、来なくなった」


 声が急に平らになる。


「斎臣は、遠くへ移したと言った。あれは朕のそばに置くには危険だったと」


「危険……」


「夕霧は危険ではなかった」


 澪宮の声に、初めてはっきりとした感情が滲んだ。


「朕の名を呼んだ。朕を笑わせた。外の話をした。それだけだ。でも、斎臣は言った。夕霧は朕の血を乱す。帝の秘密を知りすぎた。御所の外へ心を向けさせる。だから、遠ざけたと」


「……その後、夕霧さんには?」


「会っておらぬ」


 澪宮は淡々と答えた。

 けれど、その手は震えている。


「その夜、御所の奥で血の匂いがした」


 小夜は息を呑んだ。


「翌朝、夕霧が結んでいた赤い紐だけが、庭の石の下に落ちていた。斎臣は、何も言わなかった」


 澪宮は小夜を見る。

 黒い瞳の奥に、深い恐怖があった。


「……それから、朕は誰かを好きになるのが怖い。好きになると、消えてしまう。小夜も、消えるかと思った」


 澪宮の手が、小夜の袖から離れかける。

 小夜は、反射的にその手を取った。

 冷たい指を、両手で包む。


「私は、ここにいます」


「今はな」


「はい。今は、ここにいます」


 小夜は、嘘をつかなかった。

 ずっといるとは言えない。

 けれど、今この瞬間は、澪宮の手を離したくなかった。

 澪宮は小夜の手を見つめる。


「――小夜には、鬼がいる。小夜の鬼はとても強い。斎臣でも、容易には殺せぬ」


 小夜は息を止めた。

 伊吹の目が細くなる。


「――陛下。それ、けっこう怖いこと言ってるよ」


「そうか」


 澪宮は小夜に視線を戻す。


「だから、小夜は消えぬと思った。小夜には、強い鬼がいる。だから、朕が好きになっても、消えぬ」


 その言葉は、可愛らしいほどまっすぐで、同時にひどく歪んでいた。

 小夜は胸が苦しかった。

 誰かを好きになることが、相手を危険に晒すことと結びついている。

 だから澪宮は、伊吹という強い守りがある小夜にだけ、安心して懐ける。

 それは友情だった。けれど、深い恐怖に根を張った友情だった。

 その時、伊吹がふと、小夜の顔を覗き込んだ。

 いつもの軽い笑みで。けれど、その目だけは少しも軽くなかった。


「……小夜ちゃん。俺、強くてよかった?」


 その問いの裏には、いつもより重い意味があった。


「……はい」


「小夜ちゃんを守れるくらいで」


「……はい」


「もっと強くなる」


 軽い口調だった。けれど、その声だけは、本気だった。

 小夜は、繋いだ手にそっと指を絡め直した。


「澪宮さま。もし、斎臣様のことで怖いと思うことがあったら……私に言ってください」


 澪宮は瞬きをした。


「斎臣は、朕のためにいる。斎臣がいなければ、朕は眠れぬ。喉が渇いた時も、斎臣がいなければ困る」


「それでも。怖いと思ったなら、それも澪宮さまの気持ちです。消さなくていいんです」


 澪宮は、何も言わなかった。

 ただ、小夜の手を握り返した。

 その時だった。


「何のお話ですか」


 斎臣の声がした。

 小夜は振り返る。

 いつの間に戻っていたのか、斎臣が御簾の間の入口に立っていた。手には薬湯の器を持っている。

 微笑んでいる。いつものように、穏やかに。

 けれどその場の空気が、音もなく凍った。

 澪宮の指が、小夜の手の中でびくりと震える。

 斎臣は静かに器を置き、膝をついた。


「夕霧の話を、なさいましたか」




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