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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第十話 私の未来は私のもの

「小夜が我が一族の男と契ればよい」


 澪宮の声は、とても静かだった。

 雨上がりの庭から吹き込む風が、障子の隙間でかすかに鳴る。

 小夜は、しばらく何を言われたのか分からなかった。

 契る。

 その言葉の意味が、遅れて小夜の中へ落ちてくる。


「……え?」


 小夜が呆然と声を漏らしたのと、ほとんど同時だった。


「は?」


 伊吹の声が、低く響いた。

 先ほどまで拗ねたように頬杖をついていた伊吹が、ゆっくり身を起こす。

 笑っていない。

 けれど澪宮は、伊吹の反応に気づいているのかいないのか、真剣な顔で小夜を見ていた。


「朕ほどではないが、我が血筋には鬼の血を濃く残す者がいる。稀血の娘なら、鬼子でも暴走しづらい子が生まれるかもしれぬ。立派な境守りになれる」


「え、あの、澪宮さま」


「そうすれば、帝都の結界も強くなる。小夜は朕の身内にもなる。よい案ではないか」


 小夜は言葉を失った。

 澪宮は、本気だった。

 からかっているのでも、悪意があるのでもない。

 結界のことを考え、小夜と身内になる方法を考え、その結果として、それが名案だと信じている。

 だからこそ、小夜の中で困惑と戸惑いが一気に膨れ上がった。

 斎臣は、澪宮の枕元に控えたまま、わずかに目を伏せていた。

 止めない。

 それどころか、ほんの少し考え込むように沈黙したあと、静かに口を開いた。


「なるほど。理屈としては、悪くない案かもしれません」


「斎臣様まで……?」


 小夜は思わず斎臣を見た。

 斎臣の表情は変わらない。

 けれど、その言葉は小夜の背筋を冷やした。


「朝霧小夜殿の稀血は、陛下の御身を鎮め、鬼子の血の乱れにも作用する。御所の血筋と結びつけば、陛下のご先祖のような境守りが生まれる可能性は高いでしょう」


「可能性……」


「もちろん、今すぐ決める話ではございません」


 斎臣は静かな声で続けた。


「ですが、帝都結界の安定を考えれば、検討に値することです」


 その瞬間、室内の温度が落ちた。

 そう感じたのは、小夜だけではなかったのだと思う。

 斎臣の指が、膝の上でわずかに動いた。

 澪宮が、不思議そうに顔を上げる。

 伊吹が笑っていた。

 けれど、それは笑みではなかった。


「検討に値する、ねえ」


 甘い声だった。

 甘いほどに、危うい声だった。


「小夜ちゃんを、御所の男に渡せって話が?」


「言い方が乱暴です」


「乱暴なのはどっちかな」


 伊吹は立ち上がった。

 黒い衣の裾が、畳の上で静かに揺れる。

 それだけで、室内の空気が変わった。

 小夜の首筋の刻印が、熱を持つ。

 鬼気だ。

 伊吹の中から、抑えきれない鬼の気配がにじみ出している。


「小夜ちゃんは、結界を強くする道具じゃない」


「承知しております」


「承知してないから、そんな話をしてるんでしょ」


 伊吹の指が、刀の柄へ触れた。

 ほんの少し。

 けれど、その瞬間、斎臣の袖の内側で白い札が滑るように現れた。

 朱墨の術式が、薄く光っている。


「黒夜の伊吹殿」


 斎臣の声は静かだった。


「御前です」


「だから、まだ抜いてない」


「抜くおつもりなら、止めます」


「止められると思ってる?」


 伊吹が口の端を上げる。

 斎臣もまた、微笑んだ。


「止めなければなりません」


 澪宮は、二人を交互に見ていた。

 なぜ空気が張り詰めたのか、分かっていないようだった。


「小夜の鬼は、怒っているのか」


「怒ってるよ」


 伊吹が即答した。


「小夜ちゃんを他の男に渡せなんて言われて、怒らないわけないでしょ」


「だが、結界が強くなる。帝都が安全になるのだ」


「俺にはそんなの関係ない」


 伊吹は切り捨てた。


「小夜ちゃんより大事なものなんて、俺にはない」


 小夜の心臓が、どくんと鳴った。

 嬉しい。

 伊吹は小夜を選ぶ。

 その言葉は、甘くて危うい。

 けれど今、その甘さよりもずっと深い場所で、伊吹の声は凍っていた。

 この人は本気だ。

 御所でも、帝の前でも。

 小夜を道具にしようとするものなら、斬る。

 そう思っている。


「伊吹」


 小夜は名前を呼んだ。

 けれど、伊吹はいつものように「分かってる」とは言わなかった。

 ただ、澪宮を見ている。

 刀の柄に触れた指が、わずかに沈む。

 小夜は考えるより早く、立ち上がった。


「小夜ちゃん」


 伊吹の声が変わる。

 小夜は澪宮の前へ出た。

 伊吹と澪宮の間に、自分の体を置く。

 斎臣が息を呑んだ。


「朝霧小夜殿」


「小夜」


 澪宮も、小さく名を呼ぶ。

 小夜は振り返らなかった。

 伊吹だけを見ていた。


「伊吹」


「そこ、危ないよ」


「分かっています」


「分かってるなら、どいて」


「どきません」


 伊吹の目が、細くなる。

 蜂蜜色の瞳の奥に、鬼の光が揺れていた。


「小夜ちゃん」


 声は優しい。

 けれど、笑っていない。


「その子は、小夜ちゃんを御所の血に組み込もうとしたんだよ」


「分かっています」


「小夜ちゃんの未来を、結界の材料にしようとした」


「分かっています」


「なら、どうしてかばうの」


 小夜は手を握った。

 怖くないと言えば、嘘になる。

 今の伊吹は怖い。

 小夜のために怒ってくれているのに、怖い。

 けれど、ここで退いてはいけないと思った。


「澪宮さまは、知らないだけです」


「知らなければ許されるの?」


「許すかどうかは、私が決めます」


 伊吹の表情が、わずかに変わった。

 小夜は続けた。


「私が嫌だと言います。私が怒ります。私が、やめてほしいと伝えます」


 声が震える。

 けれど、止めなかった。


「だから伊吹が、私の代わりに斬らないでください」


 伊吹は黙った。

 斎臣の札が、まだ薄く光っている。

 澪宮は、小夜の背後で息を潜めていた。

 雨上がりの庭から、湿った風が入ってくる。

 長い沈黙のあと、伊吹が小さく息を吐いた。


「……小夜ちゃんってさ」


 伊吹の指が、柄から離れる。


「ほんと、俺に一番効くこと言うよね」


 小夜の膝から、少しだけ力が抜けそうになった。

 伊吹は困ったように笑った。

 けれど、その目にはまだ怒りが残っている。


「分かった。斬らない」


 斎臣の札の光が、わずかに弱まった。


「でも、許したわけじゃないよ」


「分かっています」


「小夜ちゃんの未来に手を出そうとするなら、次はたぶん、もっと怒る」


「その時も、まず私に言わせてください」


「……努力する」


「努力ではなく」


 伊吹は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。


「言わせる」


「はい」


「小夜ちゃんが言えなくなったら?」


「その時は、助けてください」


 伊吹の目が、ふっと甘くなる。


「うん」


 彼は、ようやくいつものように目元を緩めた。


「それなら、喜んで」


 小夜は息を吐いた。

 それから、澪宮の前に立ったまま、ゆっくり振り返る。

 澪宮は、小夜を見上げていた。

 黒い瞳の奥には、怯えではなく、ただ分からないものを見る戸惑いがあった。


「小夜は、嫌なのか」


 小夜は膝の上で手を握ろうとして、自分が立ったままだったことに気づいた。

 それでも、もう座り直さなかった。

 このまま言わなければならないと思った。


「嫌です」


 声が、少し震えた。

 澪宮が小夜を見る。


「なぜ」


 その問いは純粋だった。

 小夜はゆっくり息を吸う。


「私は、結界のために誰かと結ばれるつもりはありません」


 室内が静かになった。

 斎臣の視線が小夜に向く。

 伊吹も黙った。


「好きな人と、私の意思で決めたいからです」


「意思」


 澪宮は、その言葉を繰り返した。


「私の、意思」


「結ばれることは、役目ではありません。少なくとも、私にとっては」


 小夜は澪宮を見つめた。


「誰かに命じられて決めることでも、結界のために選ぶことでもありません」


「だが、帝都を守るためなら」


「帝都を守ることは大切です」


 小夜は遮るように言った。

 強い言葉になってしまったかもしれない。

 けれど、ここだけは譲ってはいけないと思った。


「でも、そのために私の結婚を決められるのは嫌です」


 澪宮は黙った。

 その沈黙は、怒りではない。

 初めて聞く言葉を、どう受け止めればいいのか分からない子どものような沈黙だった。

 小夜は続ける。


「澪宮さまは、私と身内になりたいと仰ってくださいました。それは、少し嬉しいです」


 澪宮の目が、小さく揺れた。


「嬉しいのか」


「はい。でも、誰かと契ることは、身内になるための手段ではありません」


「手段」


「はい」


 小夜の声は、まだ震えていた。

 けれど言葉は止めなかった。


「私は、私の人生を、結界のための手段にされたくありません」


 斎臣がかすかに眉を動かす。

 澪宮は、小夜の言葉をひとつずつ噛みしめるように黙っていた。


「そうか」


 やがて、澪宮が口を開いた。


「残念だが、小夜が我が一族の男と契るのが嫌なら、別の案にすればよい」


 小夜は少しだけ安堵しかけた。

 だが、次の言葉で全身が固まる。


「小夜とそなたの子でもよい」


 澪宮は伊吹を見た。


「ふたりの子どもを朕に預けてくれぬか」


 伊吹が、初めて言葉を失った。


「……は?」


 それは怒りというより、理解が追いついていない声だった。

 小夜もまた、何を言われたのか一瞬分からなかった。

 小夜と、伊吹の子。

 その言葉の意味を理解した瞬間、顔に一気に熱が上る。

 けれど同時に、血の気が引いた。


(ま、まだ私たちは、そういう……いえ、そういう以前に、何を言って……)


 頭の中がぐるぐるする。

 澪宮は真剣なままだった。


「男児でも女児でもよい。朕が次代の帝として大切に育てるゆえ」


「ちょっと待って」


 伊吹の声が、ようやく戻った。


「何を言ってるの?」


「次代の境守りの話だ」


「小夜ちゃんと俺の子を、御所に寄越せって?」


「大切に育てると言った」


「そういう問題じゃないよ」


 伊吹の笑みが、完全に消えた。

 その顔は、見たことがないほど冷たい。


「陛下」


 斎臣が低く呼んだ。

 さすがにまずいと思ったのか、彼も澪宮を止めようとしている。

 けれど澪宮は、なぜ場の空気が変わったのか分かっていないようだった。


「なぜ怒る。小夜と小夜の鬼の子ならば、よい境守りになる。鬼の血も強く、稀血もある。朕よりも、ずっと安定するだろう。我が一族の男と契るより、先祖に近い境守りが生まれるやもしれぬ」


「澪宮さま」


 小夜は、自分でも驚くほど低い声を出していた。

 澪宮が小夜を見る。


「私は、まだそのような未来を考えたこともありません」


「そうなのか」


「はい」


 小夜は唇を噛む。

 恥ずかしさもある。

 でも、それより怒りの方が強かった。


「子を産むことも、誰かに預けることも、私が決めることです」


 澪宮の瞳が、揺れる。


「小夜が、決める」


「はい」


「伊吹ではなく」


「伊吹とも話し合うことはあるかもしれません。でも、誰かに命じられて決めることではありません」


 伊吹が、小夜を見た。

 その表情は、先ほどまでの怒りとは少し違っていた。

 小夜が自分との未来を完全には否定しなかったことに気づいたのかもしれない。

 けれど今は、彼も何も言わなかった。

 小夜は澪宮から目をそらさず続ける。


「私の血は、私のものです。私の未来も、私のものです。もし子どもを持つ未来があるとしても、その子は結界のための器ではありません」


 声が、震えていた。

 でも、言い切った。


「澪宮さま。子どもは、誰かの役目になるために生まれるものではないと思います」


 澪宮は黙った。

 その沈黙は長かった。

 斎臣も、伊吹も、何も言わなかった。

 雨上がりの庭から、鳥の声が一度だけ聞こえた。

 澪宮は、自分の両手を見下ろしていた。

 白く冷たい指。

 帝として、結界の核として、血筋の器として育てられてきた手。

 やがて、彼女はぽつりと呟いた。


「……朕は、そうして生まれたのではないのか」


 小夜は息を呑んだ。

 斎臣が、はっきりと顔を上げる。


「陛下」


「朕は、帝都を守るためだけに生まれたのではないのか」


「陛下、そのようなことは」


「皆、そう言う」


 澪宮の声は静かだった。

 けれど小さく震えていた。


「朕は帝だから。結界を支える血だから。御身を大切にせよ。御身を損なうな。御身は都のためにある。そう言われてきた」


 斎臣は何も言えなかった。

 澪宮は小夜を見る。


「だから、朕は、そういうものだと思っていた」


 小夜の胸が痛んだ。

 やはり、澪宮に悪意はなかった。

 悪意がないまま、同じ檻を小夜にも差し出そうとしていた。

 自分がその檻の中にいると、知らないまま。


「澪宮さま」


 小夜は、できるだけ柔らかく呼んだ。


「はい」


「でも、今の澪宮さまは、私が嫌だと言ったことを聞いてくださっています」


 澪宮は小夜を見る。


「友だから、やめると教えてくださいましたよね」


「……うむ」


「私は、それが嬉しいです」


 澪宮の目に、また涙が浮かんだ。


「小夜は、怒っておるのに、嬉しいのか」


「怒っています。でも、澪宮さまが分かろうとしてくださるなら、それは嬉しいです」


「怒ると嫌いになるのではないのか」


「なりません」


 小夜は首を横に振った。


「大事だから、怒ることもあります」


 澪宮は、その言葉をじっと聞いていた。


「大事だから、怒る」


「はい」


「嫌だから、やめてほしいと言う」


「はい」


「友だから、やめる」


「はい」


 澪宮は小さく頷いた。


「小夜」


「はい」


「すまぬ」


 その謝罪は、あまりにも小さかった。

 帝の言葉ではなく、叱られて初めて自分の間違いに気づいた少女の声だった。


「……朕は、小夜の未来を勝手に決めようとした」


 小夜の胸がいっぱいになる。


「分かってくださったなら、大丈夫です」


「大丈夫なのか」


「はい」


「怒っておるのに。いなくならないのか?」


「怒っています。でも、大丈夫です。いなくなりません」


 小夜が答えると、澪宮は顔をくしゃりと歪めて、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「小夜も難しいなら、朕が分からぬのも仕方ないな」


「はい。一緒に覚えましょう」


「うむ」


 澪宮は頷いた。

 その様子を見ていた斎臣が、静かに目を伏せる。

 小夜は彼の表情が気になった。

 斎臣もまた、何かを考えているようだった。

 澪宮を守るために、ずっとそばにいた人。

 澪宮の渇きを、自分の血で鎮めてきた人。

 けれど彼もまた、澪宮の意思をどれほど聞いてきたのだろう。

 そう思った瞬間、斎臣の視線が小夜へ向いた。

 穏やかな微笑が戻っている。

 けれど、その下にあるものは読めなかった。


「朝霧小夜殿」


「はい」


「陛下へのご進言、痛み入ります」


 小夜は返事に迷った。

 礼を言われているはずなのに、その言葉はどこか冷たい。


「ただし」


 斎臣は続けた。


「陛下は帝都を背負っておられます。あなたの言う意思が、常に御身を自由にするとは限りません」


「それでも、意思を聞かない理由にはならないと思います」


 小夜は答えた。

 斎臣の目が、少しだけ細くなる。

 そのとき、伊吹が小夜の肩に手を置いた。


「斎臣殿」


「何でしょう」


「今日はそれ以上、小夜ちゃんに意地悪しないで」


「意地悪のつもりはありません」


「つもりがないなら、よけい悪いよ」


 斎臣は沈黙した。

 澪宮が、斎臣と伊吹を交互に見る。


「小夜の鬼」


「なに」


「そなたも怒っているのか」


「怒ってるよ」


「朕が小夜に悪いことを言ったからか」


「それもある」


「それも?」


「小夜ちゃんとの子を御所に渡せとか言われたから」


 澪宮は、また少し考え込む。


「それは、特に怒るところなのか」


「かなり」


「なぜ」


「小夜ちゃんとの子は、俺と小夜ちゃんの子だから」


「伊吹」


 小夜はまた顔が熱くなった。

 伊吹は小夜を見て、にこりと目を細める。


「仮の話だよ」


「仮でも、御所でそういうことを言わないでください」


「じゃあ御所じゃなければいい?」


「違います」


 伊吹は少し楽しそうだった。

 先ほどまでの殺気が薄れたことに、小夜は少し安堵する。

 澪宮は、そんな二人を見ていた。

 やがて、ぽつりと言う。


「二人は、まだ契っておらぬのか」


「澪宮さま!」


 小夜は悲鳴に近い声を上げた。

 伊吹は顔を片手で覆い、肩を震わせて笑っている。


「……残念ながらね」


「なぜ? 恋人ではないのか」


「恋人でも、許しがなければ踏み越えちゃいけないんだよ。小夜ちゃんが泣いちゃうからね」


 伊吹はそう言って肩を揺らす。


「まあ、泣かせたくなるときもあるんだけどね」


「伊吹!」


 伊吹も、澪宮も、それ以上口を開かないで欲しかった。

 小夜の顔面が紅潮する。

 斎臣は、深く目を伏せた。


「陛下。その問いは不適切です」


「そうなのか」


「はい」


「では、なにも聞かなかったことにしてくれ」


 澪宮は素直に頷いた。

 小夜は両手で顔を覆いたくなった。

 澪宮は本当に知らないだけなのだ。

 それが分かるから、怒りきれない。

 けれど、とても疲れる。

 伊吹が小夜の顔を覗き込む。


「小夜ちゃん、赤い」


「……誰のせいだと思っているんですか」


「陛下?」


「伊吹もです」


「俺もかぁ」


 伊吹は笑っている。

 その笑みに、少しだけいつもの軽さが戻っていた。

 澪宮は小夜の様子を見て、また何かを学んだように頷く。


「小夜は、その話をすると赤くなる」


「それは学ばなくていいことです」


「そうか」


「はい」


「では、忘れる」


「忘れてください」


「努力する」


 その言い方が伊吹に似ていて、小夜は思わず伊吹を見た。

 伊吹も気づいたらしく、少し不満そうに眉を寄せる。


「陛下、俺の真似しないで」


「しておらぬ」


「似てた」


「そうか」


「似なくていい」


 澪宮は少しだけ得意そうに見えた。

 斎臣が静かに息を吐く。


「陛下。本日はこのあたりでお休みください」


「まだ小夜と話す」


「これ以上は、朝霧小夜殿もお疲れになります」


 澪宮は小夜を見る。


「疲れたか」


 小夜は少し迷った。

 正直に言えば、疲れている。

 けれど、そう言うと澪宮が傷つくのではないかと思った。

 その迷いを見抜いたように、澪宮が先に口を開く。


「嫌なら、やめる」


 小夜は目を見開いた。

 澪宮は、真剣だった。


「友だから、やめるのだろう」


 小夜の胸が、温かくなる。


「はい」


「では、今日はやめる」


「ありがとうございます」


「また来るか」


「はい」


「契りの話は、もうせぬ」


「それは、切に、お願いします」


「子の話もせぬ」


「お願いします」


「でも、小夜はまた来る」


「はい。参ります」


 澪宮は、ようやく少しだけ満足したようだった。


「なら、よい」


 小夜は澪宮に頭を下げた。


「また参ります、澪宮さま」


「うむ」


 澪宮は小さく頷いた。

 御簾の中へ戻っていく澪宮の背は、やはりひどく細い。

 白い衣の裾が畳を滑り、斎臣がその後ろに控える。

 小夜は、その姿を見送りながら思った。

 澪宮は、帝である前に澪宮だ。

 けれど、御所の中でその順番を守るのは、とても難しいのだろう。

 そして小夜もまた、御所という場所がどれほど人の未来を呑み込もうとするのかを、ようやく知った気がした。





 

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