表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/50

第九話 友とは

 それから数日、小夜は御所へ通うことになった。

 表向きは、鬼子暴走事件についての聞き取りだった。

 春日惣一が何を聞いたのか。

 小夜が何を共鳴で感じたのか。

 鈴の音はどのようなものだったのか。

 斎臣は丁寧に問い、御所の者たちは記録を取った。けれど本当の目的は、それだけではないと小夜にも分かっていた。

 その間、帝都の各所で、小さな結界の揺らぎが続いていた。

 暴走には至らない。けれど鬼の血に似た反応が、夜ごとに少しずつ。冷泉は記録を取り、斎臣は表情を消した。

 小夜が澪宮のそばにいると、帝都結界の揺らぎが少し弱まる。

 斎臣はその事実を認めたくなさそうだったが、否定はしなかった。

 澪宮の顔色も、小夜がいる間は少し良くなる。相変わらず肌は白く、体温も低い。けれど小夜の手を握ると、あの冷たい指先にかすかな力が戻った。

 澪宮は、日に日に小夜に懐いていった。

 斎臣はその変化を見るたびに眉をひそめたが、澪宮が明らかに落ち着くので、強く止めることもできないようだ。

 伊吹は毎回、不機嫌だった。


「小夜」


 その日も、澪宮は小夜を見るなり手を伸ばした。

 御簾はもう半分ほど上がっている。

 白い衣をまとった澪宮は、几帳のそばに座っていた。黒い髪は月光を含んだように淡く光り、白い肌はまだ冷たそうだったが、初日に比べれば瞳の奥の赤みは薄い。

 小夜が近づくと、澪宮は当然のように小夜の袖を掴んだ。


「来たか」


「はい。澪宮さま」


「遅い」


「昨日と同じ時刻です」


「朕が待っていたから、遅い」


「それは……申し訳ありません」


「謝らなくてよい。次は早く来い」


 小夜は返答に窮した。

 帝に対して、どう返せばいいのか分からない。

 伊吹が後ろで小さく笑う。


「陛下、要求がどんどん素直になってない?」


「素直は悪いことか」


「悪くないよ。小夜ちゃん相手じゃなければね」


「小夜がよい」


「俺だって小夜ちゃんがいい」


 澪宮は伊吹を見た。

 無表情だが、どこか不満そうに見える。


「小夜の鬼は、いつもうるさい」


「陛下は小夜ちゃんにくっつきすぎ」


「小夜のそばは静かになる」


「俺のそばも静かになるよ」


「そなたのそばは、落ち着かぬ」


「ひどくない?」


 伊吹は楽しそうに目を細めた。

 斎臣は澪宮の少し後ろに控え、表情を消したまま二人を見ている。


「陛下。朝霧小夜殿を困らせてはなりません」


「困っているか、小夜」


「ええと……少しだけ」


 小夜が正直に答えると、澪宮は小さく目を見開いた。


「少し」


「嫌ではありません。ただ、突然ですと驚きます」


「驚くのか」


「はい」


「ならば、先に言えばよいのか」


「何をでしょう」


「袖を掴む、と」


 小夜は返答に詰まった。

 澪宮は真剣だった。

 本当に、人との距離を一つずつ覚えているようだった。


「……ええと、そうですね。先に言ってくださると、驚かずに済みます」


「分かった」


 澪宮は頷いた。

 それから小夜の袖を握ったまま言う。


「小夜、袖を掴む」


「もう掴んでいらっしゃいます」


「言った」


「順番が逆です」


「難しいな」


 澪宮はわずかに眉を寄せた。

 小夜は思わず口元を緩めた。慌てて押さえる。

 伊吹がその顔を見逃さなかった。


「小夜ちゃん、嫉妬するな」


「何にですか」


「陛下を見て笑った顔」


「笑っていません」


「笑った」


「澪宮さまに失礼です」


「俺にも失礼だよ。俺の前で他人見て笑うの」


「伊吹は少し黙っていてください」


「はいはい」


 伊吹は返事だけは素直にしたが、どこか拗ねたように柱のそばへ腰を下ろした。

 斎臣が静かにため息をつく。


「本日の御用向きは、昨日の続きです。昨夜、帝都東区で小さな結界の揺らぎがありました」


「鬼子の暴走ですか」


「いえ、暴走には至っておりません。ですが、鬼の血に似た反応が一瞬だけ出ました」


 小夜は表情を引き締めた。

 あの鈴の音は、まだ帝都のどこかで鳴っているのかもしれない。

 春日惣一のように、本人も知らないまま眠っている鬼子が、まだいる。

 そう思うと呼吸が重くなった。

 澪宮は小夜の腕に、そっと指先を添えた。


「小夜、怖い顔をしている」


「すみません」


「怖いなら、今日は話をやめる」


 小夜は驚いて澪宮を見た。


「よろしいのですか」


「嫌な話をすると、小夜が来なくなるかもしれぬ」


「そんなことありませんよ」


「だが、嫌なことばかりさせたら、友ではなくなるのだろう」


 小夜は少し黙った。

 その言葉を、澪宮がどこで覚えたのかは分からない。

 けれど、彼女なりに考えているのだと思った。

 小夜は柔らかく首を横に振る。


「嫌な話をしただけで、友でなくなるわけではありません」


「そうなのか」


「はい」


「では、何をしたら友でなくなる」


 澪宮は、本気で尋ねていた。

 小夜はすぐには答えられなかった。

 友とは何か。

 小夜自身、誰かにきちんと説明できるほど、多くの友を持ってきたわけではない。

 封鬼寮にいたころは、守られるばかりだった。

 最近になってようやく、自分で誰かに近づくことを覚え始めたところだ。

 それでも、澪宮に伝えたいことはあった。


「相手が嫌がっているのに、やめなかったら……友でいるのは難しくなるかもしれません」


 澪宮は考え込む。


「嫌と言われたら、やめる」


「はい」


「それでも、友なのか」


「友だから、やめるんです」


 澪宮は、小夜の袖を握ったまま黙った。

 その横顔は、知らない言葉を初めて聞いた子どものようだった。

 斎臣もまた、何も言わなかった。

 伊吹も黙っている。

 小夜の言葉は、澪宮だけに向けたものではなかったのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ恥ずかしくなった。

 澪宮はやがて、ぽつりと呟く。


「……友とは、難しい」


「はい。私も、まだよく分かっていません」


「小夜も分からぬのか」


「分からないことは多いです」


「ならば、一緒に覚えるか」


 小夜は澪宮を見る。

 澪宮は無表情だった。

 けれど、袖を握る指先には少しだけ力が入っていた。


「はい」


 小夜はほほえんで、頷いた。


「一緒に覚えましょう」


 澪宮の瞳が、ほんのわずかに柔らかくなる。


「よい」


 その言葉は短かった。

 けれど、澪宮がとても喜んでいることは小夜にも分かった。

 その日の聞き取りが終わるころ、澪宮は不意に言った。


「小夜、今夜はここで眠れ」


「えっ」


 小夜は思わず声を上げた。

 伊吹が、柱にもたれていた姿勢からゆっくり起き上がる。


「陛下、今なんて?」


「小夜に、ここで眠れと言った」


「言い直さなくていいよ」


 斎臣もさすがに目を伏せる。


「陛下。それはなりません」


「なぜ」


「朝霧小夜殿には、封鬼寮での務めがございます」


「夜は眠るだけであろう」


「御所で眠る必要はございません」


「ある」


 澪宮は小夜を見た。


「そなたが隣にいると、よく眠れるに違いない」


「澪宮さま、それは……」


「嫌か」


 その一言に、小夜はすぐ返事ができなくなった。

 嫌ではない。

 澪宮が少しでも眠れるなら、そばにいてあげたいと思う気持ちもある。

 けれど、御所で夜を過ごすことは簡単な話ではない。伊吹も絶対に許さないだろうし、斎臣もまた別の意味で許さないだろう。


「嫌では、ありませんが……夜は帰らなければ」


「では、昼寝でもよい」


 澪宮は真顔で言った。

 小夜は絶句した。

 伊吹が、乾いた笑い声を漏らす。


「小夜ちゃん、帝に抱き枕にされる仕事ってなに?」


「仕事ではありません」


「じゃあ何?」


「……お友達、でしょうか。不敬な物言いでなければ」


「友達って抱いて寝るんだ。へえ」


 声が甘い。

 甘いのに、ものすごく不機嫌だった。

 小夜は伊吹を見る。


「伊吹、言い方が」


「小夜ちゃんが抱き枕にされる話を穏やかに聞けるほど、俺はできた鬼じゃないよ」


「抱き枕ではありません」


「陛下、抱き枕のつもりで言ってるよね」


「抱き枕とは何だ」


 澪宮が小夜に尋ねる。

 小夜は返事に困窮した。

 斎臣が淡々と答える。


「人が眠る際に抱く枕のことです」


「なるほど」


 澪宮は頷いた。


「小夜は抱き枕ではない」


「そうです」


「だが、抱いて眠ればよく眠れる気がする」


「陛下」


 斎臣の声が低くなる。

 澪宮は少しだけ不満そうにした。


「斎臣はすぐ止める」


「止めます」


「小夜の鬼もすぐ止める」


「止めるよ」


 伊吹は即答した。


「小夜ちゃんを抱いて寝ていいのは、俺だけ」


「伊吹」


 小夜は真っ赤になった。

 澪宮は首を傾げる。


「そうなのか」


「そうだよ」


「違います!」


 小夜は慌てて否定した。

 伊吹はひどく楽しそうに笑っている。

 斎臣は無表情のまま、目だけで伊吹を咎めていた。

 しばらく押し問答が続いた末、結局、澪宮の昼寝の希望は完全には退けられなかった。

 斎臣が折れたのは、澪宮がここ数日まともに眠れていないことを、小夜も伊吹も聞かされたからだった。

 ただし、条件がついた。

 小夜は澪宮のすぐ隣で眠るのではなく、休息用の間で、少し離れて横になること。

 伊吹も同席すること。

 斎臣も澪宮のそばに控えること。

 短い時間だけであること。

 澪宮はその条件を聞いて、しばらく考えた。


「小夜がいるなら、よい」


 その一言で決まった。

 小夜は、どうしてこうなったのか分からないまま、御簾の奥にある休息用の間へ通された。

 そこは、思っていたよりも明るい部屋だった。

 庭に面した障子は半分開けられ、雨上がりの青葉が見える。薄い敷物が敷かれ、香の匂いは御簾の間よりも少し淡かった。

 澪宮のための小さな寝所があり、そのそばに小夜のための座布団と薄い掛け布が用意された。

 伊吹は小夜のすぐ後ろに座る。

 斎臣は澪宮の枕元に控えた。

 澪宮だけが満足そうだった。

 伊吹は、部屋全体を見回してから、ぽつりと言った。


「なにこの状況」


「私にも、少し分かりません」


 小夜が小声で答えると、澪宮がこちらを見る。


「小夜、ここへ」


「近すぎてはならないのでは」


「近すぎなければよい」


「どのくらいでしょう」


「袖が触れるくらい」


「それは近いと思います」


「では、指が触れるくらい」


「それも近いです」


「小夜は細かい」


 澪宮は不満そうだった。

 伊吹が口の端を上げる。


「陛下、距離感がだいぶ小夜ちゃん寄りだね」


「小夜がよい」


「それ何回目?」


「何度でも言う」


「俺も小夜ちゃんがいい」


「張り合わないでください」


 小夜は頭を抱えそうになった。

 結局、小夜は澪宮から少し離れて横になり、伊吹は小夜の背後に座ったまま、片膝を立てて見張るようにしていた。斎臣は澪宮の枕元に座り、微動だにしない。

 昼寝というより、奇妙な監視つきの休息だった。

 それでも、澪宮は嬉しそうだった。

 表情はほとんど変わらない。

 けれど、小夜には分かる。

 澪宮は、小夜が同じ部屋にいるだけで安心している。

 小夜は横になりながら、澪宮の方へ顔を向けた。

 澪宮もこちらを見ている。


「眠らないのですか」


「小夜がいる」


「はい」


「見る」


「見ると眠れませんよ」


「では、少しだけ見る」


 澪宮は真面目に答えた。

 小夜はかすかに頬を緩めた。

 澪宮の目が、ぱちりと瞬く。


「小夜が笑った」


「笑ってはいけませんか」


「よい」


 澪宮は小さく頷く。


「もっと笑え」


「命令ですか」


「お願い」


 その言い直しに、小夜は少し驚いた。

 友だから、嫌と言われたらやめる。

 たったそれだけのことを、澪宮は自分なりに覚えようとしている。

 小夜は顔をほころばせる。


「澪宮さま」


「何だ」


「お願いにしてくださって、ありがとうございます」


「礼を言うことなのか」


「はい。私は嬉しかったです」


 澪宮はしばらく黙った。

 やがて、視線を少しだけ落とす。


「斎臣」


「はい」


「お願いとは、難しいな」


「……そうでございますね」


 斎臣の声には、いつもよりわずかに柔らかさがあった。

 澪宮は、もう一度小夜を見る。


「小夜」


「はい」


「友とは、どこまで許される」


「どこまで、とは」


「そばに置いてもよいのか」


 小夜は少し考えた。


「相手が嫌でなければ」


「嫌と言われたら」


「やめます」


「……やめるのか」


「はい」


「それでも、友なのか」


「友だから、やめるんです」


 澪宮は、じっと小夜を見た。

 その黒い瞳の奥に、ほんの少しだけ赤が揺れる。

 怖さではない。

 知らないものを見つけた時の、戸惑いの色だった。


「朕は、そばに置きたいものは、そばに置くものだと思っていた」


「陛下だから、ですか」


「それもある。だが、皆もそうしてきた」


 澪宮の視線が、斎臣へ移る。


「朕のためだと言って、遠ざけるものを決める。近づけるものを決める。食べるものも、眠る時刻も、会う者も、会わぬ者も」


 斎臣は黙っている。


「朕も、そうするものだと思っていた。大事なものは、そばに置く。離したくないものは、離さぬ」


 小夜は胸に痛みを覚えた。

 澪宮の言葉は、澪宮だけのものではない。

 守るために閉じ込める。

 大事だから離さない。

 それは、榊も伊吹も、斎臣も、少しずつ抱えているものだった。

 小夜自身も、誰かにそうされてきた。


「大事だから、相手の嫌なことをしないのだと思います」


 小夜はゆっくり言った。


「そばにいたいなら、そばにいていいか聞く。嫌だと言われたら、悲しくてもやめる。そうしないと、相手は安心できません」


「悲しくても」


「はい」


「小夜は、嫌と言うか」


「言う時もあります」


「朕に?」


「澪宮さまにも」


 澪宮は、少しだけ寂しそうにした。

 けれど怒らなかった。


「そうか」


「でも、嫌と言ったからといって、澪宮さまが嫌いになるわけではありません」


「嫌と嫌いは違うのか」


「違います」


「難しい」


「はい。難しいです」


 小夜がそう答えると、澪宮はほんの少しだけ安心したように息を吐いた。


「小夜も難しいなら、朕がすぐ分からぬのも仕方ないな」


「はい。一緒に覚えましょう」


「うむ」


 澪宮は満足そうに頷いた。

 楽しそうに小声で話す小夜と澪宮を眺めながら、伊吹は面白くなさそうに頬杖をついた。

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 香の匂いの中で、雨上がりの庭の青葉のざわめきと、澪宮の小さな呼吸だけが聞こえる。

 伊吹は、ぽつりと言った。


「斎臣殿」


「何でしょう」


「俺たちも男同士でなんか話さない?」


「ごめんこうむります」


「即答ひどくない?」


「必要性を感じませんので」


「俺もない」


「では、話しかけないでいただきたい」


 伊吹は薄く目を細めた。


「斎臣殿って、本当に陛下以外に興味ないんだね」


「あなたほど分かりやすく顔に出していないだけです」


「俺は小夜ちゃんにしか興味ないよ」


「存じております。見れば分かります」


「うわ、嫌な言い方」


「事実を申し上げました」


「冷泉みたいなこと言うね」


 斎臣の声に、わずかに棘が混じる。


「冷泉長官と同列に語られるのは、不愉快です」


「へえ。斎臣殿、冷泉嫌いなんだ」


「好き嫌いの問題ではありません」


「嫌いなんだ」


 斎臣は答えなかった。

 その沈黙が答えのようなものだった。


「……宮中では、口さがない噂が流れております」


「噂?」


「鬼子が御所へ向かうのは、陛下の御声に呼ばれているからだと」


 斎臣の声は穏やかだった。

 けれどその目だけは冷えていた。


「くだらぬ噂です。私が消します。陛下をすべての危険から護ることが、私の役目です。冷泉のような無礼者を含めて」


 小夜は、二人の会話を聞きながら目を瞬いた。

 冷泉は御所側の人間に見えたが、斎臣は冷泉を警戒しているらしい。

 御所の中も、一枚岩ではないのかもしれない。


「小夜」


 澪宮が小さく呼んだ。


「はい」


「境守りの話をしてやる」


「境守り……?」


 小夜は身を起こした。

 伊吹も、柱にもたれたまま視線だけを向ける。

 斎臣は一瞬、澪宮を止めようとしたようだったが、結局何も言わなかった。

 澪宮は小夜の方を見たまま、静かに話し始めた。


「昔、朕の祖先に、稀血の姫がおった」


 稀血。

 その言葉に、小夜の喉が小さく震える。


「その姫は、鬼と結ばれた。人と鬼が結ばれることは、今も昔も容易ではない。だが、その二人の間に生まれた子は、人の霊力と鬼の力を併せ持っていた」


「人の霊力と、鬼の力……」


「その子は、帝都結界を安定させた。鬼を遠ざけるだけではなく、人と鬼の境を整えた。人々はその存在を、境守りと呼んだ」


 境守り。

 その響きは、美しい。

 けれど同時に、重かった。

 人と鬼の境を守る者。

 それは、祝福のようでいて、役目の名でもある。


「その血は御所に残った。代々、薄まりながらも、帝都結界を支えてきた」


 澪宮の声が、少しだけ低くなる。


「だが今、その血は薄い。朕は鬼の血が濃く出たが、境を守るほど整ってはおらぬ。鬼の血だけが騒ぎ、結界は揺れる」


「澪宮さま……」


「帝都に鬼が入り込むのも、鬼子が壊れるのも、朕が不甲斐ないせいかもしれぬ」


 澪宮の目に、涙が浮かんだ。

 表情はほとんど変わらない。

 それでも、黒い瞳の奥が揺れている。


「朕は帝なのに、都を守れぬ」


「そんなことはありません」


 小夜はすぐに言った。

 澪宮が小夜を見る。


「小夜に何が分かる」


「分かりません。結界のことも、御所のことも、私はまだ分かっていません」


「ならば」


「でも、全部が澪宮さまのせいだとは思いません」


 小夜は身を乗り出した。


「鬼子を暴走させている誰かがいるのかもしれません。鈴の音も、澪宮さまが鳴らしたものではないのでしょう。なら、澪宮さまだけが悪いわけではありません」


「朕が弱いから、つけ込まれたのかもしれぬ」


「弱いことは、悪いことではありません」


「帝は、弱くてはならぬ」


「澪宮さまは、帝である前に、澪宮さまです」


 小夜の言葉に、澪宮は目を見開いた。

 斎臣が、わずかに顔を上げる。

 伊吹も黙っていた。


「苦しい時は、苦しいと言っていいと思います。怖い時は、怖いと言っていいと思います。全部を一人で背負わなくてもいいと思います」


「……帝でもか」


「帝でも、です」


 澪宮は、小夜をじっと見つめた。

 涙が一粒、頬を滑る。


「小夜は、すぐそういうことを言う」


「すみません」


「責めておらぬ」


 澪宮は袖で涙を拭おうとして、斎臣がすぐに布を差し出した。

 澪宮はそれを受け取らず、小夜の袖を見た。

 伊吹がすぐに言う。


「陛下、小夜ちゃんの袖で拭くのはなし」


「まだ何もしておらぬ」


「しようとしたでしょ」


「……少し」


「正直で偉いね」


 澪宮は少しだけ不満そうにした。

 小夜は微笑みながら、清潔な懐紙を差し出す。


「こちらをどうぞ」


「小夜のか」


「はい」


「なら、使う」


 澪宮は懐紙を受け取り、目元を押さえた。

 それだけのことで、少し嬉しそうに見える。

 小夜は胸が温かくなった。

 この人は、きっと本当に知らないのだ。

 誰かから普通に物を差し出されることも。

 自分のために慰められることも。

 友達として、ただ隣にいることも。

 澪宮は涙を拭い終えると、何かを考えるように小夜を見た。


「そうか」


「澪宮さま?」


「小夜が、朕の一族になればよいのではないか」


 小夜は瞬きをした。


「……一族、ですか」


「うむ」


 澪宮は、初めて名案を思いついた子どものように、ほんの少しだけ目を輝かせた。


「小夜が我が一族の男と契ればよい」





 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ