第九話 友とは
それから数日、小夜は御所へ通うことになった。
表向きは、鬼子暴走事件についての聞き取りだった。
春日惣一が何を聞いたのか。
小夜が何を共鳴で感じたのか。
鈴の音はどのようなものだったのか。
斎臣は丁寧に問い、御所の者たちは記録を取った。けれど本当の目的は、それだけではないと小夜にも分かっていた。
その間、帝都の各所で、小さな結界の揺らぎが続いていた。
暴走には至らない。けれど鬼の血に似た反応が、夜ごとに少しずつ。冷泉は記録を取り、斎臣は表情を消した。
小夜が澪宮のそばにいると、帝都結界の揺らぎが少し弱まる。
斎臣はその事実を認めたくなさそうだったが、否定はしなかった。
澪宮の顔色も、小夜がいる間は少し良くなる。相変わらず肌は白く、体温も低い。けれど小夜の手を握ると、あの冷たい指先にかすかな力が戻った。
澪宮は、日に日に小夜に懐いていった。
斎臣はその変化を見るたびに眉をひそめたが、澪宮が明らかに落ち着くので、強く止めることもできないようだ。
伊吹は毎回、不機嫌だった。
「小夜」
その日も、澪宮は小夜を見るなり手を伸ばした。
御簾はもう半分ほど上がっている。
白い衣をまとった澪宮は、几帳のそばに座っていた。黒い髪は月光を含んだように淡く光り、白い肌はまだ冷たそうだったが、初日に比べれば瞳の奥の赤みは薄い。
小夜が近づくと、澪宮は当然のように小夜の袖を掴んだ。
「来たか」
「はい。澪宮さま」
「遅い」
「昨日と同じ時刻です」
「朕が待っていたから、遅い」
「それは……申し訳ありません」
「謝らなくてよい。次は早く来い」
小夜は返答に窮した。
帝に対して、どう返せばいいのか分からない。
伊吹が後ろで小さく笑う。
「陛下、要求がどんどん素直になってない?」
「素直は悪いことか」
「悪くないよ。小夜ちゃん相手じゃなければね」
「小夜がよい」
「俺だって小夜ちゃんがいい」
澪宮は伊吹を見た。
無表情だが、どこか不満そうに見える。
「小夜の鬼は、いつもうるさい」
「陛下は小夜ちゃんにくっつきすぎ」
「小夜のそばは静かになる」
「俺のそばも静かになるよ」
「そなたのそばは、落ち着かぬ」
「ひどくない?」
伊吹は楽しそうに目を細めた。
斎臣は澪宮の少し後ろに控え、表情を消したまま二人を見ている。
「陛下。朝霧小夜殿を困らせてはなりません」
「困っているか、小夜」
「ええと……少しだけ」
小夜が正直に答えると、澪宮は小さく目を見開いた。
「少し」
「嫌ではありません。ただ、突然ですと驚きます」
「驚くのか」
「はい」
「ならば、先に言えばよいのか」
「何をでしょう」
「袖を掴む、と」
小夜は返答に詰まった。
澪宮は真剣だった。
本当に、人との距離を一つずつ覚えているようだった。
「……ええと、そうですね。先に言ってくださると、驚かずに済みます」
「分かった」
澪宮は頷いた。
それから小夜の袖を握ったまま言う。
「小夜、袖を掴む」
「もう掴んでいらっしゃいます」
「言った」
「順番が逆です」
「難しいな」
澪宮はわずかに眉を寄せた。
小夜は思わず口元を緩めた。慌てて押さえる。
伊吹がその顔を見逃さなかった。
「小夜ちゃん、嫉妬するな」
「何にですか」
「陛下を見て笑った顔」
「笑っていません」
「笑った」
「澪宮さまに失礼です」
「俺にも失礼だよ。俺の前で他人見て笑うの」
「伊吹は少し黙っていてください」
「はいはい」
伊吹は返事だけは素直にしたが、どこか拗ねたように柱のそばへ腰を下ろした。
斎臣が静かにため息をつく。
「本日の御用向きは、昨日の続きです。昨夜、帝都東区で小さな結界の揺らぎがありました」
「鬼子の暴走ですか」
「いえ、暴走には至っておりません。ですが、鬼の血に似た反応が一瞬だけ出ました」
小夜は表情を引き締めた。
あの鈴の音は、まだ帝都のどこかで鳴っているのかもしれない。
春日惣一のように、本人も知らないまま眠っている鬼子が、まだいる。
そう思うと呼吸が重くなった。
澪宮は小夜の腕に、そっと指先を添えた。
「小夜、怖い顔をしている」
「すみません」
「怖いなら、今日は話をやめる」
小夜は驚いて澪宮を見た。
「よろしいのですか」
「嫌な話をすると、小夜が来なくなるかもしれぬ」
「そんなことありませんよ」
「だが、嫌なことばかりさせたら、友ではなくなるのだろう」
小夜は少し黙った。
その言葉を、澪宮がどこで覚えたのかは分からない。
けれど、彼女なりに考えているのだと思った。
小夜は柔らかく首を横に振る。
「嫌な話をしただけで、友でなくなるわけではありません」
「そうなのか」
「はい」
「では、何をしたら友でなくなる」
澪宮は、本気で尋ねていた。
小夜はすぐには答えられなかった。
友とは何か。
小夜自身、誰かにきちんと説明できるほど、多くの友を持ってきたわけではない。
封鬼寮にいたころは、守られるばかりだった。
最近になってようやく、自分で誰かに近づくことを覚え始めたところだ。
それでも、澪宮に伝えたいことはあった。
「相手が嫌がっているのに、やめなかったら……友でいるのは難しくなるかもしれません」
澪宮は考え込む。
「嫌と言われたら、やめる」
「はい」
「それでも、友なのか」
「友だから、やめるんです」
澪宮は、小夜の袖を握ったまま黙った。
その横顔は、知らない言葉を初めて聞いた子どものようだった。
斎臣もまた、何も言わなかった。
伊吹も黙っている。
小夜の言葉は、澪宮だけに向けたものではなかったのかもしれない。
そう思うと、少しだけ恥ずかしくなった。
澪宮はやがて、ぽつりと呟く。
「……友とは、難しい」
「はい。私も、まだよく分かっていません」
「小夜も分からぬのか」
「分からないことは多いです」
「ならば、一緒に覚えるか」
小夜は澪宮を見る。
澪宮は無表情だった。
けれど、袖を握る指先には少しだけ力が入っていた。
「はい」
小夜はほほえんで、頷いた。
「一緒に覚えましょう」
澪宮の瞳が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「よい」
その言葉は短かった。
けれど、澪宮がとても喜んでいることは小夜にも分かった。
その日の聞き取りが終わるころ、澪宮は不意に言った。
「小夜、今夜はここで眠れ」
「えっ」
小夜は思わず声を上げた。
伊吹が、柱にもたれていた姿勢からゆっくり起き上がる。
「陛下、今なんて?」
「小夜に、ここで眠れと言った」
「言い直さなくていいよ」
斎臣もさすがに目を伏せる。
「陛下。それはなりません」
「なぜ」
「朝霧小夜殿には、封鬼寮での務めがございます」
「夜は眠るだけであろう」
「御所で眠る必要はございません」
「ある」
澪宮は小夜を見た。
「そなたが隣にいると、よく眠れるに違いない」
「澪宮さま、それは……」
「嫌か」
その一言に、小夜はすぐ返事ができなくなった。
嫌ではない。
澪宮が少しでも眠れるなら、そばにいてあげたいと思う気持ちもある。
けれど、御所で夜を過ごすことは簡単な話ではない。伊吹も絶対に許さないだろうし、斎臣もまた別の意味で許さないだろう。
「嫌では、ありませんが……夜は帰らなければ」
「では、昼寝でもよい」
澪宮は真顔で言った。
小夜は絶句した。
伊吹が、乾いた笑い声を漏らす。
「小夜ちゃん、帝に抱き枕にされる仕事ってなに?」
「仕事ではありません」
「じゃあ何?」
「……お友達、でしょうか。不敬な物言いでなければ」
「友達って抱いて寝るんだ。へえ」
声が甘い。
甘いのに、ものすごく不機嫌だった。
小夜は伊吹を見る。
「伊吹、言い方が」
「小夜ちゃんが抱き枕にされる話を穏やかに聞けるほど、俺はできた鬼じゃないよ」
「抱き枕ではありません」
「陛下、抱き枕のつもりで言ってるよね」
「抱き枕とは何だ」
澪宮が小夜に尋ねる。
小夜は返事に困窮した。
斎臣が淡々と答える。
「人が眠る際に抱く枕のことです」
「なるほど」
澪宮は頷いた。
「小夜は抱き枕ではない」
「そうです」
「だが、抱いて眠ればよく眠れる気がする」
「陛下」
斎臣の声が低くなる。
澪宮は少しだけ不満そうにした。
「斎臣はすぐ止める」
「止めます」
「小夜の鬼もすぐ止める」
「止めるよ」
伊吹は即答した。
「小夜ちゃんを抱いて寝ていいのは、俺だけ」
「伊吹」
小夜は真っ赤になった。
澪宮は首を傾げる。
「そうなのか」
「そうだよ」
「違います!」
小夜は慌てて否定した。
伊吹はひどく楽しそうに笑っている。
斎臣は無表情のまま、目だけで伊吹を咎めていた。
しばらく押し問答が続いた末、結局、澪宮の昼寝の希望は完全には退けられなかった。
斎臣が折れたのは、澪宮がここ数日まともに眠れていないことを、小夜も伊吹も聞かされたからだった。
ただし、条件がついた。
小夜は澪宮のすぐ隣で眠るのではなく、休息用の間で、少し離れて横になること。
伊吹も同席すること。
斎臣も澪宮のそばに控えること。
短い時間だけであること。
澪宮はその条件を聞いて、しばらく考えた。
「小夜がいるなら、よい」
その一言で決まった。
小夜は、どうしてこうなったのか分からないまま、御簾の奥にある休息用の間へ通された。
そこは、思っていたよりも明るい部屋だった。
庭に面した障子は半分開けられ、雨上がりの青葉が見える。薄い敷物が敷かれ、香の匂いは御簾の間よりも少し淡かった。
澪宮のための小さな寝所があり、そのそばに小夜のための座布団と薄い掛け布が用意された。
伊吹は小夜のすぐ後ろに座る。
斎臣は澪宮の枕元に控えた。
澪宮だけが満足そうだった。
伊吹は、部屋全体を見回してから、ぽつりと言った。
「なにこの状況」
「私にも、少し分かりません」
小夜が小声で答えると、澪宮がこちらを見る。
「小夜、ここへ」
「近すぎてはならないのでは」
「近すぎなければよい」
「どのくらいでしょう」
「袖が触れるくらい」
「それは近いと思います」
「では、指が触れるくらい」
「それも近いです」
「小夜は細かい」
澪宮は不満そうだった。
伊吹が口の端を上げる。
「陛下、距離感がだいぶ小夜ちゃん寄りだね」
「小夜がよい」
「それ何回目?」
「何度でも言う」
「俺も小夜ちゃんがいい」
「張り合わないでください」
小夜は頭を抱えそうになった。
結局、小夜は澪宮から少し離れて横になり、伊吹は小夜の背後に座ったまま、片膝を立てて見張るようにしていた。斎臣は澪宮の枕元に座り、微動だにしない。
昼寝というより、奇妙な監視つきの休息だった。
それでも、澪宮は嬉しそうだった。
表情はほとんど変わらない。
けれど、小夜には分かる。
澪宮は、小夜が同じ部屋にいるだけで安心している。
小夜は横になりながら、澪宮の方へ顔を向けた。
澪宮もこちらを見ている。
「眠らないのですか」
「小夜がいる」
「はい」
「見る」
「見ると眠れませんよ」
「では、少しだけ見る」
澪宮は真面目に答えた。
小夜はかすかに頬を緩めた。
澪宮の目が、ぱちりと瞬く。
「小夜が笑った」
「笑ってはいけませんか」
「よい」
澪宮は小さく頷く。
「もっと笑え」
「命令ですか」
「お願い」
その言い直しに、小夜は少し驚いた。
友だから、嫌と言われたらやめる。
たったそれだけのことを、澪宮は自分なりに覚えようとしている。
小夜は顔をほころばせる。
「澪宮さま」
「何だ」
「お願いにしてくださって、ありがとうございます」
「礼を言うことなのか」
「はい。私は嬉しかったです」
澪宮はしばらく黙った。
やがて、視線を少しだけ落とす。
「斎臣」
「はい」
「お願いとは、難しいな」
「……そうでございますね」
斎臣の声には、いつもよりわずかに柔らかさがあった。
澪宮は、もう一度小夜を見る。
「小夜」
「はい」
「友とは、どこまで許される」
「どこまで、とは」
「そばに置いてもよいのか」
小夜は少し考えた。
「相手が嫌でなければ」
「嫌と言われたら」
「やめます」
「……やめるのか」
「はい」
「それでも、友なのか」
「友だから、やめるんです」
澪宮は、じっと小夜を見た。
その黒い瞳の奥に、ほんの少しだけ赤が揺れる。
怖さではない。
知らないものを見つけた時の、戸惑いの色だった。
「朕は、そばに置きたいものは、そばに置くものだと思っていた」
「陛下だから、ですか」
「それもある。だが、皆もそうしてきた」
澪宮の視線が、斎臣へ移る。
「朕のためだと言って、遠ざけるものを決める。近づけるものを決める。食べるものも、眠る時刻も、会う者も、会わぬ者も」
斎臣は黙っている。
「朕も、そうするものだと思っていた。大事なものは、そばに置く。離したくないものは、離さぬ」
小夜は胸に痛みを覚えた。
澪宮の言葉は、澪宮だけのものではない。
守るために閉じ込める。
大事だから離さない。
それは、榊も伊吹も、斎臣も、少しずつ抱えているものだった。
小夜自身も、誰かにそうされてきた。
「大事だから、相手の嫌なことをしないのだと思います」
小夜はゆっくり言った。
「そばにいたいなら、そばにいていいか聞く。嫌だと言われたら、悲しくてもやめる。そうしないと、相手は安心できません」
「悲しくても」
「はい」
「小夜は、嫌と言うか」
「言う時もあります」
「朕に?」
「澪宮さまにも」
澪宮は、少しだけ寂しそうにした。
けれど怒らなかった。
「そうか」
「でも、嫌と言ったからといって、澪宮さまが嫌いになるわけではありません」
「嫌と嫌いは違うのか」
「違います」
「難しい」
「はい。難しいです」
小夜がそう答えると、澪宮はほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
「小夜も難しいなら、朕がすぐ分からぬのも仕方ないな」
「はい。一緒に覚えましょう」
「うむ」
澪宮は満足そうに頷いた。
楽しそうに小声で話す小夜と澪宮を眺めながら、伊吹は面白くなさそうに頬杖をついた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
香の匂いの中で、雨上がりの庭の青葉のざわめきと、澪宮の小さな呼吸だけが聞こえる。
伊吹は、ぽつりと言った。
「斎臣殿」
「何でしょう」
「俺たちも男同士でなんか話さない?」
「ごめんこうむります」
「即答ひどくない?」
「必要性を感じませんので」
「俺もない」
「では、話しかけないでいただきたい」
伊吹は薄く目を細めた。
「斎臣殿って、本当に陛下以外に興味ないんだね」
「あなたほど分かりやすく顔に出していないだけです」
「俺は小夜ちゃんにしか興味ないよ」
「存じております。見れば分かります」
「うわ、嫌な言い方」
「事実を申し上げました」
「冷泉みたいなこと言うね」
斎臣の声に、わずかに棘が混じる。
「冷泉長官と同列に語られるのは、不愉快です」
「へえ。斎臣殿、冷泉嫌いなんだ」
「好き嫌いの問題ではありません」
「嫌いなんだ」
斎臣は答えなかった。
その沈黙が答えのようなものだった。
「……宮中では、口さがない噂が流れております」
「噂?」
「鬼子が御所へ向かうのは、陛下の御声に呼ばれているからだと」
斎臣の声は穏やかだった。
けれどその目だけは冷えていた。
「くだらぬ噂です。私が消します。陛下をすべての危険から護ることが、私の役目です。冷泉のような無礼者を含めて」
小夜は、二人の会話を聞きながら目を瞬いた。
冷泉は御所側の人間に見えたが、斎臣は冷泉を警戒しているらしい。
御所の中も、一枚岩ではないのかもしれない。
「小夜」
澪宮が小さく呼んだ。
「はい」
「境守りの話をしてやる」
「境守り……?」
小夜は身を起こした。
伊吹も、柱にもたれたまま視線だけを向ける。
斎臣は一瞬、澪宮を止めようとしたようだったが、結局何も言わなかった。
澪宮は小夜の方を見たまま、静かに話し始めた。
「昔、朕の祖先に、稀血の姫がおった」
稀血。
その言葉に、小夜の喉が小さく震える。
「その姫は、鬼と結ばれた。人と鬼が結ばれることは、今も昔も容易ではない。だが、その二人の間に生まれた子は、人の霊力と鬼の力を併せ持っていた」
「人の霊力と、鬼の力……」
「その子は、帝都結界を安定させた。鬼を遠ざけるだけではなく、人と鬼の境を整えた。人々はその存在を、境守りと呼んだ」
境守り。
その響きは、美しい。
けれど同時に、重かった。
人と鬼の境を守る者。
それは、祝福のようでいて、役目の名でもある。
「その血は御所に残った。代々、薄まりながらも、帝都結界を支えてきた」
澪宮の声が、少しだけ低くなる。
「だが今、その血は薄い。朕は鬼の血が濃く出たが、境を守るほど整ってはおらぬ。鬼の血だけが騒ぎ、結界は揺れる」
「澪宮さま……」
「帝都に鬼が入り込むのも、鬼子が壊れるのも、朕が不甲斐ないせいかもしれぬ」
澪宮の目に、涙が浮かんだ。
表情はほとんど変わらない。
それでも、黒い瞳の奥が揺れている。
「朕は帝なのに、都を守れぬ」
「そんなことはありません」
小夜はすぐに言った。
澪宮が小夜を見る。
「小夜に何が分かる」
「分かりません。結界のことも、御所のことも、私はまだ分かっていません」
「ならば」
「でも、全部が澪宮さまのせいだとは思いません」
小夜は身を乗り出した。
「鬼子を暴走させている誰かがいるのかもしれません。鈴の音も、澪宮さまが鳴らしたものではないのでしょう。なら、澪宮さまだけが悪いわけではありません」
「朕が弱いから、つけ込まれたのかもしれぬ」
「弱いことは、悪いことではありません」
「帝は、弱くてはならぬ」
「澪宮さまは、帝である前に、澪宮さまです」
小夜の言葉に、澪宮は目を見開いた。
斎臣が、わずかに顔を上げる。
伊吹も黙っていた。
「苦しい時は、苦しいと言っていいと思います。怖い時は、怖いと言っていいと思います。全部を一人で背負わなくてもいいと思います」
「……帝でもか」
「帝でも、です」
澪宮は、小夜をじっと見つめた。
涙が一粒、頬を滑る。
「小夜は、すぐそういうことを言う」
「すみません」
「責めておらぬ」
澪宮は袖で涙を拭おうとして、斎臣がすぐに布を差し出した。
澪宮はそれを受け取らず、小夜の袖を見た。
伊吹がすぐに言う。
「陛下、小夜ちゃんの袖で拭くのはなし」
「まだ何もしておらぬ」
「しようとしたでしょ」
「……少し」
「正直で偉いね」
澪宮は少しだけ不満そうにした。
小夜は微笑みながら、清潔な懐紙を差し出す。
「こちらをどうぞ」
「小夜のか」
「はい」
「なら、使う」
澪宮は懐紙を受け取り、目元を押さえた。
それだけのことで、少し嬉しそうに見える。
小夜は胸が温かくなった。
この人は、きっと本当に知らないのだ。
誰かから普通に物を差し出されることも。
自分のために慰められることも。
友達として、ただ隣にいることも。
澪宮は涙を拭い終えると、何かを考えるように小夜を見た。
「そうか」
「澪宮さま?」
「小夜が、朕の一族になればよいのではないか」
小夜は瞬きをした。
「……一族、ですか」
「うむ」
澪宮は、初めて名案を思いついた子どものように、ほんの少しだけ目を輝かせた。
「小夜が我が一族の男と契ればよい」




