第八話 冷たい正論
翌朝、封鬼寮の空気はいつもより冷えていた。
雨は上がっていたが、雲はまだ低い。庭の青葉は濡れ、軒先から落ちる雫が、石畳に小さな音を立てている。
小夜は本館の廊下を歩きながら、昨夜の御所での出来事を思い返していた。
御簾の中にいた少女の帝。
冷たい手。
小夜のそばにいると静かになる、と言った声。
そして、泣きながらも小夜を噛まないと約束した澪宮。
あの人は、帝だった。
けれど同時に、ひどく寂しい少女でもあった。
(また来い、と仰っていた)
小夜は胸元に手を当てる。
刻印は、今朝は静かだった。昨夜のような鈴の残響はない。けれど御所の奥で触れた冷たさが、まだ指先に残っている気がした。
角を曲がったところで、白瀬の診察室の前に人影が見えた。
榊ではない。
白瀬でも、伊吹でもない。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
白い長官服をまとっている。
軍装に似ているが、封鬼寮の隊服よりもずっと隙がなく、襟元まで整えられていた。細身で、年は三十代半ばほどだろうか。黒髪は短く整えられ、顔立ちは端正だが、温度を感じさせない。
雨上がりの鈍い光の中で、その白さだけが妙に冷たく見えた。
彼の耳元で、小さな銀の飾りが揺れている。
鈴に似ている。
小夜がそう思った瞬間、体がわずかに強張った。
男は小夜に気づくと、静かにこちらを向いた。
「朝霧小夜」
名を呼ばれた。
声は低く、よく通った。
しかし、そこに親しみはなかった。
「はい」
小夜は足を止める。
男は一歩、こちらへ近づいた。
「私は冷泉清成。新たに封鬼寮の長官を拝命した」
冷泉清成。
昨夜、御所から小夜への出仕命令を伝えてきた名。
榊が低く呟いた名前。
小夜は背筋を伸ばし、頭を下げた。
「朝霧小夜です」
「知っている」
冷泉は短く答えた。
その言い方に、小夜は少しだけ息を詰める。
彼は小夜個人を見ているというより、報告書に書かれた情報を確認しているようだった。
稀血。
鬼の刻印を受けた娘。
御所へ出仕した者。
そのような項目として。
「昨夜、御所へ上がったそうだな」
「はい」
「御所で見聞きしたことを、軽々しく口外しないように」
「……はい」
「また、陛下に必要以上に近づくことも控えなさい」
小夜は顔を上げた。
「……必要以上、ですか」
「あなたは稀血だ。陛下を鎮める可能性がある一方で、乱れの原因にもなり得る」
小夜の背筋が、わずかに冷えた。
冷泉は、澪宮が鬼子であることを知っている。
御所の最深部の秘密を、当然のように口にしている。
「乱れの原因……」
「自覚がないのなら、持ちなさい」
冷泉の視線は冷たかった。
「あなたの血は、他者を救うだけのものではない。鬼を惹きつけ、鬼子を刺激し、御所の均衡を乱す。危険な血だ」
小夜の胸が、かすかに痛んだ。
危険な血。
そう言われること自体には慣れている。
けれど冷泉の言葉には、心配ではなく、冷たさがあった。
扱い方を誤れば危険。
ならば管理する。
そのように言われている気がした。
「へえ」
背後から、軽い声がした。
小夜が振り向く前に、伊吹が隣へ立っていた。いつからいたのか分からないほど自然に現れ、冷泉を見て薄く笑っている。
「呼びつけたのは御所なのに、近づくなって言うんだ」
冷泉は伊吹を見た。
「必要があるから呼ぶ。危険があるから制限する。当然の判断だ」
「嫌な正論だね」
「正論であるなら十分だ」
冷泉の返答に、伊吹はおかしそうに目を細めた。
「新長官様、榊とはずいぶん違うね」
「榊前長官は、情に寄りすぎた」
冷泉の声は、少しも揺れなかった。
「その結果、封鬼寮は稀血の扱いを誤り、鬼の暴走を招いた。白瀬医官の研究管理にも問題があった。本人の十分な同意を得ず、血を扱うなど、本来あってはならないことです」
白瀬の名が出て、小夜は息を詰めた。
あのときの事件を思い出す。
自分の知らないところで、自分の血が使われていたこと。
守るためだと言われても、許せなかったこと。
冷泉の言葉は冷たいが、間違ったことを言っているわけではない。
「稀血も、鬼子も、感情で扱ってよいものではありません」
冷泉は続けた。
「哀れむことは結構です。事情を聞くことも、できるならば必要でしょう。ですが、鬼子が暴走すれば市民が死にます」
小夜は何も言えなかった。
春日惣一の顔が浮かぶ。
雨に濡れた紙包み。
砂糖を買って帰る途中だった少年。
助けたいと思った。
けれど、あの夜、彼が罪もない人々に牙を剥いたことも事実だった。
「鬼子を哀れんでいる間に誰かが喰われた時、誰が責任を取るのですか」
冷泉の視線が、小夜をまっすぐ射抜く。
「朝霧小夜。あなたが責任を取れますか」
「……それは」
「取れないでしょう」
冷泉は責めるようにではなく、事実を確認するように言った。
「ならば、現場に必要なのは感情ではありません。手順と判断です。危険なものは隔離し、記録し、必要なら封じる。止まらぬなら討つ。その判断を遅らせれば、犠牲は増える」
伊吹の笑みが薄くなる。
「ずいぶん冷たいね」
「冷たくなければ、人は守れません」
冷泉は伊吹を見た。
「黒夜の伊吹。あなたも封鬼師であるなら分かるはずです。目の前の鬼が涙を流していたとしても、次の瞬間に人を喰うなら止めなければならないと」
「止めるよ」
伊吹は肩をすくめた。
「小夜ちゃんに手を伸ばしたらね」
「それが、情に寄った判断です」
冷泉の声は静かだった。
「あなたは朝霧小夜を守るためなら動く。だが、それは市民を守る判断とは違う」
伊吹の目が、すっと冷える。
「へえ」
「あなたの力は有用です。ですが、判断基準を個人への執着に置くなら、封鬼寮の刃としては危うい」
「俺のこと、よく見てるね」
「報告書を読めば分かります」
伊吹の口元が、わずかに歪んだ。
けれど、小夜にはその笑みが危うく見えた。
「小夜ちゃんのことも、俺のことも、紙の上で分かった気になる人って嫌いだな」
「好かれる必要はありません」
冷泉は小夜へ視線を戻した。
「封鬼寮の規則も、すべて見直します。もっと厳格に、稀血を管理すべきだ」
小夜は、思わず手を握った。
榊が正しかったとは、まだ言えない。
白瀬がしたことを、すべて許せたわけでもない。
冷泉の言葉には、一理ある。
それが、少し怖かった。
正しい形をした言葉が、人を守るためだけに使われるとは限らない。
小夜は、そんな気がした。
「朝霧小夜。御所から再度の出仕命令が来ている。本日も昼前に宮城へ上がりなさい」
「……はい」
小夜は静かに息を吸った。
伊吹が小夜の前へ、半歩出た。
「俺も行くよ」
「帝命は朝霧小夜へのものだ」
「昨日も行った」
「昨日許されたからといって、今日も許されるとは限らない」
「許されないなら、無理やりついていくだけだよ」
伊吹は、ふっと息を抜くように笑った。
「小夜ちゃんを一人で御所へやるより、よっぽど面倒になると思うけど」
冷泉はしばらく伊吹を見ていた。
やがて、淡々と言う。
「黒夜の鬼を御所へ入れるなど、本来ならば好ましくない」
「だろうね」
「だが、朝霧小夜があなたの同行で安定するなら、今は利用価値がある」
伊吹の目が、すっと冷えた。
「利用価値、ね」
「あなた方の関係を、情緒で判断するつもりはない」
「俺はあるよ」
伊吹は、にこりと笑う。
「小夜ちゃんが嫌がる言い方をする人は、好きじゃない」
「好かれる必要はない」
冷泉はそう言い、踵を返した。
「昼前に迎えが来る。遅れないように」
白い背中が廊下の向こうへ去っていく。
小夜はその姿を見送りながら、胸に残る違和感を押さえた。
冷たい声。
正論だけで組まれたような言葉。
冷泉清成は、榊とも斎臣とも違う。
人を守るために何かを切り捨てることを、恐れていない人に見えた。
「小夜ちゃん」
伊吹が呼ぶ。
「はい」
「御所、行きたくないなら行かなくていいよ」
「またそれを言うんですね」
「何回でも言うよ」
小夜は少しだけ笑った。
その時、伊吹の指が、小夜の頬に軽く触れた。
すぐに離れる。
けれど、その温度だけが残った。
「……顔色、悪いよ」
伊吹は、いつもより低い声で言った。
「あいつに言われて、傷ついた?」
「少しは」
「うん」
「でも、大丈夫です」
「大丈夫じゃない時も大丈夫って言うよね」
「言いません」
「言うよ」
伊吹は、薄く口の端を上げた。
けれど、その目は笑っていなかった。
冷泉が去った廊下の方を、もう一度見る。
「俺、あいつ、本気で嫌いだな」
その声は、いつもより少しだけ重かった。
けれど小夜は、伊吹の本気の重さを、まだ恐れていなかった。
なぜなら、その重さは、いつも小夜のために向けられているから。
けれど、首は横に振る。
「行きます」
「陛下が心配?」
「それもあります」
「それも?」
「冷泉様のことも、気になります」
伊吹は目を細めた。
「俺は嫌い」
「まだ一度お話ししただけです」
「一度で十分嫌いになった」
「伊吹らしいです」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかぁ」
伊吹は不満そうに言ったが、小夜の手を取る力は優しかった。
*
支度のために自室へ戻る途中、渡り廊下で志乃と行き合った。
志乃は小夜の顔を見るなり、眉を寄せる。
「朝霧さん、また御所?」
「はい。昼前に」
「……新しい長官には、もう会った?」
「先ほど」
小夜が答えると、志乃は少しだけ辺りを見て、声を落とした。
「どうだった」
「正しいことを、言う方でした」
「正しい、ね」
志乃は短く息を吐いた。
「隊のみんな、朝からぴりぴりしてる。規則を全部見直すって話だから」
「そのようなことを、仰っていました」
「ねえ、朝霧さん」
志乃の声が、さらに低くなる。
「これ、噂だから。真に受けないでほしいんだけど」
「はい」
「冷泉様……昔、身内を鬼子に喰われたことがあるらしいって」
小夜は息を止めた。
「身内を……」
「噂よ。本人が話したわけじゃないし、誰も確かめてない」
志乃はそこで言葉を切って、廊下の先へ目をやった。
白い長官服の背中は、もうどこにもない。
「でも、もし本当なら――あの人の正しさは、どこから来てるんでしょうね」
小夜は答えられなかった。
正論だけで組まれたような、冷たい言葉。
その奥に、もし血の通った傷があるのだとしたら。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
「真に受けないでって言ったでしょ」
志乃は少し早口で言った。
「ただ、朝霧さんは知らないまま正面からぶつかりそうだから。それだけ」
「気をつけます」
「うん。……行ってらっしゃい」
志乃は小さく手を振って、廊下の向こうへ歩いていった。
小夜はその背を見送りながら、耳元で揺れていた銀の飾りを思い出す。
鈴に似た、小さな飾り。
冷たい正論。
そして、確かめようのない噂。
冷泉清成という人が、少しだけ、分からなくなった。




