第七話 御簾の外
やがて、御簾の向こうの衣擦れが止まった。
「もうよい」
帝の声がした。
先ほどより落ち着いている。
けれど、どこか涙の余韻が残っていた。
「小夜を、こちらへ」
「陛下、今は」
「こちらへ」
斎臣が沈黙する。
伊吹が小さく笑った。
「呼ばれてるよ、小夜ちゃん」
「伊吹」
「行かせたくはないけど、向こうが出てきそう」
その言葉が終わるより早く、御簾が揺れた。
「――陛下」
斎臣の声が少し強くなる。
「御簾の外へは……」
「よい」
初めて、帝の声に明確な意思が宿った。
「朕が出る」
白い指が御簾を押し上げた。
薄絹の向こうから現れた少女を見て、小夜は一瞬、息を忘れた。
見た目は、小夜と同じか、少し下――十八歳頃に見えた。
白絹の単に薄水色の袿を重ね、銀鼠の袴が静かに足元へ広がっている。
月光を含んだような淡い黒髪が、肩から背へ流れている。白い肌は、ほとんど血の気がなく、雨に濡れた白磁のようだった。黒い瞳は静かで、その奥にかすかな赤が揺れている。
神聖で、綺麗で、ひどく寂しい少女。
それが、帝だった。
澪宮は、御簾の外へ一歩出る。
その足元は少しふらついていた。
斎臣がすぐに支えようとしたが、澪宮はその手から逃れるように、小夜の方へ歩いた。
「小夜」
名を呼ばれる。
今度は、御簾越しではない。
目の前で。
小夜は慌てて頭を下げようとしたが、その前に澪宮が袖を掴んだ。
「そばにおれ」
「陛下……」
「澪宮だ」
澪宮は、小夜の袖を握ったまま言った。
「そなたは、朕をそう呼んだ」
「――恐れ多いことを申し上げました」
「許す」
「……ありがとうございます」
「もう一度、呼べ」
小夜は戸惑いながら、そっと口を開いた。
「澪宮さま」
澪宮の瞳が、ほんのわずかに緩んだ。
「よい」
そう言うと、彼女は小夜の肩へこつんと額を寄せた。
冷たい。
小夜は驚いて固まる。
澪宮は小夜の肩に頭を乗せたまま、目を閉じた。
「そばにいると、静かだ」
「あの、澪宮さま」
「動くな」
「はい」
「小夜は、あたたかい」
小夜は困って、伊吹を見た。
伊吹は、にこにこと笑っていた。
ただし、目がまったく笑っていなかった。
「はい、そこまで」
伊吹が小夜の肩を抱き寄せる。
澪宮の手から、小夜の袖がするりと離れた。
「伊吹」
「小夜ちゃん、困ってたでしょ」
「困っていたというか、驚いて」
「それを困ってるって言うんだよ」
伊吹は小夜を自分の方へ引き寄せたまま、澪宮を見た。
「陛下、小夜ちゃんにくっつくのはそこまで」
斎臣もまた、澪宮の前へ膝をついた。
「陛下。朝霧小夜殿を困らせてはなりません」
澪宮は、じっと小夜を見る。
「困っているか、小夜」
「え、ええと……」
「困っていないと言っておる」
「まだ何も言っていません」
小夜が思わず言うと、澪宮は少しだけ首を傾げた。
「では、困っておるのか」
「……嫌ではありません。ただ、驚きました」
「嫌ではない」
澪宮は、その部分だけを大事そうに繰り返した。
「ならばよい」
「よくありません」
斎臣が静かに言った。
「陛下。御身の安定のためにも、朝霧小夜殿との距離は慎重になさるべきです」
「小夜は落ち着く」
「だからこそです」
澪宮は、むっとしたように斎臣を見た。
その表情は、先ほどまでの神秘的な帝とはまるで違う。叱られた子どものようで、小夜は少しだけ驚いた。
斎臣は怯まない。
「朝霧小夜殿は稀血です。陛下にとって鎮めにもなりますが、同時に渇きを刺激することもございます」
「朕は噛まぬ」
「先ほどもそう仰いました」
「噛まなかった」
「私が止めたからです」
「む」
澪宮は不満そうに唇を結んだ。
伊吹が小さく肩を揺らす。
「陛下、けっこう分かりやすいね」
「伊吹」
小夜は咎めるように名を呼んだ。
澪宮は伊吹を見る。
黒い瞳の奥に、かすかな赤が揺れた。
「そなたは、小夜の鬼なのか」
「そうだよ。小夜ちゃんの鬼」
伊吹は即答した。
「十一年前は、戦うことしか興味なさそうだったが」
澪宮が、ぽつりと言った。
その場の空気が、また少し変わる。
伊吹の目が細くなった。
「……あのときのこと、覚えてるの?」
「白い夜だった」
澪宮は伊吹を見たまま、ゆっくりと言う。
「松明が揺れていた。血の匂いがした。黒い鬼たちが来て、朕の輿を襲おうとした」
小夜は息を呑んだ。
十一年前。
帝の行列が襲われた夜。
白い仮面をつけた子ども。
伊吹はしばらく黙っていた。
それから、いつもの軽い調子で口の端を上げる。
「ふうん。もっと怖がってたら可愛げがあったのに」
「怖かった」
澪宮の答えは静かだった。
伊吹の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「怖かったのに、態度に出さなかったんだ」
「帝は、怖いとは言わぬ」
「そればっかりだね」
「そう教えられた」
澪宮はそう言って、斎臣を見た。
斎臣の表情は変わらない。
ただ、膝の上に置かれた手が、わずかに握られていた。
小夜の胸が締めつけられた。
この少女は、怖いときに怖いと言えなかった。
苦しいときに苦しいと知らなかった。
泣くことさえ封じられて、閉じ込められてきた。
それなのに今、小夜の前では涙をこぼした。
そのことが、斎臣には喜びではなく、脅威に見えているのかもしれない。
「陛下」
斎臣は静かに言った。
「お戻りください。御簾の外に長くおられては、お体に障ります」
「嫌だ」
澪宮は即答した。
斎臣の眉がわずかに動く。
「陛下」
「小夜と話す」
「朝霧小夜殿には、御用向きの説明がございます」
「ならば、ここで話せ」
「御身が冷えます」
「小夜のそばなら、あたたかい」
澪宮はそう言って、小夜の袖に再び手を伸ばそうとした。
伊吹が、その前に小夜を半歩下げる。
「駄目。俺の」
「小夜の鬼は、狭量だな」
「うん。小夜ちゃんに関してはかなり狭いよ」
「朕も小夜がよい」
「よくない」
「よい」
「よくない」
帝と鬼が、真顔で言い合っている。
小夜は頭が痛くなってきた。
斎臣もまた、表情を消したまま澪宮の前へ進む。
「陛下。朝霧小夜殿は逃げません。ですが、今のように近づきすぎれば、御身にも朝霧殿にも危険がございます」
「危険?」
「先ほど、喉が渇いたでしょう」
澪宮は黙った。
「朝霧殿の稀血は、陛下を鎮める。同時に、鬼の血を引き寄せます」
斎臣は小夜へ視線を向けた。
「これが、御所があなたをお呼びした理由の一端です」
ようやく、説明が始まった。
小夜は伊吹の腕の中から少し身を起こす。
「一端、ということは、他にも理由があるのですか」
「あります」
斎臣は答えた。
「昨夜の鬼子暴走。帝都結界の揺らぎ。陛下の御不調。その三つは、完全に無関係とは考えにくい」
「澪宮さまの御不調は、いつからですか」
「数日前からです」
「数日前……」
「初めは、御眠りが浅くなった程度でした。次に、喉の渇きが増した。昨夜、鬼子が暴走した時刻には、陛下もひどくお苦しみになった」
澪宮は黙って俯いている。
先ほどまで小夜に懐いていた少女の顔ではなく、何かに耐えている顔だった。
「……近ごろ、宮中でも妙なことを言う者がいる」
澪宮は小さく言った。
「鬼子が御所へ向かうのは、朕が呼んでいるからだと」
「澪宮さまが?」
「朕は呼んでおらぬ」
その声は、幼いほど怯えていた。
小夜は静かに尋ねた。
「鈴の音は、聞こえましたか」
澪宮の肩が、ぴくりと動く。
「聞こえた」
小夜の体が強張った。
「どんな音でしたか」
「遠くで、朕を呼んでいた」
「帝が呼んでいる、と春日惣一さんは言っていました」
「朕は、誰も呼んでおらぬ。鬼子など、呼んでおらぬ」
澪宮はすぐに言った。
その声は、少し怯えていた。
「分かっています」
小夜はすぐに答えた。
「澪宮さまが呼んだとは、思っていません」
澪宮の瞳が、小夜を見る。
「本当か」
「はい」
「小夜は、朕を疑わぬか」
「今は、疑いません」
「今は」
「分からないことは多いです。でも、澪宮さまは、呼んでいないと仰いました」
小夜はまっすぐに言った。
「私は、それを信じます」
澪宮はしばらく小夜を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ表情を緩める。
「小夜は、よい」
伊吹の腕に力がこもった。
「また懐いた」
「伊吹」
「だって懐いたよね、今。そういうのよくない」
小夜は何も答えられなかった。
斎臣が、静かに話を戻す。
「昨夜の鈴は、御所の本鈴ではありません。先ほどご覧いただいた祭具は内廷にあり、鳴らされていません」
「では、別の鈴があるのですか」
「本鈴の音階や霊式を写したものが作られていれば、似た作用を起こせる可能性はあります」
伊吹の目が、すっと細くなった。
「写し鈴?」
「仮に、の話です」
斎臣は即座に言った。
けれど、その反応は少し早すぎた。
小夜は、斎臣が何かを知っているのではないかと思った。
「それを使えば、鬼子を呼べるのですか」
「呼ぶというより、揺さぶるのです」
斎臣は答える。
「鬼子は人の血と鬼の血を併せ持ちます。帝都結界に従おうとする人の血と、それに反発する鬼の血。その矛盾を強く刺激すれば、理性が裂ける」
「春日さんは、それで……」
「可能性のひとつです」
斎臣の言葉は慎重だった。
だが、その内容は十分に恐ろしい。
昨日まで人間として暮らしていた少年が、音ひとつで鬼へ引きずり出された。
その苦しみを、小夜は共鳴で感じている。
――喰いたくない。
――食べたい。
――人間でいたい。
――自分が何者なのか分からない。
その矛盾を思い出し、小夜は手を握った。
「……澪宮さまも、同じように揺さぶられているのですか」
その問いに、斎臣はすぐには答えなかった。
澪宮も黙っている。
沈黙の中で、伊吹だけが楽しそうに目を細めた。
「答えにくい質問なんだ」
「黒夜の伊吹殿」
「だって、陛下は陛下なんでしょ。それ以上でもそれ以下でもないんだっけ」
斎臣の目が冷たくなる。
澪宮が小夜の方へ一歩近づいた。
「小夜」
「はい」
「朕は、鬼子なのか。それとも人と思うか?」
あまりに静かな問いだった。
小夜は言葉を失った。
それは小夜が答えてよい問いではない。
けれど澪宮は、小夜の答えを待っている。
帝としてではなく、一人の少女として。
「――私には、まだ分かりません」
小夜は慎重に答えた。
「でも、澪宮さまの中に、鬼の血に似たものは感じます」
鬼よりも人に近い。けれど、完全な人とも言い難い。どれだけ先祖の血が薄まれば鬼子ではなく人と呼べるのだろう。
斎臣が目を伏せる。
澪宮は、少しも驚かなかった。
「そうか」
「怖くは、ありませんか」
「怖い」
今度は、すぐに答えた。
「だが、小夜がここにいると、怖いと言える」
小夜は言葉に詰まった。
澪宮は、また小夜の袖へ手を伸ばしかける。
伊吹と斎臣が、同時に動いた。
伊吹は小夜を引き寄せ、斎臣は澪宮の前へ膝をつく。
「陛下」
「まだ触れておらぬのに」
「触れようとなさいました」
「小夜の鬼も、斎臣も、うるさい」
澪宮は無表情のまま、少しだけ頬を膨らませた。
その様子が本当に幼くて、小夜は困りながらも笑いそうになってしまった。
伊吹がそれを見逃さない。
「小夜ちゃん、今かわいいと思ったでしょ」
「思っていません」
「思った顔だった」
「陛下に対して失礼です」
「俺から小夜ちゃんを奪おうとしてる」
「奪うって……陛下ですよ」
「小夜ちゃんにくっつくなら敵」
「敵にしないでください」
小夜は深くため息をついた。
澪宮は、そのやり取りをじっと見ていた。
やがて、ぽつりと言う。
「小夜の鬼は、面白い」
「「面白くありません」」
斎臣と小夜の声が重なった。
伊吹だけが楽しそうに肩を揺らした。
「大人気だね、俺」
「違います」
小夜が即座に否定すると、澪宮が小さく首を傾げた。
「小夜」
「はい」
「……また来るか?」
その声は、先ほどよりずっと小さかった。
命令ではない。
お願いに近かった。
小夜はすぐに返事をしたかった。
けれど、簡単に約束してよいことではない。
御所は小夜の血を欲しがっている。
澪宮のそばにいると、小夜は澪宮を落ち着かせることができる。けれど同時に、渇きも刺激してしまう。
それでも、この少女を放っておくことはできなかった。
「私にできることがあるなら、また参ります」
小夜は言った。
「でも、私の血を差し上げることはできません」
斎臣が小夜を見る。
伊吹の表情が少しだけ緩んだ。
澪宮は、じっと小夜を見つめる。
「血は、くれぬのか」
「はい」
「少しも?」
「少しもです」
「なぜ」
「私の血は、私のものだからです」
その言葉を口にした瞬間、小夜の胸が静かに熱を持った。
誰かを救うためであっても、自分の血を自分の知らないところで使わせない。
守るためという名で、勝手に決めさせない。
御所の前でも、帝の前でも、それは変えてはいけない。
澪宮は、瞬きをした。
「私のもの」
「はい」
「小夜の血は、小夜のもの」
「そうです」
澪宮は、少し考えるように黙った。
そして、こくりと頷く。
「分かった」
小夜は驚いた。
もっと拒まれると思っていた。
だが澪宮は、不思議そうに首を傾げながらも、もう一度言った。
「小夜の血は、小夜のもの。ならば、朕は勝手にもらわぬ」
「ありがとうございます」
「だが、そばには来い」
「それは……」
「血はいらぬ。手も、今日はもう我慢する。だから、そばに来い」
子どものような譲歩だった。
けれど、澪宮にとっては大きな譲歩なのだろう。
小夜は少しだけ目元を緩めた。
「伊吹と斎臣様が許してくだされば」
その瞬間、伊吹と斎臣が同時に嫌そうな顔をした。
澪宮は二人を見る。
「許せ」
「陛下」
「許せ」
「……慎重に、であれば」
斎臣が先に折れた。
伊吹は不満そうに小夜を見る。
「小夜ちゃん、俺が許さないって言ったら?」
「困ります」
「困るだけ?」
「……できれば、分かってほしいです」
「ずるいなぁ」
伊吹は本当に困ったように笑った。
「そう言われたら、俺も慎重にって言うしかないじゃん」
「ありがとうございます」
「まだ許したわけじゃないよ。条件付き」
「条件とは」
「俺も一緒に来る。小夜ちゃんに触る時は俺の見えるところ。血は絶対だめ。噛むのもだめ。抱きつくのもなるべくなし」
澪宮が不満そうに言う。
「なるべく」
「そこ拾わないで」
伊吹は肩を揺らした。
斎臣は静かに息を吐く。
「朝霧小夜殿」
「はい」
「本日のところは、これ以上長くお留めしない方がよいでしょう。陛下もお疲れです」
澪宮が斎臣を睨む。
「疲れておらぬ」
「お疲れです」
「斎臣はすぐそう言う」
「事実です」
そのやり取りは、どこか馴染んでいた。
長く一緒にいた者同士の距離。
けれど、その距離は温かいだけではない。
縛るものと、縛られるもの。
小夜には、そうも見えた。
澪宮は不満そうにしながらも、ようやく御簾の方へ戻る。
途中で一度だけ振り返った。
「小夜」
「はい」
「明日もまた来い」
「はい。澪宮さま」
その名を呼ぶと、澪宮の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
斎臣に支えられ、澪宮は御簾の奥へ戻っていく。
薄絹が下ろされると、帝の姿はまた見えなくなった。
けれど、小夜の中にはもう、御簾の中にいる少女の顔が残っていた。
月光を含んだような髪。
赤を隠した黒い瞳。
冷たい指。
そして、泣きながら言った声。
――苦しい。
小夜は胸元を押さえた。
御所は稀血を欲しがっている。
それは変わらない。
けれど御簾の中にいたのは、小夜の血を役目として欲しがるだけの帝ではなかった。
血を欲しがりながら、噛まないと約束した少女。
怖いと言えなかった、籠の中の鬼子だった。
御簾の外で、斎臣が深く一礼する。
「本日は、これにて」
その声はいつものように整っていた。
けれど、斎臣の腕は狩衣で隠れている。小夜には見えないが、その下に新しい傷があるのだろう。
伊吹は斎臣を見て、少しだけ顔をしかめた。
「斎臣殿」
「何でしょう」
「あんまり小夜ちゃんを怖がらせることしないでね」
「私が、朝霧小夜殿を怖がらせましたか」
「うん」
斎臣は一瞬だけ小夜を見た。
「それは、失礼いたしました」
また、綺麗な謝罪だった。
小夜は首を横に振る。
「いいえ。ただ……澪宮さまは、いつもあのように?」
「どのように、でしょう」
「喉が渇いた時に、斎臣様の血を」
言いかけて、小夜は言葉を止めた。
踏み込んでよいことなのか分からなかった。
斎臣は、小夜の迷いを察したように微笑む。
「陛下の御身を安定させるために必要なことです」
「斎臣様は、それで苦しくないのですか」
「私にとっては、光栄なことです」
即答だった。
小夜は言葉を失う。
その答えは、あまりにも迷いがなかった。
斎臣は続ける。
「陛下が渇かれる時、私がそばにいる。それだけのことです」
「それだけ、ですか」
「ええ」
斎臣は穏やかに笑った。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
先ほども聞いた言葉だった。
陛下は陛下。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど小夜には、その言葉が何かを隠すための言い訳に聞こえた。
伊吹が小さく呟く。
「うわぁ、やっぱり重い」
「伊吹」
「小夜ちゃん、俺がまともに見えてきたでしょ」
「そんなことはありません」
「そこは頷いてほしかったな」
伊吹は不満そうに言いながらも、小夜の手を取った。
強く、でも痛くない力で小夜を包む。
「帰ろう、小夜ちゃん」
「はい」
小夜はもう一度、御簾の方を見た。
向こうから返事はない。
けれど、かすかに鈴の音がした気がした。
――りん。
寂しそうで、けれど先ほどより少しだけ澄んだ音だった。
小夜は静かに頭を下げる。
「また参ります、澪宮さま」
御簾の向こうで、衣擦れの音がした。
返事はなかった。
けれど、小夜には、帝がこちらを見ている気がした。
斎臣に案内され、御簾の間を後にする。
廊下へ出た途端、雨音が少しだけ戻ってきた。
御所の静けさから解放され、小夜はようやく自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
隣で、伊吹が小さく息を吐く。
いつものように軽い溜息に聞こえた。
けれど、小夜はふと違和感を覚えた。
伊吹が肩を回したのだ。ほんの一度だけ。凝りを逃がすような仕草だったが、その横顔がいつもより少し白く見えた。
「伊吹」
「なに?」
「顔色が」
伊吹は瞬きをした。
それから、いつもの調子で口の端を上げる。
「鬼に顔色ってある?」
「あります」
「じゃあ、小夜ちゃんに心配されたいから、少し悪いかも」
「冗談を言っている場合ですか」
「冗談じゃないよ。心配されたいのは本当」
小夜は眉を寄せた。
伊吹は薄く笑っている。
けれど、先ほどから彼の呼吸が少しだけ深い。御簾の間にいた時は気づかなかった。澪宮や斎臣のことに気を取られていたせいもある。
御所の空気は、小夜にとっても息苦しかった。
けれど、鬼である伊吹にとっては、それ以上なのかもしれない。
「御所の結界が、つらいのですか」
小夜が尋ねると、伊吹は少しだけ目を細めた。
「つらいってほどじゃないよ」
「本当ですか」
「うん。気持ち悪いだけ」
「それは、つらいのでは」
「小夜ちゃんが心配するほどじゃない」
伊吹はそう言って、廊下の先へ視線を流した。
白木の柱。磨かれた床。雨に濡れた庭。
そのすべてが、伊吹の体を薄く押さえつけているように小夜には見えた。
「ここ、鬼にはあんまり優しくないんだよね」
「御所が、ですか」
「うん。人間には静かで綺麗な場所に見えるんだろうけど」
伊吹は軽く笑った。
「鬼には、檻みたいな場所」
小夜は顔をしかめた。
伊吹は強い。
だから、平気な顔をしている。
けれど平気なわけではないのだ。
鬼である彼にとって、御所の結界は体にまとわりつく鎖のようなものなのかもしれない。それでも、伊吹は小夜のそばを離れなかった。
「それなら、無理に同行しなくても」
「するよ」
即答だった。
小夜が顔を上げると、伊吹は当然のように頷いた。
「小夜ちゃんがここに来るなら、俺も来る」
「でも」
「小夜ちゃんを置いて、俺だけ楽な場所にいる方が嫌」
伊吹の声は軽かった。
けれど、言葉は少しも軽くなかった。
「御所が檻でも、結界が気持ち悪くても、斎臣殿が重くても、陛下が小夜ちゃんに懐いても」
「澪宮さまは、懐いたわけでは」
「懐いてた」
伊吹はきっぱり言った。
「小夜ちゃんの袖、掴もうとしてた。何度も」
「弱っていらしただけです」
「それを懐いたって言うんだよ」
小夜は呆れた。
その小さな笑みに気づいた伊吹が、目を細める。
いつもの調子の薄い笑みだったが、その瞳の奥には御所の重さに抗うような色が滲んでいた。
小夜はほんの少しだけ足を止めた。
「伊吹」
「なに?」
「……手を、貸してください」
伊吹が瞬きをした。
「手?」
「御所の空気が、少し苦しいので」
本当は、それだけではなかった。
伊吹の顔色が悪いことに気づいてしまったから。
彼が平気なふりをしていることが、分かってしまったから。
自分の方から触れてもいい理由を、探してしまった。
伊吹の目が、ゆっくりと甘くなる。
「小夜ちゃんが自分から手を貸してって言うの、珍しいね」
「……一度だけです」
「うん。覚えとく」
伊吹は小夜の手を取った。
強く握るのではなく、指先を包むように。
御所の冷たい空気の中で、その熱だけが妙にはっきりしていた。
「帰るまで、少しだけです」
「うん」
「調子に乗らないでください」
「無理」
「伊吹」
「だって、小夜ちゃんが自分から手を貸してって言った」
伊吹は嬉しそうにそう言ったが、手を強く引くことはしなかった。
むしろ、小夜の歩幅に合わせるように、少しだけゆっくり歩き出す。
御所の結界は、まだ重いのだろう。
小夜の隣にいる伊吹の顔色も、完全には戻っていない。
それでも稀血の影響か、呼吸が楽になっているようだった。
彼の表情も、どこか満足そうだった。
小夜は伊吹の手を借りたまま、雨に濡れた庭を見る。
澪宮の冷たい手。
斎臣の隠された傷。
帝都結界の揺らぎ。
そして、春日惣一が聞いた鈴の音。
御所の中には、まだ多くのものが隠されている。
ふいに、鈴の音が耳をかすめた。
かすかに。遠く。
今度は御簾の中ではなく、もっと別の方角から。
小夜は足を止めた。
「小夜ちゃん?」
伊吹がすぐに気づく。
小夜は宮城の外、雨に煙る帝都の方を見た。
「また、聞こえました」
「鈴?」
「はい。でも、さっきとは違います。もっと遠くから」
伊吹の表情が消える。
斎臣も振り返った。
その顔から、綺麗な微笑みが消えていた。
小夜の耳の奥で、細い音がもう一度鳴る。
――りん。
どこかで、また誰かの血が呼ばれている。
そんな予感がした。




