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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第七話 御簾の外

 やがて、御簾の向こうの衣擦れが止まった。


「もうよい」


 帝の声がした。

 先ほどより落ち着いている。

 けれど、どこか涙の余韻が残っていた。


「小夜を、こちらへ」


「陛下、今は」


「こちらへ」


 斎臣が沈黙する。

 伊吹が小さく笑った。


「呼ばれてるよ、小夜ちゃん」


「伊吹」


「行かせたくはないけど、向こうが出てきそう」


 その言葉が終わるより早く、御簾が揺れた。


「――陛下」


 斎臣の声が少し強くなる。


「御簾の外へは……」


「よい」


 初めて、帝の声に明確な意思が宿った。


「朕が出る」


 白い指が御簾を押し上げた。

 薄絹の向こうから現れた少女を見て、小夜は一瞬、息を忘れた。

 見た目は、小夜と同じか、少し下――十八歳頃に見えた。

 白絹の単に薄水色の袿を重ね、銀鼠の袴が静かに足元へ広がっている。

 月光を含んだような淡い黒髪が、肩から背へ流れている。白い肌は、ほとんど血の気がなく、雨に濡れた白磁のようだった。黒い瞳は静かで、その奥にかすかな赤が揺れている。

 神聖で、綺麗で、ひどく寂しい少女。

 それが、帝だった。

 澪宮は、御簾の外へ一歩出る。

 その足元は少しふらついていた。

 斎臣がすぐに支えようとしたが、澪宮はその手から逃れるように、小夜の方へ歩いた。


「小夜」


 名を呼ばれる。

 今度は、御簾越しではない。

 目の前で。

 小夜は慌てて頭を下げようとしたが、その前に澪宮が袖を掴んだ。


「そばにおれ」


「陛下……」


「澪宮だ」


 澪宮は、小夜の袖を握ったまま言った。


「そなたは、朕をそう呼んだ」


「――恐れ多いことを申し上げました」


「許す」


「……ありがとうございます」


「もう一度、呼べ」


 小夜は戸惑いながら、そっと口を開いた。


「澪宮さま」


 澪宮の瞳が、ほんのわずかに緩んだ。


「よい」


 そう言うと、彼女は小夜の肩へこつんと額を寄せた。

 冷たい。

 小夜は驚いて固まる。

 澪宮は小夜の肩に頭を乗せたまま、目を閉じた。


「そばにいると、静かだ」


「あの、澪宮さま」


「動くな」


「はい」


「小夜は、あたたかい」


 小夜は困って、伊吹を見た。

 伊吹は、にこにこと笑っていた。

 ただし、目がまったく笑っていなかった。


「はい、そこまで」


 伊吹が小夜の肩を抱き寄せる。

 澪宮の手から、小夜の袖がするりと離れた。


「伊吹」


「小夜ちゃん、困ってたでしょ」


「困っていたというか、驚いて」


「それを困ってるって言うんだよ」


 伊吹は小夜を自分の方へ引き寄せたまま、澪宮を見た。


「陛下、小夜ちゃんにくっつくのはそこまで」


 斎臣もまた、澪宮の前へ膝をついた。


「陛下。朝霧小夜殿を困らせてはなりません」


 澪宮は、じっと小夜を見る。


「困っているか、小夜」


「え、ええと……」


「困っていないと言っておる」


「まだ何も言っていません」


 小夜が思わず言うと、澪宮は少しだけ首を傾げた。


「では、困っておるのか」


「……嫌ではありません。ただ、驚きました」


「嫌ではない」


 澪宮は、その部分だけを大事そうに繰り返した。


「ならばよい」


「よくありません」


 斎臣が静かに言った。


「陛下。御身の安定のためにも、朝霧小夜殿との距離は慎重になさるべきです」


「小夜は落ち着く」


「だからこそです」


 澪宮は、むっとしたように斎臣を見た。

 その表情は、先ほどまでの神秘的な帝とはまるで違う。叱られた子どものようで、小夜は少しだけ驚いた。

 斎臣は怯まない。


「朝霧小夜殿は稀血です。陛下にとって鎮めにもなりますが、同時に渇きを刺激することもございます」


「朕は噛まぬ」


「先ほどもそう仰いました」


「噛まなかった」


「私が止めたからです」


「む」


 澪宮は不満そうに唇を結んだ。

 伊吹が小さく肩を揺らす。


「陛下、けっこう分かりやすいね」


「伊吹」


 小夜は咎めるように名を呼んだ。

 澪宮は伊吹を見る。

 黒い瞳の奥に、かすかな赤が揺れた。


「そなたは、小夜の鬼なのか」


「そうだよ。小夜ちゃんの鬼」


 伊吹は即答した。


「十一年前は、戦うことしか興味なさそうだったが」


 澪宮が、ぽつりと言った。

 その場の空気が、また少し変わる。

 伊吹の目が細くなった。


「……あのときのこと、覚えてるの?」


「白い夜だった」


 澪宮は伊吹を見たまま、ゆっくりと言う。


「松明が揺れていた。血の匂いがした。黒い鬼たちが来て、朕の輿を襲おうとした」


 小夜は息を呑んだ。

 十一年前。

 帝の行列が襲われた夜。

 白い仮面をつけた子ども。

 伊吹はしばらく黙っていた。

 それから、いつもの軽い調子で口の端を上げる。


「ふうん。もっと怖がってたら可愛げがあったのに」


「怖かった」


 澪宮の答えは静かだった。

 伊吹の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「怖かったのに、態度に出さなかったんだ」


「帝は、怖いとは言わぬ」


「そればっかりだね」


「そう教えられた」


 澪宮はそう言って、斎臣を見た。

 斎臣の表情は変わらない。

 ただ、膝の上に置かれた手が、わずかに握られていた。

 小夜の胸が締めつけられた。

 この少女は、怖いときに怖いと言えなかった。

 苦しいときに苦しいと知らなかった。

 泣くことさえ封じられて、閉じ込められてきた。

 それなのに今、小夜の前では涙をこぼした。

 そのことが、斎臣には喜びではなく、脅威に見えているのかもしれない。


「陛下」


 斎臣は静かに言った。


「お戻りください。御簾の外に長くおられては、お体に障ります」


「嫌だ」


 澪宮は即答した。

 斎臣の眉がわずかに動く。


「陛下」


「小夜と話す」


「朝霧小夜殿には、御用向きの説明がございます」


「ならば、ここで話せ」


「御身が冷えます」


「小夜のそばなら、あたたかい」


 澪宮はそう言って、小夜の袖に再び手を伸ばそうとした。

 伊吹が、その前に小夜を半歩下げる。


「駄目。俺の」


「小夜の鬼は、狭量だな」


「うん。小夜ちゃんに関してはかなり狭いよ」


「朕も小夜がよい」


「よくない」


「よい」


「よくない」


 帝と鬼が、真顔で言い合っている。

 小夜は頭が痛くなってきた。

 斎臣もまた、表情を消したまま澪宮の前へ進む。


「陛下。朝霧小夜殿は逃げません。ですが、今のように近づきすぎれば、御身にも朝霧殿にも危険がございます」


「危険?」


「先ほど、喉が渇いたでしょう」


 澪宮は黙った。


「朝霧殿の稀血は、陛下を鎮める。同時に、鬼の血を引き寄せます」


 斎臣は小夜へ視線を向けた。


「これが、御所があなたをお呼びした理由の一端です」


 ようやく、説明が始まった。

 小夜は伊吹の腕の中から少し身を起こす。


「一端、ということは、他にも理由があるのですか」


「あります」


 斎臣は答えた。


「昨夜の鬼子暴走。帝都結界の揺らぎ。陛下の御不調。その三つは、完全に無関係とは考えにくい」


「澪宮さまの御不調は、いつからですか」


「数日前からです」


「数日前……」


「初めは、御眠りが浅くなった程度でした。次に、喉の渇きが増した。昨夜、鬼子が暴走した時刻には、陛下もひどくお苦しみになった」


 澪宮は黙って俯いている。

 先ほどまで小夜に懐いていた少女の顔ではなく、何かに耐えている顔だった。


「……近ごろ、宮中でも妙なことを言う者がいる」


 澪宮は小さく言った。


「鬼子が御所へ向かうのは、朕が呼んでいるからだと」


「澪宮さまが?」


「朕は呼んでおらぬ」


 その声は、幼いほど怯えていた。

 小夜は静かに尋ねた。


「鈴の音は、聞こえましたか」


 澪宮の肩が、ぴくりと動く。


「聞こえた」


 小夜の体が強張った。


「どんな音でしたか」


「遠くで、朕を呼んでいた」


「帝が呼んでいる、と春日惣一さんは言っていました」


「朕は、誰も呼んでおらぬ。鬼子など、呼んでおらぬ」


 澪宮はすぐに言った。

 その声は、少し怯えていた。


「分かっています」


 小夜はすぐに答えた。


「澪宮さまが呼んだとは、思っていません」


 澪宮の瞳が、小夜を見る。


「本当か」


「はい」


「小夜は、朕を疑わぬか」


「今は、疑いません」


「今は」


「分からないことは多いです。でも、澪宮さまは、呼んでいないと仰いました」


 小夜はまっすぐに言った。


「私は、それを信じます」


 澪宮はしばらく小夜を見つめていた。

 そして、ほんの少しだけ表情を緩める。


「小夜は、よい」


 伊吹の腕に力がこもった。


「また懐いた」


「伊吹」


「だって懐いたよね、今。そういうのよくない」


 小夜は何も答えられなかった。

 斎臣が、静かに話を戻す。


「昨夜の鈴は、御所の本鈴ではありません。先ほどご覧いただいた祭具は内廷にあり、鳴らされていません」


「では、別の鈴があるのですか」


「本鈴の音階や霊式を写したものが作られていれば、似た作用を起こせる可能性はあります」


 伊吹の目が、すっと細くなった。


「写し鈴?」


「仮に、の話です」


 斎臣は即座に言った。

 けれど、その反応は少し早すぎた。

 小夜は、斎臣が何かを知っているのではないかと思った。


「それを使えば、鬼子を呼べるのですか」


「呼ぶというより、揺さぶるのです」


 斎臣は答える。


「鬼子は人の血と鬼の血を併せ持ちます。帝都結界に従おうとする人の血と、それに反発する鬼の血。その矛盾を強く刺激すれば、理性が裂ける」


「春日さんは、それで……」


「可能性のひとつです」


 斎臣の言葉は慎重だった。

 だが、その内容は十分に恐ろしい。

 昨日まで人間として暮らしていた少年が、音ひとつで鬼へ引きずり出された。

 その苦しみを、小夜は共鳴で感じている。


 ――喰いたくない。


 ――食べたい。


 ――人間でいたい。


 ――自分が何者なのか分からない。


 その矛盾を思い出し、小夜は手を握った。


「……澪宮さまも、同じように揺さぶられているのですか」


 その問いに、斎臣はすぐには答えなかった。

 澪宮も黙っている。

 沈黙の中で、伊吹だけが楽しそうに目を細めた。


「答えにくい質問なんだ」


「黒夜の伊吹殿」


「だって、陛下は陛下なんでしょ。それ以上でもそれ以下でもないんだっけ」


 斎臣の目が冷たくなる。

 澪宮が小夜の方へ一歩近づいた。


「小夜」


「はい」


「朕は、鬼子なのか。それとも人と思うか?」


 あまりに静かな問いだった。

 小夜は言葉を失った。

 それは小夜が答えてよい問いではない。

 けれど澪宮は、小夜の答えを待っている。

 帝としてではなく、一人の少女として。


「――私には、まだ分かりません」


 小夜は慎重に答えた。


「でも、澪宮さまの中に、鬼の血に似たものは感じます」


 鬼よりも人に近い。けれど、完全な人とも言い難い。どれだけ先祖の血が薄まれば鬼子ではなく人と呼べるのだろう。

 斎臣が目を伏せる。

 澪宮は、少しも驚かなかった。


「そうか」


「怖くは、ありませんか」


「怖い」


 今度は、すぐに答えた。


「だが、小夜がここにいると、怖いと言える」


 小夜は言葉に詰まった。

 澪宮は、また小夜の袖へ手を伸ばしかける。

 伊吹と斎臣が、同時に動いた。

 伊吹は小夜を引き寄せ、斎臣は澪宮の前へ膝をつく。


「陛下」


「まだ触れておらぬのに」


「触れようとなさいました」


「小夜の鬼も、斎臣も、うるさい」


 澪宮は無表情のまま、少しだけ頬を膨らませた。

 その様子が本当に幼くて、小夜は困りながらも笑いそうになってしまった。

 伊吹がそれを見逃さない。


「小夜ちゃん、今かわいいと思ったでしょ」


「思っていません」


「思った顔だった」


「陛下に対して失礼です」


「俺から小夜ちゃんを奪おうとしてる」


「奪うって……陛下ですよ」


「小夜ちゃんにくっつくなら敵」


「敵にしないでください」


 小夜は深くため息をついた。

 澪宮は、そのやり取りをじっと見ていた。

 やがて、ぽつりと言う。


「小夜の鬼は、面白い」


「「面白くありません」」


 斎臣と小夜の声が重なった。

 伊吹だけが楽しそうに肩を揺らした。


「大人気だね、俺」


「違います」


 小夜が即座に否定すると、澪宮が小さく首を傾げた。


「小夜」


「はい」


「……また来るか?」


 その声は、先ほどよりずっと小さかった。

 命令ではない。

 お願いに近かった。

 小夜はすぐに返事をしたかった。

 けれど、簡単に約束してよいことではない。

 御所は小夜の血を欲しがっている。

 澪宮のそばにいると、小夜は澪宮を落ち着かせることができる。けれど同時に、渇きも刺激してしまう。

 それでも、この少女を放っておくことはできなかった。


「私にできることがあるなら、また参ります」


 小夜は言った。


「でも、私の血を差し上げることはできません」


 斎臣が小夜を見る。

 伊吹の表情が少しだけ緩んだ。

 澪宮は、じっと小夜を見つめる。


「血は、くれぬのか」


「はい」


「少しも?」


「少しもです」


「なぜ」


「私の血は、私のものだからです」


 その言葉を口にした瞬間、小夜の胸が静かに熱を持った。

 誰かを救うためであっても、自分の血を自分の知らないところで使わせない。

 守るためという名で、勝手に決めさせない。

 御所の前でも、帝の前でも、それは変えてはいけない。

 澪宮は、瞬きをした。


「私のもの」


「はい」


「小夜の血は、小夜のもの」


「そうです」


 澪宮は、少し考えるように黙った。

 そして、こくりと頷く。


「分かった」


 小夜は驚いた。

 もっと拒まれると思っていた。

 だが澪宮は、不思議そうに首を傾げながらも、もう一度言った。


「小夜の血は、小夜のもの。ならば、朕は勝手にもらわぬ」


「ありがとうございます」


「だが、そばには来い」


「それは……」


「血はいらぬ。手も、今日はもう我慢する。だから、そばに来い」


 子どものような譲歩だった。

 けれど、澪宮にとっては大きな譲歩なのだろう。

 小夜は少しだけ目元を緩めた。


「伊吹と斎臣様が許してくだされば」


 その瞬間、伊吹と斎臣が同時に嫌そうな顔をした。

 澪宮は二人を見る。


「許せ」


「陛下」


「許せ」


「……慎重に、であれば」


 斎臣が先に折れた。

 伊吹は不満そうに小夜を見る。


「小夜ちゃん、俺が許さないって言ったら?」


「困ります」


「困るだけ?」


「……できれば、分かってほしいです」


「ずるいなぁ」


 伊吹は本当に困ったように笑った。


「そう言われたら、俺も慎重にって言うしかないじゃん」


「ありがとうございます」


「まだ許したわけじゃないよ。条件付き」


「条件とは」


「俺も一緒に来る。小夜ちゃんに触る時は俺の見えるところ。血は絶対だめ。噛むのもだめ。抱きつくのもなるべくなし」


 澪宮が不満そうに言う。


「なるべく」


「そこ拾わないで」


 伊吹は肩を揺らした。

 斎臣は静かに息を吐く。


「朝霧小夜殿」


「はい」


「本日のところは、これ以上長くお留めしない方がよいでしょう。陛下もお疲れです」


 澪宮が斎臣を睨む。


「疲れておらぬ」


「お疲れです」


「斎臣はすぐそう言う」


「事実です」


 そのやり取りは、どこか馴染んでいた。

 長く一緒にいた者同士の距離。

 けれど、その距離は温かいだけではない。

 縛るものと、縛られるもの。

 小夜には、そうも見えた。

 澪宮は不満そうにしながらも、ようやく御簾の方へ戻る。

 途中で一度だけ振り返った。


「小夜」


「はい」


「明日もまた来い」


「はい。澪宮さま」


 その名を呼ぶと、澪宮の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。

 斎臣に支えられ、澪宮は御簾の奥へ戻っていく。

 薄絹が下ろされると、帝の姿はまた見えなくなった。

 けれど、小夜の中にはもう、御簾の中にいる少女の顔が残っていた。

 月光を含んだような髪。

 赤を隠した黒い瞳。

 冷たい指。

 そして、泣きながら言った声。


 ――苦しい。


 小夜は胸元を押さえた。

 御所は稀血を欲しがっている。

 それは変わらない。

 けれど御簾の中にいたのは、小夜の血を役目として欲しがるだけの帝ではなかった。

 血を欲しがりながら、噛まないと約束した少女。

 怖いと言えなかった、籠の中の鬼子だった。

 御簾の外で、斎臣が深く一礼する。


「本日は、これにて」


 その声はいつものように整っていた。

 けれど、斎臣の腕は狩衣で隠れている。小夜には見えないが、その下に新しい傷があるのだろう。

 伊吹は斎臣を見て、少しだけ顔をしかめた。


「斎臣殿」


「何でしょう」


「あんまり小夜ちゃんを怖がらせることしないでね」


「私が、朝霧小夜殿を怖がらせましたか」


「うん」


 斎臣は一瞬だけ小夜を見た。


「それは、失礼いたしました」


 また、綺麗な謝罪だった。

 小夜は首を横に振る。


「いいえ。ただ……澪宮さまは、いつもあのように?」


「どのように、でしょう」


「喉が渇いた時に、斎臣様の血を」


 言いかけて、小夜は言葉を止めた。

 踏み込んでよいことなのか分からなかった。

 斎臣は、小夜の迷いを察したように微笑む。


「陛下の御身を安定させるために必要なことです」


「斎臣様は、それで苦しくないのですか」


「私にとっては、光栄なことです」


 即答だった。

 小夜は言葉を失う。

 その答えは、あまりにも迷いがなかった。

 斎臣は続ける。


「陛下が渇かれる時、私がそばにいる。それだけのことです」


「それだけ、ですか」


「ええ」


 斎臣は穏やかに笑った。


「それ以上でも、それ以下でもありません」


 先ほども聞いた言葉だった。

 陛下は陛下。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 けれど小夜には、その言葉が何かを隠すための言い訳に聞こえた。

 伊吹が小さく呟く。


「うわぁ、やっぱり重い」


「伊吹」


「小夜ちゃん、俺がまともに見えてきたでしょ」


「そんなことはありません」


「そこは頷いてほしかったな」


 伊吹は不満そうに言いながらも、小夜の手を取った。

 強く、でも痛くない力で小夜を包む。


「帰ろう、小夜ちゃん」


「はい」


 小夜はもう一度、御簾の方を見た。

 向こうから返事はない。

 けれど、かすかに鈴の音がした気がした。


 ――りん。


 寂しそうで、けれど先ほどより少しだけ澄んだ音だった。

 小夜は静かに頭を下げる。


「また参ります、澪宮さま」


 御簾の向こうで、衣擦れの音がした。

 返事はなかった。

 けれど、小夜には、帝がこちらを見ている気がした。

 斎臣に案内され、御簾の間を後にする。

 廊下へ出た途端、雨音が少しだけ戻ってきた。

 御所の静けさから解放され、小夜はようやく自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。

 隣で、伊吹が小さく息を吐く。

 いつものように軽い溜息に聞こえた。

 けれど、小夜はふと違和感を覚えた。

 伊吹が肩を回したのだ。ほんの一度だけ。凝りを逃がすような仕草だったが、その横顔がいつもより少し白く見えた。


「伊吹」


「なに?」


「顔色が」


 伊吹は瞬きをした。

 それから、いつもの調子で口の端を上げる。


「鬼に顔色ってある?」


「あります」


「じゃあ、小夜ちゃんに心配されたいから、少し悪いかも」


「冗談を言っている場合ですか」


「冗談じゃないよ。心配されたいのは本当」


 小夜は眉を寄せた。

 伊吹は薄く笑っている。

 けれど、先ほどから彼の呼吸が少しだけ深い。御簾の間にいた時は気づかなかった。澪宮や斎臣のことに気を取られていたせいもある。

 御所の空気は、小夜にとっても息苦しかった。

 けれど、鬼である伊吹にとっては、それ以上なのかもしれない。


「御所の結界が、つらいのですか」


 小夜が尋ねると、伊吹は少しだけ目を細めた。


「つらいってほどじゃないよ」


「本当ですか」


「うん。気持ち悪いだけ」


「それは、つらいのでは」


「小夜ちゃんが心配するほどじゃない」


 伊吹はそう言って、廊下の先へ視線を流した。

 白木の柱。磨かれた床。雨に濡れた庭。

 そのすべてが、伊吹の体を薄く押さえつけているように小夜には見えた。


「ここ、鬼にはあんまり優しくないんだよね」


「御所が、ですか」


「うん。人間には静かで綺麗な場所に見えるんだろうけど」


 伊吹は軽く笑った。


「鬼には、檻みたいな場所」


 小夜は顔をしかめた。

 伊吹は強い。

 だから、平気な顔をしている。

 けれど平気なわけではないのだ。

 鬼である彼にとって、御所の結界は体にまとわりつく鎖のようなものなのかもしれない。それでも、伊吹は小夜のそばを離れなかった。


「それなら、無理に同行しなくても」


「するよ」


 即答だった。

 小夜が顔を上げると、伊吹は当然のように頷いた。


「小夜ちゃんがここに来るなら、俺も来る」


「でも」


「小夜ちゃんを置いて、俺だけ楽な場所にいる方が嫌」


 伊吹の声は軽かった。

 けれど、言葉は少しも軽くなかった。


「御所が檻でも、結界が気持ち悪くても、斎臣殿が重くても、陛下が小夜ちゃんに懐いても」


「澪宮さまは、懐いたわけでは」


「懐いてた」


 伊吹はきっぱり言った。


「小夜ちゃんの袖、掴もうとしてた。何度も」


「弱っていらしただけです」


「それを懐いたって言うんだよ」


 小夜は呆れた。

 その小さな笑みに気づいた伊吹が、目を細める。

 いつもの調子の薄い笑みだったが、その瞳の奥には御所の重さに抗うような色が滲んでいた。

 小夜はほんの少しだけ足を止めた。


「伊吹」


「なに?」


「……手を、貸してください」


 伊吹が瞬きをした。


「手?」


「御所の空気が、少し苦しいので」


 本当は、それだけではなかった。

 伊吹の顔色が悪いことに気づいてしまったから。

 彼が平気なふりをしていることが、分かってしまったから。

 自分の方から触れてもいい理由を、探してしまった。

 伊吹の目が、ゆっくりと甘くなる。


「小夜ちゃんが自分から手を貸してって言うの、珍しいね」


「……一度だけです」


「うん。覚えとく」


 伊吹は小夜の手を取った。

 強く握るのではなく、指先を包むように。

 御所の冷たい空気の中で、その熱だけが妙にはっきりしていた。


「帰るまで、少しだけです」


「うん」


「調子に乗らないでください」


「無理」


「伊吹」


「だって、小夜ちゃんが自分から手を貸してって言った」


 伊吹は嬉しそうにそう言ったが、手を強く引くことはしなかった。

 むしろ、小夜の歩幅に合わせるように、少しだけゆっくり歩き出す。

 御所の結界は、まだ重いのだろう。

 小夜の隣にいる伊吹の顔色も、完全には戻っていない。

 それでも稀血の影響か、呼吸が楽になっているようだった。

 彼の表情も、どこか満足そうだった。

 小夜は伊吹の手を借りたまま、雨に濡れた庭を見る。

 澪宮の冷たい手。

 斎臣の隠された傷。

 帝都結界の揺らぎ。

 そして、春日惣一が聞いた鈴の音。

 御所の中には、まだ多くのものが隠されている。

 ふいに、鈴の音が耳をかすめた。

 かすかに。遠く。

 今度は御簾の中ではなく、もっと別の方角から。

 小夜は足を止めた。


「小夜ちゃん?」


 伊吹がすぐに気づく。

 小夜は宮城の外、雨に煙る帝都の方を見た。


「また、聞こえました」


「鈴?」


「はい。でも、さっきとは違います。もっと遠くから」


 伊吹の表情が消える。

 斎臣も振り返った。

 その顔から、綺麗な微笑みが消えていた。

 小夜の耳の奥で、細い音がもう一度鳴る。


 ――りん。


 どこかで、また誰かの血が呼ばれている。

 そんな予感がした。






 

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