第六話 籠の女帝
「朕は、そなたを待っていた」
御簾の向こうから響いた声は、静かだった。
けれど小夜の耳には、柔らかな鈴の余韻のように残った。
命じる声ではない。
誰かを呼ぶ声だった。
寂しくて、冷たくて、けれどどこか幼い声。
小夜は御簾の前に座ったまま、息を整えようとした。
薄絹の向こうに、帝がいる。
帝都の中心に座し、結界の核となり、御所のすべての者が頭を垂れる存在。
そう聞いていた。
けれど、今この御簾の中から伝わってくる気配は、小夜が想像していた帝とはあまりにも違っていた。
威圧感ではなく、感じるのは深い孤独だった。
「小夜」
また名を呼ばれる。
まだ何も答えていないのに、その声は小夜を知っているようだった。
「こちらへ」
小夜は、そっと斎臣を見る。
斎臣は御簾の前に控え、静かに頭を下げていた。表情は穏やかだが、その横顔にはかすかな緊張がある。
「陛下がお呼びです」
「……はい」
小夜は膝を進めた。
すぐ後ろで、伊吹の気配が動く。
「小夜ちゃん」
低い声だった。
振り返ると、伊吹は御簾を見据えたまま、薄く笑っていた。笑ってはいるが、目は少しも笑っていない。
「無理はしないで」
「はい」
「変だと思ったら、すぐ呼んで」
「分かっています」
「ほんとに?」
「本当に」
小夜が頷くと、伊吹は一度だけ息を吐いた。
斎臣がわずかに目を細める。
「陛下の御前です。黒夜の伊吹殿も、どうかお静かに」
「静かにしてるよ。今のところ」
「今後もお願いいたします」
「小夜ちゃんに何もなければね」
斎臣の微笑みが、ほんの少し冷える。
小夜は胃のあたりが重くなるのを感じた。
二人に挟まれて、小夜は静かに御簾へ向き直った。
「陛下」
小夜は、できるだけ丁寧に頭を下げた。
「朝霧小夜でございます」
「知っておる」
御簾の向こうで、衣擦れの音がする。
「そなたの名は、ずっと前から聞いていた」
「私の名を……?」
「――稀血の娘」
その言葉に、小夜の肩がわずかに強張った。
御所へ来てから、何度もその呼び名を聞いている。
御簾の向こうの声は、それに気づいたように少しだけ間を置いた。
「……小夜」
言い直すように、帝はもう一度名を呼んだ。
「そなたは、小夜というのだろう」
「はい」
「よい名だ」
思いがけない言葉に、小夜はまばたきをした。
「ありがとうございます」
「小夜」
「はい」
「そなたの血は、よい匂いがする」
空気が、ぴんと張った。
伊吹の気配が、背後で鋭くなる。
斎臣もまた、わずかに顔を上げた。
小夜は息を呑む。
御簾の向こうから届いた声は、悪意のあるものではなかった。むしろ、無邪気に近い。
だからこそ怖い。
褒めるように、花の香を語るように、帝は小夜の血の匂いを口にした。
「怖いか」
御簾の向こうで、静かな声が問う。
小夜は、すぐには答えられなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、ただ怖いだけでもない。
御簾の中から流れてくる寂しさが、先ほどからずっと小夜に流れ込んでくる。
それは、檻の中にいる小さな生き物の震えに似ていた。
「……少し、怖いです」
小夜は正直に答えた。
「でも、陛下が私を傷つけたいと思っているようには感じません」
御簾の向こうが、静かになった。
しばらくして、帝の声が落ちる。
「傷つけたいとは思わぬ」
「はい」
「噛みたいとは、少し思う」
小夜の背筋が、わずかに冷えた。
「陛下」
斎臣の声が、低く割って入った。
同時に、伊吹が小さく笑う。
「正直でいいね」
「よくありません」
小夜は思わず振り返ってしまった。
伊吹は笑っているが、指先がすでに刀の柄へ近づいている。
「伊吹」
「まだ抜いてない」
「抜かないでください」
「小夜ちゃんが噛まれなければ」
「……噛まれません」
「それ、決めるの小夜ちゃんじゃないでしょ」
伊吹の声は軽い。
けれど目は御簾から離れていない。
斎臣が静かに告げた。
「陛下は、朝霧小夜殿を傷つけません」
「どうかな」
「傷つけさせません」
その声は、先ほどまでより硬かった。
小夜は斎臣を見た。
斎臣の手が、膝の上で静かに握られている。白い狩衣の袖口から覗く手首には、薄い切り傷のような痕が、何本も重なって見えた。
古いものから新しいものまで。
小夜が気づいたのと同じ瞬間、斎臣は袖をわずかに引いて隠した。
御簾の向こうから、かすかな吐息が聞こえる。
「……斎臣が、怒っておる」
「恐れながら、陛下が危ういことを仰るからです」
「朕は、本当のことを言っただけだ」
「本当のことでも、口にしてよいことと悪いことがございます」
「そうか」
帝は、どこか幼く頷いたようだった。
「では、小夜は噛まぬ」
その言い方があまりにも素直で、小夜はかえって胸が痛んだ。
この人は、帝なのだ。
けれど、人との距離をあまり知らない子どものようでもある。
「……陛下」
小夜は御簾へ向き直った。
「苦しいのですか」
斎臣が、わずかに小夜を見た。
その視線には、余計なことを言うな、という警告に似た色があった。
けれど御簾の向こうの帝は、しばらく黙ったあと、ゆっくり答えた。
「……分からぬ」
「分からない?」
「ずっと、こうだった。胸の奥に、冷たい石があるような。喉が乾いているような。けれど、それが苦しいというものか、朕には分からなかった」
小夜は黙って聞いた。
「小夜が来てから、少し静かになった」
帝の声が、ほんのわずかに揺れる。
「それで、初めて分かった。朕は、苦しかったのだな」
小夜の胸に、熱いものが込み上げた。
自分が何を感じているのか分からないほど、長く一人でいたのだ。
苦しみが当たり前になって、楽になるまで苦しかったことさえ知らなかった。
それは、どれほど寂しいことだろう。
「――陛下」
「なんだ、小夜」
「……手を、握ってもよろしいでしょうか」
背後で、伊吹が小さく息を呑んだ。
斎臣も身じろぎする。
「朝霧小夜殿」
「血は差し上げません。御簾の中にも入りません。ただ、手を握るだけです」
小夜はそう言ってから、御簾の向こうへ視線を戻した。
「よろしいですか」
御簾の中から、少しだけ衣擦れの音がした。
「……手を」
細い声が答える。
「小夜。そなたの手を、こちらへ」
小夜はためらいながら、御簾の下へ手を差し入れた。
すぐに、冷たい指がその手を包む。
薄絹の隙間から、白絹の単に重ねた薄水色の袿の袖が、わずかに覗いていた。
思っていたより、小さな手だった。
指は白く、ひどく冷たい。体温がほとんどないように感じる。けれど、その手は小夜の手を壊れ物のようにそっと握った。
小夜の首筋の刻印が淡く熱を持つ。
同時に、感情が流れ込んできた。
――冷たい。
――暗い。
――誰も来ない。
――誰も触れない。
――誰か来て。
――でも、近づかないで。
小夜は息を止めそうになりながら、その手を握り返した。
「……小夜は、あたたかい」
御簾の中で、帝が呟いた。
「陛下の手は、とても冷たいです」
「そうか」
「寒いのですか」
「……分からぬ」
また、その言葉だった。
分からない。
苦しいことも、寒いことも、寂しいことも。
知らないのではなく、知らないままでいなければならなかったのかもしれない。
小夜は、できるだけ優しく声をかけた。
「泣いても、よろしいのではありませんか」
御簾の向こうの気配が、ぴたりと止まった。
「帝は、泣かぬ」
「でも、陛下は苦しいのでしょう」
「帝は、苦しいとは言わぬ」
その瞬間、共鳴の奥で、何かが浮かび上がった。
言葉ではない。
もっと深い場所から、ふっと差し出されたもの。
ひとつの名前。
帝の名ではない、本当の名。
小夜は、自分でも気づかないうちに、それを口にしていた。
「では……澪宮さまは?」
その名を口にした瞬間、斎臣が息を呑んだ。
伊吹も、小夜を見た。
小夜自身も、なぜその名が出たのか分からなかった。
ただ、共鳴の奥から差し出された名前が、舌の先に乗っただけだった。
御簾の向こうで、冷たい指が小夜の手を強く握る。
「澪宮」
帝は、その名を確かめるように呟いた。
「そなたは、朕をそう呼ぶのか……」
「嫌でしたか」
「……いや」
声が揺れた。
「嫌では、ない」
ぽたり、と。
御簾の向こうで、何かが畳に落ちる音がした。
雨ではない。
小夜には見えない。
けれど、その音が涙だと分かった。
「嫌ではない」
帝の声が、幼く崩れる。
「小夜。嫌ではない」
「……はい」
「苦しい」
「はい」
「喉が渇く。胸が痛い。鈴が鳴る。誰かが呼ぶ。朕の中で、都が軋む」
小さな嗚咽が混じった。
それは、帝のものとは思えないほど頼りない声だった。
「斎臣は、朕のためだと言う。皆、朕のためだと言う。けれど朕は、ときどき、息ができぬ」
小夜は、御簾の下で握った手に力を込めた。
「ここにいます」
「小夜」
「私はここにいます」
「……どこにも行かぬか」
小夜はすぐには答えられなかった。
どこにも行かないとは言えない。
自分には封鬼寮があり、伊吹がいて、帰る場所がある。
けれど、今この瞬間、目の前の少女に嘘をつきたくなかった。
「――今は、ここにいます」
小夜は言った。
「澪宮さまが落ち着くまで、ここにいます」
御簾の向こうで、帝の呼吸が乱れる。
小夜の手を握る指に、ぎゅっと力が入った。
「……よい匂いがする」
声が変わった。
幼い涙声の中に、乾いた熱が混じる。
「小夜の血は、よい匂いがする」
小夜の背筋が冷えた。
「澪宮さま」
「噛まぬ」
御簾の向こうで、帝が自分に言い聞かせるように呟いた。
「噛まぬ。小夜は噛まぬ。怖がるゆえ、噛まぬ」
冷たい指が震えている。
その震えが、痛いほど小夜に伝わってきた。
伊吹が立ち上がる気配がした。
「小夜ちゃん、手を離して」
「まだ――」
「離して」
伊吹の声が低くなる。
同時に、斎臣が静かに動いた。
「陛下」
斎臣の声が、御簾の前に落ちる。
「それ以上はなりません」
「斎臣」
帝の声が震えた。
「まだ、小夜がいる」
「いらっしゃいます。ですから、これ以上はなりません」
「……小夜は、あたたかい」
「存じております」
「小夜のそばにいると、静かになる」
「ええ、そうでしょう」
斎臣の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には、抑え込んだ何かがあった。
「ですが、喉が渇いておられるのでしょう」
御簾の向こうが、静かになる。
小夜の手を握っていた指が、わずかに強張った。
「朝霧小夜殿」
斎臣が小夜を見た。
「恐れ入りますが、少々、御簾から離れてお待ちください」
「ですが」
「陛下をお鎮めします」
「……私がいては、いけないのですか」
「今は」
斎臣は、それだけ言った。
言葉は丁寧だったが、拒絶は明確だった。
小夜は御簾の下の手を見た。
帝は、まだ小夜の手を離していない。
小さな指が、縋るように絡んでいる。
「澪宮さま」
小夜はそっと声をかけた。
「少しだけ、外におります」
「行くのか」
「御簾の外です。遠くには行きません」
「本当か」
「はい」
しばらくして、帝の指がゆっくり緩んだ。
小夜は手を引き戻す。
冷たい指の感触が、まだ残っていた。
伊吹がすぐに小夜の手を取る。
何も言わず、その手を確かめるように握った。
「怪我は?」
「ありません」
「噛まれてない?」
「噛まれていません」
「よかった」
その一言だけは、軽くなかった。
小夜は少しだけ困ったように笑う。
伊吹は、小夜を御簾の前から少し離れた廊下の隅へ連れて行った。
その瞬間、伊吹の腕が、小夜の肩を引き寄せた。
強引ではない。
けれど、はっきりとした力で。
「……っ」
「ちょっと、確認」
伊吹の声は、いつもより低かった。
「噛まれてないよね?」
「噛まれていません」
「ほんとに?」
伊吹は、小夜の首筋に指を当てた。
刻印の上を、確かめるようになぞる。
冷たい指。けれど、その奥の体温は、いつもより熱かった。
「……怖かった?」
「少しは」
「うん。俺もちょっと怖かった」
伊吹は、軽く笑った。
けれど、その目には、いつもの軽さがなかった。
「あの帝、小夜ちゃんに執着してる。たぶん、これからもね」
「執着……」
「うん。でも俺の方が先に執着してるから、譲らない」
軽い口調だった。
けれど、その言葉の重みは、軽くなかった。
小夜は、何も言えなかった。
ただ、伊吹の腕の中に、しばらく身を預けた。
そのとき、御簾の向こうで衣擦れの音がした。
斎臣が御簾の内側へ入る。
薄絹が揺れ、白い狩衣の裾が一瞬だけ見えた。
小夜には、その先は見えない。
ただ、布の擦れる音と、低く抑えた声だけが聞こえた。
「陛下」
「……斎臣」
「こちらへ」
「小夜は……?」
「外でお待ちです」
「……小夜の手は、あたたかかった」
「そうでございましょう」
斎臣の声は、優しかった。
けれど、小夜にはその優しさがどこか怖かった。
自分だけが知っている場所へ、帝を連れ戻している声に聞こえた。
御簾の向こうで、布が緩むような音がした。
小夜は思わず視線を伏せる。
何が起きているのか分からない。
けれど隣の伊吹が、露骨に顔をしかめた。
「……うわぁ」
「伊吹?」
「いや。斎臣殿、思ったより重いなって」
「重い?」
「俺、ああいうのとは違うからね」
「何の確認ですか」
「大事な確認」
小夜が首を傾げると、御簾の中で小さな嗚咽が聞こえた。
帝の声だった。
それに重なるように、斎臣の低い声が響く。
「陛下。あなたが口にしてよい血は、私のものだけです」
小夜は息を止めた。
その声は、忠義というには甘すぎた。
祈りというには濁っていた。
命令というには、あまりにも切実だった。
「斎臣」
御簾の向こうで、帝が泣きながら名を呼ぶ。
「小夜は」
「朝霧小夜殿は、あなたの血を乱します」
「でも、静かになる」
「ええ。だから危ういのです」
衣擦れの音がした。
帝が何かに縋るように、小さく息を震わせる。
「……小夜の血は、きっと甘い」
「口にしてはなりません」
「噛まぬ」
「噛ませません」
斎臣の声は穏やかだった。
けれど、そこにある独占欲は隠しきれていない。
「陛下が渇いた時、おそばにいるのは私です。昔から、そうでしょう」
小夜は何も言えなかった。
伊吹は、御簾の向こうを見つめたまま、眉をひそめている。
「……小夜ちゃん」
「はい」
「あれは見習わなくていいやつだからね」
「何をですか」
「いろいろ」
「よく分かりません」
「分からないままでいい」
伊吹はそう言って、小夜の手を握り直した。
御簾の中の、帝の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
先ほどまで小夜を満たしていた寂しさと渇きが、薄く遠のいていった。
小夜は、ようやく息を吐く。
そして、自分の手を見下ろした。
帝の冷たい指の感触が、まだ残っている。
小さく、震えていた指。
縋るように絡んでいた指。
誰にも触れられない場所で、ずっと冷えていた指。
その温度を、自分の手が思い出している。
小夜は、ぎゅっと手を握った。
あの少女もまた、自分と同じように、選ばれずに役目を背負わされた人なのだと思った。
稀血の娘と、帝の少女。
立場は違うけれど、似たところがあるのかもしれない。
稀血の気配は、帝の乱れを緩める。
けれど、喉の渇きそのものは鎮められない。
それを鎮めているのは、斎臣の血なのだ。
その事実が、ひどく重かった。




