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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第五話 御簾の奥

 馬車は門の前で止まった。

 御所の門番たちは、封鬼寮の馬車を見ると静かに道を開けた。そこには槍を持つ兵もいたが、誰も大きな声を出さない。雨のせいか、それとも場所のせいか、音という音が薄く押し殺されているように感じた。

 宮城の門をくぐる。

 その瞬間、小夜の胸がきゅっと締めつけられた。


「小夜ちゃん」


 伊吹がすぐに顔を覗き込む。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない時も大丈夫って言うよね」


「少し、息が詰まっただけです」


「それを大丈夫じゃないって言うんだよ」


 伊吹の手が、小夜の背に回る。

 抱き寄せるほどではない。

 けれど、いつでも引き寄せられる距離だった。

 馬車は白砂の敷かれた道を進んだ。

 御所の庭は、雨に濡れて静まり返っている。刈り込まれた松。濡れた青葉。白砂に落ちる雨粒。遠くの池には、灰色の空が沈んでいた。

 美しい場所だった。

 けれど、その美しさの中に、息苦しいほどの静けさがある。

 小夜は、無意識に自分の手を握った。

 封鬼寮の結界とは違う。

 封鬼寮の結界は、小夜を閉じ込めるものでもあった。けれど、鬼の気配から守るための壁でもあった。

 御所の結界は、もっと冷たい。

 守るというより、従わせる。

 そんな響きがした。

 馬車が内廷へ続く門の前で止まる。

 戸が開いた。

 雨の匂いとともに、薄い香の匂いが流れ込んでくる。沈香に似ているが、どこか血のような甘さが混じっていた。

 小夜が馬車を降りると、濡れた白砂の向こうに一人の男が立っていた。

 白い狩衣をまとい、黒髪をきっちりと結っている。年は二十六歳ほどだろうか。細身で、背が高く、涼しげな顔立ちをしている。

 穏やかな微笑みを浮かべているのに、目だけは小夜を値踏みするように静かだった。

 その背後には、白い装束を纏った数人の近侍が、静かに控えていた。

 誰も声を発さない。雨音の中で、彼らの呼吸さえ抑えられているように感じた。

 男は深く一礼した。


「朝霧小夜殿。お待ちしておりました。鷹司斎臣(たかつかさ ときおみ)と申します。陛下のおそばに仕えております」


 ――鷹司斎臣。


 その名を聞いた瞬間、伊吹が小さく笑った。


「久しぶり、斎臣殿」


 斎臣の視線が、ゆっくりと伊吹へ移る。


「黒夜の伊吹殿。相変わらず、御所の作法とは縁遠いご様子で」


「覚えててくれて嬉しいな」


「忘れようにも難しい方ですから」


 小夜は伊吹と斎臣を見比べた。

 斎臣が静かに言った。


「けれど、忘れられては困ります。あなたの立場は、御所の許しあってのものです。それを謙虚に受け止めることです」


「そういう言い方が嫌いなんだよね。俺は帝の命の恩人だよ? そんな態度を取っていいの?」


 斎臣は苦々しげな顔をする。


「……御礼に、特務封鬼師という特別待遇を差し上げたでしょう。それ以上、望まれるのは強欲というもの」


「あっそ。なら、俺も事実を言うね」


 伊吹は薄く目を細めた。


「小夜ちゃんだけ御所に置いていく気はないよ」


 斎臣の視線が、小夜へ戻る。


「帝命は、朝霧小夜殿への出仕命令であったはずですが」


「小夜ちゃんが行くところには俺も行く」


「御所は、鬼が気安く踏み入る場所ではありません」


 斎臣の声は丁寧だった。

 だが、その言葉には明らかな拒絶がある。

 伊吹は笑った。


「俺、気安く来たわけじゃないよ。かなり嫌な気分で来てるからね?」


「それは何よりです。御所の結界が正しく働いている証でしょう」


「へえ」


 伊吹の笑みが深くなる。

 一触即発の空気があった。

 小夜は慌てて伊吹の袖を掴んだ。


「伊吹」


「分かってる。まだ何もしてない」


「まだ、という言い方をやめてください」


 斎臣は二人のやり取りを静かに見ていた。

 その目が、小夜の手元に落ちる。

 小夜が伊吹の袖を掴んでいることを確認するように。


「お二人は、随分と距離が近いのですね。……鬼と人なのに」


「近いよ」


 伊吹が即答する。


「小夜ちゃんは俺のだから」


「伊吹!」


「言い方?」


「言い方です」


「じゃあ、俺の刻印がある小夜ちゃん」


「もっと嫌です……」


 頬を染めた小夜が小声で責めると、伊吹は楽しそうに肩を揺らした。

 斎臣の微笑みは崩れない。

 けれど小夜は、その場の空気がわずかに冷えたのを感じた。


「……仕方ありませんね。陛下がお待ちです。どうぞ、こちらへ」


 斎臣は身を翻した。

 小夜と伊吹は、その後に続く。

 内廷へ入ると、外の雨音が一段遠くなった。

 長い廊下には、白木の柱が並んでいる。床は磨き上げられ、天井近くには淡い灯りがともっていた。庭に面した障子の向こうでは、雨に濡れた青葉が揺れている。

 香の匂いが濃くなった。

 同時に、小夜の耳の奥で、あの鈴の音に似た響きが強まる。

 小夜は足を止めそうになった。

 伊吹がすぐに気づく。


「小夜ちゃん」


「……大丈夫です」


「またそれ」


「本当に、まだ大丈夫です」


 小夜がそう言うと、斎臣が振り返った。


「……何か感じますか?」


 丁寧な問いだった。

 けれど、その視線には探るような鋭さがある。

 小夜は少し迷い、正直に答えた。


「……鈴の音に似たものを、感じます」


「昨夜の鬼子が耳にしたという、音ですか?」


 斎臣のところまで報告が上がっているらしい。


「……はい。ですが、今聞こえるものはもっと弱くて、遠いです」


「……なるほど」


 斎臣は静かに頷いた。


「やはり、稀血は反応するのですね」


 その言い方に、小夜の胸が、わずかにざわついた。

 自分ではなく、稀血。

 名前ではなく、血。

 小夜はその言葉に慣れているはずだった。

 けれど、御所に入ってから、その響きが以前よりはっきり痛む。

 伊吹が斎臣を見た。


「今の言い方、嫌いだな」


「何か失礼がありましたか」


「小夜ちゃんを血の名前で呼ぶところ」


「それは失礼しました」


 斎臣はすぐに頭を下げた。

 だが、謝罪の形だけが綺麗すぎて、かえって心が見えない。


「朝霧小夜殿。申し訳ありません。以後、気をつけましょう」


「……はい」


 小夜は頷いた。

 斎臣は再び歩き出す。

 その背を追いながら、小夜はふと榊の言葉を思い出した。


 ――御所は、昔から稀血を欲しがっている。


 この場所では、自分は小夜である前に稀血なのかもしれない。

 その実感が、雨の冷たさより深く胸に染み込んだ。


「……榊前長官には、随分と長く待たされました」


 斎臣が、歩きながらふいに言った。

 小夜は顔を上げる。


「榊顧問に?」


「ええ。朝霧小夜殿を御所へ上げるよう、これまでも幾度か話は出ていたのです。ですが、そのたびに報告書と診断書と現場判断を並べられましてね」


 斎臣は穏やかに微笑んだ。


「封鬼寮の長官というものは、時に御所よりも現場に重きを置くらしい」


 その声には、小さな棘と毒があった。

 小夜は目を伏せる。

 榊が言っていたことは、本当だったのだ。

 御所は何度も小夜を要求していた。

 そのたびに、榊は小夜の知らないところで先送りしていた。


「へえ」


 伊吹が口の端を上げた。


「榊、ちゃんと仕事してたんだね」


「仕事、ですか」


「小夜ちゃんを変なところに渡さない仕事」


 斎臣の微笑みが、ほんのわずかに冷えた。


「御所を変なところと仰るのですか」


「小夜ちゃんを欲しがる場所は、だいたい変なところだよ」


「なるほど。黒夜の鬼らしい物言いですね」


「え〜、褒めてる?」


「まさか」


 斎臣は静かに答えた。

 二人の間に、見えない刃が交わる。

 小夜は胃のあたりが重くなるのを感じた。

 この二人は似ていない。

 伊吹は軽薄で、明るくて、感情を隠しきれない。

 斎臣は静かで、丁寧で、言葉のひとつひとつを律している。

 けれど、なぜか小夜には、この二人の視線が同じ方向を向いているように思えた。

 大切なものを、誰にも渡したくない。

 そういう目だった。

 内廷の廊下を進む途中、几帳の向こうで女官たちの声が途切れた。

 小夜がそちらを見ると、斎臣が静かに目を向ける。

 それだけで、囁き声は消えた。


「……失礼いたしました。近ごろ、宮中は少し騒がしいのです」


「騒がしい、ですか」


「余計なことを口にする者が増えました」


 余計なこと、とは何のことだろう。

 小夜は問おうとしたが、斎臣はそれ以上は語らなかった。

 やがて廊下の先に、小さな中庭が見えてきた。

 雨に濡れた白砂の中央に、古い鈴がひとつ吊るされている。

 鈴といっても、祭りの時に見かけるようなものではない。青銅の表面には細かな文様が刻まれ、雨に濡れて鈍く光っていた。

 小夜は思わず足を止めた。


 ――りん。


 鳴っていない。

 鈴は揺れてもいない。

 それなのに、音がしたような気がした。

 昨夜の音と同じ根を持つ響き。

 けれど、この鈴はもっと古く、もっと深い。


「これが……」


「ええ。御所に伝わる祭具のひとつです」


 斎臣が言った。


「帝都結界を整えるためのもの。鬼の血を遠ざけ、都を清浄に保つために用いられてきました」


「……昨夜の音は、これですか?」


「いいえ」


 斎臣は即座に否定した。


「これは内廷の奥にあり、許しなく鳴らすことはできません。昨夜、これが用いられた記録もありません」


「では、なぜ似た音が」


「それを調べるためにも、あなたをお呼びしたのです」


 斎臣の視線が、小夜に向けられる。


「春日惣一という鬼子が何を聞き、何に呼ばれたのか。あなたはそれを、彼の内側で感じた」


 小夜は黙った。

 表向きの理由は、分かる。

 鬼子暴走事件の聴取。

 鈴の音の確認。

 稀血である小夜の共鳴。

 けれど、それだけではない。

 御所の中へ進むほど、小夜の体は何かに反応している。自分の血が、誰かの飢えとも痛みとも違うものを感じ取っている。

 何かが壊れかけているような感覚があった。

 結界か、血か、それとも誰かの感情か。

 ただ、その奥に、かすかな寂しさが滲んでいた。

 小夜はその感覚に戸惑った。

 斎臣は鈴から視線を外し、静かに続ける。


「近ごろ、帝都結界に揺らぎが出ています」


「結界に……?」


「小さな乱れです。外へ公表するほどではありません。ですが、御所として看過できるものでもない」


 斎臣の声は抑えられていた。


「昨夜の鬼子暴走も、無関係とは言い切れません」


「……だから、私を?」


「稀血は鬼の血を鎮める。そう聞いております」


 小夜の背筋が冷える。

 斎臣の言葉が、雨音のように小夜の中へ落ちる。


「私に、何をさせるつもりですか」


 小夜は問うた。

 斎臣は、すぐには答えなかった。

 代わりに、小夜をじっと見る。

 その目に、ほんの一瞬だけ迷いが差したように見えた。


「……それは、陛下にお会いしてから」


「陛下が、私を呼んでいるのですか」


「……はい」


 斎臣は答えた。


「陛下は、あなたに会いたがっておられます」


 会いたがっている。

 その言い方は、少し意外だった。

 御所が稀血を欲しがっている。

 そう聞いていたから、もっと冷たい命令だと思っていた。

 だが、斎臣の言葉には、別のものが混じっている。

 警戒。

 苛立ち。

 そして、小夜の必要性を認めたくないような感情。


「陛下の御体調が、近頃優れません」


 斎臣は低く言った。

 小夜は息を呑む。


「御体調……」


「帝都結界の揺らぎと、無関係ではないでしょう」


「それで、私を呼んだのですか」


「そう考えていただいて構いません」


 斎臣はきれいに微笑んだ。

 その笑みは穏やかだった。

 けれど、小夜にはそこに隠しきれない苛立ちが見えた。

 伊吹が口を開く。


「陛下って、鬼なの?」


 空気が止まった。

 斎臣の微笑みが消える。

 小夜は思わず伊吹を見た。


「伊吹」


「だって、小夜ちゃんがここまで反応してる。御所の結界も気持ち悪い。斎臣殿は小夜ちゃんの稀血が必要だって顔してる」


 伊吹は軽く首を傾げた。


「なら、御簾の中にいる偉い人、普通の人間じゃないんじゃない?」


 斎臣の目が冷たくなる。


「――言葉を慎みなさい」


「慎んでるよ。かなり」


「ここは御所です」


「知ってる」


「陛下を侮辱するなら、黒夜の鬼であろうと許しません」


 伊吹が口の端を上げた。


「俺とやり合って勝てると思ってるの? 御所の全員がかりでも、倒せないんじゃない」


 声は軽い。

 けれど、その場の空気が一瞬で張り詰めた。


「安い挑発を」


 斎臣は薄っすら微笑む。

 小夜は伊吹の腕に、そっと手を添えた。


「伊吹、やめてください」


「はーい。小夜ちゃんがそう言うなら」


 伊吹はあっさり引いた。

 けれど、斎臣を睨みつける目は変わらない。

 斎臣も、それを真正面から受け止めていた。

 袂に手を差し込んでいるのは、結界札でも出すつもりなのか。帝の側仕えということは、斎臣もそれなりの力の使い手なのだろう。

 背後の近侍たちも、無言で身構えている。

 その目は、伊吹一人ではなく、その後ろに広がる黒夜の名を見ているようだった。一族を一夜で潰したと噂される鬼。それと正面から渡り合うことが、どれほど無謀かを、彼らは知っている。

 しばらくして、斎臣は深く息を吐いた。

 袂から手を抜き、ゆっくりと下ろす。


「……陛下は、陛下です」


 斎臣は低く言った。


「それ以上でも、それ以下でもない」


 その言葉は、何かを守るための壁のようだった。

 小夜は、そこに触れてはいけないものを感じた。

 斎臣は再び歩き出す。


「こちらです」


 内廷のさらに奥へ進むにつれ、空気は静かになっていった。

 雨音はほとんど聞こえない。足音も吸い込まれるように消える。壁に掛けられた薄絹の向こうでは、灯りが淡く揺れている。

 小夜の耳をかすめる鈴の残響が少しずつ強くなる。

 同時に、別の感情が流れ込んできた。


 ――寂しい。

 ――退屈。

 ――苦しい。

 ――誰か来て。

 ――誰も来ないで。


 矛盾した感情だった。

 小夜は足を止めた。


「小夜ちゃん?」


 伊吹が顔を覗き込む。


「誰かが……」


「誰か?」


「泣いているような気がします」


 小夜は自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。

 涙の気配などない。

 けれど流れ込んでくるものは、声のない泣き声に似ていた。

 斎臣がこちらを振り返る。

 その目に、はっきりと警戒が浮かんだ。


「……何を感じましたか」


「分かりません。ただ、とても寂しい」


 斎臣の表情が、一瞬だけ凍った。

 それは本当に短い間だった。

 すぐに、彼はいつもの穏やかな顔に戻る。


「……稀血の共鳴は、便利であり、危ういものですね」


「便利、ではありません」


 小夜は思わず言った。

 斎臣は小夜を見る。


「これは、便利な力ではありません。勝手に流れ込んでくるんです。痛みも、飢えも、恐怖も」


 小夜は胸元を押さえた。


「相手の気持ちが分かるわけではありません。ただ、苦しさだけが来ることもあります」


 斎臣は黙っていた。

 小夜の言葉が彼に届いたのかは分からない。

 けれど、斎臣の目にかすかな感情の揺らぎが生まれた。


「……そうですか」


 それだけ言って、斎臣は歩き出した。

 やがて、一つの部屋の前に辿り着いた。

 御簾が下ろされている。

 薄い絹の向こうは暗く、中に誰かがいる気配だけがあった。香の匂いが濃い。雨に濡れた青葉の匂いも、ここまでは届かない。

 小夜の刻印が熱くなる。

 伊吹が、わずかに前へ出た。

 斎臣がそれを見て、静かに告げる。


「ここから先は、朝霧小夜殿のみ」


「無理」


 伊吹は即答した。


「陛下の御前です」


「小夜ちゃんの前でもある」


「黒夜の鬼を御簾へ近づける許しは出ていません」


「じゃあ許しを取り直して」


「……伊吹」


 小夜が袖を掴む。

 伊吹は小夜を見た。

 小夜は小さく首を振る。


「大丈夫ですから」


「ああ、もう。またそれ」


「本当です。ここまで一緒に来てくれたので」


「ここで離れたら意味ないでしょ」


「御簾から少し離れたところにいてください」


 伊吹は不満げに斎臣を見た。

 斎臣は涼しい顔をしている。


「少しでも変な気配がしたらそっちに行く」


「御所の作法では許されません」


「小夜ちゃんの安全の方が大事」


「伊吹」


「……分かってる。努力する」


「努力ではなく、待っていてください」


 小夜がまっすぐ見ると、伊吹はようやく息を吐いた。


「小夜ちゃん、最近ほんと俺の扱いうまくなったよね」


「そうでしょうか」


「うん。ずるいね」


 伊吹は小夜の手を取った。

 冷たい指。けれど、その体温は、いつもより少しだけ熱かった。


「……小夜ちゃん」


「はい」


「やっぱり、嫌だな」


 軽い声だった。

 けれど、その声に、いつもの軽さは半分しかなかった。


「すぐに、呼んでください」


 小夜は、伊吹の指先を、ぎゅっと握った。

 それから、ゆっくりと離した。


「呼びます。必ず」


「うん。約束ね」


「はい」


「ここにいる。すぐ呼んで」


 伊吹は、最後にもう一度だけ、小夜の指先に触れた。

 軽い、けれど確かな触れ方だった。

 斎臣はそのやり取りを静かに見ていた。

 その目に、何かを言いたげな色がよぎる。

 けれど、何も言わなかった。

 小夜は、ゆっくり前へ進む。

 御簾の前で、一度、深く息を吸った。

 刻印が、まだ熱を持っている。

 けれど、振り返って伊吹を見ることはしなかった。

 ここで振り返れば、彼の元へ走り戻ってしまう気がした。

 小夜は、ゆっくり息を吐いた。

 それから、御簾の前へ進む。

 斎臣が、御簾の前へ膝をついた。


「陛下。朝霧小夜殿をお連れしました」


 しばらく、返事はなかった。

 小夜は息を潜める。

 御簾の向こうから、かすかな衣擦れの音がした。

 そして。


「小夜」


 静かな声がした。

 まだ名乗ってもいないのに、帝は小夜の名を呼んだ。

 小夜の心臓が跳ねる。

 その声は、思っていたよりずっと幼く聞こえた。冷たい命令の声ではない。けれど、ただの少女の声でもない。

 水の底から響くような、静かで深い声だった。


「こちらへ」


 御簾の向こうで、誰かが小さく息を吸う。


「朕は、そなたを待っていた」


 小夜の耳の奥で、鈴の音がかすかに鳴った。


 ――りん。


 それは昨夜の音とは違っていた。

 命じる音ではない。

 寂しそうに、誰かを呼ぶ音だった。






 

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