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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第四話 御所へ

 翌朝、夜明けから少し経ったころ、雨はまだ細く降っていた。

 帝都の空は低い雲に覆われ、朝だというのに光は鈍い。封鬼寮の門前に用意された馬車の屋根を、雨粒が絶え間なく叩いている。

 小夜は白い羽織の襟を合わせ、宮城の方角を見た。

 濡れた空の向こうに、御所がある。

 昨夜、春日惣一が戻らなければならないと言った場所。

 帝が呼んでいると、震えながら告げた場所。


 ――そして今、小夜を呼んでいる場所。


「小夜ちゃん」


 背後から声をかけられ、小夜は振り返った。

 伊吹が、いつもの調子で立っていた。雨除けの外套を肩にかけ、腰には刀を差している。軽く目元を緩めているのに、朝の湿った空気の中で、その薄い笑みだけが妙に明るく見えた。


「顔、固いよ」


「固くもなります」


「御所に呼ばれたから?」


「それもあります」


「それも?」


 伊吹が首を傾げる。

 小夜は首元に手を当てた。

 刻印は、昨夜からずっと薄く熱を持っている。強く痛むわけではない。けれど、遠くから細く呼ばれているような感覚があった。


「あの鈴の音が、まだ残っている気がして」


「聞こえる?」


「今は、はっきりとは。ただ……御所の方に近づきたくないような、近づかなければならないような、変な感じがします」


「それ、嫌だね」


 伊吹の声が少し低くなる。

 小夜は彼を見上げた。


「伊吹は、何か感じますか」


「御所の結界は、もともと鬼には感じが悪いよ」


「感じが悪い?」


「うん。上から押さえつけられてる感じ。人間にとっては守りでも、鬼にとっては檻みたいなものだから」


 伊吹は宮城の方角を見た。


「でも今日は、いつもより気持ち悪い」


「いつもより?」


「濡れた布を何枚も顔にかけられてる感じ」


「……それは、かなり嫌ですね」


「でしょ」


 軽口のようだった。

 けれど伊吹の目は笑っていなかった。


「中で何か、調子悪いんじゃない」


 小夜の肌が、かすかにざわつく。

 御所の中で。

 帝のそばで。

 何かが、壊れかけている。

 そう言われたような気がした。


「朝霧さん」


 今度は別の声がした。

 小夜が振り返ると、神崎志乃が廊下の方から小走りに近づいてくるところだった。

 雨に濡れないよう庇の下を選んで歩いていたが、その足取りは少し急いでいる。

 寝不足の顔をしているのは、彼女も夜の任務明けだからだろう。けれど、その目はいつも通りまっすぐだった。


「御所に呼ばれたんですって?」


「はい」


「なんで、また……。本当に、厄介ごとに好かれるわね」


「好きで好かれているわけではありません」


「分かってるわよ」


 志乃は小夜の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。


「……顔色、悪い」


「そうでしょうか」


「悪い。自分で分かってないなら、なお悪いわね」


 断言された。

 志乃は小夜の羽織の襟元を見ると、ため息をついた。


「それに、襟が曲がってる」


「え?」


「動かないで」


 言うなり、志乃は小夜の前に立ち、羽織の襟を手早く整えた。

 少し強引な手つきだったが、乱暴ではない。白い羽織の肩を払い、結び目を確認してから、ようやく一歩下がる。


「御所に行くなら、そういうところも見られるんだから。ちゃんとしなさい」


「……ありがとうございます」


「お礼はいいから、ちゃんと気をつけて」


 志乃はそう言ってから、伊吹をじろりと見た。


「伊吹様」


「なに?」


「朝霧さんに無茶させないでください」


「え〜、俺に言う?」


「言います」


 志乃は真剣だった。


「朝霧さん、稀血だからって、すぐ鬼に感情移入するんですから。昨日の鬼子のことだって、まだ引きずってる顔をしてるし」


「……神崎さん」


「事実でしょ」


 小夜は返す言葉に詰まった。

 志乃は最近は、容赦がなくなった気がする。

 前は伊吹の前で少し緊張していたのに、最近は小夜に対しても伊吹に対しても、小言が多い。

 けれど、その小言の奥にあるものが心配だと分かるから、嫌ではなかった。


「小夜ちゃん、仲良さそうで妬いちゃうなぁ」


 伊吹が楽しそうに言った。

 志乃が、即座に伊吹を睨む。


「仲良くしているわけではありません。隊員として、仲間を心配しているだけです」


「でも、俺には最近そんなに心配してくれないよね」


「伊吹様は心配しても言うことを聞かないので」


「ひどい」


「事実です」


 伊吹はおかしそうに肩を揺らした。


「志乃ちゃん、前より俺に冷たくなった?」


「目が覚めただけです」


「それ、けっこう傷つくなあ」


「傷つくような方でしたか?」


「小夜ちゃんには傷つくよ」


「でしょうね」


 志乃はあっさり言った。

 小夜は思わず口元を押さえそうになる。

 伊吹がすぐにこちらを見た。


「今、笑った?」


「笑っていません」


「笑ったよね」


「笑っていません」


 志乃が横から言う。


「少し笑ってた」


「神崎さんまで……」


 小夜が困ると、伊吹の頬がわずかに緩んだ。

 その軽さに、少しだけ強張りが解ける。

 志乃はそんな小夜を見て、ふいと視線を逸らした。


「……別に、笑えるならいいけど」


「え?」


「何でもない」


 志乃は少し早口で言った。

 それから、改めて小夜を見た。

 先ほどより、少しだけ声が低くなる。


「ちゃんと帰ってきてね」


 不意に、声が真面目になった。


「御所がどういう場所なのか、私はよく知らない。でも、朝霧さんが無理しそうなのは分かる」


「はい」


「はい、じゃなくて。無理だと思ったら、ちゃんと伊吹様に言うこと」


「……分かりました」


「本当に?」


「本当です」


「なら、いいけど」


 志乃はそう言ってから、少し不満そうに伊吹を見た。


「伊吹様もです」


「うん」


「軽い返事ですね」


「ちゃんと聞いてるよ。小夜ちゃんに何かあったら、俺が一番困るし」


 その言葉に、小夜は俯きそうになる。

 志乃が呆れたように息を吐く。


「そういうところを御所で出さないでくださいね」


「え〜、無理かも」


「努力してください」


 志乃はため息を吐いてから、小夜へ視線を戻す。


「朝霧さんも。無茶をして倒れたりしたら、あとで怒るから」


「怒るんですか」


「怒るわよ。心配した分だけ」


 言ってから、志乃は一瞬だけ気まずそうに目を逸らした。


「とにかく、行くなら行って。御所を待たせているんでしょう」


「はい。行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


 そのとき、誰かが近づいてくる気配がした。


「朝霧」


 小夜が振り返ると、榊が本館の廊下からこちらへ歩いてくるところだった。前長官という立場になっても、その歩き方は変わらない。背筋を伸ばし、無駄のない足取りで雨の匂いの中を進んでくる。

 ただ、その目元には昨夜より深い疲労があった。


「御所へ着いたら、まず相手の言葉をよく聞きなさい」


「はい」


「即答はするな。聞かれたことにだけ答え、分からないことは分からないと言えばいい」


「分かりました」


「御所の言葉は、時に命令ではなく確認の形を取る。だが、一度頷けば同意したものとして扱われることがある」


 小夜は息を呑んだ。


「……はい」


 榊は少しだけ目を細めた。

 その表情は厳しかったが、小夜を責めているわけではなかった。


「怖がらせたいわけではない」


「分かっています」


「ただ、気をつけなさい」


 榊の視線が、伊吹へ移る。


「伊吹。君もだ」


「俺?」


「御所では、刀を抜くな」


「抜かなきゃいけないことがなければね」


「抜けば、封鬼寮全体の問題になる」


「小夜ちゃんに何もしなければ抜かないよ」


「その基準を少し広げろ」


 伊吹は楽しそうに肩を揺らした。


「榊って、ほんとお父さんみたいだよね」


 榊の表情が、ほんのわずかに固まる。

 小夜は慌てて伊吹を見た。


「伊吹」


「だって心配の仕方がさ」


「今それを言う必要はありません」


「あるよ。場を和ませようと思って」


「和んでいません」


「小夜ちゃんが真面目」


 伊吹は肩をすくめた。

 榊は短く息を吐く。


「……馬鹿なことを言っていないで、馬車に乗りなさい」


「はい」


 小夜は頷いた。

 けれど馬車に乗り込む直前、もう一度だけ榊を見た。

 榊は雨の中、門のそばに立っていた。小夜を見送るその目には、昨日まで知らなかった何かがあるように見えた。

 御所から守っていた。

 御所へ渡さないように、ずっと先送りしていた。

 小夜の知らないところで。

 それは、まだうまく受け止められない。

 ありがたいと思う気持ちもある。

 どうして言ってくれなかったのかと思う気持ちもある。

 ただ、今はそれを問いかける時間ではなかった。


「……行ってきます」


 小夜が言うと、榊はわずかに頷いた。


「ああ、気をつけて」


 その声が、雨音に混じる。

 志乃も心配そうな表情で見送ってくれている。

 伊吹が小夜の隣に乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出した。

 車輪が濡れた地面を軋ませる。

 封鬼寮の門が後ろへ遠ざかっていく。

 小夜は小さく息を吐き、馬車の窓から外を見た。

 帝都は、雨の朝に沈んでいた。

 店々はまだ半分ほどしか開いていない。軒下には雨宿りをする人々がいて、路面電車は濡れた線路の上を鈍い音を立てて走っている。昨夜、鬼子が暴走した停留所の方角を通り過ぎるとき、小夜は思わず手を握った。


 ――春日惣一。


 あの少年は、まだ目を覚ましていない。

 自分が鬼子であることを、知る日が来るのだろうか。

 もし目覚めたとして、その時、彼は自分をどう思うのだろう。


「……考えすぎ」


 隣から伊吹の声がした。

 小夜は顔を上げる。


「まだ何も言っていません」


「顔が言ってる」


「そんなに分かりやすいですか」


「小夜ちゃんは分かりやすいよ。俺には」


 伊吹はそう言って、小夜の手を取った。

 指先が冷えていたらしい。伊吹の指は冷たいはずなのに、そこから伝わる体温の奥に、いつもとは違う熱があった。

 その温度に触れて、小夜は初めて自分が緊張していたことに気づいた。


「……冷たい」


 伊吹が、小夜の指先を包むように握った。


「そんなに緊張してるなら、俺を見て」


「なぜですか」


「御所を見るより、俺を見る方がいいでしょ」


 小夜は思わず伊吹を見た。

 伊吹はいつものように軽く目元を緩めている。

 けれど、その目だけは小夜から少しも離れていなかった。


「……場合によります」


「ひどいなあ。俺、小夜ちゃんには優しいのに」


「優しいひとは、自分でそう言いません」


「じゃあ、甘い」


「それも自分で言うものではありません」


「でも、小夜ちゃんには甘くしたいんだよ」


 さらりと言われて、小夜は言葉に詰まった。

 こういうことを、伊吹は本当に何でもない顔で言う。

 以前なら、軽口だと思って聞き流せたかもしれない。

 けれど今は、違う。

 このひとは小夜の恋人で、そういう言葉を冗談だけで言っているわけではないのだと、知ってしまっている。

 そう思った瞬間、頬がじわりと熱を持った。

 馬車の屋根を叩く雨音が、急に大きく聞こえる。

 伊吹は、小夜が返事に困っているのを見て、嬉しそうに目を伏せた。


「ほら。御所のこと考えるより、俺のこと考えてる」


「考えていません」


「今、考えてた」


「伊吹」


「うん。かわいい」


「そういうことを言う場面ではありません」


「怖い場所へ行く時くらい、好きな男の顔を見てから行った方がいいでしょ」


「……好きな男、とは」


「俺のこと」


「……自分で言わないでください」


 言い返した声が、思ったより小さくなった。

 小夜は慌てて窓の外へ視線を逃がす。

 雨に濡れた帝都の景色を見ているふりをしたが、目元の熱はごまかせなかった。

 伊吹の指は、小夜の指を離さなかった。

 強く引き留めるのではなく、ただ、ここにいると知らせるような力だった。


「小夜ちゃん」


「……はい」


「御所がどれだけ偉くても、怖くても、俺は小夜ちゃんの味方だから」


 その声だけは、軽くなかった。


「だから、怖くなったら俺を見て」


 小夜は息を止めた。

 伊吹は、すぐにいつもの調子へ戻る。


「まあ、怖くなくても見てほしいけどね」


「伊吹」


「はい。今のは余計でした」


 小夜は小さく息を吐いた。

 それでも、指先の冷たさは少しだけ和らいでいた。


「それでも、怖いなら行くのやめる?」


「……帝命ですよ? 逆らえません」


「俺は別に、帝命だからって小夜ちゃんを連れて行かなきゃいけないとは思わないけど」


「封鬼寮に迷惑がかかります」


「そういうところ、榊に似てきたね」


「似ていません」


「真面目で、抱え込みがちで、変なところで頑固」


「似ていませんってば」


「二回言った」


 伊吹が口の端を上げる。

 小夜は少しだけ唇を尖らせた。

 けれど、伊吹が手を握っていることで、呼吸は少し楽になっていた。

 ふと、小夜は気になっていたことを口にする。


「伊吹は、御所へ行ったことがあるんですか」


「あるよ。何度かね」


「陛下にも、お会いしたことが?」


「御簾越しなら」


「御簾越し……」


「声だけ。顔は見てない。御所ってそういうところでしょ。偉い人ほど布の向こうにいる」


 伊吹はつまらなそうに言った。


「帝命を受けたこともあるよ。鬼を斬れ、結界を守れ、どこそこへ行け。だいたい面倒な用件ばっかり」


 確かに、伊吹は小夜を連れずに任務に行くこともあり、そういう日は小夜は非番となっていた。


「陛下の声は、覚えていますか」


「覚えてる。でも、今日聞く声と同じかどうかは分からない」


「なぜですか」


「御簾越しの声って、どこまで本人の声か分からないことがあるんだよね」


 小夜は瞬きをした。


「本人の声ではないことがあるのですか」


「取り次ぎが喋ることもある。斎臣(ときおみ)殿みたいな人がね」


「斎臣殿?」


「陛下のそばにいる白い男。小夜ちゃんもたぶん、今日会うよ」


 伊吹の声に、ほんの少しだけ嫌そうな響きが混じった。


「お知り合いなんですか」


「顔見知り。仲良くはない」


「それは、なんとなく分かります」


「まだ会ってないのに?」


「伊吹の言い方で」


 小夜がそう言うと、伊吹は声を出さずに肩を揺らした。

 小夜は少し迷い、それからもう一つ尋ねた。


「確か……十一年前、帝の行列を助けたんですよね」


 そういう話を、昔に伊吹から聞いたことがあった。


「ああ、あれね」


 伊吹は窓の外を見たまま、視線を遠くへ流した。


「助けたっていうか、気に入らない鬼を片付けただけだけど」


「その時、陛下は……?」


「輿の中に、白い仮面をつけた子どもがいた」


「子ども?」


「うん。怖がっている感じもなくて、妙に静かな子だった。人間の気配なのに、ちょっと気持ち悪かった」


 小夜は息を呑んだ。

 白い仮面の子ども。

 帝の行列の中心にいた、恐怖も焦りも見せなかった童。


「それが、陛下だったんでしょうか」


「たぶん」


 伊吹は軽く頷いた。


「人間の偉い子どもって、みんな仮面つけてるの?」


「多分、違うと思います」


「じゃあ、そうだったのかもね」


 あまりに軽い言い方だった。

 けれど小夜は、その白い仮面の子どもの姿を想像して、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

 伊吹が、ふいに小夜を見る。


「そんなに気になる?」


「はい。少し。これから会う相手ですし」


「小夜ちゃん、変なところに引っかかるよね」


「そうでしょうか」


「そう。俺としては、御所に着いたら変なものに懐かれないかの方が心配」


「懐かれる?」


「小夜ちゃん、変なものに好かれやすいからさぁ」


「それは伊吹も含まれていますか?」


「もちろん」


 伊吹は悪びれずに頷いた。

 小夜は呆れつつも、少しだけ肩の力が抜けた。

 そのとき、首筋の刻印が、ふっと薄く熱を帯びた。

 遠くから、見えない指でそっと撫でられるような感覚。

 御所が、近づいてきている。

 小夜は思わず首元に手を当てた。


「……また」


「うん。近いね」


 伊吹も気づいていた。

 その目から、軽さが少しだけ消えていた。

 小夜は、改めてまっすぐ前を見る。


「行きます」


 小夜は言った。


「御所が何を考えているのか、知らないままでいる方が怖いです」


「うん」


「それに、あの少年のことも知りたい。鬼子がどうして暴走したのか。帝が呼ぶという声が何だったのか」


「そうだね」


「だから、行きます」


 伊吹はしばらく小夜を見ていた。

 それから、その声が低く甘くなる。


「そういうところ、ほんと困る」


「困るんですか」


「困るよ。止めたいのに、止めたくなくなる」


 伊吹は、繋いだままの手にそっと力を込めた。


「小夜ちゃんが怖がってるなら、いつだって、どこかへ連れて逃げてもいいと思ってるけど」


「……逃げませんよ」


「うん。知ってる」


「なら、言わないでください」


「言いたいんだよ。俺は、小夜ちゃんを怖いところに行かせたくない。でも、小夜ちゃんが行くって決めた顔を見ると、止めるより隣にいたくなる」


 小夜は返事に困った。

 伊吹の言葉は甘い。

 けれど、その甘さの裏には、いつでも小夜を攫ってしまいそうな危うさがある。

 それでも今、その危うさよりも、隣にいてくれることの方が心強かった。

 小夜は、繋がれた手を見下ろす。

 伊吹の指は冷たい。

 けれど、強引に引き寄せるのではなく、小夜が逃げないかを確かめるように、ただそこにあった。


「……隣にいてください」


 言ってから、小夜は自分の言葉に遅れて気づいた。

 頼った。

 自分から。

 しかも、伊吹に。

 居たたまれなくなる。

 けれど、いまさら取り消すこともできず、小夜は気恥ずかしさを隠して繋がれた手へ視線を落とした。

 伊吹の目が少しだけ見開かれた。

 それから、困ったように口の端を上げる。


「……小夜ちゃん、今のはずるい」


「何がですか」


「俺が調子に乗るやつ」


「乗らないでください」


「無理。今の小夜ちゃん、すごく可愛かった」


「そういうことを言う場面ではありません」


「怖い場所へ行く前だから言ってるんだよ」


 伊吹は小夜の手を握ったまま、声を低くした。


「俺のこと頼ってくれる小夜ちゃん、好きだから」


 呼吸が、わずかに止まる。


「……頼っている、というほどでは」


「隣にいてって言った」


「それは……その……」


「俺には、それで十分」


 伊吹の頬が、わずかに緩んだ。

 その表情を見ると、余計なことを言ってしまったような気がして、居たたまれなくなる。


「……伊吹は、すぐ都合よく受け取ります」


「小夜ちゃんの言葉は、できるだけ都合よく受け取りたい」


「できるだけ、ですか」


「うん。俺にとって、そっちのほうが得だから」


「開き直らないでください」


「でも、ちゃんと隣にいる。小夜ちゃんがそう言ったから」


 伊吹は、繋いだ手の指に、わずかに力を込めた。

 それから、ゆっくりと唇が、小夜の指先に触れた。

 軽い、けれど確かな口づけだった。


「うん。約束」


 囁くような声だった。

 いつもの軽さがない、低い声。

 小夜は、その響きに息を止めた。

 俯いて、視線を逃がす。

 伊吹は、ようやく顔を上げて、いつもの薄い笑みに戻った。


「だから、止めないでください」


「今はね」


「今は、ですか……」


「御所が小夜ちゃんに変なことしたら、話は別」


「その時も、まず私に聞いてくださいね」


「小夜ちゃんが答えられる余裕があれば」


 小夜は、内心で深くため息をついた。


「伊吹」


「はいはい。なるべく聞く」


「なるべくではなく」


「……聞く」


 伊吹は、少しだけ不満そうに言い直した。

 そのやり取りの途中で、馬車が宮城の外縁へ近づいていく。

 空気が変わった。

 小夜は、はっと息を止める。

 雨の匂いが薄くなったわけではない。むしろ、雨は同じように降っている。けれど、空気の中に何か硬いものが混じったようだった。

 見えない硝子の壁へ近づいているような感覚がある。

 馬車の窓の向こうに、宮城の石垣と大きな門が見えてきた。

 その奥に、御所がある。

 小夜の首筋の刻印が、また熱を帯びた。

 今度は、はっきりと。


 ――りん。


 細い音が、耳の奥で鳴った。

 昨夜、春日惣一の中で聞いた音に似ている。

 けれど、今度のそれはもっと遠く、もっと弱い。雨の向こうで、誰かが壊れかけた鈴をそっと鳴らしているような音だった。


「聞こえた?」


 伊吹が低く問う。

 小夜は頷いた。


「少しだけ」


 答えた瞬間、刻印の熱が強くなる。

 痛みではない。

 けれど、内側に、知らないものが薄く染みてくる感覚があった。御所の方へ、宮城の奥へ、見えない何かに呼ばれているような。


「……っ」


 小夜は首筋を押さえた。

 伊吹の目が、すっと細くなる。


「嫌だね」


「……はい」


「小夜ちゃんの中に、勝手に触ってくる感じがする」


「私の中、ですか」


「うん」


 伊吹は、小夜の首筋へ視線を落とした。


「俺の印があるところに、知らないものが指をかけてる」


「……言い方」


「だって、そう感じるんだよ」


 伊吹の声は甘い。

 けれど、その奥に低い怒りがあった。

 小夜は首筋に手を当てたまま、御所の方角を見た。

 鈴の音は遠い。

 けれど確かに、小夜の中へ届いている。


「小夜ちゃん」


「はい」


「少し、強める?」


 小夜は瞬きをした。


「刻印を、ですか」


「うん。俺の鬼気を通せば、鈴の音は少し遠くなると思う」


「でも」


「大丈夫。噛まないし、ここでは口づけもしない」


「そういう心配をしているわけでは」


「してない?」


 伊吹の目に、甘い色が差す。

 小夜は返事に詰まった。

 馬車の屋根を叩く雨音が、急に大きく聞こえる。

 刻印は熱い。

 鈴の音は遠いのに、確かに小夜の内側へ触れている。

 その気味悪さに比べれば、伊吹の気配の方がまだ知っているものだった。


「……少しだけなら」


 小夜が小さく言うと、伊吹の声が一段低くなる。


「小夜ちゃん」


「何ですか」


「今の、可愛い」


「可愛いことは言っていません」


「俺の印を強めてもいいって言った」


「鈴の音を防ぐためです」


「うん。分かってる」


 分かっている、と言いながら、伊吹は少しも分かっていない顔をしていた。

 伊吹は、繋いだ手にそっと力を込めた。

 首筋には触れない。

 ただ、繋いだ手から熱を流すように。

 その掌から、じんわりと熱が流れ込んできた。


 鬼の気配。


 外側は冷たいのに、奥だけが甘く熱い。伊吹の鬼気が、繋いだ手から小夜の体へ入り、首筋の刻印へ届いていく。

 刻印が、淡く熱を持った。

 鈴に引かれる感覚が、少しずつ薄れる。

 代わりに、伊吹の気配が濃くなる。

 守られている。

 そう思った瞬間、体が小さく震えた。


「楽になった?」


「……はい」


「よかった」


 伊吹は静かに頷いた。


「鈴より俺の方がいいでしょ」


「そういう言い方はしないでください」


「でも、そういうことでしょ」


「違います」


「違う?」


 伊吹が覗き込んでくる。

 小夜は視線を逸らした。


「……少なくとも、あの音よりは」


 伊吹の声が、甘く深くなった。


「うん。それで十分」


「都合よく受け取らないでください」


「無理。今のは都合よく受け取る」


 伊吹は繋いだ手に、もう一度だけ力を込めた。


「御所がどれだけ小夜ちゃんを呼んでも、先に触れてるのは俺だから」


「伊吹」


「分かってる。言いすぎた」


 そう言いながら、伊吹は反省などしていない顔をしていた。

 けれど、刻印の熱は落ち着いている。

 鈴の音は、雨の向こうへ遠ざかっていた。

 小夜は、繋がれた手を見下ろした。

 怖さは消えていない。

 けれど、さっきよりは息がしやすかった。


 馬車は、宮城の門の前で止まった。





 

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