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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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幕間 雨の記憶

 雨の夜は、古い記憶を連れてくる。

 封鬼寮の本館を打つ雨音を聞きながら、榊恒一はひとり控えの間に残っていた。

 つい先ほどまで、そこには朝霧小夜がいた。

 濡れた羽織を肩にかけ、疲れた顔をして、それでも背筋だけはまっすぐに伸ばしていた。御所からの命を聞いた瞬間、確かに怯えはした。けれど彼女は、その場で取り乱さなかった。

 昔の彼女とは違う。

 十年前、封鬼寮に連れてこられたばかりの少女は、もっと小さく、もっと頼りなく見えた。

 鬼に襲われ、稀血となり、母のもとから離されて、何も分からないままこの場所へ置かれた少女。

 その名を聞いたとき、榊は一瞬、息をすることを忘れた。


 ――朝霧小夜。


 その姓を、榊は知っていた。

 そして、その顔を見た瞬間、忘れたはずの女の面影が、脳裏で静かに揺れた。

 雨音が強くなる。

 榊は、目を閉じた。

 遠い記憶の中にも、雨が降っていた。



 まだ榊が封鬼寮に入る前のことだ。

 榊の家は、代々官僚を輩出してきた家だった。

 御所や内務の中枢に近く、帝都の秩序を支えることを当然の役目としてきた家である。

 家の中に、自由などほとんどなかった。

 誰と付き合うか。何を学ぶか。どこへ仕えるか。いずれ誰を妻に迎えるか、まで。

 それらは、榊自身が決める前から、すでに大人たちの間で決められていた。

 恒一に用意されていたのは、父が望んだ内務省への道だった。

 帝大を出て、家の期待通りに官僚となり、御所と帝都を支える側へ進む。

 それが、榊家の者として正しい生き方だとされていた。

 そんな榊の息苦しい日々の中に、一人だけ、風のように入り込んでくる少女がいた。

 名を、沙代といった。

 近くに住む娘で、榊とは幼いころからの顔なじみだった。身分が釣り合うわけではない。家同士に深い付き合いがあったわけでもない。ただ、榊が屋敷の裏手にある梅の木のそばへ逃げると、なぜか沙代もそこにいた。

 沙代は、榊を榊家の跡取りとして見なかった。

 ただの頑固で、無口で、融通の利かない少年として扱った。


「榊さまは、笑うのが下手ですね」


 ある日、梅の木の下で沙代はそう言った。


「笑う必要がない」


「ありますよ」


「なぜ」


「笑わないと、怖い人に見えます」


「怖く見えて困ることはない」


「あります。私が話しかけづらいです」


 榊が黙ると、沙代は少し得意げに笑った。


「ほら、困るでしょう」


 あのころの榊は、何を言い返せばいいのか分からなかった。

 沙代は、そういう娘だった。

 朗らかで、意地が強く、妙なところで頑固だった。優しいが、ただ柔らかいだけではない。間違っていると思えば、相手が誰であっても黙っていられないところがあった。

 榊は、そんな沙代が眩しかった。

 彼女といると、自分が家の役目ではなく、ただの一人の人間でいられる気がした。

 けれど、そういう時間は長く続かなかった。

 榊の家は、沙代との関わりを良く思わなかった。

 当然だった。

 榊に求められていたのは、家にふさわしい娘を娶り、家にふさわしい道を進み、御所や内務の中枢に近い場所で帝を支えることだった。

 幼馴染の娘に心を傾けることではない。

 沙代にも、そのことは分かっていたのだろう。

 ある夕暮れ、彼女は梅の木の下で言った。


「もう、ここへ来ない方がいいですね」


 榊はすぐには答えられなかった。


「なぜだ」


「榊さまの家の方に、叱られました」


「何を言われた」


「……忘れました」


 沙代は笑った。

 けれど、その笑みはいつもより少し下手だった。


「嘘をつくな」


「なら、聞かないでください」


 榊は、何も言えなかった。

 沙代は梅の枝を見上げる。

 まだ花の季節ではなかった。青い葉が、初夏の風に揺れていた。


「私は、榊さまが嫌なわけではありません」


「……ならば」


「でも、榊さまを困らせたいわけでもありませんから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸がひどく痛んだ。

 困らせる。

 そうではない、と言いたかった。

 沙代といる時間だけが、自分を息苦しさから救ってくれていたのだと。彼女の笑い声がなければ、屋敷の中で何度も息が詰まりそうになったのだと。

 けれど、当時の榊には言えなかった。

 言葉にしてしまえば、もう戻れなくなる気がした。

 沙代は榊を見て、静かに笑った。


「榊さまは、いつも黙ってしまいますね」


「……すまない」


「謝ってほしいわけではありません」


「では、どうすればいい」


 沙代は答えなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。

 その数日後から、沙代は梅の木の下に来なくなった。

 榊は何度か待った。

 けれど、沙代は現れなかった。



 やがて恒一は、帝大を出た。

 父は当然のように、内務省への道を用意していた。

 だが、恒一はそれを断った。

 家の敷いた道をそのまま進めば、いずれ御所に近い場所で、父たちと同じように生きることになる。帝都の秩序を守るという言葉のもとで、何かを選んだことにして、実際には何も選ばずに生きていくことになる。

 それが急に、ひどく息苦しいものに思えた。

 選んだのは、まだ組織としての形も粗く、隊員の数も少なかった封鬼寮だった。

 父は怒った。

 親族も呆れた。

 内務省へ進むべきだった榊家の跡取りが、鬼を追い、稀血を保護し、帝都の外側にある異形と向き合う新設の組織を選ぶなど、家の者たちには理解できなかったのだろう。

 榊自身にも、それが本当に自分の意思だったのか、はっきりとは分からなかった。

 ただ、家の用意した道から外れたかっただけではないのかと。

 御所の近くで、誰かの人生を上から見おろす側に立つことが、どうしてもできなかった。

 封鬼寮に入ってから、榊は鬼を知った。

 稀血を知った。

 帝都結界の仕組みを叩き込まれ、御所の命がいかに重いものかも思い知らされた。

 封鬼寮は御所直属の実働機関でありながら、御所からは遠い場所にある。

 その距離が、榊には必要だった。

 御所の命を受けながらも、現場で人の顔を見る場所。

 鬼を討つときも、稀血を保護するときも、そこには必ず泣く者がいた。恐れる者がいた。生きたいと願う者がいた。

 父の望んだ内務省の道を進んでいたなら、きっと見ないままに済んだものだった。

 榊はそれらを見た。

 そして、見てしまった以上、知らないふりはできなかった。

 それでも、雨の夜になると、時折、梅の木の下にいた沙代を思い出した。

 彼女がなぜ突然姿を消したのかを、榊が知ったのは、それから数年後のことだった。

 偶然だった。

 任務先の郊外で、榊は沙代の名を聞いた。遠縁の家に身を寄せ、そこで結婚した女の名として。

 胸が、静かに軋んだ。


 ――沙代は生きていた。


 それだけで十分だと思うべきだった。

 けれど榊は、その家の近くまで足を運んでしまった。

 別に、会うつもりはなかった。

 ただ、遠くから無事を確かめるだけのつもりだった。

 夕暮れの庭先に、沙代はいた。

 以前より少し大人びていたが、面影は変わらなかった。髪を後ろでまとめ、袖をたすきで留めて、庭先に干した洗濯物を取り込んでいる。

 そのそばに、幼い女の子がいた。

 三つか、四つほどだっただろうか。

 まだ小さな手で、沙代の着物の裾を掴んでいる。何かを話しかけて、沙代に笑いかけていた。

 沙代も、笑っていた。

 榊が知る、あの笑い方だった。

 そこへ、一人の男が家の中から出てきた。

 痩せた、穏やかそうな男だった。彼は幼い娘を抱き上げ、沙代に何かを言った。沙代は困ったように笑い、男の肩を軽く叩いた。

 幸せそうだった。

 榊は、門の外からそれを見ていた。

 誰にも見つからないように、雨の気配を含んだ夕暮れの中で、ただ黙って立っていた。

 あれが、沙代の選んだ暮らしなのだと思った。

 榊の家の中では得られなかったもの。

 役目や血筋や御所の命ではなく、ただ一人の女として、母として、生きている姿。

 そこに踏み込む資格など、自分にはなかった。

 だから榊は、そのまま背を向けた。

 名を呼ぶことも、会いに来たと告げることもなかった。

 ただ一度だけ、幼い娘の顔が目に焼きついた。

 丸い頬。

 真っ直ぐな目。

 沙代によく似ていると思った。

 そして、どこか自分にも似ているような気がした。

 だが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。

 あの家には、沙代の夫がいた。

 幼い娘は、その男に抱かれて笑っていた。

 ならば、それがすべてだった。

 榊には、何かを問う権利も、確かめる資格もなかった。

 その日から、榊は沙代のもとへ近づかなかった。

 人づてに、沙代の夫が病で亡くなったらしいと聞いたのは、さらに数年後のことだった。

 それでも、榊は行かなかった。

 行けば、今度こそ自分の感情を抑えられる自信がなかった。


 ――慰めたい。

 ――支えたい。

 ――守りたい。


 そう思うこと自体が、沙代の選んだ人生を踏みにじることのように思えた。

 榊は封鬼寮の任に没頭した。

 鬼を斬り、結界を張り、稀血を保護し、御所との折衝をこなした。

 やがて長官となった。

 そのころには、沙代のことを思い出す回数も減っていた。

 忘れたわけではない。

 ただ、思い出しても何もできないと知っていた。

 だから、心の奥に沈めていた。

 十年前の、あの夜までは。



 黒夜の鬼が、一人の少女を連れてきた。

 まだ十にも満たないように見える少女だった。顔色は悪く、首筋には生々しい痕があり、体は震えていた。鬼に血を与えられ、稀血となったばかりの子ども。

 封鬼寮で保護する必要があった。

 それだけなら、榊はいつものように処理できたはずだった。

 だが、記録に書かれた名を見た瞬間、手が止まった。


 ――朝霧小夜。


 朝霧は、沙代が嫁いだ先の姓だった。

 榊は顔を上げ、少女を見た。

 震える小さな手。

 涙をこらえる目。

 沙代によく似た眉の形。

 そして、黙って耐えようとする頑固さ。

 胸の奥で、遠い記憶が音を立てて崩れた。

 あの庭先にいた幼い娘だと、すぐに分かった。

 沙代の娘。

 そして、もしかすると――。

 榊は、その先を考えることを自分に禁じた。

 父である確証などなかった。

 沙代から聞いたわけでもない。何か証があるわけでもない。ただ年齢と面差しが、榊に残酷な可能性を突きつけているだけだった。

 仮にそうだったとしても、今さら名乗れるはずがない。

 沙代が知らせなかったということは、知らせたくなかったということだ。

 あの子を、榊家にも、御所にも、封鬼寮にも近づけたくなかったのかもしれない。

 そう考えた瞬間、榊は何も言えなくなった。

 小夜は、封鬼寮の奥に保護された。

 保護という名の、檻だった。

 榊には、それが分かっていた。

 けれど、ほかにどうすればよかったのか。

 稀血となった子どもを、そのまま人里へ帰すことはできない。鬼は彼女の血に惹かれる。御所に知られれば、さらに厄介なことになる。稀血は昔から、御所が欲しがってきた血だった。

 鬼を鎮める血。

 結界を補う血。

 鬼子の血を調和させる可能性のある血。

 御所にとって、稀血は人ではなく、役目を持つ器だった。

 だから榊は、小夜を封鬼寮に置いた。

 自分の目の届く場所に。

 御所から遠ざけるために。

 鬼から守るために。

 そして、自分の感情に名前をつけないために。

 小夜は、最初のころ、ほとんど話さなかった。

 母に会いたいと言ったことはある。

 家に帰りたいと泣いたこともある。

 そのたびに、榊は「今はできない」と告げた。

 それが正しい判断だと信じていた。

 少なくとも、小夜を御所へ渡すよりはましだと思っていた。自由にさせて、鬼に殺されるよりは。


 ――だが、正しさとは何だったのか。


 十年のあいだ、榊は小夜を守ったつもりでいた。

 鬼に狙われぬよう、結界の内側に置いた。御所から稀血の詳細を求められても、可能な限り情報をぼかした。小夜の血の特性について、必要以上に外へ出さないようにした。

 だが同時に、小夜の意思を置き去りにした。

 封鬼寮という檻の中に置き、危険だからと外を遠ざけた。守るためという言葉で、多くのことを決めた。

 そして、白瀬と研究を進めてしまった。

 稀血に頼らず鬼を止める方法を作りたい。

 その願いは、嘘ではなかった。

 小夜一人にすべてを背負わせたくなかった。稀血がいなければ鬼を鎮められないという構造を変えたかった。

 これ以上、妹の――千鶴のような被害者を出さないためにも。

 だが結果として、小夜の血は本人の知らないところで使われ、朱嶺は暴走し、帝都に被害が出た。

 榊は長官の座を退くことになった。

 それで責任が終わるわけではない。

 小夜が静かに告げた言葉を、榊は今も忘れていない。


『私の血のことは、これからは私にも決めさせてください』


 その言葉は、榊の胸に深く残っている。


 ――彼女はもう、ただ守られる子どもではなかった。


 自分の意思を尊重をはっきりと言えるようになった。

 それを嬉しいと思う資格が、自分にあるのかは分からない。

 それでも榊は、嬉しかった。

 沙代の娘が、自分の足で立とうとしている。

 あの少女が、誰かの役目ではなく、自分自身として生きようとしている。

 だからこそ、御所へ渡すわけにはいかなかった。



 雨音が、現在へ榊を引き戻す。

 控えの間には、もう小夜はいない。

 明朝、御所より出仕の命が下った。

 新長官、冷泉清成。

 榊はその名を知っている。

 御所に近い文官であり、若くして封鬼寮の長官に据えられた男。冷静で、有能で、無駄を嫌い、鬼子を強く危険視している。

 あの男が小夜を御所へ上がらせようとしている。


 ――御所は稀血を欲しがっている。


 昔からずっと。

 それを榊は知っていた。

 だから守ってきた。

 守ってきたつもりだった。

 小夜には言えない。

 言えば傷つく。

 言わなくても、いつか傷つける。

 それでも榊は、名乗ることができなかった。

 父である確証も、資格もない。


 ――何より、沙代が何も言わなかったのだから。


 それが答えなのだと、榊は思っている。

 小夜にとっての父は、幼いころに亡くなったあの男なのだろう。沙代と小夜のそばにいた、穏やかそうな男。小夜を抱き上げ、庭先で笑わせていた男。

 それは、榊ではない。

 榊であっていいはずがない。

 それでも、あの人の娘を。

 もしかすると自分の娘かもしれない少女を。


 ――今度こそ、御所へ渡してはならない。


 榊は立ち上がった。

 障子の向こうで、雨に濡れた青葉が揺れている。

 帝都の中心には、御所がある。

 御簾の奥に帝がいて、古い結界があり、稀血を欲しがる者たちがいる。

 そこへ、小夜は向かわなければならない。

 榊は、拳を握った。

 長官の権限はもうない。

 命令を止めることもできない。

 だが、何もできないわけではない。

 御所が何を欲しがっているのか。

 冷泉清成が何を見ているのか。

 榊は、それを知っている。

 雨はまだ降っている。

 梅の木の下で笑っていた沙代の声が、遠い記憶の底から聞こえた気がした。


『榊さまは、笑うのが下手ですね』


 榊は目を閉じる。

 笑えなくてもいい。

 名乗れなくてもいい。

 ただ、今度こそ守らなければならない。


 ――沙代が守ろうとしたものを。


 小夜自身が、自分のものだと言えるようになった血と、彼女の未来を。





 

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