幕間 雨の記憶
雨の夜は、古い記憶を連れてくる。
封鬼寮の本館を打つ雨音を聞きながら、榊恒一はひとり控えの間に残っていた。
つい先ほどまで、そこには朝霧小夜がいた。
濡れた羽織を肩にかけ、疲れた顔をして、それでも背筋だけはまっすぐに伸ばしていた。御所からの命を聞いた瞬間、確かに怯えはした。けれど彼女は、その場で取り乱さなかった。
昔の彼女とは違う。
十年前、封鬼寮に連れてこられたばかりの少女は、もっと小さく、もっと頼りなく見えた。
鬼に襲われ、稀血となり、母のもとから離されて、何も分からないままこの場所へ置かれた少女。
その名を聞いたとき、榊は一瞬、息をすることを忘れた。
――朝霧小夜。
その姓を、榊は知っていた。
そして、その顔を見た瞬間、忘れたはずの女の面影が、脳裏で静かに揺れた。
雨音が強くなる。
榊は、目を閉じた。
遠い記憶の中にも、雨が降っていた。
*
まだ榊が封鬼寮に入る前のことだ。
榊の家は、代々官僚を輩出してきた家だった。
御所や内務の中枢に近く、帝都の秩序を支えることを当然の役目としてきた家である。
家の中に、自由などほとんどなかった。
誰と付き合うか。何を学ぶか。どこへ仕えるか。いずれ誰を妻に迎えるか、まで。
それらは、榊自身が決める前から、すでに大人たちの間で決められていた。
恒一に用意されていたのは、父が望んだ内務省への道だった。
帝大を出て、家の期待通りに官僚となり、御所と帝都を支える側へ進む。
それが、榊家の者として正しい生き方だとされていた。
そんな榊の息苦しい日々の中に、一人だけ、風のように入り込んでくる少女がいた。
名を、沙代といった。
近くに住む娘で、榊とは幼いころからの顔なじみだった。身分が釣り合うわけではない。家同士に深い付き合いがあったわけでもない。ただ、榊が屋敷の裏手にある梅の木のそばへ逃げると、なぜか沙代もそこにいた。
沙代は、榊を榊家の跡取りとして見なかった。
ただの頑固で、無口で、融通の利かない少年として扱った。
「榊さまは、笑うのが下手ですね」
ある日、梅の木の下で沙代はそう言った。
「笑う必要がない」
「ありますよ」
「なぜ」
「笑わないと、怖い人に見えます」
「怖く見えて困ることはない」
「あります。私が話しかけづらいです」
榊が黙ると、沙代は少し得意げに笑った。
「ほら、困るでしょう」
あのころの榊は、何を言い返せばいいのか分からなかった。
沙代は、そういう娘だった。
朗らかで、意地が強く、妙なところで頑固だった。優しいが、ただ柔らかいだけではない。間違っていると思えば、相手が誰であっても黙っていられないところがあった。
榊は、そんな沙代が眩しかった。
彼女といると、自分が家の役目ではなく、ただの一人の人間でいられる気がした。
けれど、そういう時間は長く続かなかった。
榊の家は、沙代との関わりを良く思わなかった。
当然だった。
榊に求められていたのは、家にふさわしい娘を娶り、家にふさわしい道を進み、御所や内務の中枢に近い場所で帝を支えることだった。
幼馴染の娘に心を傾けることではない。
沙代にも、そのことは分かっていたのだろう。
ある夕暮れ、彼女は梅の木の下で言った。
「もう、ここへ来ない方がいいですね」
榊はすぐには答えられなかった。
「なぜだ」
「榊さまの家の方に、叱られました」
「何を言われた」
「……忘れました」
沙代は笑った。
けれど、その笑みはいつもより少し下手だった。
「嘘をつくな」
「なら、聞かないでください」
榊は、何も言えなかった。
沙代は梅の枝を見上げる。
まだ花の季節ではなかった。青い葉が、初夏の風に揺れていた。
「私は、榊さまが嫌なわけではありません」
「……ならば」
「でも、榊さまを困らせたいわけでもありませんから」
その言葉を聞いた瞬間、胸がひどく痛んだ。
困らせる。
そうではない、と言いたかった。
沙代といる時間だけが、自分を息苦しさから救ってくれていたのだと。彼女の笑い声がなければ、屋敷の中で何度も息が詰まりそうになったのだと。
けれど、当時の榊には言えなかった。
言葉にしてしまえば、もう戻れなくなる気がした。
沙代は榊を見て、静かに笑った。
「榊さまは、いつも黙ってしまいますね」
「……すまない」
「謝ってほしいわけではありません」
「では、どうすればいい」
沙代は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
その数日後から、沙代は梅の木の下に来なくなった。
榊は何度か待った。
けれど、沙代は現れなかった。
*
やがて恒一は、帝大を出た。
父は当然のように、内務省への道を用意していた。
だが、恒一はそれを断った。
家の敷いた道をそのまま進めば、いずれ御所に近い場所で、父たちと同じように生きることになる。帝都の秩序を守るという言葉のもとで、何かを選んだことにして、実際には何も選ばずに生きていくことになる。
それが急に、ひどく息苦しいものに思えた。
選んだのは、まだ組織としての形も粗く、隊員の数も少なかった封鬼寮だった。
父は怒った。
親族も呆れた。
内務省へ進むべきだった榊家の跡取りが、鬼を追い、稀血を保護し、帝都の外側にある異形と向き合う新設の組織を選ぶなど、家の者たちには理解できなかったのだろう。
榊自身にも、それが本当に自分の意思だったのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、家の用意した道から外れたかっただけではないのかと。
御所の近くで、誰かの人生を上から見おろす側に立つことが、どうしてもできなかった。
封鬼寮に入ってから、榊は鬼を知った。
稀血を知った。
帝都結界の仕組みを叩き込まれ、御所の命がいかに重いものかも思い知らされた。
封鬼寮は御所直属の実働機関でありながら、御所からは遠い場所にある。
その距離が、榊には必要だった。
御所の命を受けながらも、現場で人の顔を見る場所。
鬼を討つときも、稀血を保護するときも、そこには必ず泣く者がいた。恐れる者がいた。生きたいと願う者がいた。
父の望んだ内務省の道を進んでいたなら、きっと見ないままに済んだものだった。
榊はそれらを見た。
そして、見てしまった以上、知らないふりはできなかった。
それでも、雨の夜になると、時折、梅の木の下にいた沙代を思い出した。
彼女がなぜ突然姿を消したのかを、榊が知ったのは、それから数年後のことだった。
偶然だった。
任務先の郊外で、榊は沙代の名を聞いた。遠縁の家に身を寄せ、そこで結婚した女の名として。
胸が、静かに軋んだ。
――沙代は生きていた。
それだけで十分だと思うべきだった。
けれど榊は、その家の近くまで足を運んでしまった。
別に、会うつもりはなかった。
ただ、遠くから無事を確かめるだけのつもりだった。
夕暮れの庭先に、沙代はいた。
以前より少し大人びていたが、面影は変わらなかった。髪を後ろでまとめ、袖をたすきで留めて、庭先に干した洗濯物を取り込んでいる。
そのそばに、幼い女の子がいた。
三つか、四つほどだっただろうか。
まだ小さな手で、沙代の着物の裾を掴んでいる。何かを話しかけて、沙代に笑いかけていた。
沙代も、笑っていた。
榊が知る、あの笑い方だった。
そこへ、一人の男が家の中から出てきた。
痩せた、穏やかそうな男だった。彼は幼い娘を抱き上げ、沙代に何かを言った。沙代は困ったように笑い、男の肩を軽く叩いた。
幸せそうだった。
榊は、門の外からそれを見ていた。
誰にも見つからないように、雨の気配を含んだ夕暮れの中で、ただ黙って立っていた。
あれが、沙代の選んだ暮らしなのだと思った。
榊の家の中では得られなかったもの。
役目や血筋や御所の命ではなく、ただ一人の女として、母として、生きている姿。
そこに踏み込む資格など、自分にはなかった。
だから榊は、そのまま背を向けた。
名を呼ぶことも、会いに来たと告げることもなかった。
ただ一度だけ、幼い娘の顔が目に焼きついた。
丸い頬。
真っ直ぐな目。
沙代によく似ていると思った。
そして、どこか自分にも似ているような気がした。
だが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。
あの家には、沙代の夫がいた。
幼い娘は、その男に抱かれて笑っていた。
ならば、それがすべてだった。
榊には、何かを問う権利も、確かめる資格もなかった。
その日から、榊は沙代のもとへ近づかなかった。
人づてに、沙代の夫が病で亡くなったらしいと聞いたのは、さらに数年後のことだった。
それでも、榊は行かなかった。
行けば、今度こそ自分の感情を抑えられる自信がなかった。
――慰めたい。
――支えたい。
――守りたい。
そう思うこと自体が、沙代の選んだ人生を踏みにじることのように思えた。
榊は封鬼寮の任に没頭した。
鬼を斬り、結界を張り、稀血を保護し、御所との折衝をこなした。
やがて長官となった。
そのころには、沙代のことを思い出す回数も減っていた。
忘れたわけではない。
ただ、思い出しても何もできないと知っていた。
だから、心の奥に沈めていた。
十年前の、あの夜までは。
*
黒夜の鬼が、一人の少女を連れてきた。
まだ十にも満たないように見える少女だった。顔色は悪く、首筋には生々しい痕があり、体は震えていた。鬼に血を与えられ、稀血となったばかりの子ども。
封鬼寮で保護する必要があった。
それだけなら、榊はいつものように処理できたはずだった。
だが、記録に書かれた名を見た瞬間、手が止まった。
――朝霧小夜。
朝霧は、沙代が嫁いだ先の姓だった。
榊は顔を上げ、少女を見た。
震える小さな手。
涙をこらえる目。
沙代によく似た眉の形。
そして、黙って耐えようとする頑固さ。
胸の奥で、遠い記憶が音を立てて崩れた。
あの庭先にいた幼い娘だと、すぐに分かった。
沙代の娘。
そして、もしかすると――。
榊は、その先を考えることを自分に禁じた。
父である確証などなかった。
沙代から聞いたわけでもない。何か証があるわけでもない。ただ年齢と面差しが、榊に残酷な可能性を突きつけているだけだった。
仮にそうだったとしても、今さら名乗れるはずがない。
沙代が知らせなかったということは、知らせたくなかったということだ。
あの子を、榊家にも、御所にも、封鬼寮にも近づけたくなかったのかもしれない。
そう考えた瞬間、榊は何も言えなくなった。
小夜は、封鬼寮の奥に保護された。
保護という名の、檻だった。
榊には、それが分かっていた。
けれど、ほかにどうすればよかったのか。
稀血となった子どもを、そのまま人里へ帰すことはできない。鬼は彼女の血に惹かれる。御所に知られれば、さらに厄介なことになる。稀血は昔から、御所が欲しがってきた血だった。
鬼を鎮める血。
結界を補う血。
鬼子の血を調和させる可能性のある血。
御所にとって、稀血は人ではなく、役目を持つ器だった。
だから榊は、小夜を封鬼寮に置いた。
自分の目の届く場所に。
御所から遠ざけるために。
鬼から守るために。
そして、自分の感情に名前をつけないために。
小夜は、最初のころ、ほとんど話さなかった。
母に会いたいと言ったことはある。
家に帰りたいと泣いたこともある。
そのたびに、榊は「今はできない」と告げた。
それが正しい判断だと信じていた。
少なくとも、小夜を御所へ渡すよりはましだと思っていた。自由にさせて、鬼に殺されるよりは。
――だが、正しさとは何だったのか。
十年のあいだ、榊は小夜を守ったつもりでいた。
鬼に狙われぬよう、結界の内側に置いた。御所から稀血の詳細を求められても、可能な限り情報をぼかした。小夜の血の特性について、必要以上に外へ出さないようにした。
だが同時に、小夜の意思を置き去りにした。
封鬼寮という檻の中に置き、危険だからと外を遠ざけた。守るためという言葉で、多くのことを決めた。
そして、白瀬と研究を進めてしまった。
稀血に頼らず鬼を止める方法を作りたい。
その願いは、嘘ではなかった。
小夜一人にすべてを背負わせたくなかった。稀血がいなければ鬼を鎮められないという構造を変えたかった。
これ以上、妹の――千鶴のような被害者を出さないためにも。
だが結果として、小夜の血は本人の知らないところで使われ、朱嶺は暴走し、帝都に被害が出た。
榊は長官の座を退くことになった。
それで責任が終わるわけではない。
小夜が静かに告げた言葉を、榊は今も忘れていない。
『私の血のことは、これからは私にも決めさせてください』
その言葉は、榊の胸に深く残っている。
――彼女はもう、ただ守られる子どもではなかった。
自分の意思を尊重をはっきりと言えるようになった。
それを嬉しいと思う資格が、自分にあるのかは分からない。
それでも榊は、嬉しかった。
沙代の娘が、自分の足で立とうとしている。
あの少女が、誰かの役目ではなく、自分自身として生きようとしている。
だからこそ、御所へ渡すわけにはいかなかった。
*
雨音が、現在へ榊を引き戻す。
控えの間には、もう小夜はいない。
明朝、御所より出仕の命が下った。
新長官、冷泉清成。
榊はその名を知っている。
御所に近い文官であり、若くして封鬼寮の長官に据えられた男。冷静で、有能で、無駄を嫌い、鬼子を強く危険視している。
あの男が小夜を御所へ上がらせようとしている。
――御所は稀血を欲しがっている。
昔からずっと。
それを榊は知っていた。
だから守ってきた。
守ってきたつもりだった。
小夜には言えない。
言えば傷つく。
言わなくても、いつか傷つける。
それでも榊は、名乗ることができなかった。
父である確証も、資格もない。
――何より、沙代が何も言わなかったのだから。
それが答えなのだと、榊は思っている。
小夜にとっての父は、幼いころに亡くなったあの男なのだろう。沙代と小夜のそばにいた、穏やかそうな男。小夜を抱き上げ、庭先で笑わせていた男。
それは、榊ではない。
榊であっていいはずがない。
それでも、あの人の娘を。
もしかすると自分の娘かもしれない少女を。
――今度こそ、御所へ渡してはならない。
榊は立ち上がった。
障子の向こうで、雨に濡れた青葉が揺れている。
帝都の中心には、御所がある。
御簾の奥に帝がいて、古い結界があり、稀血を欲しがる者たちがいる。
そこへ、小夜は向かわなければならない。
榊は、拳を握った。
長官の権限はもうない。
命令を止めることもできない。
だが、何もできないわけではない。
御所が何を欲しがっているのか。
冷泉清成が何を見ているのか。
榊は、それを知っている。
雨はまだ降っている。
梅の木の下で笑っていた沙代の声が、遠い記憶の底から聞こえた気がした。
『榊さまは、笑うのが下手ですね』
榊は目を閉じる。
笑えなくてもいい。
名乗れなくてもいい。
ただ、今度こそ守らなければならない。
――沙代が守ろうとしたものを。
小夜自身が、自分のものだと言えるようになった血と、彼女の未来を。




