第三話 御所の影
その時、廊下の向こうから低い声がした。
「朝霧」
小夜は振り向く。
榊が立っていた。
長官職を辞して顧問となった今、彼はかつてのような現場の権限を持っていない。けれど背筋は変わらず伸び、濡れた外套を肩にかけた姿には、封鬼寮の長であった頃の名残があった。
以前より、少し痩せたように見える。
「榊顧問」
「少し、話せるか」
伊吹の目が、すっと細くなった。
「ええ〜、今?」
「今だ」
「小夜ちゃん、疲れてるんだけど。明日じゃダメなの?」
「朝霧が帝に呼ばれた。御所に来るようにと」
榊の言葉に、伊吹の軽口が止まる。
小夜も息を呑んだ。
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
帝。御所。たった今、春日惣一の唇が呟いた言葉と、同じ場所だった。
榊は二人を見て、声を低くした。
「ならば、今伝えておいた方がいいだろう」
場所を移したのは、本館の奥にある小さな控えの間だった。
外では雨が降り続いている。障子の向こうに濡れた庭の影があり、軒先から落ちる雫の音が絶えず聞こえていた。
榊は座ると、しばらく押し黙っていた。
小夜も向かいに座る。伊吹は当然のように小夜の隣に腰を下ろした。
「先ほどの少年が、御所の名を口にしたそうだな」
「はい」
榊の問いに、小夜は頷く。
「帝が呼んでいる、と言っていました。御所へ戻らなければならないとも」
「戻る、か……」
榊は苦い顔をした。
「やはり、御所が関わっている可能性がある」
「……御所が、鬼子を暴走させたということですか」
「断定はできん。ただ、御所には鬼の血に干渉する祭具がある。帝都結界を保つためのものだ」
「白瀬先生も、そう言っていました」
「本来は、鬼を退けるためのものだ。だが鬼子にどう響くかは分からない。ましてや、誰かが悪意を持って使えば」
榊はそこで言葉を切った。
雨音が、妙にはっきり聞こえる。
小夜は膝の上で手を握った。
その手の中に、まだ春日惣一の体温の記憶が残っている気がした。気を失う寸前、震えながら帝の名を呟いた少年。母に頼まれた砂糖を握りしめていた少年。
あの少年を、こんなふうにしたのが御所だとしたら。
「御所は、なぜそんなものを……」
「帝都を守るためだ」
榊の答えは短かった。
「鬼から人を守るため。結界を張り、鬼の侵入を防ぎ、帝都の中心を清浄に保つため。そういう名目で、御所は古くから鬼の血に関わってきた」
「鬼の血に……」
「そして、稀血にもだ」
小夜は顔を上げる。
榊の目は、小夜をまっすぐに見ていた。
「……御所は、昔から稀血を欲しがっている」
その言葉は、重かった。
小夜の背筋に、冷たいものが落ちる。
「……私を、ですか?」
「君だけではない。稀血は鬼を鎮める。鬼の暴走を抑え、結界を補い、鬼子の血を調和させる可能性がある。御所にとっては、喉から手が出るほど欲しいものだ」
「……そんな」
小夜の指先が、知らないうちに冷たくなっていた。
スカートを握る手にも、力が入る。
欲しがられている、という言葉が、生々しい。物のように。鬼の鎮静剤のように。
(……お母さん)
ふと、母の顔が浮かんだ。
まだ会えていない母。春に書いた手紙の返事が届いて、いつか会いに行こうと約束した母。
御所が小夜を欲しがるなら、母は巻き込まれないだろうか。
春日惣一の母親と、同じように。
息が浅くなる。
その小夜の様子に気づいたように、隣で伊吹がそっと指先を絡めてきた。
榊は目を伏せる。
「君を封鬼寮で保護したのは、危険から守るためだった」
小夜は黙って聞いた。
「だが、それだけではない。御所へ渡さないためでもあった」
「御所へ……」
「これまでも、御所から話は来ていた」
「話が……?」
「朝霧の報告書を出せ。検分を受けさせろ。一度、御所へ上がらせろ。形式はさまざまだったが、目的は同じだ。稀血を、御所の目の届く場所へ置きたかったのだろう」
「……それを、榊顧問が断っていたのですか」
「……断ったというより、先送りにしていた。御所は封鬼寮より上の組織だからな。私の一存で退けることはできない。――だが、君の血は不安定だ。移送すれば鬼を誘引する。伊吹の刻印との干渉も未知数だ。封鬼寮の結界内で経過を見るべきだ。そういう理由をつけてな」
「……私の知らないところで」
声が、わずかに震えた。
知らなかった。
九年間、何も知らされないまま、ただ守られている気でいた。
その九年の裏に、こんな駆け引きがあったとは。
「すまない」
榊は苦く息を吐いた。
「だが今回は違う。遠回しなやり方ではなく、帝命として来た。私はもう長官ではない。止める権限がない」
少し間を置いて、榊は躊躇いがちに続けた。
「……私は、保護という名で君を閉じ込めた。君の意思を聞かず、封鬼寮の中に置いた。私がしたことは、決して正しくはない。だが、御所に渡すよりはましだと思っていた」
小夜は、すぐには返事ができなかった。
榊への怒りがある。
自分の血を知らないところで使われたこと。封鬼寮の中で、何も知らされないまま保護されていたこと。守るためという言葉で、多くのことを制限されてきたこと。
それでも今、榊の言葉を聞いていると、別の感情も生まれてしまう。
自分は、知らないところで、ずっと大切にされていたのかもしれない。
その事実は、感謝だけでは受け止められなかった。
怒りも、戸惑いも、少しの安堵も、全部が混じってしまう。
「……榊顧問は、私にそれを教えないまま守っていたんですね」
「言えば、君は余計に恐れただろう」
「それでも、知りたかったです」
「……そうだな」
榊は静かに頷いた。
「今なら、そう思う」
小夜は何も言えなかった。
その沈黙を破ったのは、伊吹だった。
「ねえ、榊」
伊吹が、榊を見て薄く目を細めた。
「榊って、小夜ちゃんを娘みたいに思ってない?」
「……馬鹿を言うな」
榊の返事は、わずかに遅れた。
本当に、わずかな間だった。
けれど伊吹は、その沈黙を見逃さなかったらしい。
「ふうん」
「何だ」
「別に」
伊吹は目を細めたまま、ぽつりと続けた。
「ただ、御所に渡したくなかったっていうより、誰にも渡したくなかったみたいな顔するなと思って」
「伊吹」
小夜は少し咎めるように名を呼んだ。
榊が小夜を守ろうとしてくれていたことは、今ようやく聞いたばかりだ。それを伊吹の軽口で乱されたくない気持ちがあった。
けれど榊は怒らなかった。
ただ、雨の音を聞くように一度目を伏せる。
「君に、そう見えたのなら、私の未熟さゆえだろう」
その声は静かだった。
小夜の呼吸が、わずかに乱れた。
伊吹は笑みを薄め、榊を見ている。
いつもの軽さがない。
何かを探るような、静かな視線だった。
榊は話を戻すように、低く続けた。
「御所が君を欲しがっているなら、いつか正式な命で来るとは思っていた」
「……そうだったんですね」
「特に今回の件のような、鬼子と稀血の関係が表に出るようなことがあれば」
伊吹の指が、小夜の指の隙間に絡みつく。
「嫌な予想だね」
「御所は帝都結界が弱まっていることを気にしている。鬼子の暴走が続けば、稀血を御所の管理下に置こうとする者が出てもおかしくない」
伊吹の口元が、ゆっくりと持ち上がる。
ぞっとするほど綺麗な、何もかも壊しかねない目だった。
「管理、ねえ」
小夜は思わず伊吹の袖を掴む。
伊吹が小夜を見た。
「――大丈夫。今は何もしないよ」
「今は、ですか」
「小夜ちゃんが止めたから」
榊はその様子を見て、わずかに眉を寄せる。
「伊吹」
「なに」
「御所は、封鬼寮とは違う。君の力だけで押し通せる相手ではない」
「押し通す気はないよ」
「本当か」
「小夜ちゃんが嫌がるなら、できるだけ」
「できるだけ、か」
榊は重く息を吐いた。
「君も厄介になったな」
「前からだよ」
「……前よりだ」
伊吹は楽しそうに目を細めた。
「伊吹」
「分かってる」
「……本当に?」
「御所ごと斬ったりしない」
「今、選択肢にありましたよね」
「少しだけね」
「少しでも駄目です」
「はいはい」
軽い返事だった。
けれど伊吹の指は、小夜の指を離さなかった。
その時、廊下の向こうが騒がしくなった。
誰かが急ぎ足で近づいてくる。
控えの間の前で足音が止まり、隊士の声がした。
「榊前長官、朝霧小夜殿はおいででしょうか」
榊が顔を上げる。
「いる。何事だ」
「御所より、使者が参っております」
空気が変わった。
小夜の背筋に、冷たいものが走る。
(――もう?)
雨音が、ふいに遠くなった気がした。
榊は立ち上がり、扉を開ける。
廊下には封鬼寮の隊士が控えていた。その顔は強張っている。
「用件は」
隊士は一度だけ小夜を見た。
それから、深く頭を下げる。
「御所より、朝霧小夜殿を明日にお迎えに来ると。もう榊顧問の返答は待てないからと」
小夜は息を止めた。
(やっぱり……)
御所。
少年が最後に、戻らなければならないと言った場所。
帝が呼んでいると、震えながら告げた場所。
そこから今、小夜を呼ぶ帝命が届いた。
手が、自然とこぶしを作っていた。
もう、断れない場所まで来ている。
封鬼寮の結界の中で、ただ守られていれば良かった日々は、終わった。
隣で、伊吹の指がそっと絡め直された。
その指先は、笑ってしまうほど優しかった。
けれど、小夜を離す気など少しもない強さで、そこにあった。
隊士の表情は険しい。
「そして……新長官、冷泉清成様よりの伝達です。帝命に従い、朝霧小夜殿を明朝、宮城の奥へ上がらせるようにと」
「冷泉……」
榊の声が低くなる。
その声に、それまでとは違う色があった。
小夜はその名を知らなかった。
けれど榊の反応で、ただの新長官ではないと察した。
「冷泉清成様は、伝達された使者にも、本日中に返答を持ち帰るようにと厳命なさったとのことです」
隊士は言いにくそうに続けた。
「就任からまだ三日です。ですが、すでに本館の文書のうち、稀血関連の記録はすべて新長官の手元に渡っております。我々現場の者にも、書類の確認すら通らなくなりました」
「……仕事が早いどころではないな」
榊が、低く呟いた。
その横顔は、苦い。
「冷泉家か」
ぽつりとした一言だった。
その響きに、伊吹がわずかに眉を上げる。
「知ってる人?」
「公家の流れだ。御所と帝都の橋渡しを担う家柄でな。表向きは官吏として封鬼寮に入ったが――」
榊はそこで言葉を切る。
「実質、御所の手だ」
伊吹が小さく笑う。
「あ〜、なるほど。新しい長官様、ずいぶん仕事が早いんだね」
その笑い声に、空気が冷える。
小夜は伊吹の指を握り返した。
雨はまだ降っている。
御所へ。
少年のうわ言が、耳によみがえる。
――りん。
あの鈴の音が、また遠くで鳴った気がした。
「朝霧さん」
白瀬の声が、廊下の先から聞こえた。
小夜が振り返ると、白瀬がこちらへ歩いてくるところだった。診察を終えたばかりなのか、手には濡れた布と記録紙を持っている。
「今は休んでください。明朝、御所へ向かうならなおさらです」
「でも、春日さんは」
「春日惣一のことはこちらで見ます。意識が戻れば、すぐに知らせますから」
白瀬はそう言い、伊吹を見た。
「あなたも、朝霧さんを部屋へ」
「言われなくても」
「余計なことはしないでください」
「それは保証できないかな〜」
「伊吹」
小夜が名を呼ぶと、伊吹は肩をすくめた。
「分かってる。今日はちゃんと寝かせる」
「今日だけですか」
「先のことは約束しすぎない主義だから」
小夜は少しだけ呆れた。
けれど、体が疲れているのも確かだった。
濡れた服。雨の匂い。鈴の音。
春日惣一という名の少年。
御所からの命。
冷泉清成という、まだ顔の見えない新長官。
あまりに多くのことが、一度に押し寄せている。
榊が低く言った。
「朝霧。今は白瀬の言う通り休みなさい」
「……はい」
小夜は頷いた。
立ち上がろうとして、足が少しだけよろけた。
伊吹がすぐに小夜の腰を支える。
「ほら。やっぱり疲れてる」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない子は、いつもそう言うって」
伊吹は軽口を叩きながら、小夜の歩幅に合わせて隣を歩く。
控えの間を出る。
廊下を進む途中で、一度だけ振り返った。
榊はまだその場に立っていた。
その姿は、前長官として帝命を静かに受け止めているようにも見えた。
けれど小夜には、それだけではない何かを抱えているようにも見えた。
雨のせいかもしれない。
洋灯の灯りが揺れたせいかもしれない。
榊の横顔が、ひどく遠く見えた。
「小夜ちゃん」
伊吹が呼ぶ。
「行こ」
「はい」
小夜は前を向いた。
*
小夜の足音が遠ざかっていく。
廊下にいた隊士たちも散っていった。
控えの間の前には、榊と白瀬だけが残された。
雨音だけが、長く続いている。
榊は閉じられた障子を見つめていた。
先ほどまで小夜がいた場所だ。
その横顔には、前長官としての険しさとは違う、どこか古い傷を押さえるような色があった。
「榊顧問」
「何だ」
白瀬は、何でもないことのふりをして、淡々と言う。
「……朝霧さんに伝えないんですか」
榊は答えなかった。
「……今さらだ」
それ以上の言葉が続かない。
雨が降り続いている。
障子の向こうで濡れた青葉が揺れ、夜の封鬼寮に、遠い鈴の残響だけがいつまでも残っているようだった。




