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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第二部 稀血の娘と、白い檻の帝

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第二話 鬼子

 雨は、夜になっても止まなかった。

 封鬼寮の屋根を、細かな雨粒が叩いている。庭の青葉は夜の闇の中で濡れ、石灯籠の足元には小さな水たまりができていた。

 小夜が本館へ戻ったころには、白い隊服の裾も、ブーツの革も雨を吸って重くなっていた。足先に残った冷えが、歩くたびにじんと響く。

 羽織も雨を含み、肩のあたりが重い。けれど、寒さよりも耳の奥に残る鈴の音の方が、ずっと気味悪かった。


 ――りん。


 耳で聞こえた音ではない。

 骨の奥を、細い糸で引かれるような響きだった。


(……帝が、呼んでいる)


 気を失う直前、少年はそう言った。

 それから、御所へ戻らなければならないとも。


「小夜ちゃん」


 隣を歩いていた伊吹が、ふいに声をかけた。

 小夜は顔を上げる。

 廊下の洋灯が、伊吹の横顔を淡く照らしていた。いつものように軽く目を細めているのに、その目にはまだ現場で見せた冷たさが残っている。


「濡れたままだと、風邪引くよ」


 そう言って、伊吹は自分の羽織を小夜の肩にかけた。

 雨と血と、かすかな鬼の甘い匂いがする。

 指先は冷たいのに、奥に熱を持つ、いつもの鬼の体温。

 その奇妙な温度が、雨に冷えた肩へじわりと移っていく。


「……ありがとうございます」


「うん。素直で可愛い」


「褒め方が軽いです」


「軽く言わないと、小夜ちゃんが困るでしょ」


「……いつも困っています」


「ごめんごめん。今のは、少し調子に乗った」


 伊吹はそう言いながら、あまり反省しているようには見えなかった。


「でも、小夜ちゃんが俺の言葉で困った顔するの、嫌いじゃないんだよね」


 いつもの軽口だった。

 けれど、その指先は小夜の肩にかかった羽織の端を、きちんと合わせている。

 小夜は、その手つきの丁寧さに気づきながらも、すぐに意識が引き戻された。


 ――りん。


 また、聞こえた気がした。

 もう停留所ではないのに。封鬼寮の結界の中なのに。

 その音は耳ではなく、首筋の刻印を通して伝わってくる。

 小夜は思わず、首元に手を当てた。


「伊吹」


「ん?」


「あの鈴の音、まだ残っています」


 伊吹は、ふいに目元の色を薄くした。


「……俺にも、ね」


「伊吹にも、ですか」


「うん」


 伊吹は廊下の奥へ視線を流した。


「俺には、命令には聞こえない。呼ばれてる感じもしない」


「では、なんですか?」


「触られる感じ」


「触られる……?」


「骨の内側を、細い爪で引っ掻かれるみたいな嫌な音」


 伊吹は、薄く目元を緩めた。

 けれど、その声は少し低かった。


「鬼の血に、勝手に指を入れてくる感じがする」


 小夜は首元に手を当てた。

 刻印は、今は少し落ち着いている。

 けれど現場で鈴の音を聞いた時、確かに熱を持った。


「私の刻印も、反応しました」


「うん。分かった」


「伊吹にも?」


「分かるよ。俺の印だもん」


 伊吹の目が、甘く細められる。


「小夜ちゃんの血が揺れた。俺の鬼気も、少し引っ張られた」


「痛いのですか」


「痛いってほどじゃないよ。ただ、すごく腹が立つ」


「腹が立つ?」


「小夜ちゃんにつけた俺の印に、知らないものが触ったから」


「……言い方」


「だって、そう感じたんだよ」


 伊吹の口元は笑みの形をしていた。

 けれど、目は冷えたままだった。


「小夜ちゃんの中まで、勝手に触ってくる感じがする」


 小夜は、首元を押さえる指に力を込めた。

 あの音は、少年だけではなく、小夜の中にも届いた。

 少年の鬼の血が揺さぶられ、その恐怖と飢えが小夜へ流れ込んだ。

 そして、伊吹の刻印までもが熱を持った。

 まるで、見知らぬ誰かが、首筋にある結び目に触れたように。

 そのことが、ひどく気味悪かった。

 次の瞬間、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。


「朝霧さん」


 白瀬透子が姿を見せた。

 白い医官服の裾は濡れていない。急いでいるはずなのに、髪も襟元も乱れておらず、いつも通り淡々としている。ただ、手に持った記録紙だけが、ほんのわずかに湿気を吸って反っていた。


「診察室へ。あなたにも確認したいことがあります」


「少年は……?」


「生きています。今のところは」


 その言い方に、呼吸が少しだけ浅くなった。

 白瀬は表情を変えないまま続けた。


「鬼化は完全には解けていません。意識も戻っていない。ですが、拘束結界は効いています」


「よかった……」


「よかったかどうかは、まだ分かりません」


 白瀬の言葉は冷静だった。

 けれど、以前の小夜なら、その冷静さに少し傷ついていたかもしれない。

 今は分かる。

 白瀬は、少年を物として見ているわけではない。感情を挟まないようにしているだけだ。そうしなければ、体を診ることも、命を繋ぐこともできないのだろう。

 小夜は頷いた。


「行きます」


「俺も行く」


 伊吹が当たり前のように言った。

 白瀬は伊吹を見る。


「あなたは廊下で待っていてください。診察室の中に鬼が入ると、反応が強く出る可能性があります」


「え〜、小夜ちゃんは入るんでしょ」


「朝霧さんは稀血です。確認が必要です」


「俺は小夜ちゃんの鬼なんだけど」


「医療上の必要性はありません」


 白瀬は即答した。

 伊吹は楽しそうに目を細める。


「白瀬先生って、俺に冷たいよね」


「あなたが診察の邪魔をするからです」


「ひどいなぁ」


「事実です」


 そのやり取りに、小夜は少しだけ肩の力が抜けた。

 けれど伊吹は、小夜の隣を離れない。


「伊吹」


「廊下までは行く」


「……はい」


 小夜が頷くと、伊吹は満足したように歩き出した。

 診察室の前には、結界札が何枚も貼られていた。

 扉の周囲には薄い光が巡り、雨音とは違う低い響きが床に伝わっている。封鬼寮の隊士が二人、扉の左右に立っていた。どちらも顔が強張っている。

 小夜が近づくと、扉の向こうからかすかな呻き声が聞こえた。

 少年の声だった。

 小夜は首筋を押さえる。

 刻印が、熱い。

 伊吹が小夜の顔を覗き込んだ。


「無理ならやめていいんじゃない」


「――行きます」


「即答だね」


「……確認しないと」


「小夜ちゃんの、そういう優しいところ、気に食わないなあ」


 小夜は伊吹を見上げた。


「気に食わないんですか」


「うん。俺以外にも優しいから」


「伊吹」


「分かってる。今のはただの嫉妬」


 伊吹は、少しだけ声を落とした。


「俺が待ってるの忘れないで」


「忘れません」


「じゃあ、早く戻ってきて」


 伊吹は一度だけ小夜の肩を軽く叩き、扉の脇へ下がった。

 白瀬が扉を開ける。



 中に入った瞬間、薬草と消毒の匂いに、血の匂いが重なった。

 少年は寝台の上に横たえられていた。

 両手首と足首には封印具がつけられ、細い光の鎖が寝台の四隅に繋がっている。学生服は切り開かれ、肩口には伊吹の刀の鞘で打たれた打撲の痕が残っていた。

 牙はまだ戻っていない。

 爪も黒いままだった。

 けれど、先ほどのような獣じみた気配は薄れている。顔色は悪く、瞼は震え、夢の中で何かから逃げているようだった。

 寝台のそばの小卓には、少年の持ち物が並べられていた。

 濡れた学生帽。泥のついた鞄。半分ほど雨に滲んだ紙包み。

 白瀬はその紙包みに視線を落とし、記録紙を一枚めくった。

 しばらく、沈黙が続く。

 白瀬は記録紙の上に視線を落としたまま、ゆっくりと告げた。


「身元が、分かりました」


 小夜は息を呑んだ。


「学生証がありました。春日惣一。十六歳」


 春日惣一。

 その名が、診察室の薄暗い空気の中で、不思議なほど重く響いた。


「神田の活版所で、見習いをしているそうです」


「活版所……」


 小夜は寝台の少年を見下ろした。

 昨日まで、文字の並んだ活字を運んでいたのかもしれない少年。

 その指先が、今は黒い爪を伸ばしている。


「母親と二人暮らしのようです」


 白瀬の声が、わずかに低くなる。


「鞄の中に、買う予定のものを書いた紙が入っていました。帰りに砂糖を買ってくるよう頼まれていたようです」


「砂糖……」


 小夜は小卓の上の紙包みを見た。

 雨に濡れた包みの端から、白い粒が少しだけこぼれている。

 それはあまりにも普通のものだった。

 鬼でも、化け物でも、討伐対象でもない。

 母に頼まれて砂糖を買って帰る途中だった少年。

 その普通さが、かえって小夜の胸を詰まらせた。


「ご家族は、彼が鬼子だと……」


「知らなかった可能性が高いでしょう」


「本人も?」


「おそらく」


 白瀬は少年の手首に浮かぶ赤黒い筋を指先で示した。


「普段は人間として生活していた。けれど、何らかの刺激で眠っていた鬼の血が起こされた」


「刺激で……?」


「あなたが聞いたという鈴の音です」


 小夜の背筋が冷える。


「白瀬先生も、あの音を?」


「私は聞いていません。周囲にいた隊士にも確認しましたが、聞こえた者はいませんでした。聞いたのは、あなたと彼だけです」


「私と、彼だけ……」


「正確には、あなたは彼を通して感じたのでしょう。鬼の血に作用した音なら、稀血であるあなたが共鳴しても不思議ではありません」


 小夜は少年を見下ろした。

 胸の奥に、少年の感情が流れ込んでくる。


 怖い、という叫び。

 帰りたい、という願い。

 でも、どこへ、という迷い。

 人間でいたい、という縋り。

 食べたくない、食べたい、という矛盾。


 その全部が、小夜の中で激しく揺れた。

 小夜は唇を引き結ぶ。


「……まだ、怖がっています」


「あなたに伝わるのですね」


「はい」


「飢えは?」


「あります。でも、飢えだけではありません。自分が何になったのか分からなくて、混乱しています」


 白瀬は記録紙に筆を走らせた。


「やはり、完全な鬼ではありませんね」


「鬼ではないのですか」


「人の体に、鬼の血が混じっています。古い呼び名では鬼子。御所の記録では、鬼胤と書かれることもあります」


「鬼胤……」


「きいん、と読みます。鬼の胤を宿す者。御所や古い記録では、そのように分類されることがあります」


 ――鬼子。


 その言葉は、聞いたことがないわけではなかった。

 けれど、小夜にとっては遠いものだった。人間と鬼の間に生まれた子。あるいは、どこかの血筋に鬼の血が混じり、何代も後に発現した者。そんな曖昧な知識でしかない。

 けれど、目の前の少年は、遠い存在ではなかった。


 春日惣一。

 十六歳。

 神田の活版所の見習い。

 母に頼まれて、砂糖を買って帰る途中だった少年。


 その名前と暮らしを知った途端、「鬼子」という言葉だけでは、この人を括れない気がした。

 少年の唇がかすかに動く。


「……み、かど……」


 小夜は身を強張らせた。

 白瀬も筆を止める。


「いま、何と?」


「帝が……呼ぶ……戻らなきゃ……」


 少年の声は、雨音に紛れそうなほど小さかった。

 けれど、その場にいた二人には十分だった。

 小夜の首筋の刻印が、また熱を帯びる。

 廊下の伊吹の視線が、扉越しに自分を見ているのが感じられた。


「……御所へ、ですか?」


 少年は答えない。

 ただ、苦しそうに眉を寄せる。

 白瀬はしばらく少年を見つめていたが、やがて静かに彼の体に布を掛け直した。


「鎮静剤を打ちます。今夜中に意識が戻る可能性は低いでしょう」


「……春日さんは、助かりますか?」


「……人間に戻れるかどうかは分かりません」


 白瀬の答えに、小夜は息を止めた。


「鬼子の暴走は、個体差が大きいのです。人としての意識が残る者もいれば、一度鬼の血に呑まれると戻らない者もいます」


「そんな……」


「ただし、彼はまだ言葉を残している。完全に呑まれたわけではないでしょう」


 白瀬は小夜を見た。


「あなたが近づいた時、彼の反応は強くなりました。稀血に惹かれたのです」


「はい」


「危険です」


「……分かっています」


「分かっているなら、無闇に近づかないでください」


 白瀬の声は淡々としていた。

 だが、その中にある心配を、小夜は少しだけ感じ取った。


「それでも、私は確認したいです」


「何を」


「彼が、本当に人を襲いたかったのか。それとも、何かにそうさせられたのか」


 白瀬は黙った。

 しばらくして、短く息を吐く。


「あなたは、前より判断が難しくなりましたね」


「え?」


「自分の意思で危険に近づくようになった」


 それは褒め言葉ではなかった。

 けれど責める言葉でもなかった。

 小夜は少し困って、それから小さく頭を下げる。


「……気をつけます」


「気をつける人は、そもそも近づかないのですが」


 白瀬はそう言いながらも、記録紙を一枚小夜に見せた。


「彼の体には、注射痕も薬物反応も見当たりません」


 小夜は顔を上げた。


 ――注射痕。


 その言葉で、目の前が暗くなる。

 あのときの事件を思い出す。朱嶺の暴走。稀血の研究。自分の知らないところで使われていた血。

 白瀬も同じことを思い出しているのだろう。

 彼女の表情は変わらなかったが、筆を持つ指にほんの少しだけ力が入っていた。


「今回の暴走は、血や薬によるものではないと考えています」


「では、あの鈴の音が……?」


「ええ。外から鬼の血だけを揺さぶった可能性があります。音、あるいは結界術の一種でしょう」


「そんなことができるのですか?」


「御所の祭具には、鬼の血に干渉するものがあると記録されています。……もしかしたら、それかもしれません」


 御所――その言葉が出た瞬間、診察室の空気が重くなった気がした。


「帝都結界を整えるための祭具です。本来は鬼を退けるためのもの。ですが、鬼子には別の作用を及ぼす可能性があります」


「……なぜ、鬼子にだけ?」


「鬼子は人の血と鬼の血の両方を持つからです。人の血は帝都結界に従い、鬼の血はそれに反発する。その矛盾が強く出れば、体も心も耐えきれない」


 白瀬の声は低くなる。


「今回、誰かがその矛盾を意図的に突いたのだとしたら、かなり悪質ですね」


 小夜は少年を見る。

 昨日まで人間として暮らしていた少年。自分が何者なのかも知らないまま、突然鬼の血を呼び起こされた少年。

 その恐怖を思うと、呼吸が浅くなった。


「……白瀬先生」


「何ですか」


「――鬼子は、皆、危険なのですか」


 白瀬はすぐには答えなかった。

 雨音が、窓の外で細かく続いている。


「……危険性はあります」


 やがて、白瀬は言った。


「血の匂いに反応する者もいます。怒りや恐怖で鬼の血が強く出る者もいます。人を喰いたい衝動を持つ者もいます」


 小夜の息が詰まる。


「けれど、全員が人を喰うわけではありません」


 白瀬は記録紙を閉じた。


「人として暮らし、人として老いる者もいます。逆に、鬼の血に体が耐えられず、若くして壊れる者もいる。鬼子の寿命や性質は、ひどく不安定です」


「不安定……」


「だからこそ恐れられ、隠されてきました」


 白瀬の言葉は静かだった。

 小夜は少年の顔を見つめる。

 まだ幼さの残る顔だった。牙さえなければ、街中で見かけてもすぐに忘れてしまうほど普通の少年に見えたかもしれない。

 けれど、もう忘れられない。


 春日惣一。


 その名を知ってしまったからだ。


「……春日さんのお母様には、知らせるのですか」


「状態が安定してからです」


 白瀬は答えた。


「今の姿をそのまま見せれば、母親も本人も傷つく可能性があります。ですが、知らせないままにはできません」


「……はい」


「彼は鬼子ですが、身元不明の討伐対象ではありません。春日惣一という名のある患者です」


 白瀬の声は、淡々としていた。

 けれど小夜は、その言葉に小さく息を呑んだ。

 白瀬は、彼を「患者」と呼んだ。

 鬼子ではなく、実験対象でもなく、ただ一人の患者として。


「……血液検査は、するのですか?」


「本人の同意が取れてからです」


 白瀬はすぐに答えた。


「今は最低限の処置と、命を繋ぐために必要な確認だけです。意識のない者から、必要以上に血を取ることはしません」


 小夜は白瀬を見た。

 白瀬の横顔は、いつも通り冷静だった。

 けれど、放つ言葉は以前とは違う。

 彼女も少しずつ変わっている。

 そう思った。


「ありがとうございます」


 小夜が言うと、白瀬はわずかに眉を動かした。


「礼を言われることではありません」


「でも、ありがとうございます」


「……あなたも、相変わらず厄介です」


 白瀬はそう言って、記録紙へ視線を戻した。



 診察室を出ると、伊吹が壁にもたれて待っていた。

 待っていた、というより、扉を見張っていたと言った方が近いかもしれない。腕を組み、目を閉じているのに、小夜が出た瞬間にはもう顔を上げている。


「終わった?」


「はい」


「顔色悪いね」


「……少し、考えることが増えました」


「増やさなくていいのに」


 伊吹は小夜へ手を伸ばしかけた。

 けれど白瀬の視線に気づき、途中でその手を止める。


「白瀬先生、もう連れて行っていい?」


「朝霧さんに確認することは終わりました。ですが、今日は休ませてあげてください」


「それは俺も賛成」


「……あなたが言うと信用しづらいのですが」


「俺、今日はちゃんと我慢してるよ」


「その発言がすでに不穏です」


 白瀬はそう言って、診察室へ戻っていった。

 扉が閉まる。

 廊下には、小夜と伊吹だけが残された。

 雨音が遠く聞こえる。

 伊吹は小夜の前に立ち、少し屈んで顔を覗き込んだ。


「で、あの子は?」


「鬼子だそうです」


「うん」


「でも、名前があります」


 伊吹は瞬きをした。


「名前?」


「春日惣一さん。十六歳で、活版所の見習いだそうです。お母様と二人暮らしで、昨日は砂糖を買って帰る途中だったみたいです」


 小夜は胸元を押さえた。


「本人も、ご家族も、鬼子だと知らなかったかもしれないと」


「ふぅん」


 伊吹は軽く頷いた。


「それで、小夜ちゃんはますます助けたくなったんだ」


「……はい」


 伊吹は小さくため息をついた。

 それから、小夜の濡れた髪を一房、指先で払う。


「小夜ちゃん、ほんと危ないね」


「私が、ですか」


「うん」


 その目には、何かを押し殺すような色があった。


「小夜ちゃんが誰かを助けたいなら、俺は手伝うよ」


「本当ですか」


「うん。小夜ちゃんがそうしたいならね」


 伊吹は薄く笑った。


「でも、小夜ちゃんが泣くなら、その誰かはどうでもよくなる」


「伊吹」

 

「本気だよ。俺は優しいわけじゃない。小夜ちゃんにだけ、優しくしたい鬼だから」


 伊吹は小夜の手をそっと取り、廊下を歩き出す。

 部屋までの道は、いつもより長く感じた。

 雨音が、窓の外で続いている。

 遠くで、本館の鐘が、ゴーン、と一つ鳴った。

 夜の刻を告げる音だった。

 伊吹は、その音を聞いてから、ぽつりと言った。


「今日はもう寝よ。続きは明日」


「続き?」


「うん。続きは、たぶん明日来る」


 小夜は伊吹を見上げた。

 その横顔に、洋灯の灯りが揺れている。

 伊吹は、何かを既に予感しているような顔で、廊下の先へ目を向けていた。


 ――りん。


 また、遠くで鈴の音が聞こえた気がした。

 それは少年の中で鳴っているのか、小夜の中で鳴っているのか、もう分からなかった。




 

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