第一話 帝が呼んでいる
帝都に、雨の匂いが満ちていた。
まだ降ってはいない。けれど空は低く曇り、夕暮れの光は薄い雲の向こうで滲んでいる。石畳は昼間の湿気を含んで、どこか重たげに光っていた。
路面電車の停留所には、帰りを急ぐ人々が集まっている。
洋装の紳士。袴姿の女学生。荷を抱えた商人。子どもの手を引く母親。活動写真館の前には色鮮やかな看板が立ち、カフェーの窓からは珈琲と焼き菓子の甘い匂いが流れていた。
帝都は、いつもの夕暮れを迎えようとしている。
その中で、誰も少年を見ていなかった。
少年は停留所の端に立ち、片手に切符を握っていた。年の頃は十六、七。少し大きすぎる学生服を着て、襟元を苦しそうに押さえている。額には汗が滲み、唇の色は悪い。
初夏の湿った風が、停留所の軒下を抜けていく。
その風に混じって、音がした。
――りん。
少年は、顔を上げた。
路面電車の鐘ではない。店先の鈴でもない。もっと細く、冷たく、耳ではなく骨の奥で鳴るような音だった。
周囲を見回しても、誰も気づいた様子はない。
女学生たちは次の電車の話をしている。商人は懐中時計を確かめている。母親に手を引かれた子どもは、活動写真館の看板を見上げている。
少年だけが、その音を聞いていた。
――りん。
もう一度、鳴った。
「……誰だ」
呟いた声は、人々の靴音と車輪の軋みに紛れて消えた。
次の瞬間、声が聞こえた。
『――おいで』
少年の指が、びくりと震える。
『戻れ』
喉が渇いた。
『血を捧げよ』
少年は息を止めた。
目の前を、白い首筋の女が通り過ぎる。夏物の襟から覗いた肌が、妙に鮮やかに見えた。
血の匂いが、分かる気がした。
「……違うッ」
少年は切符を握り潰した。
手の中で、紙が裂ける。
その感触が、やけに遠かった。
指先が痛い。爪が、伸びている。丸かったはずの爪は黒く変じ、獣のように鋭く尖っていた。皮膚の下には、赤黒い筋が浮かび上がっている。
――喉が渇く。
腹が空く。
怖い。
怖いのに、周囲にいる人間たちが、ひどくやわらかそうに見えた。
「……来るな」
少年は首を振った。
「来るな……ッ!」
その声に、近くにいた女学生が振り返る。
女学生の目が、少年の手を見た。
短い悲鳴が上がった。
それが合図だったように、人の波が乱れる。誰かが少年を指差し、誰かが後ずさった。荷物が落ち、硝子瓶の割れる音がする。
少年は自分の手を見つめたまま、震えていた。
(……違う)
自分は人間だ。
昨日も、一昨日も、その前も、普通に学校へ通っていた。母に小言を言われ、友人と路地裏で団子を食べ、試験の点に頭を抱えていた。
それなのに、どうして。
どうして今、自分は人の血の匂いを、美味しそうだと思っているのか。
――りん。
鈴の音が、また鳴った。
『戻れ』
『血を捧げよ』
少年の喉の奥から、自分のものではない声が漏れた。
獣のような咆哮が、停留所に響く。
逃げ惑う人々の中で、少年は両手で頭を抱えた。牙が唇を裂き、熱い血の味が口の中に広がる。その味に、胸がぞっとするほど喜んだ。
「やめろ……!」
叫んだつもりだった。
けれど、口から出たのは人の言葉ではなかった。
*
――小夜が駆けつけたとき、停留所はすでに混乱の中にあった。
倒れた看板。踏み散らされた切符。割れた硝子瓶。雨の降る前の湿った空気に、人々の恐怖と汗の匂いが混じっている。
その中心に、少年がいた。
鬼ではない。
けれど、人でもない。
小夜の胸が、強く軋んだ。
(……怖がっている)
共鳴で、流れ込んでくる感情は、飢えだけではなかった。
恐怖。混乱。自分が何になってしまったのか分からない、幼い子どものような怯え。
けれど少年の口元には牙が覗き、伸びた爪は石畳を抉っていた。人々が逃げる方向を、獣のような目で追っている。
小夜は思わず足を止めた。
湿った風が、頬に触れる。雨の匂いの中に、血の匂いが薄く混じっていた。
「小夜ちゃん、下がって」
隣で、伊吹の声が低くなった。
いつもの軽さが消えている。白い指が、黒い刀の柄にかかっていた。
けれど次の瞬間、伊吹はいつものように少しだけ笑った。
「小夜ちゃんが濡れるのも嫌だけど、噛まれるのはもっと嫌だからね」
「今、そういうことを言う場面ですか」
「俺にとっては大事な場面」
伊吹は半歩前に出る。
銀墨色の髪が、夕暮れの風に揺れた。口元には笑みがある。けれど蜂蜜色の瞳は、少しも笑っていなかった。
「可愛い小夜ちゃんを、あれに近づけるわけにはいかないでしょ」
「伊吹」
「駄目だよ。あれはもう、人を噛む」
「――でも」
「でもじゃないよ」
伊吹は穏やかに言った。
その穏やかさが、かえって怖かった。
「あれが小夜ちゃんに近づく前に、斬る」
小夜は言葉を失う。
少年が顔を上げた。
濁った瞳が、小夜を見る。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。少年の恐怖が、小夜の中へ流れ込んでくる。飢えに引きずられながら、それでも必死に人であろうとしている感情だった。
――助けて。
言葉ではない。
けれど、そう聞こえた。
「待ってください」
小夜は、思わず伊吹の袖を掴んだ。
伊吹の視線が、袖を掴む小夜の手へ落ちる。
「……殺さないで」
「……小夜ちゃん」
「助けを求めているんです」
「牙を剥いてるよ」
「怖がっているんです」
「俺には、同じに見えるなぁ」
伊吹の声は優しかった。
優しいのに、逃げ道がない声だった。
「小夜ちゃんを傷つけようとするなら、俺には同じだよ」
伊吹は笑っていた。
甘く、優しく。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
「小夜ちゃんの血に誘われる気持ちは、まあ、分かるけどね。俺も鬼だし」
「伊吹」
「でも、だからって許してあげるほど、俺は優しくないかな」
伊吹は、小夜の袖を掴む手に視線を落とした。
「……そんな顔で止められると、弱いけど」
その言葉に、背筋が冷える。
小夜は伊吹を見た。
伊吹が小夜を守ろうとしていることは分かっている。分かっているからこそ、怖い。
彼にとって、小夜に危害を加えるものは、助けを求める者であっても斬る対象になる。
それは愛情なのだろう。
けれど、愛情だけでは済まないものでもあった。
「伊吹」
小夜は袖を掴む手に力を込めた。
「止めてください。殺すのではなく」
「わぁ。一番面倒なやつだ」
「……お願いします」
伊吹は小夜を見下ろした。
ほんの一瞬、困ったように笑う。
「小夜ちゃんにそう言われると、俺が弱いの知ってるよね」
「知っています」
「言うようになったねえ」
伊吹は小さく息を吐いた。
それから、刀を完全には抜かず、鞘ごと構えを変える。
「じゃあ、止める。でも小夜ちゃんに近づいたら、その時は斬るよ」
「……分かりました」
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「たぶんって言った」
軽口のように聞こえた。
けれど、伊吹の目はまだ冷たい。
少年が低く唸った。四つん這いに近い姿勢で石畳を蹴り、小夜の方へ向かってくる。
人々の悲鳴が上がる。
伊吹が動こうとした、その瞬間だった。
「伊吹」
小夜は袖を掴んだまま、息を整えた。
「私が、札で動きを止めます」
伊吹の目が、小夜へ向く。
「小夜ちゃん」
「一瞬だけなら、止められます。その間に、伊吹が押さえてください」
「……それ、小夜ちゃんが前に出るってことだよね」
「前に出るのではありません。伊吹の後ろからです」
「同じくらい嫌だなあ」
「でも、殺さずに止めるなら、その方が早いです」
伊吹は笑っていなかった。
小夜を守りたいという感情と、少年を殺さずに済ませたいという小夜の願いが、彼の中でぶつかっているのが分かった。
「失敗したら?」
「その時は、伊吹が止めてください」
「斬っても?」
小夜は一瞬、息を詰めた。
けれど、すぐに頷いた。
「……私に届く前に、止めてください」
伊吹の目が、わずかに細くなる。
「ずるい言い方するね」
「伊吹が、私に弱いのを知っていますから」
「本当に言うようになった」
伊吹は困ったように笑った。
「そういう小夜ちゃん、可愛いよ。すごく困る」
「困っている場合ではありません」
「うん。だから困ってる」
伊吹は改めて、鞘ごと構えを変えた。
「分かった。小夜ちゃんが止める。俺が押さえる」
「はい」
「でも、小夜ちゃんに近づいたら、その時は俺の判断で動く」
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、やって」
小夜は腰紐に下げた束から、結界札を一枚抜いた。
白い札の表面には、朱墨で細かな術式が書き込まれている。
指先が、少し震えていた。
恐怖ではない。
いや、恐怖もある。
けれどそれ以上に、失敗できないという緊張があった。
少年はまだ人だ。少なくとも、本人は人であろうとしている。
ならば、最初から斬るのではなく、止める方法を選びたい。
小夜は札を指に挟み、もう一方の手で帯の鈴に触れた。
息を整える。
恐怖で呼吸が乱れれば、霊力も乱れる。
札を読む。印を結ぶ。鈴の音と、息を合わせる。
「――留」
札を投げると同時に、鈴を振った。
りん、と澄んだ音が、湿った夕暮れの空気を切る。
札が空中で淡く光り、少年の足元へ滑るように飛んだ。
次の瞬間、石畳に細い光の線が走り、少年の足を縫い止める。
「ぐ、あ……っ」
少年の動きが、一瞬だけ止まった。
「伊吹!」
「はいはい」
返事は軽かった。
けれど伊吹の動きは、少しも軽くなかった。
黒い影が、雨の匂いを裂く。
伊吹は少年の背後へ回り込み、刀の鞘で肩口を打った。刃ではない。骨を砕くほどでもない。ただ、体勢を崩すための一撃だった。
少年が石畳の上へ倒れ込む。
伊吹はその腕を捻り、伸びた爪が人へ向かないよう押さえた。
「小夜ちゃん、長くは?」
「持ちません!」
「だよね」
伊吹は低く笑った。
「じゃあ、早く名前を聞いてあげて」
小夜は頷き、少年の前へ膝をついた。
少年の内側で、鈴の音が鳴っている。
小夜にも、かすかに聞こえた。
――りん。
それは耳で聞く音ではなかった。骨の奥を細い針で撫でられるような、不快な響きだった。
小夜の胸がざわつく。
鬼の飢えとも違う。封鬼寮で聞いた結界の音とも違う。もっと高く、遠く、誰かが上から命じてくるような響き。
『――おいで』
『戻れ』
血を捧げよ。
小夜は唇を噛んだ。
(これは……何?)
少年が頭を抱え、苦しげに身をよじる。
「やめろ……来るな……おれは、人間だ……」
かすれた声だった。
小夜はその言葉に息を呑む。
やはり、まだ人の意識が残っている。
「聞こえますか」
小夜は少年に声をかけた。
「あなたは、まだ戻れます」
少年の濁った目が、小夜を捉える。
その瞬間、少年の喉が大きく鳴った。
飢え。
血への渇き。
小夜の稀血に引き寄せられる感覚が、はっきりと流れ込んでくる。
伊吹が舌打ちした。
「ほら、やっぱり」
少年の腕が、結界札の光を軋ませながら動いた。
石畳に走る光の線が、ぱきりと細い音を立てる。
術が保たない。
「小夜ちゃん、下がって」
伊吹の声が鋭くなる。
「まだです」
「まだじゃない」
伊吹は少年の腕をさらに押さえ込む。
少年の爪が石畳を抉った。伊吹の鞘が、その爪を横から弾く。金属と硬い爪がぶつかり、甲高い音が響いた。
札が、揺れる。
小夜はもう一枚、札を抜こうとした。
けれど、その前に少年が苦しげに叫んだ。
「いやだ……!」
その声は、人の声だった。
小夜の手が止まる。
「あなたを呼んでいるものに、従わないで」
少年の動きが止まる。
「あなたの名前を、教えてください」
少年の喉が震えた。
「な、まえ……」
「はい」
「おれは……」
少年は、自分の手を見た。
黒く変じた爪。赤黒い筋。人ではないものになりかけた体。
その目から、涙が落ちる。
「おれは……人間だ……」
小夜は頷いた。
「はい」
それが本当かどうかは分からない。
けれど今、この少年が縋っているものを奪ってはいけないと思った。
「あなたは、まだここにいます」
少年の中で、鈴の音が強まる。
――りん。
少年が苦しげに体を折った。
「くる……」
「何がですか」
「声が……」
少年の唇が震える。
「御声が、聞こえる……」
小夜の背筋に、冷たいものが走った。
御声。
その言葉を、停留所の喧騒の中で聞くには、あまりに重すぎた。
伊吹の表情も変わる。
「御声?」
少年は、震えながら空を見上げた。
雨雲の向こう。帝都の中心。宮城の奥。御簾の向こうにいるとされる、誰よりも遠い存在。
少年はそこへ引かれるように、手を伸ばした。
「み、かど……」
小夜は息を止める。
「帝が、呼んでる」
その瞬間、少年の体から力が抜けた。
結界札の光が、ふっと消える。
伊吹がすぐに踏み込み、少年の背を押さえ直した。小夜は膝をつき、少年の顔を覗き込んだ。
少年は気を失っていた。
牙はまだ残っている。爪も黒いままだ。けれど、先ほどまでの飢えは薄れ、代わりに深い疲弊だけが流れ込んでくる。
小夜は震える息を吐いた。
雨が、ぽつりと落ちた。
石畳に小さな黒い点が生まれる。
ひとつ、ふたつ。
やがて細かな雨が、停留所全体を濡らし始めた。
人々のざわめきが遠く聞こえる。封鬼寮の隊士たちが駆けつけ、周囲を封鎖していく。誰かが怪我人を運び、誰かが少年を拘束するための結界具を準備している。
小夜の耳の奥には、まだあの鈴の音が残っていた。
――りん。
冷たく、細く、命じるように。
伊吹が小夜に声をかけた。
「あの子が言ったこと、聞こえた?」
「はい」
「帝が呼んでる、だって」
伊吹は雨の向こう、宮城のある方角を見た。
夕暮れの帝都は、雨に煙っている。遠くに見える宮城の屋根は、灰色の空に沈むようだった。
「嫌な感じ」
伊吹が呟く。
小夜は、気を失った少年へ視線を落とした。
昨日まで人として暮らしていたかもしれない少年。自分が何者なのかも知らないまま、突然鬼の血を呼び起こされた少年。
その少年は、最後に帝の名を呼んだ。
「伊吹」
「なに」
「この音は、何なのでしょう」
「さあ」
伊吹は笑った。
いつものように、甘く軽く。
けれど、その指は小夜の肩を強く掴んでいた。
「でも、御所が小夜ちゃんに近づく理由ができたってことだけは、分かるよ」
小夜は言葉を失った。
雨の音が、少しずつ強くなる。
濡れた石畳の上で、潰れた切符が水を吸って黒ずんでいた。
その向こうで、少年がうわ言のように呟く。
「……戻らなきゃ」
小夜は身を強張らせた。
「どこへ……?」
少年の唇が、かすかに動く。
「御所へ……」
その言葉が雨に溶ける。
小夜の首筋の刻印が熱を帯びた。
まるで、誰かがこちらを見つけたように。




