番外編 初めての酒と、危険な鬼
封鬼寮の特別区に、久しぶりに穏やかな夜が訪れていた。
春の終わりの風が、障子の向こうで桜の名残を揺らしている。庭の木々はすっかり青葉に変わり、昼間の名残を含んだ空気が、夜になってもどこかやわらかい。
その日は、本館の一室でささやかな慰労の席が設けられていた。
大きな事件の後始末がひと段落し、張り詰めていた空気がようやく少しだけ緩んだのだ。畳敷きの広間には低い卓が並べられ、煮物や焼き魚、季節の和え物、甘い菓子が置かれている。派手な宴ではない。けれど、久しぶりに誰かの声が穏やかに響く夜だった。
榊は、上座から少し離れた席で、隊士たちに酒を注がれていた。
「私はもう長官ではないのだが」
困ったようにそう言っても、誰も聞いていない。盃はすぐに満たされ、榊は深いため息をつきながらも、それを断りきれずにいた。
白瀬透子は、その隣で涼しい顔をしている。盃を傾けても顔色ひとつ変えず、酔い始めた隊士が机に突っ伏すと、静かに脈を取り、「水を」とだけ告げていた。
志乃は、離れた卓で若い隊士たちと話していた。いつもより少し頬が赤く、笑うたびに髪に挿した簪が小さく揺れる。
皆、少しずつ羽目を外している。張り詰めていた日々が長かったぶん、その緩み方はどこか不器用だった。
小夜は、部屋の端に近い席に座っていた。
こうした場は、まだ少し落ち着かない。けれど以前ほど、居場所のなさを感じることはなくなっていた。
隣には伊吹がいる。当然のような顔で、小夜の隣に座っている。当然のように近い。
「小夜ちゃん、ちゃんと食べてる?」
「食べています」
「ほんとに? 箸があんまり動いてないけど」
「見すぎです」
「見てるよ。俺、小夜ちゃんのこと見てるの好きだし」
「そういうことを、こういう場所で言わないでください」
小夜が小声でたしなめると、伊吹は悪びれもせずに笑った。
いつもの軽い笑みだった。
けれど、もう小夜は伊吹の笑みの奥にあるものを、少しだけ知ってしまっている。軽いだけではない。甘いだけでもない。触れれば逃げられなくなるような熱が、いつもその奥に潜んでいる。
だからこそ、小夜は隣にいるだけで落ち着かなくなる。
けれど、離れたいとは思わなかった。
それが、今の小夜にとって一番困るところだった。
しばらくして、志乃が小さな盃を持って近づいてきた。
「朝霧さんも、少しだけどう? 甘い果実酒ですから、飲みやすいですよ」
「……お酒、ですか」
「はい。無理にとは言いませんけど、今日はお祝いの席ですから」
小夜が盃を見つめていると、横から白瀬が淡々と言った。
「初めてなら、本当に一口だけにしておきなさい。体質は飲んでみないと分かりません」
医官らしい忠告だった。
それを聞いた伊吹が、すぐに小夜の手元を見た。
「ほら、小夜ちゃん。白瀬先生もこう言ってるし、やめとこうか」
「まだ飲んでいません」
「飲む前に止めてるの」
「少しだけなら、大丈夫だと思います」
「その『大丈夫』って言う子、だいたい大丈夫じゃないんだよねぇ」
伊吹は軽い調子でそう言ったが、その目は小夜の手元をじっと見ていた。
小夜は盃を両手で持ち、そっと口元へ近づけた。
酒の香りは思っていたより甘かった。けれど口に含むと、喉の奥がかすかに熱くなる。甘さのあとに、知らない火のようなものがゆっくり胸へ落ちていった。
「……甘いですね」
「小夜ちゃん」
「はい」
「もうやめよっか」
「まだ、少ししか飲んでいません」
「その顔で言われても説得力ないんだけど」
「顔?」
小夜は自分の頬に手を当てた。
少し熱い。
けれど、それだけだ。痛みもないし、気分が悪いわけでもない。むしろ体の奥がふわりと軽くなって、いつもより息がしやすいような気さえした。
「平気です」
「うん。絶対に平気じゃない人の声だね」
そのとき、向かいの席にいた男性隊士が、徳利を片手に伊吹へ声をかけた。
「伊吹殿も、一杯いかがですか」
「俺? 今日はやめとく。小夜ちゃんのお守りだからね」
「誰がお守りですか」
「小夜ちゃん」
「私は子どもではありません」
「そうだね。子どもじゃないから余計に心配」
伊吹がそう言って笑うと、近くにいた女性隊士がくすりと笑った。
「伊吹様は、本当に朝霧さんにお優しいですね」
「優しいかなぁ。俺、けっこう危ない鬼なんだけど」
軽い調子だった。
いつもの伊吹だった。
誰にでも、そんなふうに笑う。
分かっている。
分かっているはずなのに、小夜は盃の中の酒を見つめた。
胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かない。
「小夜ちゃん?」
「……これくらい、平気です」
「え、今の流れで飲むの?」
「飲みます」
「小夜ちゃん、もしかして怒ってる?」
「怒っていません」
小夜は盃を持ち上げ、口をつけた。
甘い酒が、喉を通る。
胸の奥が、かっと熱くなった。
「……熱い、です」
伊吹が目を瞬かせる。
「小夜ちゃん」
「はい」
「今の、妬いた?」
小夜は盃を置いた。
「妬いていません」
「ほんとに?」
「違います」
「じゃあ、どうして急に飲んだの」
「喉が渇いたので」
「水じゃなくて?」
「……そこにあったので」
伊吹は一瞬黙ったあと、片手で口元を覆った。
「やばい」
「何がですか」
「小夜ちゃん、かわいい」
「からかわないでください」
「からかってない。今ちょっと本気で危なかった」
それから、彼は目を逸らした。
「……今の顔、もうしないで」
「顔?」
「うん。俺の心に悪い」
小夜には意味が分からなかった。
ただ、伊吹の耳のあたりがほんの少し赤く見えた気がして、なんとなく面白かった。
そのあと、小夜はもう一口だけ酒を飲んだ。
伊吹が止める前に、本当に少しだけ。
それだけで、世界が少し傾いた。
「……あれ」
「ほらね」
伊吹の声が近くで聞こえた。
近い、と思った。
けれど、それが伊吹が近づいたからなのか、自分が傾いたからなのか分からない。
気づけば、小夜は伊吹の袖を掴んでいた。
「小夜ちゃん?」
「畳が、少し動きました」
「動いてないねぇ」
伊吹は笑っている。けれど、その手つきはいつもより慎重だった。
小夜の手から盃をそっと取り上げると、自分の向こう側へ置く。
「没収」
「まだ残っています」
「残ってるから没収」
「もったいないです」
「小夜ちゃんがもったいないことになるから駄目」
小夜は首を傾げた。
その拍子に、少しだけ体が傾く。
伊吹の肩に、こつんと額が当たった。
小夜はそのまま目を瞬かせる。
「……伊吹」
「なに」
「あたたかいですね」
伊吹の体が、ぴたりと止まった。
「小夜ちゃん」
「鬼なのに」
「それ、褒めてる?」
「はい。たぶん」
小夜は伊吹の袖を掴んだまま、少しだけ体を預けた。
いつもなら、こんなことはしない。
人前で距離が近すぎると恥ずかしいし、伊吹はすぐ調子に乗る。だから小夜は、できるだけ理性的でいようとしてきた。
けれど今は、その思考がどこかに行ってしまっていた。
近いと、落ち着く。
そう思ってから、小夜はゆっくり口を開いた。
「伊吹のそばは、落ち着きます」
伊吹が、今度こそ完全に黙った。
しばらくしてから、低く息を吐く。
「小夜ちゃん」
「はい」
「ちょっと黙ろうか」
「嫌です」
「なんで?」
「今日は、言いたいことを言ってもいい気がします」
「それ、かなり危ない発言なんだけど」
伊吹の声が、少しだけ低くなった。
小夜はその声を聞いて、なぜか嬉しくなる。
「その声、好きです」
「……」
「低い時の声」
「小夜ちゃん、本当に黙って」
「どうしてですか」
「俺がかわいそうだから」
小夜は不思議に思って、伊吹の顔を見上げた。
蜂蜜色の瞳が、じっとこちらを見ている。
いつものように笑っているはずなのに、目だけは笑っていなかった。困ったような、追い詰められたような、それでいてどこか嬉しそうな顔だった。
伊吹はそう言って、小夜の肩に手を添えた。
少し距離を取らせようとしているのが分かった。
けれど、小夜はその手が離れていくのが嫌で、思わず伊吹の袖を強く掴んだ。
「離れないでください」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
伊吹の表情が変わる。
周囲の声はまだ聞こえていた。誰かが笑い、誰かが酒を注いでいる。けれどその音が、少し遠くなった気がした。
「小夜ちゃん」
「……私、ちゃんと伊吹のそばにいますか」
「いるよ」
「本当に?」
「うん。ちゃんといる」
「置いていかないでくださいね」
言ってから、小夜はなぜそんなことを口にしたのか分からなくなった。
伊吹が小夜を置いていくわけがない。
むしろ、離してくれない方の鬼だ。
分かっているのに、胸の奥に、昔の寂しさのようなものが残っている。母と離れた日。知らない部屋で目を覚ました日。つーちゃんだと思っていた少年が、どこか違う笑い方をした日。
それらが、酒の熱でふわふわと浮かび上がってきたのかもしれなかった。
伊吹はしばらく黙っていた。
それから、小夜の肩に添えていた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「置いていかない」
「約束です」
「うん」
「本当に、約束です」
「分かった。約束する」
伊吹の声は、ひどく優しかった。
だから小夜は安心して、もう少しだけ伊吹に寄りかかる。
「伊吹」
「なに」
「近くにいてください」
「いるよ」
「もっと」
伊吹の呼吸が、わずかに乱れた。
小夜はそれに気づかないまま、伊吹の胸元に手を添えた。鼓動がある。鬼にも鼓動があるのだと、今さらのように思った。
「小夜ちゃん、それ以上は駄目」
「どうしてですか」
「俺が、いい鬼じゃないから」
「知っています」
「知ってるならやめようね」
「でも、伊吹は私を傷つけません」
伊吹の目が、細くなる。
「……小夜ちゃん、それも酔ってない時に言って」
「酔っていない時も、思っています」
「今、追い打ちかけないで」
伊吹はそう言って、片手で自分の顔を覆った。
その仕草が少しおかしくて、小夜は小さく笑った。
「謝らなくていいから、少し水を飲もうね」
伊吹は立ち上がると、小夜を支えるようにして広間を出た。
小夜は大人しくついていったつもりだったが、廊下に出た途端、足元が少し揺れる。畳の上より、板張りの廊下は冷たく感じた。
夜風の入る縁側に座らされ、伊吹は小夜の手に湯呑みを持たせた。
「水。ゆっくり飲んで」
「はい」
小夜は両手で湯呑みを持ち、少しずつ水を飲んだ。
冷たい水が喉を通ると、胸の熱が少しだけ落ち着く。
隣に座った伊吹は、膝に片肘をつきながら小夜を見ていた。いつものような軽口はない。けれど視線だけは、離れない。
夜風が頬の熱を冷ましていく。庭の青葉が、月明かりの下で静かに揺れていた。
「伊吹」
「なに」
「伊吹といると、怖いときがあります」
伊吹の笑みが、すっと失われる。
「うん」
「でも、離れる方がもっと怖いです」
「……そっか」
「だから、困ります」
「俺も困ってる」
「伊吹も?」
「うん。小夜ちゃんがかわいすぎて困ってる」
「真面目に言っています」
「俺も真面目に言ってるよ」
そう言って、伊吹は小夜の髪に触れた。
指先が、髪をそっと梳く。
いつもなら少し身構える距離だった。けれど今は、その手つきがひどく優しくて、拒む気になれなかった。
伊吹は笑った。
けれど次の瞬間、小夜の顔が少し近づいたことで、その笑みが消える。
小夜はただ、伊吹の顔を近くで見ようとしただけだった。
けれど、伊吹は息を止めた。
酒の甘い匂いが、二人の間にふわりと漂う。
小夜の視界に、伊吹の唇が入った。
あの唇に、何度も救われた。何度も縛られた。怖いと思ったこともある。逃げたいと思ったこともある。けれど今は、不思議とその記憶さえ遠かった。
小夜は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「伊吹」
「……駄目」
低い声だった。
伊吹は小夜の肩を支えたまま、動かなかった。
それから、深く息を吐く。
「今日は、ここまで」
「ここまで?」
「うん」
伊吹は小夜の顔から視線を逸らし、代わりに額へ自分の額を軽く当てた。
唇ではなかった。
ただ額が触れただけなのに、小夜の胸はゆっくり落ち着いていく。
「……どうしてですか」
「小夜ちゃん、酔ってるから」
「少しだけです」
「その『少しだけ』が一番危ない」
「……伊吹は、嫌なんですか」
「嫌じゃないから止めてるの」
その声は、少し苦しそうだった。
小夜はぼんやりと伊吹を見る。
「伊吹は、偉いですね」
「今日の俺はかなり偉いよ。後で誰かに表彰してほしいくらい」
「では、私が褒めます」
「やめて。今褒められたら本当に危ない」
「危ないことばかりですね」
「小夜ちゃんのせいだね」
伊吹は限界を迎えたように、片手で小夜の目元を覆った。
視界が暗くなる。
小夜は驚いて、伊吹の手首を掴んだ。
「見えません」
「見せたら俺が困る顔してるから」
「伊吹が?」
「うん」
「……見たいです」
「駄目」
「けちです」
「今日の小夜ちゃん、ほんと容赦ないね」
伊吹はしばらくそのまま、小夜の目元を覆っていた。
広間の奥では、誰かが調子外れの歌を歌い始めていた。それに笑い声が重なり、小夜と伊吹の小さなやり取りは、その賑わいに紛れていく。
小夜は最初こそ不満だったが、伊吹の手のひらが温かくて、だんだん眠くなってきた。体の力が抜けていく。
気づけば、伊吹の肩に頭を預けていた。
「……眠い?」
「少しだけ」
「部屋に戻ろうか」
「……歩けますよ」
「信用できないなぁ」
「歩けますって」
「じゃあ、三歩だけ歩いてみて」
小夜は立ち上がろうとした。
一歩目で、伊吹の袖を掴む。
二歩目で、伊吹に寄りかかる。
三歩目は、ほとんど伊吹に支えられていた。
「ほらね」
「……畳ではないので」
「廊下のせいにした」
伊吹は笑いながらも、小夜を抱き上げることはしなかった。
ただ、腕を貸し、歩幅を合わせてくれる。ゆっくりと、特別区の廊下を歩く。
部屋へ戻るまでの道は、いつもより長く感じた。
けれど、伊吹の隣にいると怖くはなかった。
部屋に着くと、伊吹は小夜を寝台に座らせ、水をもう一度飲ませた。白い帳が、夜風にかすかに揺れている。
「今日はもう寝ようね」
「伊吹は?」
「俺はここにいるよ。小夜ちゃんが寝るまで」
「寝たあとも?」
伊吹は一瞬だけ黙った。
それから、苦笑する。
「小夜ちゃん、ほんと今日すごいね」
「すごい?」
「うん。俺を殺しにきてる」
「殺しません」
小夜はよく分からないまま、寝台に横になった。
伊吹が帳の外に座る。
月明かりが、彼の輪郭を淡く照らしていた。いつもなら近すぎると文句を言うのに、今夜はその距離が遠く感じる。
「伊吹」
「なに」
「手」
伊吹は少しだけ目を見開いた。
それから、そっと帳の隙間から手を差し入れてくる。
小夜はその指先を握った。
「……あたたかいです」
「うん」
「伊吹」
「なに」
「好きです」
伊吹の指が、ぴくりと震えた。
小夜はそれを不思議に思いながら、ゆっくり目を閉じる。
「言ったこと、ありましたか」
「……ないよ」
伊吹の声は、ひどく低かった。
「そうですか」
「うん」
「……今、初めて言いました」
伊吹は答えなかった。
ただ、握った手に少しだけ力がこもる。
「伊吹」
「……なに」
「聞こえましたか」
「聞こえたよ」
「よかったです」
小夜は安心して、そのまま眠りに落ちた。
*
翌朝、小夜は頭の奥に薄い霞がかかったような感覚で目を覚ました。
障子越しに朝の光が差している。
部屋の中は静かだった。
寝台のそばには、水差しと湯呑みが置かれている。文机の上には、昨夜のものらしい金平糖の包みがあった。なぜそこにあるのか、小夜には思い出せない。
起き上がろうとして、少しだけ頭が重いことに気づいた。
「……」
何か、大事なことを忘れている気がする。
けれど思い出せない。
そのとき、障子の向こうから足音が聞こえた。
伊吹が入ってくる。
いつも通りの黒い羽織。いつも通りの軽い笑み。
ただし、目元に少しだけ疲れが見えた。
「おはよう、小夜ちゃん」
「おはようございます」
「気分は?」
「少し頭が重いです」
「だろうね」
「昨日、私は……」
小夜は言いかけて、記憶を探った。
慰労の席で酒を飲んだ。甘かった。伊吹が止めた。
そこまでは覚えている。
その先が、はっきりとしない。うっすらと伊吹に連れられて部屋に戻ってきた記憶はあるのだが。
「……私、何か、言いましたか」
伊吹は笑った。
けれど、その笑い方が妙に怖かった。
「小夜ちゃん」
「はい」
「あんなことしておいて、覚えてないの?」
小夜の背筋が伸びた。
「あんなこと、とは」
「言わない」
「どうしてですか」
「言ったら俺が死ぬ」
「死なないでください」
「昨日、何回か死にかけた」
「そんなにですか」
「そんなに」
小夜は顔を青くした。
まったく覚えていない。
覚えていないのに、伊吹がここまで言うということは、相当なことをしたのではないか。
「私、失礼なことを言いましたか」
「言った」
「すみません」
「でも、それだけじゃない」
「何をしたんですか」
「言わない。俺の心の中にしまっておく」
「怖いです」
「俺も怖かったよ。小夜ちゃんがかわいすぎて」
伊吹は寝台の脇に腰を下ろすと、小夜の顔を覗き込んだ。
その距離が近い。
小夜が少し身を引くと、伊吹は不満そうに目を細めた。
「昨日は自分から近づいてきたのに」
「えっ」
「手、握ってって言ったのも小夜ちゃん」
「……」
「近くにいてって言ったのも小夜ちゃん」
「……」
「俺の声が好きって言ったのも」
「もうやめてください」
小夜は両手で顔を覆った。
熱い。とても熱い。
酒のせいではない。間違いなく恥ずかしさのせいだった。
伊吹は楽しそうに笑っている。けれど、その笑い方の奥には昨夜の名残のような危うさがあった。
「小夜ちゃん」
「はい……」
「もう絶対に、お酒飲まないでね」
「そんなにですか」
「そんなに。少なくとも、俺の前以外では絶対に駄目」
小夜は顔を上げた。
伊吹の目が、妙に真剣だった。
「伊吹の前なら、いいんですか」
「……駄目かもしれない」
「どちらですか」
「俺も分からない」
「分からないのに、私に決めさせるんですか」
「俺の前以外で飲まれるよりは、俺の前で飲んでほしい。でも俺の前で飲まれると、俺がすごく困る」
「困るのですか」
「困る。昨日みたいな小夜ちゃんを、俺以外が見たらと思うと、ちょっと本気で斬りたくなる」
「斬らないでください」
「じゃあ飲まないで」
「話が極端です」
「小夜ちゃんがかわいすぎたのが悪い」
伊吹はそう言いながら、小夜の額にそっと指を当てた。
熱を確かめるような、からかうような、優しい触れ方だった。
「でも、昨日の伊吹は、何もしなかったんですよね」
小夜がそう言うと、伊吹の表情が固まった。
それから、ゆっくり視線を逸らす。
「……小夜ちゃん、それ聞く?」
「聞きます」
「何もしなかったよ」
「そうですか」
「俺はとても偉かった」
「はい。偉いです」
「今、素直に褒めないで」
「どうしてですか」
「思い出すから」
小夜は困ってしまった。
昨日の自分が何をしたのか、ますます分からない。
けれど、伊吹が何もしなかったことだけは分かった。
伊吹は怖い鬼だ。
欲しいものを、簡単には手放さない。
それを小夜は知っている。
それでも昨夜、伊吹は止まった。
小夜が酔っていたから。
小夜が、自分で選べる状態ではなかったから。
小夜は布団の上で指を重ねる。
「……ありがとうございます」
「何のお礼?」
「昨日、たぶん、困らせたので。それでも、伊吹がちゃんとしてくれたので」
伊吹は少しだけ黙った。
それから、照れたように笑う。
「ちゃんとしてないよ。内心は全然ちゃんとしてなかった」
「でも、してくれました」
「……小夜ちゃんは、そういうところで俺を甘やかす」
伊吹はそう言って、小夜の手を取った。
指先に、唇が触れる。
手の甲への、ごく軽い口づけだった。
けれど小夜は、昨夜のことを覚えていないくせに、なぜか胸が落ち着かなくなった。
朝の光が、障子越しに淡く差し込んでいる。
文机の上の金平糖の包みが、光を受けて小さくきらめいた。
伊吹は小夜の額に、今度はゆっくりと口づけた。
それは昨夜、彼が守った距離と同じ場所だった。
唇ではなく、額。
けれど、その触れ方はひどく甘かった。
「昨日の続きは、酔ってない時にね」
低い声で囁かれて、小夜は意味を理解するまでに少し時間がかかった。
理解した瞬間、顔が一気に熱くなる。
「伊吹」
「なに」
「そういうことを、朝から言わないでください」
「じゃあ夜ならいい?」
「よくありません」
「残念」
伊吹は楽しそうに笑った。
危険な鬼の顔で。
けれどその手は、小夜の手を包むだけだった。
逃がさないように。
壊さないように。
その両方を、同じ温度で叶えるように。
小夜は少しだけ困りながら、その手を振りほどかなかった。




