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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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26/50

番外編 初めての酒と、危険な鬼

 封鬼寮の特別区に、久しぶりに穏やかな夜が訪れていた。

 春の終わりの風が、障子の向こうで桜の名残を揺らしている。庭の木々はすっかり青葉に変わり、昼間の名残を含んだ空気が、夜になってもどこかやわらかい。

 その日は、本館の一室でささやかな慰労の席が設けられていた。

 大きな事件の後始末がひと段落し、張り詰めていた空気がようやく少しだけ緩んだのだ。畳敷きの広間には低い卓が並べられ、煮物や焼き魚、季節の和え物、甘い菓子が置かれている。派手な宴ではない。けれど、久しぶりに誰かの声が穏やかに響く夜だった。

 榊は、上座から少し離れた席で、隊士たちに酒を注がれていた。


「私はもう長官ではないのだが」


 困ったようにそう言っても、誰も聞いていない。盃はすぐに満たされ、榊は深いため息をつきながらも、それを断りきれずにいた。

 白瀬透子は、その隣で涼しい顔をしている。盃を傾けても顔色ひとつ変えず、酔い始めた隊士が机に突っ伏すと、静かに脈を取り、「水を」とだけ告げていた。

 志乃は、離れた卓で若い隊士たちと話していた。いつもより少し頬が赤く、笑うたびに髪に挿した簪が小さく揺れる。

 皆、少しずつ羽目を外している。張り詰めていた日々が長かったぶん、その緩み方はどこか不器用だった。

 小夜は、部屋の端に近い席に座っていた。

 こうした場は、まだ少し落ち着かない。けれど以前ほど、居場所のなさを感じることはなくなっていた。

 隣には伊吹がいる。当然のような顔で、小夜の隣に座っている。当然のように近い。


「小夜ちゃん、ちゃんと食べてる?」


「食べています」


「ほんとに? 箸があんまり動いてないけど」


「見すぎです」


「見てるよ。俺、小夜ちゃんのこと見てるの好きだし」


「そういうことを、こういう場所で言わないでください」


 小夜が小声でたしなめると、伊吹は悪びれもせずに笑った。

 いつもの軽い笑みだった。

 けれど、もう小夜は伊吹の笑みの奥にあるものを、少しだけ知ってしまっている。軽いだけではない。甘いだけでもない。触れれば逃げられなくなるような熱が、いつもその奥に潜んでいる。

 だからこそ、小夜は隣にいるだけで落ち着かなくなる。

 けれど、離れたいとは思わなかった。

 それが、今の小夜にとって一番困るところだった。

 しばらくして、志乃が小さな盃を持って近づいてきた。


「朝霧さんも、少しだけどう? 甘い果実酒ですから、飲みやすいですよ」


「……お酒、ですか」


「はい。無理にとは言いませんけど、今日はお祝いの席ですから」


 小夜が盃を見つめていると、横から白瀬が淡々と言った。


「初めてなら、本当に一口だけにしておきなさい。体質は飲んでみないと分かりません」


 医官らしい忠告だった。

 それを聞いた伊吹が、すぐに小夜の手元を見た。


「ほら、小夜ちゃん。白瀬先生もこう言ってるし、やめとこうか」


「まだ飲んでいません」


「飲む前に止めてるの」


「少しだけなら、大丈夫だと思います」


「その『大丈夫』って言う子、だいたい大丈夫じゃないんだよねぇ」


 伊吹は軽い調子でそう言ったが、その目は小夜の手元をじっと見ていた。

 小夜は盃を両手で持ち、そっと口元へ近づけた。

 酒の香りは思っていたより甘かった。けれど口に含むと、喉の奥がかすかに熱くなる。甘さのあとに、知らない火のようなものがゆっくり胸へ落ちていった。


「……甘いですね」


「小夜ちゃん」


「はい」


「もうやめよっか」


「まだ、少ししか飲んでいません」


「その顔で言われても説得力ないんだけど」


「顔?」


 小夜は自分の頬に手を当てた。

 少し熱い。

 けれど、それだけだ。痛みもないし、気分が悪いわけでもない。むしろ体の奥がふわりと軽くなって、いつもより息がしやすいような気さえした。


「平気です」


「うん。絶対に平気じゃない人の声だね」


 そのとき、向かいの席にいた男性隊士が、徳利を片手に伊吹へ声をかけた。


「伊吹殿も、一杯いかがですか」


「俺? 今日はやめとく。小夜ちゃんのお守りだからね」


「誰がお守りですか」


「小夜ちゃん」


「私は子どもではありません」


「そうだね。子どもじゃないから余計に心配」


 伊吹がそう言って笑うと、近くにいた女性隊士がくすりと笑った。


「伊吹様は、本当に朝霧さんにお優しいですね」


「優しいかなぁ。俺、けっこう危ない鬼なんだけど」


 軽い調子だった。

 いつもの伊吹だった。

 誰にでも、そんなふうに笑う。


 分かっている。


 分かっているはずなのに、小夜は盃の中の酒を見つめた。

 胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かない。


「小夜ちゃん?」


「……これくらい、平気です」


「え、今の流れで飲むの?」


「飲みます」


「小夜ちゃん、もしかして怒ってる?」


「怒っていません」


 小夜は盃を持ち上げ、口をつけた。

 甘い酒が、喉を通る。

 胸の奥が、かっと熱くなった。


「……熱い、です」


 伊吹が目を瞬かせる。


「小夜ちゃん」


「はい」


「今の、妬いた?」


 小夜は盃を置いた。


「妬いていません」


「ほんとに?」


「違います」


「じゃあ、どうして急に飲んだの」


「喉が渇いたので」


「水じゃなくて?」


「……そこにあったので」


 伊吹は一瞬黙ったあと、片手で口元を覆った。


「やばい」


「何がですか」


「小夜ちゃん、かわいい」


「からかわないでください」


「からかってない。今ちょっと本気で危なかった」


 それから、彼は目を逸らした。


「……今の顔、もうしないで」


「顔?」


「うん。俺の心に悪い」


 小夜には意味が分からなかった。

 ただ、伊吹の耳のあたりがほんの少し赤く見えた気がして、なんとなく面白かった。

 そのあと、小夜はもう一口だけ酒を飲んだ。

 伊吹が止める前に、本当に少しだけ。

 それだけで、世界が少し傾いた。


「……あれ」


「ほらね」


 伊吹の声が近くで聞こえた。

 近い、と思った。

 けれど、それが伊吹が近づいたからなのか、自分が傾いたからなのか分からない。

 気づけば、小夜は伊吹の袖を掴んでいた。


「小夜ちゃん?」


「畳が、少し動きました」


「動いてないねぇ」


 伊吹は笑っている。けれど、その手つきはいつもより慎重だった。

 小夜の手から盃をそっと取り上げると、自分の向こう側へ置く。


「没収」


「まだ残っています」


「残ってるから没収」


「もったいないです」


「小夜ちゃんがもったいないことになるから駄目」


 小夜は首を傾げた。

 その拍子に、少しだけ体が傾く。

 伊吹の肩に、こつんと額が当たった。

 小夜はそのまま目を瞬かせる。


「……伊吹」


「なに」


「あたたかいですね」


 伊吹の体が、ぴたりと止まった。


「小夜ちゃん」


「鬼なのに」


「それ、褒めてる?」


「はい。たぶん」


 小夜は伊吹の袖を掴んだまま、少しだけ体を預けた。

 いつもなら、こんなことはしない。

 人前で距離が近すぎると恥ずかしいし、伊吹はすぐ調子に乗る。だから小夜は、できるだけ理性的でいようとしてきた。

 けれど今は、その思考がどこかに行ってしまっていた。

 近いと、落ち着く。

 そう思ってから、小夜はゆっくり口を開いた。


「伊吹のそばは、落ち着きます」


 伊吹が、今度こそ完全に黙った。

 しばらくしてから、低く息を吐く。


「小夜ちゃん」


「はい」


「ちょっと黙ろうか」


「嫌です」


「なんで?」


「今日は、言いたいことを言ってもいい気がします」


「それ、かなり危ない発言なんだけど」


 伊吹の声が、少しだけ低くなった。

 小夜はその声を聞いて、なぜか嬉しくなる。


「その声、好きです」


「……」


「低い時の声」


「小夜ちゃん、本当に黙って」


「どうしてですか」


「俺がかわいそうだから」


 小夜は不思議に思って、伊吹の顔を見上げた。

 蜂蜜色の瞳が、じっとこちらを見ている。

 いつものように笑っているはずなのに、目だけは笑っていなかった。困ったような、追い詰められたような、それでいてどこか嬉しそうな顔だった。

 伊吹はそう言って、小夜の肩に手を添えた。

 少し距離を取らせようとしているのが分かった。

 けれど、小夜はその手が離れていくのが嫌で、思わず伊吹の袖を強く掴んだ。


「離れないでください」


 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 伊吹の表情が変わる。

 周囲の声はまだ聞こえていた。誰かが笑い、誰かが酒を注いでいる。けれどその音が、少し遠くなった気がした。


「小夜ちゃん」


「……私、ちゃんと伊吹のそばにいますか」


「いるよ」


「本当に?」


「うん。ちゃんといる」


「置いていかないでくださいね」


 言ってから、小夜はなぜそんなことを口にしたのか分からなくなった。

 伊吹が小夜を置いていくわけがない。

 むしろ、離してくれない方の鬼だ。

 分かっているのに、胸の奥に、昔の寂しさのようなものが残っている。母と離れた日。知らない部屋で目を覚ました日。つーちゃんだと思っていた少年が、どこか違う笑い方をした日。

 それらが、酒の熱でふわふわと浮かび上がってきたのかもしれなかった。

 伊吹はしばらく黙っていた。

 それから、小夜の肩に添えていた手に、ほんの少しだけ力を込めた。


「置いていかない」


「約束です」


「うん」


「本当に、約束です」


「分かった。約束する」


 伊吹の声は、ひどく優しかった。

 だから小夜は安心して、もう少しだけ伊吹に寄りかかる。


「伊吹」


「なに」


「近くにいてください」


「いるよ」


「もっと」


 伊吹の呼吸が、わずかに乱れた。

 小夜はそれに気づかないまま、伊吹の胸元に手を添えた。鼓動がある。鬼にも鼓動があるのだと、今さらのように思った。


「小夜ちゃん、それ以上は駄目」


「どうしてですか」


「俺が、いい鬼じゃないから」


「知っています」


「知ってるならやめようね」


「でも、伊吹は私を傷つけません」


 伊吹の目が、細くなる。


「……小夜ちゃん、それも酔ってない時に言って」


「酔っていない時も、思っています」


「今、追い打ちかけないで」


 伊吹はそう言って、片手で自分の顔を覆った。

 その仕草が少しおかしくて、小夜は小さく笑った。


「謝らなくていいから、少し水を飲もうね」


 伊吹は立ち上がると、小夜を支えるようにして広間を出た。

 小夜は大人しくついていったつもりだったが、廊下に出た途端、足元が少し揺れる。畳の上より、板張りの廊下は冷たく感じた。

 夜風の入る縁側に座らされ、伊吹は小夜の手に湯呑みを持たせた。


「水。ゆっくり飲んで」


「はい」


 小夜は両手で湯呑みを持ち、少しずつ水を飲んだ。

 冷たい水が喉を通ると、胸の熱が少しだけ落ち着く。

 隣に座った伊吹は、膝に片肘をつきながら小夜を見ていた。いつものような軽口はない。けれど視線だけは、離れない。

 夜風が頬の熱を冷ましていく。庭の青葉が、月明かりの下で静かに揺れていた。


「伊吹」


「なに」


「伊吹といると、怖いときがあります」


 伊吹の笑みが、すっと失われる。


「うん」


「でも、離れる方がもっと怖いです」


「……そっか」


「だから、困ります」


「俺も困ってる」


「伊吹も?」


「うん。小夜ちゃんがかわいすぎて困ってる」


「真面目に言っています」


「俺も真面目に言ってるよ」


 そう言って、伊吹は小夜の髪に触れた。

 指先が、髪をそっと梳く。

 いつもなら少し身構える距離だった。けれど今は、その手つきがひどく優しくて、拒む気になれなかった。

 伊吹は笑った。

 けれど次の瞬間、小夜の顔が少し近づいたことで、その笑みが消える。

 小夜はただ、伊吹の顔を近くで見ようとしただけだった。

 けれど、伊吹は息を止めた。

 酒の甘い匂いが、二人の間にふわりと漂う。

 小夜の視界に、伊吹の唇が入った。

 あの唇に、何度も救われた。何度も縛られた。怖いと思ったこともある。逃げたいと思ったこともある。けれど今は、不思議とその記憶さえ遠かった。

 小夜は、ほんの少しだけ首を傾げる。


「伊吹」


「……駄目」


 低い声だった。

 伊吹は小夜の肩を支えたまま、動かなかった。

 それから、深く息を吐く。


「今日は、ここまで」


「ここまで?」


「うん」


 伊吹は小夜の顔から視線を逸らし、代わりに額へ自分の額を軽く当てた。

 唇ではなかった。

 ただ額が触れただけなのに、小夜の胸はゆっくり落ち着いていく。


「……どうしてですか」


「小夜ちゃん、酔ってるから」


「少しだけです」


「その『少しだけ』が一番危ない」


「……伊吹は、嫌なんですか」


「嫌じゃないから止めてるの」


 その声は、少し苦しそうだった。

 小夜はぼんやりと伊吹を見る。


「伊吹は、偉いですね」


「今日の俺はかなり偉いよ。後で誰かに表彰してほしいくらい」


「では、私が褒めます」


「やめて。今褒められたら本当に危ない」


「危ないことばかりですね」


「小夜ちゃんのせいだね」


 伊吹は限界を迎えたように、片手で小夜の目元を覆った。

 視界が暗くなる。

 小夜は驚いて、伊吹の手首を掴んだ。


「見えません」


「見せたら俺が困る顔してるから」


「伊吹が?」


「うん」


「……見たいです」


「駄目」


「けちです」


「今日の小夜ちゃん、ほんと容赦ないね」


 伊吹はしばらくそのまま、小夜の目元を覆っていた。

 広間の奥では、誰かが調子外れの歌を歌い始めていた。それに笑い声が重なり、小夜と伊吹の小さなやり取りは、その賑わいに紛れていく。

 小夜は最初こそ不満だったが、伊吹の手のひらが温かくて、だんだん眠くなってきた。体の力が抜けていく。

 気づけば、伊吹の肩に頭を預けていた。


「……眠い?」


「少しだけ」


「部屋に戻ろうか」


「……歩けますよ」


「信用できないなぁ」


「歩けますって」


「じゃあ、三歩だけ歩いてみて」


 小夜は立ち上がろうとした。

 一歩目で、伊吹の袖を掴む。

 二歩目で、伊吹に寄りかかる。

 三歩目は、ほとんど伊吹に支えられていた。


「ほらね」


「……畳ではないので」


「廊下のせいにした」


 伊吹は笑いながらも、小夜を抱き上げることはしなかった。

 ただ、腕を貸し、歩幅を合わせてくれる。ゆっくりと、特別区の廊下を歩く。

 部屋へ戻るまでの道は、いつもより長く感じた。

 けれど、伊吹の隣にいると怖くはなかった。

 部屋に着くと、伊吹は小夜を寝台に座らせ、水をもう一度飲ませた。白い帳が、夜風にかすかに揺れている。


「今日はもう寝ようね」


「伊吹は?」


「俺はここにいるよ。小夜ちゃんが寝るまで」


「寝たあとも?」


 伊吹は一瞬だけ黙った。

 それから、苦笑する。


「小夜ちゃん、ほんと今日すごいね」


「すごい?」


「うん。俺を殺しにきてる」


「殺しません」


 小夜はよく分からないまま、寝台に横になった。

 伊吹が帳の外に座る。

 月明かりが、彼の輪郭を淡く照らしていた。いつもなら近すぎると文句を言うのに、今夜はその距離が遠く感じる。


「伊吹」


「なに」


「手」


 伊吹は少しだけ目を見開いた。

 それから、そっと帳の隙間から手を差し入れてくる。

 小夜はその指先を握った。


「……あたたかいです」


「うん」


「伊吹」


「なに」


「好きです」


 伊吹の指が、ぴくりと震えた。

 小夜はそれを不思議に思いながら、ゆっくり目を閉じる。


「言ったこと、ありましたか」


「……ないよ」


 伊吹の声は、ひどく低かった。


「そうですか」


「うん」


「……今、初めて言いました」


 伊吹は答えなかった。

 ただ、握った手に少しだけ力がこもる。


「伊吹」


「……なに」


「聞こえましたか」


「聞こえたよ」


「よかったです」


 小夜は安心して、そのまま眠りに落ちた。



 翌朝、小夜は頭の奥に薄い霞がかかったような感覚で目を覚ました。

 障子越しに朝の光が差している。

 部屋の中は静かだった。

 寝台のそばには、水差しと湯呑みが置かれている。文机の上には、昨夜のものらしい金平糖の包みがあった。なぜそこにあるのか、小夜には思い出せない。

 起き上がろうとして、少しだけ頭が重いことに気づいた。


「……」


 何か、大事なことを忘れている気がする。

 けれど思い出せない。

 そのとき、障子の向こうから足音が聞こえた。

 伊吹が入ってくる。

 いつも通りの黒い羽織。いつも通りの軽い笑み。

 ただし、目元に少しだけ疲れが見えた。


「おはよう、小夜ちゃん」


「おはようございます」


「気分は?」


「少し頭が重いです」


「だろうね」


「昨日、私は……」


 小夜は言いかけて、記憶を探った。

 慰労の席で酒を飲んだ。甘かった。伊吹が止めた。

 そこまでは覚えている。

 その先が、はっきりとしない。うっすらと伊吹に連れられて部屋に戻ってきた記憶はあるのだが。


「……私、何か、言いましたか」


 伊吹は笑った。

 けれど、その笑い方が妙に怖かった。


「小夜ちゃん」


「はい」


「あんなことしておいて、覚えてないの?」


 小夜の背筋が伸びた。


「あんなこと、とは」


「言わない」


「どうしてですか」


「言ったら俺が死ぬ」


「死なないでください」


「昨日、何回か死にかけた」


「そんなにですか」


「そんなに」


 小夜は顔を青くした。

 まったく覚えていない。

 覚えていないのに、伊吹がここまで言うということは、相当なことをしたのではないか。


「私、失礼なことを言いましたか」


「言った」


「すみません」


「でも、それだけじゃない」


「何をしたんですか」


「言わない。俺の心の中にしまっておく」


「怖いです」


「俺も怖かったよ。小夜ちゃんがかわいすぎて」


 伊吹は寝台の脇に腰を下ろすと、小夜の顔を覗き込んだ。

 その距離が近い。

 小夜が少し身を引くと、伊吹は不満そうに目を細めた。


「昨日は自分から近づいてきたのに」


「えっ」


「手、握ってって言ったのも小夜ちゃん」


「……」


「近くにいてって言ったのも小夜ちゃん」


「……」


「俺の声が好きって言ったのも」


「もうやめてください」


 小夜は両手で顔を覆った。

 熱い。とても熱い。

 酒のせいではない。間違いなく恥ずかしさのせいだった。

 伊吹は楽しそうに笑っている。けれど、その笑い方の奥には昨夜の名残のような危うさがあった。


「小夜ちゃん」


「はい……」


「もう絶対に、お酒飲まないでね」


「そんなにですか」


「そんなに。少なくとも、俺の前以外では絶対に駄目」


 小夜は顔を上げた。

 伊吹の目が、妙に真剣だった。


「伊吹の前なら、いいんですか」


「……駄目かもしれない」


「どちらですか」


「俺も分からない」


「分からないのに、私に決めさせるんですか」


「俺の前以外で飲まれるよりは、俺の前で飲んでほしい。でも俺の前で飲まれると、俺がすごく困る」


「困るのですか」


「困る。昨日みたいな小夜ちゃんを、俺以外が見たらと思うと、ちょっと本気で斬りたくなる」


「斬らないでください」


「じゃあ飲まないで」


「話が極端です」


「小夜ちゃんがかわいすぎたのが悪い」


 伊吹はそう言いながら、小夜の額にそっと指を当てた。

 熱を確かめるような、からかうような、優しい触れ方だった。


「でも、昨日の伊吹は、何もしなかったんですよね」


 小夜がそう言うと、伊吹の表情が固まった。

 それから、ゆっくり視線を逸らす。


「……小夜ちゃん、それ聞く?」


「聞きます」


「何もしなかったよ」


「そうですか」


「俺はとても偉かった」


「はい。偉いです」


「今、素直に褒めないで」


「どうしてですか」


「思い出すから」


 小夜は困ってしまった。

 昨日の自分が何をしたのか、ますます分からない。

 けれど、伊吹が何もしなかったことだけは分かった。

 伊吹は怖い鬼だ。

 欲しいものを、簡単には手放さない。

 それを小夜は知っている。

 それでも昨夜、伊吹は止まった。

 小夜が酔っていたから。

 小夜が、自分で選べる状態ではなかったから。

 小夜は布団の上で指を重ねる。


「……ありがとうございます」


「何のお礼?」


「昨日、たぶん、困らせたので。それでも、伊吹がちゃんとしてくれたので」


 伊吹は少しだけ黙った。

 それから、照れたように笑う。


「ちゃんとしてないよ。内心は全然ちゃんとしてなかった」


「でも、してくれました」


「……小夜ちゃんは、そういうところで俺を甘やかす」


 伊吹はそう言って、小夜の手を取った。

 指先に、唇が触れる。

 手の甲への、ごく軽い口づけだった。

 けれど小夜は、昨夜のことを覚えていないくせに、なぜか胸が落ち着かなくなった。

 朝の光が、障子越しに淡く差し込んでいる。

 文机の上の金平糖の包みが、光を受けて小さくきらめいた。

 伊吹は小夜の額に、今度はゆっくりと口づけた。

 それは昨夜、彼が守った距離と同じ場所だった。

 唇ではなく、額。

 けれど、その触れ方はひどく甘かった。


「昨日の続きは、酔ってない時にね」


 低い声で囁かれて、小夜は意味を理解するまでに少し時間がかかった。

 理解した瞬間、顔が一気に熱くなる。


「伊吹」


「なに」


「そういうことを、朝から言わないでください」


「じゃあ夜ならいい?」


「よくありません」


「残念」


 伊吹は楽しそうに笑った。

 危険な鬼の顔で。

 けれどその手は、小夜の手を包むだけだった。

 逃がさないように。

 壊さないように。

 その両方を、同じ温度で叶えるように。

 小夜は少しだけ困りながら、その手を振りほどかなかった。




 

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