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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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エピローグ 十年目の春

 四月の朝は、やわらかかった。

 封鬼寮の特別区にも、桜が咲いている。障子越しに差し込む光はいつもより明るく、硝子戸の向こうでは春の風に花びらが揺れていた。窓を少し開けると、甘い花の匂いが部屋の中へ流れ込んでくる。

 遠くで雀が鳴いていた。

 十年前にも、同じような音を聞いた気がする。

 小夜は文机の前に座っていた。正確には、座らされていた。

 背後には伊吹がいて、小夜を膝の中に閉じ込めるように座っている。文机の端には、湯気の立つ茶が二つと、薄紅の桜餅が載った皿が置かれていた。桜の葉の匂いと茶葉の香りが、春の空気に混じっている。

 小夜の手元には、白い便箋と封筒。

 筆を取ろうとすると、伊吹の腕が腰に回る。墨を擦ろうとすると、伊吹の顎が肩に乗る。考えようとすると、髪をひと房すくわれる。

 まったく集中できなかった。


「……伊吹」


「ん?」


「書きづらいです」


「そう?」


「そうです」


「でも、小夜ちゃんがどこか行っちゃうよりいいかなって」


「部屋の中にいるだけです」


「それでも」


 伊吹は悪びれずに笑った。

 この間、隊員が「伊吹様、出撃を」と呼びに来たとき。伊吹は文机に肘をついたまま、軽く首を傾げて言った。


「んー、小夜ちゃんがいるから、あとで」


 隊員は困った顔をして、けれど食い下がらずに帰っていった。

 小夜の方も、その時はあまり驚かなかった。最近の伊吹を見ていれば、そういう答えが返ってくることは、なんとなく分かっていた。

 ただし、遠慮を覚えたわけではない。むしろ、最近は妙に調子に乗っている気がする。

 あの夜明けの市街地で、小夜は確かに言った。


 ――私は、間違っているほうを、選びます。


 それ以来、伊吹は小夜に触れることに、ますます遠慮がなくなった。


「小夜ちゃんが選んだんでしょ?」


 そう言われると、小夜は言い返しに詰まる。


「……選びましたけど、何をしてもいいとは言っていません」


「え、でも俺、間違ってるほうなんでしょ?」


「開き直らないでください」


「うん。じゃあ、選んだ責任は取ってね」


「責任?」


「俺を放っておかない責任」


 あまりにも当然のように言われて、小夜は一瞬、言葉を失った。たしかに選んだ。選んだが、好き放題されることまで選んだ覚えはない。


「……手紙を書く間くらい、離れてください」


「やだ」


「即答しないでください」


「小夜ちゃんが真面目な顔してると、邪魔したくなるんだよね」


「最低です」


「間違ってるほうだからね」


 伊吹は、楽しそうに言った。

 小夜はため息をつく。けれど、その腕を本気で振りほどけない自分にも気づいていた。

 怖さも、危うさも、消えたわけではない。伊吹の距離感は相変わらずおかしいし、倫理観も時々ひどくずれている。

 それでも、最近の伊吹は小夜の顔を見るようになった。怖がっていないか、嫌がっていないか、泣きそうではないか。そういうものを、以前よりは気にしている。

 気にしているのに、やめるとは限らない。そこが伊吹だった。


「……お母さんに、何を書けばいいのか分からなくて」


 小夜は、ぽつりと呟いた。

 榊が長官職を退いてから、特別区の規則はいくつか緩んだ。稀血に関する扱いも変わり、採血や検査には小夜自身の同意が必要になった。

 外部の人間を、封鬼寮の特別区に招くことも、条件付きで認められるようになった。

 だから、母へ手紙を書こうと思った。十年間、ほとんど何も真実を伝えられなかった人へ。

 もし、母が来てくれるなら久しぶりに会える。

 けれど、いざ便箋を前にすると、何から書けばいいのか分からなくなる。

 封鬼寮のこと。伊吹のこと。朔夜のこと。稀血のこと。

 書けないことばかりだった。


「書けることだけでいいんじゃない?」


 伊吹が言った。

 小夜は、肩越しに振り返る。


「……伊吹が、まともなことを言いました」


「ひどくない?」


「少し驚いただけです」


「小夜ちゃん、たまに俺のこと雑に扱うよね」


 伊吹はおかしそうに笑って、桜餅をひとつ小夜の方へ押した。


「ほら。食べたら?」


「先に手紙を書きます」


「じゃあ、食べさせてあげる」


「結構です」


 小夜が断るより早く、伊吹は桜餅をひと口分に割って、当然のように小夜の唇へ近づけた。


「……自分で食べられます」


「知ってる」


「なら」


「俺がしたいだけ」


 悪びれない声だった。

 小夜はため息をつきながらも、差し出された桜餅を食べた。桜の葉の塩気と餡の甘さが、舌の上でゆっくりほどけていく。


「おいしい?」


「……はい」


「よかった」


 伊吹は満足そうに笑った。

 その顔を見て、小夜は少しだけ肩の力を抜く。白い便箋に、筆先を下ろした。


『お母さんへ』


 その一文字目を書いた瞬間、胸の奥が少し震えた。



『お母さんへ


 ご無沙汰しています。

 お母さんは、お元気ですか。

 私は、帝都で元気に暮らしています。


 お母さんの手紙を、大事に持っています。

 九年間、何度も読み返しました。

 その度に、お母さんの声が聞こえる気がしました。


 いろいろなことがありました。

 まだ言えないことばかりです。

 でも、私は今、ちゃんとここにいます。


 こちらでは、桜が咲きました。

 窓から見える庭の桜が、もうすぐ満開になります。

 お母さんは、まだあの庭の梅を大切にしていますか。

 あの梅の木の下で、一緒に座った日のことを、ときどき思い出します。


 今までは、なかなか難しかったのですが、こちらの規則が少し緩みました。

 外の方を、私の住んでいる場所へ招くことが、認められるようになりました。

 もし、お母さんのご都合がつくようでしたら、こちらまで会いに来ていただけませんか。

 帝都まで来ていただくのは、たいへんかもしれません。

 無理を言っているのは分かっています。

 それでも、お母さんに会いたいです。

 そのときは、ここで一緒にお茶を飲みたいです。

 桜の季節は終わってしまうかもしれませんが、初夏の青葉も、きれいなところです。


 どうか、お元気で。

 お返事を、待っています。


                 小夜』



 筆を置いた。

 書き終えた便箋を、しばらく見つめる。書きたかったことの十分の一も書けていない。それでも、今の小夜に書けるのは、これが精一杯だった。


「書けた?」


 伊吹が、後ろから覗き込もうとする。


「見ないでください」


「えー、俺のこと書いた?」


「書いていません」


「ひどい。十年ずっとそばにいたのに」


 その言葉に、小夜の手が止まった。

 十年。

 伊吹は、軽い調子で言っただけだろう。けれど、その言葉は小夜の胸に静かに落ちてきた。


(……ずっと、そばにいてくれた)


 怖い夜も、息ができない朝も、伊吹は隣にいた。嘘を吐いて、誤魔化して、小夜を自分のそばに繋ぎ止めて。

 正しくなかった。

 けれど、救われていた。


「……何、その顔」


 伊吹の声が耳元に落ちる。


「変なこと考えてる?」


「……別に」


「嘘」


 くすっと笑った伊吹の指が、小夜の髪をすくった。


「俺のこと考えてた顔だ」


「違います」


「違わないよ」


 唇が触れそうな距離まで近づいてきたので、小夜は慌てて顔をそらした。


「手紙が汚れます」


「じゃあ、あとで」


「しなくていいです」


「それは聞けないかな」


 伊吹は、悪びれもせずに言った。

 やっぱり、控える気はないらしい。

 小夜は呆れたように息を吐いた。けれど、胸の奥は不思議と静かだった。



 昼下がり、小夜は手紙を封筒に入れた。

 文机の上に置かれた封筒は、春の光を受けて白く見える。明日、出してもらおう。そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。

 手紙が出せること自体、つい最近までは難しかった。

 母とのやり取りは、これまで何度かあった。けれど、検閲のような形で、書ける内容も決められていた。本当のことは、ほとんど書けなかった。

 今は、そうではない。

 書きたいことを書ける。来てほしいと、伝えられる。

 それだけのことが、ひどく大きな変化だった。

 小夜は、庭へ出た。

 春の風が、頬をやさしく撫でていく。白い砂利の上には、薄紅の花びらが散り始めていた。冬のあいだ積もっていた落ち葉は片付けられ、苔の緑も少しずつ明るさを取り戻している。

 桜の木の下で、小夜は足を止めた。


(……私は、選んだのだと思う)


 あの夕暮れの瓦礫の街で。朔夜の手を、自分の指で押し戻した瞬間に。

 あれは、流されたのではなかった。

 朔夜のところへ行けば、きっと過去の自分は救われる。十年前の約束も、つーちゃんを待っていた小さな自分も、報われる。

 それを知っていて、小夜は行かなかった。


(……ずるい)


 自分でそう思う。

 約束を忘れずにいてくれた朔夜の覚悟を知っていて、選ばなかった。その重みを、これからも自分で背負わなければならない。

 風が吹いた。

 桜の花びらが、肩に落ちる。

 そのとき、塀の向こうに、かすかな気配を感じた。

 小夜は顔を上げる。

 高い塀の向こうに、人影は見えない。けれど、そこに誰かがいた気がした。

 以前なら、もっとはっきりと感じた。月に何度も、塀の向こうからこちらを見守るような気配があった。けれど最近は、その気配も少しずつ減っている。


(……朔夜)


 心の中で名を呼んだ。

 あの日、朔夜は「待つとは言わない」と言った。けれど、小夜が助けを求めるなら必ず行く、とも。

 その言葉は、待つためのものではなく、縛らないためのものだったのだと思う。

 朔夜もきっと、少しずつ前を向こうとしている。

 寂しくないと言えば嘘になる。けれど、悲しいだけではなかった。

 朔夜が、自分の生を取り戻そうとしている。そのことが、小夜には嬉しかった。

 小夜は塀の方へ、ほんの少しだけ頭を下げた。

 言葉はいらなかった。

 風がまた吹く。

 塀の向こうから、一片の花びらがこちら側へ流れてきたように見えた。

 それは白い砂利の上に落ち、しばらくそこに留まっていた。

 小夜は拾わなかった。いつか風が吹けば、どこかへ飛んでいく。それでいいのだと思った。



 庭から戻る頃には、春の日は少し傾きはじめていた。

 部屋に戻ると、伊吹はまだ文机のそばにいた。片肘をつき、退屈そうに桜餅を眺めている。小夜が戻ってきたことに気づくと、すぐに顔を上げた。


「おかえり」


「……ずっといたんですか」


「いたよ。小夜ちゃんがどこか行っちゃったら困るし」


「庭に出ただけです」


「それでも」


 伊吹は笑った。


「俺、置いていかれるの嫌いなんだよね」


 軽い声だった。けれど、以前より少しだけ本音に近い響きがあった。


「ふうん。さみしかったんですか」


 思わず、からかうように言った。

 その瞬間、伊吹がこちらを見た。


「えー?」


 不満そうな声。


「俺がいるのに、さみしいとか言う?」


「私は言ってません」


「小夜ちゃんには俺がいるのに」


「その自信はどこから来るんですか」


 呆れて言うと、伊吹は楽しそうに目を細めた。

 相変わらずだ。軽くて、適当で、何も考えていなさそうで。けれど、その軽さの奥に、手放す気のなさだけは確かにある。

 小夜は、そっと首筋に手を当てる。刻印の上には、まだほんのりと熱が残っていた。


「なに、その顔」


 すぐ近くで、伊吹の声が落ちる。

 顔を上げると、距離が近かった。いつの間にか、詰められている。


「変なこと考えてない?」


「……別に」


「ふうん」


 伊吹が、くすっと笑う。


「じゃあ、確認」


「……何を」


 答えるより早く、伊吹の指が小夜の頬に触れた。確かめるように、親指が頬の熱をなぞる。


「……っ」


 冷たい指先だった。けれど、触れられた場所だけが、じわりと熱を持つ。

 伊吹はそのまま、小夜の髪をひと房すくい、そこに軽く唇を落とした。


「ほら」


 いつもの軽い声だった。


「ちゃんといるでしょ、俺」


 ずるい。

 分かってやっているみたいで。分かっていないみたいで。

 小夜は、小さく息を吐いた。


「……だから、そういうところです」


「え、どこ?」


「分からないならいいです」


「えー、気になる」


 伊吹が笑う。

 小夜は、文机の上の封筒に目を向けた。


「この手紙、明日出します」


「うん」


「それで……」


 少しだけ言葉に迷う。けれど、黙らなかった。


「お母さんに、ここまで会いに来てもらえないか、聞いてみました」


 伊吹が、小夜を見る。

 蜂蜜色の瞳が、春の光の中で静かに揺れた。


「ここに?」


「……はい」


「小夜ちゃん、お母さんを呼びたいんだ」


「……はい」


「ふぅん」


 伊吹は、何かを考えるように小夜を見つめた。

 いつものからかうような笑みはなかった。


「……それ、小夜ちゃんが自分で決めたの?」


「はい」


「ふぅん」


 伊吹はもう一度、同じ声を出した。

 それから、ふっと笑う。


「いいんじゃない」


「……いいんですか?」


「うん」


 あっさりと言った。

 小夜は、少しだけ驚いて伊吹を見た。

 てっきり、嫌そうな顔をされるかと思っていた。


「……反対しないんですか」


「なんで反対するの」


「だって、お母さんは……」


「うん、小夜ちゃんの大事な人でしょ」


 伊吹は、当たり前のように言った。


「大事な人を、大事にしたいって思うのは、当たり前じゃん」


 その言葉に、小夜は息を呑んだ。

 いつもの軽い伊吹からは、想像もできない言葉だった。


「……伊吹」


「ん?」


「ありがとうございます」


「えー、急に何」


「……いえ」


 小夜は首を振った。

 胸の奥に、温かいものが広がる。

 伊吹は少しだけ目を細めて、小夜の頬に指を当てた。


「でも、お母さんが来てくれたら、その日は俺、邪魔しないからね」


「邪魔って」


「だって、小夜ちゃんの大事な時間でしょ」


 伊吹は、軽く笑った。


「俺が変なことしたら、小夜ちゃんが困るじゃん」


「……たまには、まともな判断ができるんですね」


「ひどい言い方」


「事実です」


「ほんと、小夜ちゃんって、たまに容赦ないよね」


 伊吹は、おかしそうに笑った。

 けれど、その笑みの奥に、確かに何かを認める色があった。

 小夜は皿の上の桜餅をひとつ取り、半分に割った。その片方を、伊吹へ差し出す。


「半分、どうぞ」


 伊吹が、少しだけ目を見開く。


「いいの?」


「はい」


「小夜ちゃんが自分からくれるの、珍しいね」


「いらないなら戻します」


「いる。選ばれた男だからね」


「……桜餅をあげただけです」


「でも小夜ちゃんからでしょ」


 伊吹は、やけに満足そうに桜餅を受け取った。いつもの軽い笑みではなく、ほんの少し素直な顔だった。

 小夜は、その顔を見ながら思う。


(……このひとと、いる)


 それが正しいのかは、まだ分からない。

 伊吹のすべてを許したわけではない。怖さも、危うさも、消えたわけではない。

 けれど今は、ここにいると決めた。

 母へ手紙を出すことも。来てほしいと願うことも。そのときの自分の姿を、母に見せたいと思えるようになったことも。

 誰かに決められるのではなく、小夜が自分で選べばいい。

 明日になれば、また迷うかもしれない。来年には、違う答えが見えているかもしれない。それでも、そのたびに選び直せばいいのだと思った。

 桜餅を口に入れる。

 餡の甘さと、桜の葉の塩気が、ゆっくりほどけていく。伊吹も隣で同じものを食べていた。

 その気配が、あたたかかった。


「ねえ、小夜ちゃん」


「何ですか」


「来年も、これ食べようね」


 小夜は少しだけ驚いて、伊吹を見た。

 伊吹は、何でもないことのように笑っている。

 来年。その先の時間を、当たり前のように口にする。

 以前の伊吹なら、きっと言わなかった言葉だった。未来のことを、そんなふうに約束するひとではなかった。


「……はい」


 小夜は、小さく答えた。

 伊吹が、ふっと目を細める。


「じゃあ、約束」


「桜餅を食べるだけでしょう」


「それでも、大事な約束だよ」


 小夜が頷くと、伊吹は嬉しそうに笑った。そして、当然のように距離を詰める。

 小夜が伊吹を見上げると、蜂蜜色の瞳がすぐ近くにあった。

 春の光の中で、その瞳に映る自分が見える。

 けれど、唇が触れる寸前で、ふと止まる。

 

「……嫌?」

 

 その問いに、小夜は少しだけ目を伏せた。

 嫌ではない。

 そう思ってしまったことが、恥ずかしかった。

 

「……少しだけなら」

 

 伊吹の目が、甘く細められる。

 

「うん。少しだけ」


 伊吹の唇が触れた。

 桜餅の甘さが、まだ少し残っていた。

 文机の上には、母への手紙がある。皿の上には、半分に分けた桜餅がある。窓の外では、塀の向こうから流れてきた花びらが、春の風に揺れていた。

 

 完全に怖くなくなったわけではない。彼が正しいわけでもない。

 それでも、この場所にいることを選んだ。

 

 遠くで、本館の鐘が大きく一つ鳴る。

 夕刻の刻を告げる、十年間ずっと聞いてきた音。

 その響きが、今日はいつもより少しだけ優しく聞こえた。






ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。


第一部はここで一区切りとなりますが、番外編や第二部も執筆中です。ほぼ書き終わっているので、来月には公開できると思います。

今後の更新も見守っていただける方は、ブックマークをそのまま残していただけますと嬉しいです。


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皆さまの応援が、今後の創作の力になります。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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