第十八話 それでも、ここに残る
それは、静かな朝だった。
封鬼寮の中庭には、いつもより多くの隊員が集まっていた。
空には薄く雲が流れている。秋の終わりの朝は澄んでいて、石畳に落ちる影はまだ長かった。夜気の名残を含んだ空気が、頬に冷たく触れる。
小夜も、白い隊服に羽織を重ねて、隊員たちの中に並んでいた。袖口の冷たさが、肌に触れている。
遠くで、本館の鐘が、ゴーン、と一つ鳴った。
朝の刻を告げる、いつもと変わらない音。
けれど、その場にある静けさは、普段のものとは違っていた。重苦しいわけではない。誰かが声を荒げているわけでもない。ただ、何かが終わり、何かが変わろうとしていることを、そこにいる全員が分かっているようだった。
中庭の中央に、榊が立っている。その隣には、白瀬透子がいた。
榊は、いつもの黒の隊服ではなかった。紺の着流しに、濃い色の羽織を重ねている。封鬼寮長官としての装いを脱いだ姿は、いつもより少しだけ痩せて見えた。
白瀬も白衣ではなく、地味な袴姿だった。長い黒髪はいつも通り後ろでまとめられ、細い眼鏡の奥の瞳も、変わらず静かだった。
けれど、その静けさの奥には、はっきりとした覚悟があった。
「……今回の件について、まず私から説明します」
白瀬が、淡々と口を開いた。
その声は、いつも通りだった。感情を削ぎ落としたように平らで、けれど、逃げるつもりのない声だった。
「稀血を用いた抑制剤の研究は、私が主導しました。鬼の暴走を止めるため、稀血の血液から安定した制御薬を作れないかと考えたのです」
小夜の指先が、わずかに震える。
分かっていたことだった。けれど、こうして本人の口から聞くと、胸の奥に重たいものが落ちてくる。
「しかし、その研究は正式な審査と承認を経たものではありませんでした。危険性を十分に検証しないまま、秘匿された形で進められていた」
中庭に、かすかなざわめきが走った。
けれど、白瀬は表情を変えない。
「朝霧さんの血液も、本人への十分な説明と同意を得ないまま、研究に使用しました」
白瀬はそこで一度、小夜の方を見た。
「これは、医官として許されることではありません」
「……白瀬さん」
声が、喉の奥で詰まった。
白瀬は視線を逸らさなかった。
「さらに、朱嶺への投与判断にも、私は関わっています。拒絶反応が起きる可能性を把握しながら、試験段階の薬を用いた。その結果、鬼の暴走を招き、帝都の人々にも被害が出ました」
隊員たちの間に、今度ははっきりとした動揺が広がる。
朱嶺の暴走。崩れた商家。怪我人を運ぶ馬車。夜明け前の街に残っていた、焼け焦げた匂い。
小夜の脳裏にも、あの光景が蘇った。
「責任は、私にあります」
「違う」
低い声が、それを遮った。
榊だった。
「白瀬一人の責任ではない。研究の継続を認め、投与を止めなかったのは私だ」
榊の声は、いつもより掠れていた。けれど、揺らいではいなかった。
「封鬼寮長官として、正式な審査にかけるべきだった。上へ報告し、危険性を明らかにした上で判断を仰ぐべきだった。だが、私はそれをしなかった」
白瀬が、何かを言おうとする。
榊は、それを目だけで制した。
「鬼の暴走を止める手段が必要だった。稀血にすべてを背負わせずに済む方法を、どうしても作りたかった」
その言葉に、小夜は胸を突かれる。
榊の妹。千鶴。優しすぎて、鬼を救おうとして、命を落とした稀血の人。
榊が何を恐れていたのか、小夜はもう知っている。
稀血ひとりに、鬼を救う役目を負わせ続けること。その血に頼りきること。そして、誰かがまた壊れてしまうこと。
榊は、それを止めたかったのだろう。けれど。
「だが、動機が正しくても、方法を誤れば意味はない」
榊は、静かに言った。
「私は、間違えた」
誰も何も言えなかった。
否定も、肯定もできない。
ただ、その言葉だけが、朝の冷たい空気の中に落ちた。
「――よって、私は本日をもって長官職を辞する」
小夜は息を呑んだ。
周囲の隊員たちも、かすかに動揺する。
榊は、続けた。
「後任が正式に決まるまでは、代理体制に移行する。私はすべての指揮権を返上し、処分が決まるまで謹慎する」
「……私も、稀血研究の主任を退きます」
白瀬が静かに続けた。
「研究資料はすべて監査に提出します。今後、稀血本人の同意なしに血液を採取・保管・研究に用いることはありません」
その言葉は、当然のことのようで。
でも、小夜には、それが大きな変化なのだと分かった。
稀血は、これまでずっと守られるものだった。同時に、管理されるものでもあった。
その血は貴重だから。鬼を鎮められるから。誰かを救えるから。
けれど、その理由で本人の意思が後回しにされていいはずがなかった。
小夜は、ぎゅっと衣の袖を握った。
「……それで」
気づけば、声が出ていた。
榊と白瀬が、こちらを見る。
中庭に集まった隊員たちの視線も、小夜に向いた。
少しだけ怖い。でも、言わなければいけないと思った。
「それで、お二人は……封鬼寮を出ていくつもりなんですか」
榊は、すぐには答えなかった。
短い沈黙のあと、静かに言う。
「そのつもりだった」
「……だった?」
「今回の件で、私と白瀬は封鬼寮に大きな不信を残した。研究の管理を誤り、現場の判断を歪め、帝都に被害を出した」
榊は、小夜をまっすぐ見た。
「そのうえで、君に対しても、取り返しのつかない不信を残した。君の血を、君の知らないところで扱った」
小夜は、何も言えなかった。
怒っていないわけではない。怖くなかったわけでもない。
けれど、榊の言葉を聞いていると、その感情が、ただ一つの形に収まらないことも分かった。
小夜は、ゆっくりと息を吸う。
「……責めていないわけでは、ありません」
はっきりと言った。
榊の目が、わずかに揺れる。
白瀬も、ほんの少しだけ瞼を伏せた。
「私の血を、私の知らないところで使われたことは……怖かったです。何も知らされないまま、誰かのために使われるものみたいに扱われたことも」
言葉にするたび、胸の奥が重くなる。
けれど、それだけではなかった。
「でも、それだけではありません。朱嶺さんに危険な薬を投与したことも、その結果、街に被害が出たことも……伊吹にまで同じことをしようとしていたことも」
小夜は、袖を握った。
「誰かを守るためだったとしても、本人の意思も、正しい手続きも飛ばしていい理由にはならないと思います」
中庭が、静まり返る。
自分の声が震えていることに、小夜は気づいていた。
それでも、言葉を止めたくなかった。
「それは、間違っていたと思います」
「……ああ」
榊が低く答える。
「そうだ」
白瀬も小さく頷いた。
「朝霧さんの言う通りです」
小夜は、二人を見た。
榊の顔には、疲れが滲んでいた。白瀬の表情は静かだったが、その指先は、袴の袖の中でかすかに握られている。
この二人は、間違えた。
けれど、何も感じずに人を利用したわけではない。過去の傷から逃れられず、守ろうとして、間違えたのだ。
だからこそ、言わなければいけない気がした。
「でも」
小夜は、息を吸った。
「お二人に、いなくなってほしいわけではありません」
榊が、黙った。
白瀬が、顔を上げる。
「封鬼寮を出ていけば、それで終わるんですか」
「……朝霧さん」
白瀬の声が、わずかに低くなる。
「私は、何もなかったことにしたいわけではありません。でも、お二人にいなくなってほしいわけでもありません」
言いながら、自分の声が震えていることに気づいた。
「責任を取るなら、ここを変えてください。同じことが二度と起きないように。誰かを守るためという理由で、本人の意思も、手続きも、命の危険も置き去りにしないように」
榊の眉が、ほんのわずかに動いた。
小夜は続けた。
「私の血のことは、これからは私にも決めさせてください。鬼を、ただの実験台にしないでください。危険だと分かっているものを、誰にも黙って使わないでください」
そこまで言って、小夜はようやく、自分が何を望んでいるのか分かった。
守られたいだけではない。利用されたくないだけでもない。誰かを責めたいだけでもない。
自分のことを、自分で決めたいのだ。
そして、自分と同じように、誰かの意思が置き去りにされることも、もう見たくなかった。
榊は、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「……君は、強くなったな」
「強くなったかどうかは分かりません」
小夜は首を振る。
「でも、何も知らないままでいるのは、もう嫌です」
朝の風が、中庭を静かに抜けていく。
銀杏の葉が、一枚、石畳の上を滑った。
榊は、ゆっくりと頭を下げた。長官としてではなく、一人の大人として。深く、静かに。
「すまなかった、朝霧」
白瀬も、その隣で頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
二人の声が、朝の空気に落ちた。
小夜は、その言葉を聞きながら、目を伏せる。
胸の奥にあった不信が、消えたわけではない。
傷ついたことも、怖かったことも、なかったことにはならない。
朱嶺が消えたことも、街に被害が出たことも、戻らない。
それでも。
この謝罪を、受け止めることはできると思った。
小夜は、小さく答えた。
「……はい。忘れません。でも、受け止めます」
榊は顔を上げた。
その目に、ほんの少しだけ痛みが残っている。
白瀬も、いつもの淡々とした表情に戻っていた。けれど、眼鏡の奥の瞳は、少しだけ柔らかかった。
*
その日のうちに、処分は内部で決まった。
榊は長官職を退き、しばらく謹慎となった。後任が正式に決まるまで、封鬼寮は代理体制に移る。榊は指揮権を失い、今後は特別区と稀血保護に関する顧問として、監査のもとで残ることになった。
白瀬は稀血研究の主任を外された。医官としての職務は続けるが、研究権限は大きく制限される。稀血に関する検査や採血には、本人の同意と第三者の立ち会いが必要になると決められた。
対外的には、抑制剤研究の管理不備による人事変更。
けれど、封鬼寮の内部では、はっきりと記録される。
稀血の血は、本人の意思を飛ばして扱ってはならない。
鬼を救うためであっても、鬼を実験台にしてはならない。
誰かを守るという名目で、手続きと責任を曖昧にしてはならない。
そして、小夜の血は、小夜自身のものだと。
それは、きっと小さな一歩だった。
けれど、小夜には、その一歩がとても大きく感じられた。
*
中庭を離れる頃には、朝の光が少しだけ強くなっていた。
石畳に落ちていた銀杏の葉が、風に押されて端の方へ流れていく。
隊員たちは、少しずつ散っていった。誰も、すぐには大きな声を出さなかった。何かを口にすれば、今変わったばかりの空気が崩れてしまうようだった。
小夜もまた、しばらくその場を動けなかった。
胸の奥には、まだ重たいものが残っている。怒りではない。許しでもない。
ただ、これから先、自分の血のことを、自分のことを、自分で決めていかなければならないのだという感覚が、静かに沈んでいた。
「小夜ちゃん」
呼ばれて、顔を上げる。
いつの間にか、伊吹がすぐ隣に立っていた。
黒い羽織を肩に引っかけ、相変わらずきちんと立っている気配がない。それなのに、妙に目立つ。朝の光の中でも、蜂蜜色の瞳だけが、どこか夜を残しているようだった。
「……見ていたんですか」
「見てたよ。小夜ちゃん、かっこよかったから」
「からかわないでください」
「からかってないって。ほんとに」
伊吹は、軽く笑った。
いつもの調子だった。けれど、その声は、ほんの少しだけやわらかい。
「ちゃんと言えてたじゃん。私の血は私のものです、って」
「そこまでは言っていません」
「言ってたよ。だいたいそんな感じ」
小夜は、少しだけ眉を寄せた。
「……伊吹は、どう思いましたか」
「何が?」
「榊さんと、白瀬さんのことです」
伊吹は、すぐには答えなかった。
風が吹いて、彼の黒い羽織の裾が揺れる。
「さあ。俺は、小夜ちゃんが決めたなら、それでいいけど」
「……それだけですか」
「うん」
あまりにも軽い返事だった。
けれど、伊吹らしいとも思った。
伊吹はきっと、榊や白瀬の処分に強い関心があるわけではない。正しさや組織のあり方にも、そこまで心を動かされてはいないのだろう。
ただ、小夜がどうしたいか。そこだけを見ている。
それが怖いと思うこともある。でも今は、その偏りが少しだけありがたかった。
「……私は」
小夜は、ゆっくりと言った。
「まだ、怒っているのかもしれません」
「うん」
「でも、出ていってほしいわけじゃありません」
「うん」
「変わってほしいんです。ちゃんと」
「うん」
伊吹は、珍しく茶化さなかった。
小夜は、少しだけ息を吐く。
「……聞いていますか」
「聞いてるよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
軽い。やっぱり軽い。
小夜がじっと見ると、伊吹は楽しそうに目を細めた。
「小夜ちゃん、ちゃんと俺の話、信じてくれない感じ?」
「日頃の行いです」
「ひどくない?」
「ひどくありません」
伊吹が大げさに肩を落とす真似をする。
少しだけ、空気が緩んだ。
さっきまで胸の奥に沈んでいた重さが、ほんのわずかにほどける。
小夜は、視線を落とした。自分の手を見る。
この手に流れている血。鬼を鎮める血。誰かにとっては、道具のように見えるもの。
けれど、もう、ただ管理されるだけではいたくなかった。
守られるだけでも、利用されるだけでもない。
怖くても、迷っても、自分で決めたい。
「……伊吹」
「なに?」
「私の血は、私のものです」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、取り消したくはなかった。
伊吹は、きょとんとした顔をしたあと、ふっと笑った。
「うん。そうだね」
意外なほど、あっさりした返事だった。
小夜は、少し驚いて顔を上げる。
伊吹は笑っていた。いつものように軽く、どこか掴みどころなく。けれど、その目だけは、まっすぐ小夜を見ていた。
「でも、小夜ちゃんは俺のものでもあるよね?」
「違います」
「えー。今の流れで否定する?」
「します」
「ひどいなぁ」
伊吹は大げさに肩を落とした。
けれど、すぐに笑う。
その笑い方に、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「じゃあ、俺の刻印がある小夜ちゃん、ってことで」
「それも、言い方が嫌です」
「難しいねぇ、小夜ちゃんは」
「伊吹が変なんです」
「うん。知ってる」
悪びれもせずに言う。
小夜は、思わず小さく息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか、自分でも分からない。
ただ、さっきまでの重苦しさが、少しだけ遠のいていた。
朝の光が、中庭の端を照らしている。本館の屋根の向こうで、鳥の声がひとつ聞こえた。
封鬼寮は、何もかもが変わったわけではない。榊が退いても、白瀬が主任を外れても、昨日までのすべてが消えるわけではない。
鬼の暴走も、稀血の役目も、伊吹の危うさも。
何一つ、簡単には終わらない。
それでも。
小夜は、自分の手をそっと握った。
この血は、自分のものだ。
そう言えた朝を、きっと忘れない。
「小夜ちゃん」
「はい」
「今日、部屋まで送ってあげようか」
「必要ありません」
「えー、でも疲れてるでしょ」
「一人で歩けます」
「じゃあ、一緒に歩くだけ」
「……それなら、別に」
言ってから、しまったと思った。
伊吹が、嬉しそうに笑ったからだ。
「ふふ。じゃあ、決まり」
彼は当然のように小夜の隣に並んだ。
近い。いつも通り、近すぎる。
けれど小夜は、今日は少しだけ、その距離を許した。
秋の終わりの朝風が、二人の間を抜けていく。
中庭の石畳に、白い羽織の影と、黒い羽織の影が並んだ。
それはまだ、頼りない一歩だった。
けれど確かに、小夜自身が選んだ一歩だった。




