第十七話 間違っているほうを選ぶ
戦いは、終わっていた。
瓦礫の匂いと、焼け焦げた空気だけが、夜明け前の市街地に残っている。
東の空は、まだ暗い。
けれど、黒一色だった空の端に、わずかな白みが差しはじめていた。秋の明け方の空気は冷たく、焼けた木材の匂いと、濡れた土埃の匂いを静かに押し流していく。
崩れた商家の屋根には、夜の名残がまだ深く沈んでいた。
割れた硝子片が、足元でかすかに光っている。遠くでは、警邏局の隊員たちが負傷者を運び、馬車の車輪が石畳を軋ませていた。誰かの泣き声が、朝に変わりかけた空気の中で、細く途切れていく。
朱嶺の姿は、もうどこにもなかった。
ただ、彼が倒れた場所だけが、ひどく静かだった。
そこにいたはずの白い影も、黒い瞳も、朔夜を見上げていた最後の表情も、すべて夜明け前の薄闇に溶けてしまったみたいだった。
小夜は、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥が、まだざわついている。呼吸がうまく整わない。着物の裾には、瓦礫の白い粉が薄くついていた。
「……小夜」
呼ばれて、顔を上げる。
朔夜だった。
銀色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。夜明け前の淡い光の中で、その銀は、いつもより深く澄んでいた。
逃げ場のない視線だった。
誤魔化すことも、曖昧に笑って済ませることもできない。
小夜は何も言えなかった。
言葉が、見つからない。
「……小夜」
もう一度、名前を呼ばれた。
今度は、わずかに低かった。
「はい」
「九年、長かったか」
心臓が、跳ねた。
答えに迷った。
長かった、と言えば嘘になる。短かった、と言えば、もっと嘘になる。
九年は、ここで過ごした自分の人生のほとんどだった。
封鬼寮で目を覚まし、封鬼寮で夜を過ごし、封鬼寮で血を使い、鬼を鎮めてきた。
その時間の中に、伊吹がいた。
軽い声で名前を呼ばれて、振り回されて、怖くて、腹立たしくて、それでもずっと隣にいた。
九年という言葉は、あまりにも重かった。
「……」
答えられない。
ただ、震える呼吸だけが、明け方の冷たい空気に滲んでいく。
「俺は、長かった」
朔夜は、それだけ言って、目を伏せた。
その短い一言の重さが、小夜の胸を打った。
九年。
朔夜にとっての九年間。
待ち続けた時間。
守ろうとし続けた時間。
朱嶺のような者を従え、失いながら、それでも進んできた時間。
そのすべてが、たった一言の中に詰まっていた。
小夜は、唇を噛んだ。
何かを言わなければいけない気がした。
けれど、言葉が見つからない。
ごめんなさい、では足りない。
ありがとう、でも違う。
何を言っても、朔夜の九年間に届かない気がした。
沈黙のあと、朔夜が静かに口を開いた。
「おれは――」
一度、言葉を切る。
それから、まっすぐに小夜を見た。
「理想の鬼の世界を護る」
声は揺らがなかった。
強く、迷いがない。
小夜は、息を呑んだ。
「稀血に頼ることはしない」
朔夜の視線が、わずかに落ちる。
朱嶺がいた場所へ。白い着物の裾が、瓦礫の上に広がっていた、あの場所へ。
「……違うやり方で、鬼を守る」
その言葉の奥に、痛みがあった。
失ったものの重さ。
それでも選び取った覚悟。
それを、小夜は感じ取った。
(……このひとは)
本当に、自分の道を選んだのだと思った。
誰かに強いられたのではなく、誰かの血に縋るのでもなく。
自分の足で立とうとしている。
そのまっすぐさは眩しく、胸が痛むほどだった。
朔夜の視線が、小夜へ戻る。
「それでも」
一歩、近づく。
けれど、距離を無理に詰めることはしない。
ただ、そこに立って、小夜に言葉を差し出した。
「……一緒に、来てくれないか」
静かな声だった。
強制しない。
縛らない。
ただ、選ばせる。
あのときと同じだった。
月明かりの納屋で約束した、あの夜と同じように。
小夜の指先が、わずかに震えた。
差し出された言葉は、とても優しかった。
きっと、この手を取れば、朔夜は小夜を大切にしてくれる。傷つけないように、怖がらせないように、ひとつずつ確認しながら歩いてくれる。
正しいのは、きっとこちらだ。
(……どうして)
こんなにも正しくて。
こんなにも安心できるのに。
小夜は、ゆっくりと視線を動かした。
少し離れた場所に、伊吹がいた。
腕を組んで、つまらなさそうにこちらを見ている。
明け方の淡い光が、その横顔を薄く照らしていた。
何も言わない。
何も求めない。
ただ、黙って見ている。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(……私は)
考える。
どちらが正しいか。
どちらが安全か。
どちらが、自分のためか。
そんなことは、もう分かっていた。
分かっているのに、答えは別のところにあった。
(……離れたくない)
理由なんて、うまく言えない。
怖くて、ひどくて、最低だと思うこともある。
何を考えているのか分からないし、倫理も、人の心の扱い方も、時々ひどく歪んでいる。
それなのに。
(……そばに、いてほしい)
その感情だけが、残った。
九年。
ここで過ごした時間。
軽い声。
冷たい指。
甘い匂い。
理不尽な言葉。
からかうような笑い方。
戦うときの背中。
何もかもが、自分の中に入り込んでいた。
もう、伊吹のいない場所を、うまく想像できなかった。
小夜は、差し出された朔夜の手に、自分の指先をそっと触れさせた。
冷たい。
深い場所の水のような温度。
その手を取れば、きっと正しいところへ行ける。
そう思いながら、小夜はその手を、ゆっくりと押し戻した。
朔夜の指先が、わずかに離れる。
その感触を確かめるように。
自分で選んだのだと、刻みつけるように。
「……行けません」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
言ってから、自分でも息を呑んだ。
朔夜の瞳が、わずかに陰る。
東の空が白みはじめているのに、その銀色だけが、少しだけ暗く見えた。
「……正しいのは、あなたの方だって、分かってます」
絞り出すように、小夜は続けた。
「あなたの方が、優しいって。あなたの方が、まっすぐだって」
声が震える。
「でも――」
一拍、言葉を探した。
冷えた風が、二人の間を抜けていく。
「私は、間違っているほうを、選びます」
言ってから、唇を噛んだ。
自分の言葉が、自分の中に落ちてくる。
誰のせいでもない。
誰に選ばされたわけでもない。
自分で選んだ。
怖くて、ひどくて、最低だと思いながら。
それでも、選んだ。
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
けれど、視線は逸らさない。
逃げない。
朔夜は、しばらく何も言わなかった。
ただ、小夜を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。
「……そうか」
それだけだった。
責めない。
縋らない。
ただ、受け入れる。
その優しさが、逆に胸を締めつけた。
「俺って、間違ってるほう扱いなんだ?」
心外そうな声で、伊吹が口を挟んだ。
朔夜は、完全に無視した。
「……気が変わったら、言ってくれ」
落ち着いた声だった。
「待つとは言わない。でも、君が助けを求めるなら、必ず行く」
その言葉に、何かがほどけそうになる。
けれど、小夜は何も返せなかった。
返せる言葉がなかった。
そのとき。
「そんな日はこないよ。残念だけど」
横から、声が落ちた。
伊吹だった。
変わらない、軽い声。
けれど、その奥に、薄く刃のようなものがあった。
小夜の心臓が、一度だけ跳ねる。
伊吹の方を見られなかった。
朔夜が、ゆっくりと視線を向ける。
二人の目が、明け方の薄闇の中でまっすぐに交わった。
銀と、蜂蜜色。
何も言わない。
それだけで、空気が張り詰める。
風が一度だけ、二人の間を抜けていった。
朔夜の衣の裾と、伊吹の隊服の襟が、かすかに揺れる。
これで終わったわけではない。
けれど今は、誰も動かなかった。
小夜は、その間に立っていた。
どちらにも寄り切れず。
けれど、もう選んでしまったあとで。
(……これで、よかったのかな)
分からない。
それでも胸の奥には、確かに残っていた。
熱と、痛みと。
離れたくないという、たった一つの感情が。
遠くで、夜回りの拍子木が、ぽーん、と一つだけ鳴った。
その音が、夜の終わりに低く沈んでいく。
朔夜は、最後にもう一度だけ小夜を見た。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
それから、踵を返す。
瓦礫の向こうへ歩いていく背中は、夜明け前の薄闇に少しずつ溶けていった。
銀色の瞳も、白い肌も、青墨色の髪も、やがて崩れた街並みの影に紛れて見えなくなる。
小夜は、しばらく動けなかった。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。焼け跡に残った煙が、朝の冷えた風に流されていた。瓦礫の隙間から、細い草が一本だけ揺れている。
膝が、震えていた。
次の瞬間、強い力で抱きしめられた。
「……っ」
息が止まる。
伊吹だった。
いつもの軽さはなかった。
からかう声も、笑う気配もない。
ただ、抱きしめられている。
強く。
息が苦しいくらいに。
肩口に、伊吹の顔が押しつけられているのが分かった。息遣いが、いつもより速い。冷たい指先が、小夜の背中をぎゅっと掴んでいた。
言葉は、何もなかった。
けれど、その腕の力だけが、何かを語っていた。
怖かった。
失うところだった。
離さない。
全部、声にならないまま伝わってくる。
小夜は、何も言えなかった。
ただ、伊吹の背中に、自分の手をそっと添える。
それだけで、伊吹の腕に、さらに力がこもった。
「……帰ろう、小夜ちゃん」
耳元で、低く声が落ちた。
いつもの軽さは、まだ戻っていなかった。
けれど、その声を聞いて、小夜はようやく、自分が息をしていることに気づいた。
秋の夜明けの風が、二人の足元を通り抜けていく。遠くで、負傷者を運ぶ馬車の車輪が、ゆっくりと動き出した。
街は、まだ壊れている。
何も解決していない。
選んだものが正しかったのかも、分からない。
それでも、小夜は、今ここにいる腕の中から逃げなかった。
東の空が、白んでいく。
夜が、少しずつ終わろうとしていた。




