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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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第十六話 忠義の果て

 市街地へ向かう途中、石畳を蹴る足音が、やけに重く感じた。

 夜の帝都は、いつもとは違う匂いがしていた。遠くから、焦げた木の匂いと、金属の溶けたような匂いが、風に乗って届いてくる。

 市電は止まっていた。線路の上を、いつもなら走っているはずの最終便は影も形もない。代わりに、警邏局の隊員たちが、提灯を掲げて走り回っている。


「……はぁ、っ……」


 息が続かない。

 視界が、わずかに揺れる。


(……だめ)


 足に力が入らない。

 体が思ったよりも重い。

 採血。それに加えて――。


(……伊吹に)


 思い出したくないのに、体が覚えている。

 血を抜かれる感覚。唇に残った熱。近すぎる距離。


「小夜ちゃん?」


 隣を走っていた伊吹が、ふと速度を緩めた。


「バテちゃったの?」


 気のない声だった。


「……っ、鬼の無尽蔵の体力と、一緒にしないでください……」


 息を整えながら、どうにか言い返す。

 伊吹は、ふうん、と小さく笑った。


「仕方ないなぁ」


 次の瞬間。


「……っ」


 体が、ふわりと浮いた。抱き上げられる。


「ちょっと……!」


「落ちるよ」


 あっさりと言われる。逃げる間もなく、そのまま腕の中に収まった。

 距離が近い。伊吹の隊服に残るわずかな汗の匂いと、底のない甘い香りが、すぐ鼻先にあった。

 胸がざわつく。

 なのに、抗う力が残っていない。


「軽いね、小夜ちゃん」


「……うるさいです」


「ちゃんと食べてる?」


 問いかけながら、伊吹の速度は落ちない。風が頬を撫でていく。夜の街の灯りが、視界の端を流れるように過ぎていった。

 そのまま、伊吹の唇が頬に軽く触れる。


「……っ」


 ちゅ、と小さな音がした。


「……何してるんですか」


「元気出るかなって」


 悪びれない。

 そのまま、もう一度。今度は少しだけ長く。

 唇の温度が、走りながらの夜気の冷たさと混ざって、肌に残る。

 伊吹の腕の中では、逃げ場がない。

 伊吹は、くすっと笑った。それから、ふと、窓の外でも見るような調子で言う。


「最近さ」


 軽い声。


「ちょっと楽なんだよね」


「……?」


 小夜は、思わず聞き返した。


「楽、って」


「うん。前はもっと退屈だったはずなんだけど」


 走りながら、伊吹は首を傾ける。


「なんか、最近そうでもなくて」


 しばらく考える素振りをして、それから笑った。


「……まあ、どうでもいいか」


 軽く、結論づける。そのまま、また少し走る。夜風が、ふたりの間を流れていった。

 しばらくして、伊吹がまた口を開く。


「小夜ちゃんが離れると、ちょっと面倒なんだよね」


「……面倒?」


「うん。なんか、調子悪くなる。能力っていうか、心がさ」


 冗談みたいに笑う。


「だからさ……そばにいてよ」


 声は軽いままだった。

 でも、その奥に、いつもとは違うものがあった気がした。


「その方が、俺も楽だし」


 付け加えるように言われる。

 小夜は、何も言えなかった。答えを求められているのかどうかも、分からない。ただ、伊吹の腕の中で、息だけが少し浅くなった。

 それ以上、伊吹は何も言わなかった。けれど、その顔は少しだけ柔らかかった。

 やがて、空気が変わった。

 濃い。重い。


(……いる)


 さっきまでとは比べものにならない圧が、市街地の奥から押し寄せてくる。

 暴走した鬼の気配。


「……来たね」


 伊吹が小さく呟く。

 その声は、楽しそうではなかった。ただ、静かだった。

 路地を抜ける。その先に、崩れた壁と、抉られた地面があった。

 倒れた電柱の電線が地面に垂れ、火花をぱちぱちと散らしている。壊れた商家の戸板が、夜風に煽られて低く軋んでいた。

 帝都の夜が、ねじれた形で広がっている。

 そして、中央に――黒い影。

 朱嶺だった。

 だが、昨日とは違う。気配が歪んでいた。膨れ上がり、内側から裂けそうになっている。

 瞳は黒ではなく、濁った光が渦巻いていた。理性と衝動を無理やり混ぜ合わせられたような歪みが、そこにある。

 低く、断続的な唸り声が漏れていた。その声は、人間のものでも、鬼のものでもない。もっと奥の方から押し出されてくる、別の何かの声だった。

 焦げた血の匂いが、鼻の奥を刺す。


「……あれは」


 小夜の声がかすれた。

 そのとき、背後から別の気配が現れた。

 静かに。しかし、確かな圧を伴って。

 石畳を踏む靴音が、ひたり、ひたりと規則的に近づいてくる。


「……やはり、ここか」


 振り返る。

 そこに立っていたのは、榊だった。

 黒の隊服に、濃紺の羽織。いつもと同じ、整った装い。いつもと同じ、無機質な表情。

 けれど、その目だけが、わずかに熱を帯びていた。

 夜風に煽られた羽織の裾が、ゆっくりと揺れる。

 小夜の胸の奥で、何かが揺れた。

 守ると言っていた人。同じ死に方はさせないと言った人。

 その目の奥に、いつもの冷静さとは違う、深い色が滲んでいた。



 瓦礫の中央で、朱嶺がゆっくりと顔を上げた。

 濁った瞳が、小夜を捉える。


「……小夜」


 名を呼ぶ声は、かすれていた。

 けれど、次の瞬間。


「朔夜様の意思を――遂行する」


 その声だけは、はっきりしていた。

 別の意志に、上から塗り固められたような響きだった。

 ぞくり、と小夜の背筋が粟立つ。


(……違う)


 これは、単なる暴走ではない。飢えでもない。もっと歪んだ、意志。

 朱嶺の体が、ふっと消える。


「……っ!」


 次の瞬間には、目の前だった。

 手が伸びる。小夜を掴もうとする。

 だが、その腕を横から弾いた影があった。


「――触るな」


 低い声。伊吹だった。

 指先が朱嶺の腕に触れた瞬間、黒い光が走る。


 《喰縛》。


 妖力が、根こそぎ削がれていく。

 朱嶺の動きが、ほんの一瞬だけ鈍った。

 同時に、別の気配が正面から割り込む。


「……朱嶺」


 静かな声。朔夜。

 銀色の瞳が、まっすぐに朱嶺を見ていた。

 夜火の赤が揺れる街の中で、その銀だけが冷たく澄んでいる。

 三つの気配がぶつかる。空気が歪み、鉄と土の匂いが鼻の奥を刺した。崩れた瓦礫の上に、提灯の灯と火の粉の影がねじれて落ちていた。


「……はは」


 伊吹が、わずかに笑った。


「まさか共闘とか、する日がくるなんてね」


「黙れ」


 朔夜は短く返す。視線は朱嶺だけを見ていた。


「……奴を止めるためだ」


「だね」


 伊吹も軽く肩をすくめた。だが、その目は笑っていない。

 次の瞬間、三者が同時に動いた。

 速い。目で追えない。

 衝撃だけが、空間を裂いていく。

 朱嶺の腕が振るわれるたび、地面が抉れた。砕けた石畳が宙を舞い、瓦礫が雨のように降ってくる。

 伊吹は最小限の動きでそれを避け、すれ違いざまに指先を走らせた。《喰縛》が、朱嶺の妖力を少しずつ削いでいく。奪いながら、縛る。

 その隙を、朔夜が正確に突いた。刀身が朱嶺の体に届く寸前で、わずかに弾かれる。火花が夜気の中に短く散った。

 だが、朱嶺は止まらない。


「――邪魔を、するな」


 自我と衝動が、溶けている。混ざっている。


「朔夜様の、意思を――」


 その動きが、さらに鋭くなった。一直線に。小夜へ。


「……っ!」


 足がすくむ。

 けれど、小夜はただ立ち尽くさなかった。

 懐から結界札を抜く。震える指で、札の端を折る。


「――封じて」


 小さく唱え、石畳へ叩きつけた。

 青白い光が、地面を走る。朱嶺の足元に、細い結界線が浮かび上がった。

 完全には止められない。けれど、ほんの一瞬だけ、朱嶺の足運びが乱れる。


「伊吹!」


「分かってる」


 伊吹が笑った。

 その瞬間、朱嶺の背後に回り込む。指先が首筋に触れ、《喰縛》の黒い光が、さらに深く食い込んだ。

 朱嶺が低く唸る。苦しげに身を捩りながら、それでも小夜へ向かおうとする。

 小夜は、今度は補助班の鈴を取り出した。細い銀の鈴。鬼の気配を揺らし、意識の流れを一瞬だけ逸らすための道具。

 普段なら、下級鬼相手にしか使えない。上級鬼の朱嶺にどこまで効くかは分からない。

 それでも、小夜は鈴を握った。


「……お願い」


 手首を振る。

 りん、と澄んだ音が鳴った。

 夜の瓦礫の街に、場違いなほど清らかな音が広がる。

 朱嶺の瞳が、わずかに揺れた。濁った光の奥で、ほんの一瞬、黒が戻る。


「……っ」


 小夜の胸の奥に、何かが触れた。


 ――共鳴。


 朱嶺の中から、濁流のようなものが流れ込んでくる。

 痛み。怒り。飢え。

 そして、それらを無理やり押し広げる、異物の熱。

 違う。朱嶺自身の感情ではない。もっと外側から注ぎ込まれたもの。

 針の冷たさ。白い指。硝子瓶の赤。押さえつける腕。低い声。


『もう一度だ』


 榊の声。


『量を増やします。これ以上は危険です』


 白瀬の声。


『それでも、やる必要がある』


 榊の声が、さらに沈む。


『この鬼の反応を見なければ、次へ進めない』


 朱嶺の体が、拘束具に縛られている。

 白い灯り。薬品の匂い。血の混じった、薄い赤の液体。腕に刺さる針。焼けるような熱。


(……嘘)


 小夜の喉が詰まった。

 自分が朱嶺を逃がそうとした夜。その直後に、榊と白瀬は、さらに抑制剤を投与していた。

 止めるためではない。検証するために。

 朱嶺の中で、何かが壊れていく感覚が流れ込む。朔夜への忠誠だけが残り、それ以外の感情が薬の熱に押し潰されていく。


 守りたい。

 帰りたい。

 遂行しなければならない。

 朔夜様のために。

 朔夜様のために。

 朔夜様のために。


 その意志だけが、刃のように研ぎ澄まされ、別の形に歪められていた。


(……違う)


 小夜は息を呑む。


(これは、朱嶺の意思じゃない)


 いや、朱嶺の中にあった意志を、無理やり暴走の芯にされたのだ。


「小夜ちゃん!」


 伊吹の声で、現実に引き戻される。

 朱嶺が結界札を踏み砕き、鈴の余韻を振り払った。小夜へ向かってくる。

 来る。そう思った瞬間、伊吹に腕を引かれた。


「危ないって」


 体が引き寄せられる。守られる位置。


(……また)


 胸がざわつく。


(……嫌なのに)


(怖いのに)


 なのに。


(どうして)


 戦闘の最中なのに。命の危険があるのに。

 意識が伊吹へ引きずられる。


 ――もし。


(あのひとが、いなくなったら)


 一瞬だけ、想像してしまった。

 伊吹がいない世界。いつもの軽い声が、もう聞こえない世界。

 その瞬間、胸が強く締めつけられる。


(私は……)


(どうなるんだろう)


 呼吸が浅くなる。

 そして、はっきりと。


(……嫌だ)


 その感情だけが、残った。


 朱嶺の動きが、わずかに揺れた。

 ほんの一瞬。小夜を見たまま、視線が外れない。


「……小夜」


 その声に、わずかに理性が戻る。濁った瞳の奥に、黒い光が浮かんだ。

 小夜は、一歩だけ前に出る。瓦礫の砕けた破片が、足元でじゃり、と低い音を立てた。


「……来ないで」


 声は震えていた。それでも、目は逸らさない。


「あなたは……こんなこと、望んでない」


 言葉が続く。


「あなたが仕えていたのは――こんな形じゃない」


 朱嶺の瞳が揺れる。

 小夜は、もう一枚、結界札を取り出した。今度は、朱嶺を縛るためではない。乱れた共鳴の流れを、ほんの少しでも整えるための札。

 札を両手で握り、胸の前に構えた。


「……戻って」


 札が淡く光る。朱嶺の足元に、薄い輪が生まれた。

 同時に、鈴を鳴らす。

 りん、と澄んだ音が、再び夜を渡った。

 朱嶺の表情が歪む。


「……私は」


 声が崩れる。


「朔夜様の……理想の、ために……」


「違う」


 小夜は言った。


「あなたは、朔夜様のために生きてきた。でも、これは違う。あなたの忠誠を、誰かが利用しているだけです」


 榊が、離れた場所で息を呑む気配がした。

 白瀬はいない。けれど、あの白い研究室の匂いが、小夜の鼻の奥に蘇る。

 朱嶺の膝が、かすかに折れた。

 その瞬間、朔夜が動く。


「……朱嶺」


 低く、痛みを押し殺した声だった。

 朱嶺は、朔夜を見た。濁った瞳の奥に、わずかな光が戻る。


「……朔夜、様」


 その声は、もう命令に縛られたものではなかった。

 けれど、それも一瞬だった。朱嶺の体が、また痙攣する。薬の熱が、内側から理性を押し潰していく。

 小夜には、それが分かってしまった。

 もう、長くは持たない。止められない。

 朔夜も、それを悟ったのだろう。銀色の瞳が、静かに伏せられる。


「……許せ」


 朔夜の指が、刀の柄を握り直した。

 朱嶺の手が震える。


「……私は」


 声が崩れる。


「あなたの……理想の、ために……」


 小夜の手が、わずかに伸びかける。止められなかった。止めようとしたのに。

 その瞬間――朔夜が動いた。


「《静月・断命》」


 低く、押し殺した声。音もなく。

 銀色の閃光が一筋だけ走った。火の粉が舞う夜の中で、その銀だけが、別の色のように浮かんでいた。

 朔夜の刃が、朱嶺を貫く。


「……っ」


 時間が止まったみたいだった。

 風も、音も、燃える街の光さえ、その一瞬だけ動きを止めたように見えた。

 朔夜の顔が歪む。ほんのわずかに。


「……すまない」


 低く、押し殺した声。

 朱嶺は、わずかに笑った。安堵したみたいに。



 朱嶺の意識は、その瞬間、別の場所にあった。

 刃が貫いた痛みは、思ったよりなかった。むしろ、温かかった。

 ゆっくりと膝を折る。目の前に、朔夜の顔があった。

 その顔は、歪んでいた。ほんのわずかに。

 朱嶺は、それを見て安堵した。


(……ああ、よかった)


 まだ、彼らしさが残っている。まだ、痛みを感じるひとだ。

 倒れていく途中で、意識が遠のいていく。

 その中に、走馬灯のように記憶が流れ込んできた。



 朱嶺は、もとは下層の鬼だった。黒夜一族の傍流。幼い頃、両親を上位の鬼に喰われた。弱かったからだ。

 血の匂いの中で、朱嶺は学んだ。強い者に従わなければ、生き延びることはできない。

 最初に近づいたのは、伊吹だった。黒夜一族で、最も強い者。けれど、伊吹は朱嶺を見もしなかった。完全に無関心だった。話しかけても答えない。跪いても、目もくれない。

 強い者の影に入りたいのに、その強い者が、朱嶺を認識すらしていない。それは、両親が殺された日以来の、二度目の絶望だった。

 やがて、伊吹は一族を捨てて消えた。残された一族は混乱し、互いに殺し合いを始めた。朱嶺は、その渦中にいた。どの主に頼っても、すぐに殺される。今日頼ったばかりの主が、明日には別の鬼に喰われていた。

 ある夜、傷を負って、森の中を逃げていた。もう限界だった。地面に倒れて、目を閉じる。苔の匂いと、自分の血の匂いが混じっていた。

 諦めかけた、そのとき。誰かの足音が近づいてきた。


「……生きてるのか」


 低い声。ぶっきらぼうで、でも、どこか優しかった。

 朱嶺は、わずかに目を開けた。黒い髪の青年が、しゃがみ込んでいる。

 知っている顔だった。黒夜本家の、出来損ないと呼ばれていた、伊吹の双子の弟。朔夜。

 驚いた。なぜ、こんな下層の鬼に声をかけるのか。今止めを刺せば、簡単に殺せる。なのに、朔夜は刀を抜かなかった。


「……動けるか」


「……無理、です」


「そうか」


 短く答えて、朔夜は朱嶺の体に手をかけた。朱嶺は朔夜の屋敷へ運ばれ、治療を受けた。

 朱嶺は、その姿を見て不思議に思った。伊吹のような、圧倒的な強さは、朔夜にはなかった。けれど、朔夜は戦っていた。反対派と、毎日のように。屋敷に戻ってくる朔夜の体には、いつも新しい傷があった。血を吐いて、立ち上がっていた。倒れても、立ち上がっていた。何度でも。何度でも。

 ある日、朱嶺は朔夜に問うた。


「……なんで、そこまで、戦うのですか」


 朔夜は、しばらく黙っていた。それから、静かに答えた。


「守りたいから」


 短い言葉だった。当たり前みたいに。

 その瞳に、朱嶺は何かを見た。強さではない、別の何か。目的を持った者の目。守りたいものがある者の目。

 朱嶺は、その瞬間に決めた。強さに従うのではない。目的に従う。初めて、そう思えた。

 その夜、朱嶺は朔夜の前に膝をついた。


「……おそばに、置いてください」


 短く、しかし揺るぎない声だった。

 朔夜は、しばらく朱嶺を見ていた。それから、手を差し伸べた。


「ありがとう」


 それだけだった。冷たい指先だった。血と、傷の匂いがまだ残っていた。

 朱嶺は、その手を取った。迷いはなかった。もう、迷わないと決めていた。

 それからの日々が、朱嶺の生だった。朔夜の代わりに走り、朔夜の代わりに刃を振るった。朔夜が眠れない夜は、見張りに立った。朔夜が傷を負ったときには、自分の血で薬を作った。

 朱嶺にとって、それは初めての居場所だった。



 朱嶺の体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。

 力の抜けた指先が、朔夜の袖をかすめた。瓦礫の上に、白い着物の裾がふわりと広がる。火の赤が、その輪郭を縁取っていた。

 最後に、朱嶺はもう一度、朔夜の顔を見た。

 その顔は、まだ歪んでいる。痛みを感じているひとの顔。


(……ありがとう、ございました)


 声にはならなかった。でも、確かに。

 朱嶺は、笑ったまま、消えた。

 ぼろぼろの笑み。それが、朱嶺の最後の意思表示だった。

 小夜の手から、鈴が滑り落ちた。

 りん、と小さく鳴る。

 その音だけが、やけに澄んで聞こえた。



 少し離れた場所で、榊が立っていた。その光景を見ていた。

 拳が震えている。刀の柄を握る指に、白くなるほど力が入っていた。


「……何が」


 声が漏れる。


「何が、ダメだったんだ……」


 誰にも届かない問いが、空気に落ちた。

 小夜は、榊を見た。

 共鳴で見えたものが、まだ胸の奥に残っている。白い研究室。赤い薬液。押さえつけられた朱嶺。榊の声。白瀬の声。もう一度だ、と言ったあの声。

 小夜の喉が震えた。


「……榊長官」


 声は、かすれていた。

 榊が、小夜を見る。その目は、崩れ落ちた朱嶺ではなく、小夜に向いていた。ひどく、痛そうだった。


「朱嶺は……ただ暴走したんじゃありません」


 榊の表情が、わずかに動く。


「私、見ました。共鳴で」


「……」


「私が朱嶺を逃がそうとした夜のあとに……、朱嶺に、さらに薬を投与したんですね」


 夜の空気が、凍った。

 伊吹が、ゆっくりと榊を見る。朔夜も、朱嶺を抱いたまま顔を上げた。銀色の瞳が、冷たく榊を射抜く。

 榊は、すぐには答えなかった。沈黙が、その答えだった。


「……止めるためだった」


 やがて、榊は低く言った。


「暴走を抑えるために、必要な検証だった」


「でも」


 小夜の声が震える。


「そのせいで、朱嶺は……」


 言葉が続かなかった。

 朱嶺の最後の笑みが、目に焼きついている。朔夜の腕の中で、安堵したように消えていった顔。

 あのひとは、ただ朔夜のもとへ帰りたかっただけなのに。

 榊の顔が、ゆっくりと歪んだ。ほんのわずかに。

 二十年前の、雪の夜の景色と。今、目の前にある、夜火に照らされた瓦礫の街が。彼の中で、ゆっくりと重なっていくのが分かった。


「……私は」


 榊の声は、ひどく低かった。


「また、間違えたのか」


 誰も答えなかった。答えられなかった。

 遠くで、崩れた建物の梁が、ぎしりと音を立てて落ちた。火の粉が舞い上がる。

 その赤い光の中で、朔夜は朱嶺の体を抱いたまま、静かに目を伏せていた。

 伊吹は何も言わなかった。ただ、小夜のすぐそばに立っている。守るように。逃がさないように。

 小夜は、足元に落ちた鈴を拾い上げた。掌の中で、鈴はまだ微かに震えていた。

 朱嶺の最後の意志が、そこに残っているような気がした。

 何を信じればいいのか、まだ分からない。

 封鬼寮も。榊も。白瀬も。朔夜も。伊吹も。

 何も、簡単には選べない。

 けれど――。


(……知らないふりだけは、もうしない)


 小夜は、朱嶺の消えた場所を見つめた。

 火の粉が、夜空へ昇っていく。

 帝都の鐘が、遠くで低く鳴っていた。誰かが危険を告げる音。誰かの終わりを告げる音。

 その音が、夜の底へ沈んでいった。





 

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