表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/50

第十五話 月夜の選択

 地下牢へ続く階段を降りるたび、空気が一段ずつ冷たくなっていく。

 石段の縁には、朝の墨で書かれた結界札が貼られていた。壁際の行灯が、薄い橙の光を石壁に揺らしている。

 小夜は、足音を殺して進んだ。

 懐の中で、結界札の束がかすかに鳴る。予備の札と、補助班の鈴。すべて、この夜のために持ち出してきたものだった。

 二つ目の踊り場に差しかかる前に、小夜は息を潜める。

 通路の奥、朱嶺が捕らえられている牢の前に、見張り役が二人立っていた。

 黒の隊服。深夜帯のせいか、姿勢は少し緩んでいる。けれど、壁に立てかけられた槍の位置と、視線の配り方には隙がなかった。


(……二人)


 想定よりも多い。

 昼間に下見したときは、一人だった。白瀬透子の指示か、榊長官の判断か。どちらにせよ、警戒が上がっている。


(……どうしよう)


 額に汗が滲む。

 懐の結界札を握り直した。札で気を逸らすか、鈴の音で意識を散らすか。けれど、二人を同時に動かすのは難しい。

 迷っているうちに、足がわずかに動いた。

 石段の下の暗がり。見張り役の死角になる場所へ、身を沈めようとした、その瞬間だった。


「――何をしているんですか」


 背後から低い声が響いた。

 心臓が止まりそうになる。

 振り返ると、神崎志乃が立っていた。

 索敵班の制服。深夜の見回りの途中だったのか、結い上げた髪の一筋がわずかに乱れている。切れ長の目元が、暗がりの中で冷たく光っていた。


「朝霧さん」


 志乃の声は低かった。

 怒りではない。ただ、すでに答えを知っている声だった。


「ここで、何をしているんですか」


「……っ」


 声が出ない。

 頭の中が真っ白になった。言い訳が、何ひとつ思い浮かばない。


「答えてください」


 志乃が一歩近づく。

 石段の上で、足袋の音が低く響いた。志乃の視線が、小夜の懐に落ちる。握りしめた結界札の束。深夜の地下に、補助班の道具を持って降りてきた意味。

 志乃は、すぐに察したのだろう。


「……朱嶺を、逃がすつもりですか」


 声が、わずかに鋭くなった。

 通路の奥で、見張り役の二人がこちらに気づく。空気が、ぴしりと張り詰めた。


「神崎さん――」


 小夜は、絞り出すように言った。


「朱嶺は、実験台にされています。私の血で作った薬を、投与されようとしている。あれは、間違っているんです」


「あなたが判断することではありません」


 志乃の声は冷たかった。


「組織として決まったことです」


「でも――」


「あなたが今していることは、裏切りですよ」


 その一言が、刃のように胸の真ん中を刺した。

 裏切り。

 そう、これは裏切りだ。

 封鬼寮を、榊長官を、白瀬透子を。九年間、自分を保護してくれた場所を裏切ろうとしている。

 それでも、小夜は首を振った。


「……それでも」


 声が震える。


「私は、間違ったままでいたくないんです」


 志乃が、わずかに目を細めた。

 ほんの一瞬だけ、彼女は唇を噛む。

 けれど次の瞬間には、索敵班の顔に戻っていた。迷いを押し込めるように背筋を伸ばし、廊下の奥へ向かって低く声を上げる。


「――誰か、長官をお呼びして」


 見張り役の一人が、即座に動いた。

 石段を駆け上がっていく足音が、地上へと遠ざかっていく。小夜は、その音を聞くことしかできなかった。

 志乃が、もう一歩近づく。


「朝霧さん」


 その声には、わずかな揺らぎがあった。


「私は、あなたを止めたくて止めているわけではありません」


「……」


「ただ、組織の決まりは守らなければならない」


 志乃の指先が、かすかに震えていた。

 それだけが、彼女の本心の片鱗だった。

 小夜は唇を噛む。反論する言葉が見つからなかった。どれだけ自分の中に正しさがあっても、志乃の言葉もまた間違っていない。

 だからこそ、苦しかった。

 やがて、石段の上で足音が響いた。

 駆け上がっていった見張り役のものとは別に、ゆっくりとした、確かな歩みが近づいてくる。

 榊長官だった。

 榊は、小夜の前で静かに立ち止まった。

 黒の隊服のまま。深夜の呼び出しにも、表情にはいつも通り揺らぎがない。ただ、その目だけが、いつもより深く沈んでいた。


「朝霧」


 短く名前を呼ばれる。


「……はい」


「神崎の言うことは、聞いたか」


「はい」


「君のしたことは、隊規に違反している」


 淡々とした声だった。

 けれど、その奥に、わずかな疲れのようなものが滲んでいた。


「申し訳ありません」


 小夜は頭を下げた。

 反論はしなかった。反論する立場ではなかった。

 榊は、しばらく小夜を見ていた。それから、ゆっくりと言う。


「……君を、しばらく拘束する」


「……はい」


「事態が落ち着くまでだ」


「抵抗するつもりはありません」


「分かっている」


 榊は低く答えた。


「だが、君は自分の正しさのためなら、もう一度動く」


「……」


 その言葉に、小夜は何も返せなかった。

 榊の手が、小夜の肩に触れる。

 優しいとは言えない。けれど、痛めつけるための手でもなかった。

 その指先から、ほんのわずかな青白い光が走る。封鬼寮独自の、結界術の一種だった。


(……あ)


 何かを言おうとした。

 けれど、声にはならなかった。

 視界がゆっくりと暗くなる。体から力が抜けていく。倒れる前に、榊の腕が支えてくれたのが、かすかに分かった。


「……すまない、朝霧」


 遠くで、榊の声が聞こえた気がした。

 謝っているのか、責めているのか。

 判別する前に、意識は深く沈んでいった。



 目を開けたとき、最初に見えたのは白い帳だった。

 浅く息を吸う。

 石ではなく、畳の匂いがした。知らない畳の、まだ青い匂い。

 ゆっくり視線を動かす。部屋はそれなりに広かった。六畳ほどの畳敷き。壁際には小ぶりな寝台があり、その縁に白い帳がかかっている。文机には墨壺と筆が整然と並べられ、壁の行灯が淡い橙色の光で畳の縁をぼんやりと照らしていた。

 牢というには、清潔すぎる部屋だった。

 けれど、手が上がらない。


(……っ)


 小夜は、自分の手を見上げた。

 両手が、天井から伸びる金属の鎖につながれている。

 手錠だった。

 革と鉄でできた、装飾的な造り。手首には白い布が巻かれていて、肌を傷つけないよう配慮されている。


(……拘束具)


 ゆっくりと、状況を理解する。


(……ここ、地下牢)


 けれど、想像していた地下牢とは違った。

 石の床。冷たい壁。結界の文字。そういう場所ではない。畳敷きで、寝台があり、文机まで置かれている。


(……貴人用の牢屋)


 封鬼寮の記録で読んだことがある。

 罪人として裁く前に、重要人物を一時的に留め置くための部屋。地下にありながら、罪人扱いではなく、身分の高い者にも対応できる造りになっている。

 牢であって、牢ではない場所。


(……榊長官は、私をここに)


 罪人として扱わなかった。

 処分の前に、まず穏やかに収容したのだ。

 その配慮が、かえって胸の奥に重く沈んだ。


(……当然だ)


 小夜は長く息を吐いた。

 怒りはない。ただ、納得していた。組織の決まりを破ったのだから、拘束されるのは当然だった。

 目を閉じる。

 朱嶺は、結局逃がせなかった。志乃に見つかり、榊に止められ、ここへ連れてこられた。

 今頃、朱嶺はどうしているだろう。

 白瀬の研究室で、また何かを採取されているのだろうか。抑制剤を投与されているのだろうか。


(……ごめんなさい)


 心の中で、朱嶺に詫びた。

 助けに行ったつもりが、結局、何もできなかった。逃げられない自分の身を、どうすればいいのかも分からない。

 それでも、不思議と後悔はしていなかった。

 動かずに、知らないふりをしていたら、もっと苦しかったと思う。動いた結果、ここにいる。それが、自分の選択の結果だった。

 行灯の灯が、わずかに揺れた。

 地下では、時間の感覚が曖昧になる。夕方なのか、夜なのか。日の光が届かない部屋の中で、行灯の橙色だけが時を支えていた。


 ――どのくらい経っただろう。


 扉の向こうで、足音がした。

 いくつかの、慌てた音。次に、何かが倒れる低い音。短い呻き。

 そして、しんと静まり返る。

 小夜の心臓が跳ねた。

 外で、何かが起きている。

 扉の前まで足音が近づいてきた。今度は、軽い、馴染みのある足音だった。

 鍵が外から回される。錠前の金具が、かちゃりと低く響いた。

 扉が、ゆっくりと開く。


「……助けにきたよ〜」


 軽い声がした。

 夜の冷気と一緒に、その声が部屋へ流れ込んでくる。

 扉の向こうに、伊吹が立っていた。黒の隊服のまま、いつもと同じ軽い笑みを浮かべている。ただ、左の頬には、ほんのわずかに薄い赤が滲んでいた。見張り役を倒したときに、すりむいたのだろう。


「まさか牢屋に入ってるなんて、びっくりしたよ」


 扉の縁にもたれて、伊吹は楽しそうに小夜を見た。


「どんな悪いことしたの? 小夜ちゃん。仲間に入れてよ」


「伊吹……!」


 声が震えた。

 怒っていいのか、安堵していいのか、自分でも分からなかった。

 伊吹は、ゆっくりと部屋に入ってくる。草履が畳を踏む音がした。

 小夜の前で立ち止まり、手錠で吊り上げられた腕を視線でなぞる。それから、口の端を上げた。


「……いい眺めだね」


 甘い声だった。


「こんな状態じゃ、何されても文句言えないね」


「……っ」


 顔が、かっと熱くなる。

 悪い笑みだった。いつもの軽さの中に、どこか含みがある。

 伊吹は文机に近づき、そこに置かれていた細い筆を手に取った。乾いた筆先を、自分の指で軽く撫でながら戻ってくる。


(……っ、何)


 小夜は身を引いた。

 けれど、手錠のせいでほとんど動けない。


「ねえ、小夜ちゃん」


 伊吹は笑顔のまま、筆先を小夜の首筋へ近づけた。


「ちょっと、いたずらしていい?」


「や、やだ……っ」


「だめ?」


 答えは聞いていなかった。

 筆先が、すっと首筋を撫でる。


「ひゃっ……」


 体が跳ねた。

 くすぐったいだけのはずなのに、手首を吊られているせいで逃げられない。感覚ばかりが、やけにはっきり伝わってくる。


「そこ、やめっ」


「えー、なんで」


 筆先が、鎖骨の上をゆっくり這う。


「いじわる、しないで……」


 声が上ずった。

 顔が熱い。悔しいのに、逃げられない。

 脇腹に筆先が触れた瞬間、小夜はとうとう声を上げて笑ってしまった。


「あはっ、あははっ!」


「お、そこ弱いんだ」


「も、もう! やめてってば!」


「えー、可愛い反応だなぁ」


 伊吹は本気で楽しそうだった。


「あはははっ、あ、あはっ……っ」


(どうしてこんな目に……)


 手錠で吊られたまま、笑い続けるしかない自分が情けない。

 伊吹はしばらく筆先を遊ばせていたが、ようやく満足したのか、くすくす笑いながら筆を文机に戻した。

 小夜は息も絶え絶えだった。肩を揺らして深く息を吸い、涙の名残を瞬きで散らす。


「……ごめんごめん」


 伊吹はまだ笑っている。


「こんな状態、なかなかないからさ。悪いことしたくなっちゃって」


「……最低です」


 絞り出すように言った。

 でも、声にはもう怒気が残っていなかった。力が抜けて、ただ伊吹を見上げることしかできない。

 伊吹はそれを見て、もう一度笑った。

 それから、すっと真顔になる。


「……これ、邪魔だよね」


 軽い声で、小夜の手錠に手を伸ばした。

 普通の鬼なら、触れた瞬間に力を削がれる拘束具だった。結界術が刻まれた鉄と革の鎖は、外側から力任せに壊せるものではない。

 けれど伊吹は、眉ひとつ動かさなかった。

 次の瞬間、手錠が砕けた。

 鈍い音と、金属が割れる音が重なる。伊吹の指先が、わずかに光ったのが見えた。

 封鬼師としての力ではない。鬼としての力を、封鬼師の術で無理やり押し通したのだ。

 手首から鎖が落ち、畳の上で低い音を立てた。

 自由が戻った手を小夜が見ようとする前に、伊吹がその体を抱き上げる。


「……っ」


 突然のことに、息が止まった。

 伊吹は当然のように小夜を腕に抱えた。


「行こ」


 短く、それだけ言って扉へ向かう。

 部屋を出ると、廊下の床に見張り役が二人倒れていた。息はしている。ただ、気を失っているだけだ。


(……伊吹がやったんだ)


 石段を、伊吹が軽々と上がっていく。小夜は、ただ運ばれることしかできなかった。

 地下の冷気が、一段ずつ薄れていく。

 地上に出ると、深い藍の夜空に月が高く澄んでいた。

 秋の夜気が肌に冷たい。封鬼寮本館の大きな影が、月光の中に静かに浮かび上がっている。

 伊吹は小夜を抱えたまま、軽く膝を曲げた。

 次の瞬間、体がふわりと浮く。


「……っ」


 小夜は思わず伊吹の首にしがみついた。

 空が近い。

 風が強くなる。

 伊吹は本館の屋根の上へ、軽々と着地した。瓦の上で小夜をゆっくり下ろす。けれど、すぐ隣に立って肩を支えてくれていた。

 屋根の頂に近い場所だった。

 風が強く、二人の隊服の裾が夜気の中で揺れる。


「……さて」


 伊吹が口を開いた。

 声は軽かった。


「どこ行こっか?」


「え……?」


 小夜は伊吹を見上げる。

 月光の中で、蜂蜜色の瞳が青く澄んでいた。


「もう、こんなところ用ないでしょ」


 伊吹は屋根の下を見下ろした。


「小夜ちゃんを、こんな目に遭わせる場所なんて」


 その声には、ほんの少しだけ温度がなかった。


「……」


 小夜は答えられなかった。

 伊吹の目が、屋根の下へ向く。

 本館。医務室。長官執務室。白瀬透子の研究室。それから、地下牢へ続く石段。


「ああ」


 伊吹が薄く笑った。


「せっかくだから、全部壊してから出て行こっか?」


 その目は、本気だった。

 軽い口調なのに、目だけが深く沈んでいる。月光の中で、その瞳の奥に別のものが見えた気がした。

 壊しかねない、本気の鬼の目。

 小夜は息を呑み、慌てて首を振った。

 体ごと伊吹の胸にすがりつく。


「……やめて」


 声が震えた。


「壊さないで」


 伊吹は、しばらく黙って小夜を見下ろしていた。

 それから、ふっと笑う。


「分かったよ」


 軽い声に戻った。


「どうしたい? 小夜ちゃんの言うとおりにするよ」


 その言葉は、不思議と優しく聞こえた。

 でも、本気で言っていることも分かる。

 小夜は伊吹の胸に額を押しつけたまま、屋根の下を見下ろした。

 九年間、見慣れてきた封鬼寮。

 本館。医務室。補助班の研究棟。夜勤明けに皆で食べる食堂。特別区。

 月光の中で青く沈んでいる、自分の場所。


(――出ていきたいのだろうか、私は……)


 仲間になれたと、思っていた。

 九年間、自分の血で鬼を鎮め、封鬼寮の一員として戦ってきた。

 なのに、その血は知らないところで利用されていた。朱嶺のような鬼を、実験台にするために。

 ぎゅっと、伊吹の衣を握りしめる。

 返事はできなかった。

 でも、伊吹は急かさずに待っていた。

 風が頬を撫でていく。


「……俺はここに未練なんてないから」


 伊吹がぽつりと言った。


「小夜ちゃんが選んでいいよ」


「……」


「鬼を倒すのに便利だから、いただけだし」


 軽い声のままだった。

 けれど、続く言葉は、どこか違った。


「小夜ちゃんさえいるなら、俺はどこでもいいからさ」


 その一言で、心臓が強く跳ねた。

 風の音が、一瞬だけ遠くなる。


(……今、伊吹は)


 まるで、愛の告白のようだった。

 でも本人は軽い顔のままで、自分の言葉の意味に気づいていないようにも見える。


(……気づいていないの? それとも、気づかないふりをしているの?)


 判別がつかない。

 月光の中で、伊吹の横顔はいつもと同じ軽さで笑っていた。けれど、その目だけは深く澄んでいる。

 風が強くなり、二人の影が瓦の上でわずかに揺れた。

 小夜は、伊吹を見上げる。


(……このひとは)


 軽い口調で、本気のことを言う。

 軽い口調で、倫理感のずれたことを言う。

 その両方が、ひとつの体の中に共存している。

 九年間、ずっと隣にいたのに。今夜初めて、その輪郭が見えた気がした。

 でも、その先まで追いかけるのは、まだ怖かった。

 答えを出したくなかった。

 答えを出さなければいけないことが、怖かった。

 そのとき、屋根の下で慌ただしい足音が響いた。


「伊吹様! 朝霧さん!」


 息を切らした隊員の声だった。

 伊吹が屋根の縁から下を見る。月明かりの下、隊員がこちらへ駆けてくるのが見えた。


「市街地で、鬼の暴走確認!」


 声が、夜の風に乗って届く。


「被害拡大中です! 先日捕らえた鬼が逃走し、暴れているようです!」


 空気が、一気に切り替わった。

 小夜は息を呑む。


(……朱嶺)


 あの鬼が。

 逃走して、暴れている。

 それは、投与された結果なのか。

 拒絶反応なのか。

 あるいは、別の何かなのか。

 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 伊吹が、ゆっくりと小夜を見る。

 その目は、軽さの奥で深く澄んでいた。

 判断を、小夜に委ねている目だった。

 逃げるなら、逃げる。

 戦うなら、戦う。

 どちらでもついて行く。

 そう言っているような目だった。

 小夜は一瞬、躊躇した。

 唇を強く噛む。

 

 逃避行。

 伊吹と、二人で。


 それは、確かに魅力的に思えた。九年間の重みを全部置いていける。誰の駒でもなくなれる。


 でも――逃げたら、朱嶺は誰が止めるのか。


 市街地で、何人が犠牲になるのか。

 自分の血で作られた薬の結果なら、自分にも責任があるはずだ。

 小夜は、ゆっくりと頷いた。


「……行きましょう、伊吹」


 声に、震えはなかった。

 伊吹は、しばらく小夜を見ていた。

 それから、軽く笑う。


「あーあ」


 残念そうな声だった。

 でも、目はすでに闘争心に満ちている。


「小夜ちゃんと逃避行するのもいいかと思ったけど」


 大げさに肩を竦める。


「お預けかぁ」


 冗談か、本気か、分からない声。

 いつもの伊吹だった。

 屋根の縁に、軽く足をかける。


「行こっか」


 小夜の腕を、ぐっと掴む。

 いつもの距離。

 いつもの温度。

 でも、その手の力は、いつもよりわずかに強かった。


「……はい」


 小夜は頷いた。

 屋根の上から、月光の中に沈む帝都が見えている。

 遠く、市街地の方角の空が、わずかに赤く滲み始めていた。火の手が上がっているのかもしれない。

 風が強く吹く。

 二人の影が、瓦の上でひとつに重なった。

 伊吹が、軽く空を蹴る。

 体が、ふわりと浮いた。

 月光の中を、二人で滑空していく。

 帝都の夜が、目の前に広がっていた。

 遠くで、また街の鐘が低く一つ鳴る。

 誰かが、危険を告げる音だった。



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ