第十五話 月夜の選択
地下牢へ続く階段を降りるたび、空気が一段ずつ冷たくなっていく。
小夜は、足音を殺して進んだ。
懐の中で、結界札の束がかすかに鳴る。予備の札と、補助班の鈴。すべて、この夜のために持ち出してきたものだった。
二つ目の踊り場に差しかかる前に、小夜は息を潜める。
通路の奥、朱嶺が捕らえられている牢の前に、見張り役が二人立っていた。
(……二人)
想定よりも多い。
昼間に下見したときは、一人だった。警戒が上がっている。
(……どうしよう)
額に汗が滲む。
札で気を逸らすか、鈴の音で意識を散らすか。けれど、二人を同時に動かすのは難しい。
迷っているうちに、足がわずかに動いた。
見張り役の死角になる場所へ、身を沈めようとした、その瞬間だった。
「――何をしているんですか」
背後から低い声が響いた。
心臓が止まりそうになる。
振り返ると、神崎志乃が立っていた。
深夜の見回りの途中だったのか、結い上げた髪の一筋がわずかに乱れている。
切れ長の目元が、暗がりの中で冷たく光っていた。
「朝霧さん。ここで、何をしているんですか」
「……っ」
声が出ない。
言い訳が、何ひとつ思い浮かばない。
「答えてください」
志乃が一歩近づく。
志乃の視線が、小夜の懐に落ちる。握りしめた結界札の束。深夜の地下に、補助班の道具を持って降りてきた意味。
志乃は、すぐに察したのだろう。
「……朱嶺を、逃がすつもりですか」
声が、わずかに鋭くなった。
通路の奥で、見張り役の二人がこちらに気づく。
「神崎さん――」
小夜は、絞り出すように言った。
「朱嶺は、実験台にされています。私の血で作った薬を、投与されようとしている。あれは、間違っているんです」
「あなたが判断することではありません。組織として決まったことです」
「でも――」
「あなたが今していることは、裏切りですよ」
その一言が、刃のように胸の真ん中を刺した。
裏切り。そう、これは裏切りだ。
封鬼寮を、榊長官を、白瀬透子を。九年間、自分を保護してくれた場所を裏切ろうとしている。
それでも、小夜は首を振った。
「……それでも」
声が震える。
「私は、間違ったままでいたくないんです」
志乃が、わずかに目を細めた。
ほんの一瞬だけ、彼女は唇を噛む。
けれど次の瞬間には、索敵班の顔に戻っていた。
「――誰か、長官をお呼びして」
見張り役の一人が、即座に動いた。
志乃が、もう一歩近づく。
「朝霧さん。私は、あなたを止めたくて止めているわけではありません。ただ、組織の決まりは守らなければならない」
志乃の指先が、かすかに震えていた。
それだけが、彼女の本心の片鱗だった。
小夜は唇を噛む。
どれだけ自分の中に正しさがあっても、志乃の言葉もまた間違っていない。
だからこそ、苦しかった。
やがて、石段の上でゆっくりとした、確かな歩みが近づいてきた。
榊長官だった。
榊は、小夜の前で静かに立ち止まった。
表情にはいつも通り揺らぎがない。ただ、その目だけが、いつもより深く沈んでいた。
「朝霧。神崎の言うことは、聞いたか」
「はい」
「君のしたことは、隊規に違反している」
淡々とした声だった。
けれど、その奥に、わずかな疲れのようなものが滲んでいた。
「申し訳ありません」
小夜は頭を下げた。
反論はしなかった。反論する立場ではなかった。
榊は、しばらく小夜を見ていた。それから、ゆっくりと言う。
「……君を、しばらく拘束する。事態が落ち着くまでだ」
「抵抗するつもりはありません」
「分かっている。だが、君は自分の正しさのためなら、もう一度動く」
その言葉に、小夜は何も返せなかった。
榊の手が、小夜の肩に触れる。
その指先から、ほんのわずかな青白い光が走る。封鬼寮独自の、結界術の一種だった。
(……あ)
何かを言おうとした。けれど、声にはならなかった。
視界がゆっくりと暗くなる。倒れる前に、榊の腕が支えてくれたのが、かすかに分かった。
「……すまない、朝霧」
遠くで、榊の声が聞こえた気がした。
謝っているのか、責めているのか。
判別する前に、意識は深く沈んでいった。
◇◆◇
目を開けたとき、最初に見えたのは白い帳だった。
石ではなく、畳の匂いがした。
六畳ほどの畳敷きに、小ぶりな寝台と文机。壁の行灯が淡い橙色の光で畳の縁を照らしていた。
牢というには、清潔すぎる部屋だった。
けれど、手が上がらない。
(……っ)
小夜は、自分の手を見上げた。
両手が、天井から伸びる金属の鎖につながれている。
手錠だった。手首には白い布が巻かれていて、肌を傷つけないよう配慮されている。
(……貴人用の牢屋)
封鬼寮の記録で読んだことがある。
罪人として裁く前に、重要人物を一時的に留め置くための部屋。
牢であって、牢ではない場所。
(……榊長官は、私をここに)
罪人として扱わなかった。
その配慮が、かえって胸の奥に重く沈んだ。
(……当然だ)
小夜は長く息を吐いた。
怒りはない。組織の決まりを破ったのだから、拘束されるのは当然だった。
朱嶺は、結局逃がせなかった。
今頃、朱嶺はどうしているだろう。
白瀬の研究室で、抑制剤を投与されているのだろうか。
(……ごめんなさい)
心の中で、朱嶺に詫びた。
助けに行ったつもりが、結局、何もできなかった。
それでも、不思議と後悔はしていなかった。
動かずに、知らないふりをしていたら、もっと苦しかったと思う。
行灯の灯が、わずかに揺れた。
地下では、時間の感覚が曖昧になる。
――どのくらい経っただろう。
扉の向こうで、足音がした。
いくつかの、慌てた音。次に、何かが倒れる低い音。短い呻き。
そして、しんと静まり返る。
小夜の心臓が跳ねた。
扉の前まで足音が近づいてきた。今度は、軽い、馴染みのある足音だった。
鍵が外から回される。
扉が、ゆっくりと開く。
「……助けにきたよ〜」
軽い声がした。
扉の向こうに、伊吹が立っていた。いつもと同じ軽い笑みを浮かべている。
ただ、左の頬には、ほんのわずかに薄い赤が滲んでいた。見張り役を倒したときに、すりむいたのだろう。
「まさか牢屋に入ってるなんて、びっくりしたよ。どんな悪いことしたの? 小夜ちゃん。仲間に入れてよ」
「伊吹……!」
声が震えた。
怒っていいのか、安堵していいのか、自分でも分からなかった。
伊吹は、ゆっくりと部屋に入ってくる。
小夜の前で立ち止まり、手錠で吊り上げられた腕を視線でなぞる。それから、口の端を上げた。
「……いい眺めだね。こんな状態じゃ、何されても文句言えないね」
「……っ」
顔が、かっと熱くなる。
悪い笑みだった。
伊吹は文机に近づき、そこに置かれていた細い筆を手に取った。
(……っ、何)
小夜は身を引いた。
けれど、手錠のせいでほとんど動けない。
「ねえ、小夜ちゃん。ちょっと、いたずらしていい?」
「や、やだ……っ」
「だめ?」
答えは聞いていなかった。
筆先が、すっと首筋を撫でる。
「ひゃっ……」
体が跳ねた。
くすぐったいだけのはずなのに、手首を吊られているせいで逃げられない。
「そこ、やめっ」
「えー、なんで」
筆先が、鎖骨の上をゆっくり這う。
脇腹に筆先が触れた瞬間、小夜はとうとう声を上げて笑ってしまった。
「あはっ、あははっ!」
「お、そこ弱いんだ」
「も、もう! やめてってば!」
「えー、可愛い反応だなぁ」
伊吹は本気で楽しそうだった。
(どうしてこんな目に……)
手錠で吊られたまま、笑い続けるしかない自分が情けない。
伊吹はしばらく筆先を遊ばせていたが、ようやく満足したのか、くすくす笑いながら筆を文机に戻した。
小夜は息も絶え絶えだった。
「……ごめんごめん。こんな状態、なかなかないからさ。悪いことしたくなっちゃって」
「……最低です」
絞り出すように言った。
でも、声にはもう怒気が残っていなかった。
伊吹はそれを見て、もう一度笑った。
それから、すっと真顔になる。
「……これ、邪魔だよね」
軽い声で、小夜の手錠に手を伸ばした。
結界術が刻まれた鉄と革の鎖は、外側から力任せに壊せるものではない。
けれど伊吹は、眉ひとつ動かさなかった。
次の瞬間、手錠が砕けた。
手首から鎖が落ち、畳の上で低い音を立てた。
自由が戻った手を小夜が見ようとする前に、伊吹がその体を抱き上げる。
「行こ」
短く、それだけ言って扉へ向かう。
部屋を出ると、廊下の床に見張り役が二人倒れていた。息はしている。ただ、気を失っているだけだ。
石段を、伊吹が軽々と上がっていく。
地上に出ると、深い藍の夜空に月が高く澄んでいた。
伊吹は小夜を抱えたまま、軽く膝を曲げた。
次の瞬間、体がふわりと浮く。
「……っ」
小夜は思わず伊吹の首にしがみついた。
伊吹は本館の屋根の上へ、軽々と着地した。
屋根の頂に近い場所だった。
風が強く、二人の隊服の裾が夜気の中で揺れる。
「……さて。どこ行こっか?」
「え……?」
小夜は伊吹を見上げる。
「もう、こんなところ用ないでしょ。小夜ちゃんを、こんな目に遭わせる場所なんて」
その声には、ほんの少しだけ温度がなかった。
伊吹の目が、屋根の下へ向く。
本館。医務室。長官執務室。白瀬透子の研究室。それから、地下牢へ続く石段。
「ああ。せっかくだから、全部壊してから出て行こっか?」
その目は、本気だった。
軽い口調なのに、目だけが深く沈んでいる。
壊しかねない、本気の鬼の目。
小夜は息を呑み、慌てて首を振った。
体ごと伊吹の胸にすがりつく。
「……やめて。壊さないで」
声が震えた。
伊吹は、しばらく黙って小夜を見下ろしていた。
それから、ふっと笑う。
「分かったよ。どうしたい? 小夜ちゃんの言うとおりにするよ」
その言葉は、不思議と優しく聞こえた。
でも、本気で言っていることも分かる。
小夜は伊吹の胸に額を押しつけたまま、屋根の下を見下ろした。
九年間、見慣れてきた封鬼寮。
本館。医務室。夜勤明けに皆で食べる食堂。特別区。
月光の中で青く沈んでいる、自分の場所。
(――出ていきたいのだろうか、私は……)
仲間になれたと、思っていた。
九年間、自分の血で鬼を鎮め、封鬼寮の一員として戦ってきた。
なのに、その血は知らないところで利用されていた。
ぎゅっと、伊吹の衣を握りしめる。
返事はできなかった。
でも、伊吹は急かさずに待っていた。
「……俺はここに未練なんてないから。小夜ちゃんが選んでいいよ。鬼を倒すのに便利だから、いただけだし」
軽い声のままだった。
けれど、続く言葉は、どこか違った。
「小夜ちゃんさえいるなら、俺はどこでもいいからさ」
その一言で、心臓が強く跳ねた。
風の音が、一瞬だけ遠くなる。
(……今、伊吹は)
まるで、愛の告白のようだった。
でも本人は軽い顔のままで、自分の言葉の意味に気づいていないようにも見える。
(……気づいていないの? それとも、気づかないふりをしているの?)
判別がつかない。
月光の中で、伊吹の横顔はいつもと同じ軽さで笑っていた。けれど、その目だけは深く澄んでいる。
小夜は、伊吹を見上げる。
(……このひとは)
軽い口調で、本気のことを言う。
軽い口調で、倫理感のずれたことを言う。
その両方が、ひとつの体の中に共存している。
九年間、ずっと隣にいたのに。今夜初めて、その輪郭が見えた気がした。
そのとき、屋根の下で慌ただしい足音が響いた。
「伊吹様! 朝霧さん!」
息を切らした隊員の声だった。
「市街地で、鬼の暴走確認! 被害拡大中です! 先日捕らえた鬼が逃走し、暴れているようです!」
空気が、一気に切り替わった。
小夜は息を呑む。
(……朱嶺)
あの鬼が。逃走して、暴れている。
それは、投与された結果なのか。拒絶反応なのか。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
伊吹が、ゆっくりと小夜を見る。
判断を、小夜に委ねている目だった。
逃げるなら、逃げる。戦うなら、戦う。
どちらでもついて行く。そう言っているような目だった。
小夜は一瞬、躊躇した。
唇を強く噛む。
逃避行。伊吹と、二人で。
それは、確かに魅力的に思えた。九年間の重みを全部置いていける。
でも――逃げたら、朱嶺は誰が止めるのか。
市街地で、何人が犠牲になるのか。
自分の血で作られた薬の結果なら、自分にも責任があるはずだ。
小夜は、ゆっくりと頷いた。
「……行きましょう、伊吹」
声に、震えはなかった。
伊吹は、しばらく小夜を見ていた。
それから、軽く笑う。
「あーあ。小夜ちゃんと逃避行するのもいいかと思ったけど。お預けかぁ」
冗談か、本気か、分からない声。
いつもの伊吹だった。
屋根の縁に、軽く足をかける。
「行こっか」
小夜の腕を、ぐっと掴む。
その手の力は、いつもよりわずかに強かった。
「……はい」
屋根の上から、月光の中に沈む帝都が見えている。
遠く、市街地の方角の空が、わずかに赤く滲み始めていた。
伊吹が、軽く空を蹴る。
体が、ふわりと浮いた。
月光の中を、二人で滑空していく。
遠くで、また街の鐘が低く一つ鳴る。
誰かが、危険を告げる音だった。




