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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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第十四話 薄紅の抑制剤

 任務から戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。

 帝都の南区で発生した小規模な暴走は、伊吹がほとんど一人で片付けてしまったので、小夜の出番はあまりなかった。

 封鬼寮本館の門をくぐると、秋の夜気が肌に冷たく触れた。夏の名残はもうどこにもない。乾いた大気の中で、月の光だけが青白く澄み、瓦屋根の上に静かに降りている。

 遠くで、夜回りの拍子木が、ぽーん、と一つ鳴った。

 その音が、夜の底へ沈んでいく。


「お疲れさん」


 門の番をしていた隊員が、軽く声をかけてきた。


「ふたりに呼び出しが来てるよ。研究室に、今すぐって」


「……研究室?」


 小夜は首を傾げた。

 長官執務室ではなく、研究室。


「白瀬さんの方ですか?」


「うん。長官もそっちにいる」


 隊員はそれだけ告げると、門の脇へ戻っていった。

 伊吹が、ふっと笑う。


「夜更けに、何の用だろうね」


 軽い声だった。

 けれど、その奥には、わずかな硬さが混じっている。

 小夜は何も言えなかった。

 ただ、伊吹のあとについて歩く。

 磨かれた板張りの廊下に、二人分の影が行灯の光で長く伸びていた。廊下の奥の硝子窓には、もう夜空しか映っていない。月明かりだけが、端まで青く差し込んでいる。



 白瀬の研究室は、本館一階の奥にある。

 扉の前に立つと、薬品の匂いが鼻先に届いた。いつもの石鹸と消毒液の匂いに、別の何かが混じっている。

 甘く、深く、わずかに鼻の奥を刺すような匂い。


(……これ)


 小夜の足が、わずかに止まった。

 知っている匂いだ。

 けれど、すぐには思い出せない。


「入って、朝霧さん」


 白瀬の声がした。

 いつも通り、淡々としている。

 扉が内側から開いた。

 白衣の襟元まできっちりと留めた白瀬が、小夜を見た。眼鏡の奥の瞳は、いつもよりわずかに観察するような色を帯びている。

 研究室の中は、深夜だというのに洋灯がいくつも灯されていた。白い机の上には、書類と、いくつもの硝子瓶が並んでいる。

 その中央に、ひとつだけ、小さな硝子瓶が置かれていた。

 透明な液体。

 けれど、わずかに赤みを帯びている。

 月光と洋灯の光に透かすと、薄めた血のような色だった。

 部屋の奥の壁際には、榊長官が立っていた。黒の隊服のまま、腕を組んでいる。深夜の呼び出しに、長官自ら立ち会っている。

 そのこと自体が、すでに尋常ではなかった。


「こんな時間にすまない」


 榊が、低い声で言った。


「だが、夜のうちに片を付けたい話だ」


 その視線が、小夜ではなく伊吹へ向く。


「最近、お前が朝霧に危害を加えたと、隊員から報告が上がっている」


「えー」


 伊吹は壁にもたれたまま、心外そうに首を傾げた。


「俺、そんなことしてないけど」


「そうか。では、朝霧を壁に押しつけて噛みついたこともないと?」


「あー……」


 伊吹が、少しだけ視線を逸らした。


「まあ、ちょっとだけ? 血をもらっちゃったかな」


 榊が、深く息を吐いた。

 小夜は、できることならその場の床に沈みたかった。

 報告されている。しかも、よりによって長官に。

 顔が勝手に上気した。

 榊はため息を吐く。


「自分を制御できていないようだな」


「いやいや、俺、これでもかなり我慢してるよ。目の前にこんな極上の血があるのに、ちゃんと耐えてるんだから。すごくない?」


「誇ることではない」


 榊の声は低かった。


「人間は食べないと、昔言ったのは嘘か」


「他の人間は食べたいと思わないんだけど、小夜ちゃんは例外なんだよね〜」


「例外にするな」


 榊が即座に言った。

 小夜は内心で、深くうなずいた。


(……例外にしないでほしい)


 特別扱いとして喜んでいいものでは、絶対にない。


「でも、俺、本当に小夜ちゃんを傷つけたいわけじゃないよ」


 伊吹は、いつもの軽さで続ける。


「ただ、いい匂いすぎて、たまーに……ちょっと我慢が難しいっていうか」


「だから、それが問題だと言っている」


 榊は頭を抱えそうな顔をした。

 実際には、眉間に皺を寄せただけだったが、それでも十分に疲れが滲んでいた。


「朝霧の負担も大きい。今のまま、お前の自制心に任せるわけにはいかない」


 その言葉に、小夜は少しだけ胸を突かれた。

 榊は、自分の負担を考えてくれている。

 それは、確かにありがたいことだった。


(もっと、伊吹に注意してほしい……)

 

 人目のないところで散々唇を奪われていることも注意してほしいが、さすがにそこまでは報告できていない。

 口づけばかりされます、などと長官に訴える勇気は、小夜にはなかった。


「白瀬」


「……はい」


 榊に促され、白瀬が机の上の硝子瓶を白い指先でつまんだ。

 その瞬間、小夜の胸の奥がざわついた。

 月光が、瓶の中身を薄い赤に染める。


「先日完成した、新しい抑制剤です。鬼の暴走を、一時的に抑える薬です」


 白瀬は淡々と言った。

 小夜は、机の上の瓶を見つめた。

 あの薄い赤色。

 ――この匂いを、知っている。

 甘さの奥にある、鉄の匂い。

 近づくほどに、はっきりと分かる。


(……これ、血だ)


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


「これ、小夜ちゃんの血を使ってるよね」


 伊吹が、ぽつりと言った。


「……っ」


 空気が凍りつく。


「匂いで分かるよ」


 伊吹の視線が白瀬へ向く。

 白瀬は伊吹を見ようとして、けれどすぐに小夜へ視線を逸らした。その一瞬だけ、何かを言おうとして、黙る。


「……何してるの、あんたたち」


 伊吹が一歩近づいた。

 隊靴が床を擦り、低い音を立てる。

 

「俺のもの、勝手にいじらないでくれる?」


(伊吹のものじゃないけど……)


 思わず、小夜は心の中で突っ込んでしまう。

 けれど、気になっていることは伊吹と同じだった。


「……どうして、これを」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 白瀬は目を伏せてから、淡々と答える。


「……確かに、これは朝霧さんの血から作りました」


 空気が止まった。

 行灯の灯さえ、揺れを止めたように見えた。


「……っ」


 小夜の指先が冷えていく。

 知っている匂いの正体が、これだった。

 自分の血の匂い。

 処置のたびに、伊吹が舐め取るあの血。

 毎月の検査で、白瀬が採取するあの血。

 それが瓶に詰められ、薬としてここに置かれていた。


「採取量は、規定の範囲内です」


 白瀬の声は淡々としていた。

 けれど、小夜にはそれが言い訳のように聞こえた。


「あなたの体に影響が出ない範囲でしています」


「……抑制剤を、作っていたんですね」

 

 声が震えた。

 

「私の血で」

 

 白瀬は答えない。

 小夜は、握った指先が冷えていくのを感じた。

 

「……教えて、ほしかったです」


「……すみません。機密保持の関係で」


「機密、ですか……」


 ただ、眉をひそめる。


「朝霧」


 榊が、静かに声をかけた。


「君の血を、無断で使った形になったことは詫びる」


 頭を、わずかに下げる。

 けれど、その視線は揺らがなかった。


「ただ、これは封鬼寮の存続に関わる研究だ。君の協力なしには進まない」


「……協力」


「君の負担を減らすためでもある。それに……」


 一拍置いてから、榊は続けた。


「鬼の暴走を止められる手段があるなら、私は試す」


 その言葉が、小夜の耳の奥で虚ろに響いた。


(……負担を、減らす)


 それは、正しいのかもしれない。

 けれど、それだけではないとも思った。

 自分の知らないところで、自分の血が使われていた。

 その事実だけで、胸の中の何かが崩れていく。


「理論上は、稀血の処置と同程度の効果が期待できます」


「“理論上”ね」


 伊吹が鼻で笑った。

 その声の温度に、部屋の空気がわずかに変わる。行灯の火が、かすかに揺れた。


「実際は、どうなの?」


「……個体差があります。効くものと、効かないものがいる」


「副作用はないの?」


 伊吹が軽く促す。

 白瀬は一瞬だけ言葉を切った。眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに揺れる。


「……例外的に、拒絶反応が強く出すぎるケースも確認されています」


(拒絶反応……)


 小夜の脳裏に浮かんだのは、かつて会った鬼。手枷と注射器のような痕の残る腕だ。 

 壁際で、伊吹が動いた。

 ゆっくりと机に近づき、硝子瓶の前で立ち止まる。

 指先で瓶を軽くつつくと、ちん、と低い音がした。

 

「拒絶反応ねぇ」


 軽い声。

 でも、目が笑っていない。


「これが、鬼の暴走の原因になってんじゃないの?」


「……何を言って」


「最近、街中で鬼の暴走が増えてるよね。不自然な拘束痕がある」


 伊吹は瓶を指先で転がした。

 月光が、瓶の中の赤をゆらりと揺らす。


「俺たちは暴走鬼の処理ばかり呼ばれてるけど、他の隊員には、鬼を生け捕りにさせてるらしいじゃん」


 部屋の温度が、すっと下がった気がした。

 

「……この薬で、鬼が暴走してしまうことがあるんですね?」


 小夜が思わず聞いた。

 自分の声が、少し硬くなっているのが分かる。


「……ええ。稀ですが。おふたりが退治した鬼も、そのひとりでした」

 

 白瀬は肯定した。

 部屋の空気が重くなる。 

 榊の眉が、わずかに寄る。

 白瀬は、視線を伏せた。


「朱嶺もそのために捕獲したの?」


「……」


「実験のため?」


 伊吹の声は軽いままだった。

 でも、目だけが深く沈んでいる。

 榊は、しばらく黙った。

 それから観念したように目を閉じて、深く息を吐く。


「……上級鬼でも、試さねばならない」


 短い言葉だった。


「下級鬼での実験では、効果の検証が不十分だ。上級鬼の抑制こそが、本来の目的だからな」


 部屋の空気が、ぴしりと凍る。

 小夜の指先が震えた。


(……朱嶺)


 地下牢で見た、あの黒い瞳。

 誰かを守ろうとする、固い意志。

 あの鬼が、実験のために捕らえられている。


「……他の鬼たちがどうなろうと、正直、俺には関係ないけどさ」


 伊吹が、ゆっくりと言った。

 声から軽さが抜けていく。


「でも、小夜ちゃんの血を勝手に使ってるなら話は別。あまり面白くないなぁ」


 月光が、伊吹の横顔を青く照らしている。

 蜂蜜色の瞳が、いつもより深く沈んで見えた。


「俺のことも、今はモルモット扱いで、試験薬を投与しようとしたんじゃないの?」


「……っ」


 白瀬が息を呑む。

 榊の目が、わずかに細まった。


「そんなわけないだろう」


 榊は低い声で言った。


「お前は、大切な戦力だ。暴走の危険が一パーセントでもあるなら、投与なんてしない」


「どうだか」


 伊吹は薄く笑った。

 でも、その笑みは寒い。


「とにかく」


 硝子瓶から、指を離す。


「俺は、やらないよ」


 短く、言い切った。

 部屋に、また沈黙が落ちる。

 榊と白瀬の視線が一瞬だけ交わった。

 言葉はなかった。

 けれど、何かが伝わった気配だけがある。


「……分かりました」


 白瀬が淡々と言う。


「一旦、保留にしましょう」


 硝子瓶を、丁寧に白い箱へ戻す。

 箱の蓋が、こと、と低い音を立てて閉まった。

 その小さな音が、部屋の空気を切る。


「保留なんてされても、気持ちは変わらないからね」


 伊吹は不満そうだ。


「……では、今夜はこれで」


 短く告げて、白瀬は背を向けた。

 白衣の裾がわずかに揺れる。

 榊も軽く頷いた。

 けれど、部屋を出る前に小夜の方を一瞥する。


「朝霧」


「……はい」


「君の血の使用については、追って正式に説明する」


 それだけ言って、榊は部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、低く響く。

 部屋には、小夜と伊吹だけが残された。

 研究室の洋灯は、いくつか消されている。

 月明かりだけが、机の白い表面を薄く照らしていた。

 机の上の白い箱は、誰にも触れられないまま静かに置かれている。

 その中に、さっきの硝子瓶が眠っている。

 あの薄い赤の液体が、暗闇の中でまだ鈍く光っているはずだった。



 研究室を出た。

 夜の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。行灯の灯が、二人の影を板張りの上に長く落としている。

 窓の外は、深い藍。

 月だけが、まだ高く青白く浮かんでいた。

 秋の深夜の冷たさが、首筋からゆっくりと這い上がってくる。

 小夜は、廊下の途中で立ち止まった。

 頭の中が、整理できない。


(……私の血が)


 知らない誰かに使われていた。

 そのことが、ひどく気持ち悪かった。

 抑制剤――なのに、誰かを暴走させるかもしれない液体になっているのだ。

 朱嶺は、その実験のために捕らえられた。

 あの黒い瞳。

 誰かを守ろうとする意志。

 あれは――。


(……朔夜のため)


 小夜の中で、一つの理解がゆっくりと立ち上がった。

 朱嶺は、朔夜のもとへ戻ろうとしていた。

 なのに捕らえられて、実験台にされようとしている。


「小夜ちゃん」


 声がした。

 振り返ると、伊吹がすぐ後ろにいた。月光の中で、その輪郭が青く澄んでいる。


「……はい」


「考えごと?」


「……いえ」


 短く答える。

 伊吹は、しばらく小夜を見ていた。

 それから、軽く笑う。


「俺は、あんなの使わないからね」


「……はい」


「小夜ちゃんがいるのに、あんな薄めた血なんか要らないでしょ」


 ぽつりと、それだけ言った。

 軽い声のまま。

 でも、いつもよりわずかに低かった。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ冷える。

 伊吹は、小夜を守ろうとしてくれるけれど、やはり彼が見ているのは、自分の血なのかもしれない。

 小夜は、何も言えなかった。

 頷くこともできなかった。

 心の中では、別のことを考えていた。


(……朱嶺を)


 逃がさなければ。

 あの鬼を、あんなふうに実験台にしてはいけない。

 朔夜のもとへ、戻してあげなければ。

 そう考えながら、自分の指先が震えていることに気づく。

 それが怖さなのか、決意なのか、自分でも分からなかった。


「……伊吹」


「ん?」


「先に、戻ってください」


 声が少し震えた。


「私、長官に、もう少し話を聞きたくて」


 嘘だった。

 でも、口から出ていた。

 伊吹は、しばらく小夜を見ていた。

 蜂蜜色の瞳が、月光の中で深く揺れる。


「ふーん」


 短く頷いた。

 追求は、しなかった。


「分かった。じゃ、先に行ってる」


 軽い声に戻る。

 けれど、廊下を歩き出す前に、もう一度だけ振り返った。


「あんまり、無理しないでね」


 その目に、ほんの一瞬だけ気遣いがあった。


「……はい」


 小夜は頷いた。

 伊吹の背中が、廊下の奥へ消えていく。

 黒い羽織の裾が、月光の中で薄く揺れていた。

 その背中が完全に見えなくなるまで、小夜は立ち尽くしていた。



 廊下の窓辺に立つ。

 障子を、わずかに開けた。

 夜気が、すうっと頬を撫でていく。

 冷たい。

 秋の深夜の風だった。

 月が、藍色の空に青く澄んで浮かんでいる。

 月光の中で、小夜は首筋に手を当てた。

 刻印の上。

 わずかに熱い。

 伊吹の処置の名残。

 なのに今夜は、その熱さえ遠く感じた。


(……朱嶺のいる地下牢へは、どう行けばいい?)


 頭の中で、本館の構造を辿る。

 地下への階段。

 門番。

 夜勤の隊員の配置。


(……私が稀血だから、入れる場所もある)


 小夜は補助班の一員だ。地下牢への出入りは、完全に禁じられているわけではない。共鳴の確認のため、立ち入ることもある。

 ただし、深夜にひとりで、というのは異例だ。

 怪しまれる。

 でも、朝になれば――白瀬の追加の採血や、抑制剤の調整が始まるかもしれない。

 そのときには、もう手遅れだ。

 今夜のうちに、動かなければ。

 小夜は、もう一度だけ月を見上げた。

 月は変わらず、青く澄んでいた。

 明け方は、まだ遠い。


(……間違っていても)


 胸の奥で、小さく呟いた。


(……朱嶺は、朔夜のところへ、戻してあげたい)


 それは、組織への裏切りかもしれない。

 封鬼寮の隊員として、許されない行動かもしれない。

 でも、自分の血で作られた液体で、誰かが暴走させられているなら――せめて、自分の意志で何かを選びたかった。

 障子を、ゆっくりと閉める。

 夜の風が、また遠ざかった。

 小夜は、廊下を歩き出した。

 地下への階段の方へ。

 足音が、磨かれた板張りの上で低く響く。

 その音だけが、深夜の本館に、まっすぐ続いていた。



 

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