第十三話 宵闇に白菊を
伊吹が部屋を出ていってから、しばらく経っていた。
扉が閉まったあとも、小夜は寝台の縁に座ったまま、動けずにいた。
障子越しに差し込んでいた夕暮れの光は、いつの間にか薄くなっている。
畳の縁に伸びていた淡い橙色は、少しずつ色を失い、部屋の隅から藍色の影が滲みはじめていた。
白い帳のかかった細い寝台。文机の上の記録紙と結界札の小箱。壁際の薬箱と、まだ火の入っていない洋灯。
それらが、宵闇の中で少しずつ輪郭を失っていく。
障子の向こうには硝子戸がある。
そのさらに向こう、庭の赤松の影が、夜に溶けるように黒く伸びていた。
秋口の風が、わずかに障子を鳴らす。
昼の熱はまだ畳の奥に残っているのに、風だけは冷たかった。
(……ちゃんと、嫌いになってから)
伊吹の声が、まだ耳の奥に残っている。
そんなことを言われても、どうすればいいのか分からない。
怖い。
腹立たしい。
理解できない。
それなのに、嫌いになれない。むしろ――。
小夜は、そっと唇に触れる。
伊吹が治したから、もう傷はない。
けれど、感触だけは残っている。
さんざん口づけされたから、少し腫れているような気がした。
(……忘れたいのに)
忘れられない。伊吹の痕跡はいつも長く残ってしまう。
そのときだった。
――コンコン、と扉が鳴った。
乾いた、節度のある音。
伊吹ではない。彼なら、こんなふうに遠慮がちには叩かない。きっと返事を待つ前に、もう扉を開けている。
それだけで、小夜の肩からほんの少し力が抜けた。
「朝霧さん、失礼します。白瀬です」
白瀬透子だった。
「……どうぞ」
小夜が答えると、扉が静かに開いた。
白衣の女性が入ってくる。
石鹸と消毒液の匂いが、ふわりと部屋に流れ込んだ。
白瀬は、長い黒髪を後ろでまとめ、細い眼鏡の奥に静かな瞳をしている。
白衣の襟元まで糊が利いていて、宵闇の中でも、その白さだけが淡く浮いて見えた。
「定期採血の時間です、朝霧さん」
「……今からですか」
「ええ。夜の任務前に、よろしいですか?」
白瀬は淡々と言い、文机の上に処置具を並べていく。
硝子の管。白い布。銀色の針。小さな硝子瓶。
それらが、整然と置かれるたび、かすかな硬質な音が部屋に落ちた。
ちりん、と硝子が触れ合う。
その音だけが、やけにはっきり聞こえる。
「今日は少し多めに採りますね」
「……多め?」
「最近、稀血の反応が不安定ですので」
さらりと言われる。
小夜は文机の前に座らされた。
袖をまくられ、腕を取られる。
白瀬の指先は、いつも通り冷たかった。
「力を抜いてください」
「……はい」
銀色の針が、皮膚に触れる。
小さな痛みが走り、それから血がゆっくりと抜かれていく感覚。
「……っ」
硝子の管の中を、赤い色が上っていく。
夕暮れの残光を受けて、それは黒に近い赤に見えた。
小夜は思わず目を逸らす。
白瀬は、小夜の表情を静かに見ていた。
「痛みがありますか」
「……少しだけ」
「そうですか。もう終わりますからね」
白瀬は短く答え、硝子瓶に血を移した。
瓶の中で赤が揺れる。
宵闇の中、それはやけに生々しかった。
白瀬は針を抜き、白い布で小夜の腕を押さえた。
「……最近、採血が本当に多いですね」
小夜は嘆息して、言った。
何だか血を抜かれすぎて、ふらつくこともある。
「……稀血は貴重ですから。朝霧さんの負担が多くなっていて、すみません」
白瀬は申しわけなさそうな顔をしている。
「……稀血を、研究に使っているのです」
「研究に?」
白瀬が静かにうなずく。
「稀血は、鬼を引き寄せるだけではありません。暴走を鎮める力もある。けれど、それは同時に危険なことでもあります」
「……危険?」
「ええ」
「あなたは、自分の血を使えば鬼を止められると思っているかもしれません」
小夜は息を呑んだ。
南区で、黒夜の鬼を止めようとしたときのことが蘇る。
自分の唇を噛み、血を与えようとした。
「ですが、稀血は万能ではありません。使い方を誤れば、あなたの方が呑まれます」
「……はい」
「……無茶はしないでくださいね」
抑揚のない声だった。
けれど、そこにはわずかなぬくもりあった。
小夜は白い布を自身で押さえながら、白瀬を見た。
「白瀬さんは……私の他にも、稀血の人を診たことがあるんですか」
白瀬の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
ごく短い逡巡のあとに、白瀬は首を縦に振る。
「……ええ、あります」
白瀬は声を落として答えた。
「昔、この特別区には、もう一人、稀血の方がいましたから」
「もう一人……」
「榊長官の妹です」
小夜の息が止まった。
「榊長官の……妹さん?」
「ええ」
白瀬は止血の布を巻きながら、低く続けた。
「とても穏やかな方でした。誰に対しても優しく、よく庭の手入れを手伝っていました」
その声は、いつもと同じように淡々としている。
けれど、わずかに遠い。一瞬、昔を懐かしむように視線が緩んだあとに、人形のように表情をなくす。
「私とも友人のように仲良くしてくれて……ですが、亡くなりました」
「……」
「鬼が、関わっていました」
感情を押し殺したような静かな言葉だった。
嘆くわけでもない、ただ、事実だけを置く声。
(……稀血だから)
鬼に求められ、鬼に狂わされて――そして、命を落とした。
この体と同じものを持っていた人が。
同じ特別区にいて、同じように、鬼を引き寄せて。
――いなくなった。
その事実はとても重く響く。
「……榊長官は」
小夜は、かすれた声で言った。
「そのことを……」
「忘れたことはないでしょう」
白瀬は静かに答えた。
「だからこそ、長官は稀血を軽く扱わない。あなたを道具として使うつもりも、おそらくありません」
「……おそらく?」
「人は、完全には分かりませんから」
白瀬らしい言い方だった。
冷たいようでいて、正直だった。
「ですが、少なくとも長官は、同じことを繰り返したくないと思っています」
小夜は、自分の腕に巻かれた白い布を見つめた。
血はもう止まっている。
けれど、胸の奥に沈んだものは、消えなかった。
「……これで終わりです」
白瀬は道具を片付けた。
硝子瓶の口を、小さな音とともに封じる。
「今夜の任務前に、無理はなさらないでください。体調変化があれば、すぐに報告を」
「……はい」
「それから」
白瀬は扉の前で一度だけ振り返った。
「誰かのために自分を使うことと、自分を粗末にすることは違います」
その言葉は思っていたよりも深く、小夜の胸に沈んだ。
「朝霧さん。あなたは、そこを間違えないでください」
それだけ言って、白瀬は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に静寂が戻る。
白瀬の残した石鹸と消毒液の匂いだけが、しばらく宵闇の中に漂っていた。
(……榊長官の、妹)
小夜は、そっと腕の布に触れた。そこにはまだ、少しだけ熱が残っていた。
そのとき、ふと視線が廊下の方へ向いた。
扉の向こうでは、人の気配が遠ざかっている。
夜の任務前の封鬼寮は、いつもより静かだった。
けれど、完全な静寂ではない。
廊下の向こうから、誰かの足音が微かに響いた。
小夜は立ち上がった。
少しだけふらついたが、すぐに文机に手をついて体勢を整える。
部屋を出ると、廊下にはすでに行灯が灯されていた。
夕暮れは終わりかけている。
窓の外には、まだわずかに茜色が残っているが、その上から深い藍色がゆっくりと広がっていた。
廊下の板張りは、昼の熱を失いはじめている。
障子ではなく硝子窓がはめられた一角に近づくと、外の冷えた空気がうっすら伝わってきた。
小夜は何気なく、その窓の外を見た。
庭の向こうを、誰かが歩いている。
黒い軍服の背。
まっすぐな姿勢。
片手には、白い花束。
(……榊長官?)
小夜は、思わず窓に近づいた。
榊は、封鬼寮本館の奥へ向かって歩いていた。
任務に向かう足取りではない。
誰かと話すためでもない。
ただ一人で、静かな場所へ向かう背中だった。
白い花束が、宵闇の中で淡く浮いて見える。
小菊だろうか。
秋の風に、花弁がわずかに揺れていた。
(……もしかして)
白瀬の言葉が蘇る。
榊長官の妹。
稀血だった人。
鬼の暴走に巻き込まれて亡くなった人。
気づいたときには、小夜は歩き出していた。
廊下を進む。
行灯の灯が、角ごとにぽつりぽつりと揺れている。
窓の外では、暮れ残った空が少しずつ暗くなっていく。
遠くで、虫の声が聞こえた。
夏の盛りの騒がしさではない。
細く、澄んだ、秋の入口の声。
小夜は外へ出た。
石畳を踏むと、昼の熱がまだかすかに残っていた。
けれど、足元を抜ける風は冷たい。
採血のあとだからか、少しだけ体が軽く頼りない。
それでも、小夜は榊の背中を追った。
松林を抜けた先、低い石塀に囲まれた場所。
封鬼寮の敷地の奥には、いくつもの墓石が並んでいた。
古いものもあれば、比較的新しいものもある。
いずれも黒い御影石で、丁寧に磨かれていた。
石畳の隙間には、細い草が生えている。
秋の風が吹くたび、松葉がかすかに鳴った。
榊は、その中のひとつの墓の前で足を止めた。
小夜は、少し離れた場所で立ち止まる。
声をかけていいのか分からなかった。
榊は白い小菊の束を、墓石の前に静かに置いた。
それから、線香に火を点ける。
細い煙が、宵闇の空へまっすぐに立ち上った。
しばらく、榊は何も言わなかった。
小夜も、動けなかった。
線香の匂いが、秋の冷たい空気に混じっていく。
遠くで、夜勤の鐘が低く鳴った。
その音は、本館の壁に反響し、墓地の静けさの中へゆっくり溶けていった。
「……朝霧か」
榊が、振り返らずに言った。
小夜はびくりとした。
「すみません。お姿を見かけて……その、追いかけてしまいました」
「構わん」
榊は短く言った。
それから、墓石へ視線を落とす。
「妹だ」
小夜は息を呑んだ。
やはり、そうだった。
「……白瀬さんから、少し聞きました」
「……そうか」
榊の声は静かだった。
怒っているようでも、咎めるようでもない。
「妹も、稀血だった」
小夜は、何も言えなかった。
「幼い頃から、鬼を引き寄せた。本人にそのつもりがなくとも、鬼の方が勝手に寄ってくる」
榊は、墓石の前に置かれた白い小菊を見つめている。
「だが、あれは鬼を憎んではいなかった」
「……憎んで、いなかったんですか」
「ああ」
榊の横顔は、宵闇の中で硬く見えた。
「鬼も苦しいのだと、よく言っていた。暴走した鬼も、最初から化け物だったわけではない。何かに壊されただけだと」
小夜の胸が、静かに痛んだ。
堕ち鬼の女のことを思い出す。
夫のそばに行きたかっただけだと泣いた、あの声。
黒夜の鬼――朱嶺の中にあった、守ろうとする意志。
「……優しい方だったんですね」
「優しすぎた」
榊は短く言った。
その声に、初めて苦さが滲んだ。
「優しさだけでは、守れないものがある。あれは、それを知らなかった」
小夜は、墓石を見つめた。
名前が刻まれている。
けれど、宵闇の中でははっきりとは読めなかった。
「鬼の暴走に巻き込まれたと、聞きました」
「ああ」
榊は答えた。
「暴走した鬼に、関わりすぎた。自分の血なら、何かが変えられると信じていた」
小夜の指先が冷える。
南区で、自分がしようとしたことと、似ていた。
「結果は、変えられなかった」
榊の声は淡々としていた。
けれど、その淡々とした声の奥に、長い年月をかけて固まった痛みがあった。
「妹は、戻らなかった。鬼も、討たれた。救えたものは、何もなかった」
風が吹いた。
線香の煙が、わずかに横へ流れる。
「……だから、止めなければならない」
榊は言った。
「鬼の暴走を。稀血が道具のように扱われることを。そして、同じことが繰り返されることを」
その言葉は、低かった。
けれど、強かった。
「朝霧」
「……はい」
「お前の力は必要だ」
小夜の胸が、わずかに強張る。
――必要。
その言葉は、時に道具のように響く。
けれど、榊の声は違っていた。
「だが、お前を妹の代わりにするつもりはない」
小夜は顔を上げた。
「お前はお前だ。妹ではない。失ったものを取り戻すために、お前を使うつもりもない」
「……榊長官」
「ただ」
榊は、そこで少しだけ言葉を切った。
「同じ死に方はさせないために」
小夜は息を止めた。
それは、優しい言葉ではなかった。
慰めでもない。
命令に近い、硬い声だった。
けれど、その硬さの中に、確かに守ろうとする意志があった。
「……私は」
小夜は、小さく言った。
「私は、自分の血が怖いです」
榊は黙って聞いていた。
「鬼を引き寄せることも、共鳴することも。誰かを助けられるかもしれないと思うたびに、自分が鬼に引きずられていくような気がします」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ震えた。
「でも……何もできないまま見ているのも、怖いです」
「そうか」
榊は短く答えた。
「なら、怖いままでいい」
「……え」
「怖くなくなる必要はない。怖いと分かっている者の方が、無茶をしない」
榊は小夜を見る。
その視線は厳しい。
けれど、突き放すものではなかった。
「ここで、皆の力になりたいなら、生きていろ」
小夜の胸が、熱くなった。
「生きて、判断しろ。自分を捨てるな。血を差し出す前に、他の手段を考えろ」
「……はい」
「それができるなら、お前は強くなれる」
線香の煙が、ふたたびまっすぐに立ち上る。
白い小菊の花弁が、宵闇の中でほのかに明るい。
「……すぐには、うまくできないかもしれません」
小夜は、墓石の前で静かに頭を下げた。
「でも、決して、自分を粗末にはしません」
榊は、わずかに目を細めた。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「それでいい」
短い言葉だった。
けれど、小夜には十分だった。
遠くで、また鐘が鳴る。
夜の任務の刻が近づいている。 空はもう、ほとんど藍色に沈んでいた。
西の端にだけ、薄い橙が名残のように残っている。
小夜は、もう一度だけ墓石を見た。
ここにいた稀血の人。
優しすぎて、救おうとして、命を落とした人。
その人のことを、まだ小夜は何も知らない。
けれど、その存在は確かに今、胸の中に残った。
(……私は)
同じにはならない。
けれど、忘れない。
鬼も、人も。
その間にいる自分自身も。
秋の風が、松葉を鳴らした。
線香の煙が、細く揺れる。
宵闇の中、白い小菊だけが、静かに墓前で明るかった。




