第十二話 ちゃんと嫌いになってから
夕方の光は、やわらかかった。
特別区の部屋に差し込むそれは、昼の名残を薄く残しながら、障子越しに畳の縁へ伸びている。
硝子戸の向こうでは、庭の赤松の影が少しずつ長くなっていた。
秋口の風が、障子の隙間から忍び込む。
昼間の熱はまだ畳の奥に残っているのに、風だけはひんやりとしていた。
昨夜のことが、まだ夢の続きのように体に残っている。
怖い。
なのに、離れられない。
(……どうして)
あまり眠れないまま、夕刻になった。
遠くで、夕餉の刻を告げる本館の鐘が、ゴーン、と低く一つ鳴った。
その音が、夕暮れの空気の底に沈んでいく。
「小夜ちゃん、起きてる?」
背後から、気の抜けた声がした。
振り返るまでもない。
伊吹が、当たり前のように部屋にいた。
「……なんでいるんですか」
「え? だって暇だし」
寝台の縁に腰掛けたまま、手をひらひらと振る。
完全にくつろいでいる。
黒の隊服の上だけを羽織って、下は寝衣のようなくつろいだ着物。
帯も緩く結ばれていて、襟元が、わずかに開いていた。
「ここ、私の部屋なんですけど」
「知ってるよ」
にこ、と笑う。
「だから来たんじゃん」
意味が分からない。
小夜はため息をついて、文机の前に座った。
距離を取るつもりだった。
でも伊吹は、寝台からゆっくりと立ち上がる。
畳を踏む音が、わずかに近づいてくる。
「逃げないでよ」
甘い声だった。
いつもより、ほんの少しだけ甘い。
小夜の背後に、伊吹がしゃがみ込む気配。
文机に手をついて、肩越しに小夜を覗き込んだ。
冷たい指先が、顎の下にすっと添えられる。
「……っ」
顎を、ゆっくりと持ち上げられた。
逆らえない優しさで。
目の前に、伊吹の顔が来る。
夕方の光の中で、蜂蜜色の瞳が、薄く揺れていた。
「……もう綺麗になってるね」
視線が、ゆっくりと小夜の唇に落ちる。
背筋が、震えた。
昨夜、伊吹に噛まれた唇の傷のこと。
もう、痕すら残っていない。
「昨日の夜に、ちゃんと舐めておいたから」
何でもないことみたいに言う。
その一言で、あのときの感触が、一気に蘇った。
舌の熱。
触れ方。
逃がさない距離。
思い出したくないのに、勝手に、体が覚えている。
頬が、かっと熱くなる。
「治すの、得意なんだよね。鬼だからさ」
口の端が、ゆるく上がる。
その目が、いつもより、甘い。
「だから、心配しないで……痛かったら、すぐ治してあげるから」
甘い声でそう言いながら、伊吹の指先が小夜の頬を撫でた。
「……そういう問題じゃ……」
言いかけた瞬間、距離がさらに縮まった。
逃げようとして、文机に手をついた。
その手の上に、伊吹の手が、すっと重ねられる。
冷たい。
なのに、その下の体温は、人間より熱い。
「……伊吹」
「ねえ」
声が、少しだけ落ちる。
「自制してたつもりなんだけどさ」
耳元で、低く囁かれる。
「昨夜、ちょっと血を吸っちゃったから」
指が、首筋の刻印をなぞる。
「そのせいかな?」
「……何が」
「ちょっと、抑えがきかなくなってる」
ほぼ、唇に触れる距離で、笑う。
小夜の喉が、小さく動いた。
「……」
「……やめたほうがいいって、分かってるんだけどね」
心臓が、跳ねた。
(……このひとは)
本気なのか、冗談なのか。
いつもの境界が、今は、曖昧だった。
いや――本当は、ずっと曖昧だった。
ただ、今は、伊吹がそれを隠す気がない。
それだけだった。
唇が、ゆっくりと近づいた。
逃げる暇はなかった。
優しく重ねられる。
軽いはずなのに、体が、勝手に反応する。
押し返そうとしても、力が入らない。
「……ん」
吐息が漏れる。
その音を聞いて、伊吹が、小さく笑ったのが伝わってきた。
唇が、わずかに離れる。
息のかかる距離で、また囁かれる。
「ね? 可愛い」
頬を、指先で撫でられる。
冷たい指先。
なのに、頬は燃えるように熱い。
「もう一回、いい?」
答える前に、もう一度、口づけられていた。
今度は、最初より深く。
ゆっくりと。
逃がさない、優しい力で。
息が、奪われる。
「っ……」
反射的に、文机の縁を握りしめた。
白い指が、わずかに震える。
伊吹の指が、その手を、ほどくように覆う。
「……ふふ」
離れた瞬間、伊吹はくすっと笑った。
甘い、満足げな声。
「やっぱり、可愛いね、小夜ちゃん」
薄暗くなりはじめた部屋の中で、その笑顔は、まるで普通の青年のようだった。
無邪気で、近くて、害がなさそうで。
なのに、その目の奥は、いつもより熱を帯びている。
「……やめてください」
絞り出すように、小夜は言った。
声が、震えていた。
「やめて、の声が、震えてるよ」
伊吹は、楽しそうに指摘した。
頬を、もう一度撫でる。
「本当はやめてほしくない?」
「……っ」
反射的に、首を振った。
嘘だった。
でも、そう答えるしかなかった。
伊吹は、それを見て、また笑った。
優しい笑みだった。
なのに、なぜか、怖かった。
「……ねえ、小夜ちゃん」
頬から、首筋へ、指先が滑り落ちる。
「気づいてる?」
「……何が」
「俺が他の女の子と一緒にいるとき」
指が、刻印の上で止まる。
「小夜ちゃん、ものすごい目で、俺の周りの子たちのこと睨んでるの」
息が、止まった。
(……私、そんなことしてた……?)
自分が怖くなる。
血の気が引いていく。
――本当は、伊吹を独占したいと思っていることが、バレてしまいそうで。
ただの、餌のくせに。
伊吹の優しさは、まったく特別じゃないのに。
「ねえ」
伊吹は、耳元で、また囁く。
声が、甘くて、低い。
「気にしてた?」
「……してません」
「いつも、すごく可愛い顔してたよ」
その声が、嬉しそうだった。
からかっているのか、本気なのか、判別がつかない。
「やめて、ください」
「嫉妬してるみたいで、可愛かった」
「してません」
即答した。
けれど――自分でも、もう分かっている。
頬が燃えるように熱い。
息が、上手く吐けない。
知られたくなかった。
知られたら、もう、戻れない気がしていた。
彼の前から、消えてしまいたい。
こんな醜い感情を抱えた自分ごと、全部。
恥ずかしい。
惨めだ。
それでも何か言おうとして、やめようとして――、とうとう口から出た。
「……伊吹は、私じゃなくても、いいんですよね」
声が、少しだけ震えた。
「ん?」
「稀血なら――誰でも、いいんでしょう?」
視線を、伏せる。
文机の木目を、じっと見つめる。
目を合わせる勇気が、なかった。
沈黙が痛い。
伊吹は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、じっと、小夜を見ていた。
「そうかもね」
あっさりと、言った。
思考が、止まる。
胸の奥が、空っぽになる。
分かっていたはずなのに。
どこかで、違うという言葉を期待していた。
その全部が、崩れる。
目の前が、わずかに歪んだ気がした。
涙が、滲みそうになるのを、慌てて堪えた。
その瞬間――手首を、掴まれた。強く。
「でもさ」
顔が、近づく。
逃げられない距離。
「小夜ちゃんじゃないと、意味ないんだよね」
体が、一瞬だけ、動かなくなった。
息が、止まる。
何の意味なのか、分からない。
分からないのに――
心臓が、強く鳴る。
「……意味って、何ですか」
絞り出した声。
伊吹は、くすっと笑った。
優しく、でも、答える気のない笑み。
「さあ?」
答えない。
いつも通り、曖昧にする。
その甘い曖昧さが――いちばん、ずるい。
(……ずるい)
結局、言葉だけ。
全部、適当で。
軽くて。
意味なんてない。
「……やめてください」
小さく言った。
「そういうの」
「どういうの?」
「……期待、させるみたいなこと」
一拍だけ、空気が変わった。
伊吹の指が、わずかに止まる。
「……期待、してるの?」
低い声だった。
その温度に、部屋の空気が張り詰める。
次の瞬間――唇が、塞がれた。
「……っ!」
今度は、強引だった。
さっきまでの優しさが、嘘みたいに。
逃がす気がない、深い口づけ。
息を、奪われる。
押し返そうとする手首を、簡単に押さえられる。
思っているのに、体が、拒めない。
共鳴が、流れ込んでくる。
――欲。
――飢え。
それだけ。
(……やっぱり)
優しさなんて、ない。
ただ、欲しいだけ。
それだけ。
唇が離れたあとも、息がうまく戻らなかった。
すぐ近くに伊吹の気配がある。
甘い匂いが、頭の奥を侵食していく。
「ほんと、いい匂い……頭がくらくらする」
耳元で、囁かれた。
「鬼じゃなくても、おかしくなっちゃうよ」
甘く、低い声。
息が、かかる距離。
背筋が、震えた。
「やめて……」
「……ごめん。もう少しだけ」
低く、囁く。
さらに近づかれる。
逃げようとするほど、押さえつけられる。
優しい力で。
でも、絶対に逃げられない力で。
そのまま――一瞬だけ、歯が強く当たった。
「……っ!」
痛みが走る。
ほんの一瞬だけ、噛みつくみたいにされて、すぐに離れた。
血の鉄の味が、舌の上にわずかに広がった。
でも――その一瞬の痺れが、妙に生々しかった。
伊吹が、小夜を見下ろした。
その目が、いつもより、深い。
蜂蜜色の奥に、何かが揺れている。
「……怖がらせたいわけじゃないんだけど」
ぺろり、と自分の唇を舐めた。
「我慢できない」
(……ずるい)
そう思うのに。
声が、出ない。
体が、動かない。
全部、奪われていく。
ただの、餌だ。
その結論が、胸の奥に、落ちた。
逃げようとした。
その瞬間。
腕を、さらに強く引かれる。
「ねえ」
一拍だけ、空気が、静かになった。
「逃げるならさ」
心臓が、止まりそうになる。
「ちゃんと、嫌いになってからにしてよ」
目が、合った。
蜂蜜色の瞳。
笑っていない。
逃がさない目。
夕方の光が、その瞳の奥に、わずかに別の色を映していた。
意味が、分からない。
嫌い?
もう、そう思っているはずなのに。
なのに――言葉が、出てこない。
頭の中が、真っ白になる。
沈黙が落ちる。
その間に、また、触れられそうになる。
小夜は、目を閉じた。
(……もう、無理)
分かってしまった。
これは、恋なんかじゃないのかもしれない。
優しさでもないのかもしれない。
ただ、欲しいだけ。
そう思うのに――心臓だけが、うるさく鳴っていた。
伊吹の体温が、近い。
息が、近い。
甘い匂いが、ずっと、頭の奥を侵食していく。
こんなに、苦しいの。
涙が、滲んだ。
頬を伝うのを、止められなかった。
ぽたり、と、寝衣の襟元に、雫が落ちた。
「……あ」
伊吹の声が、止まった。
動きが、止まった。
顔から、笑みが、ゆっくりと消える。
「……え?」
短い声。
まるで、自分の目を疑うみたいに。
もう一度、声が漏れた。
「……え、なんで?」
伊吹が、慌てて小夜の頬の涙を、指の腹で拭おうとした。
でも、ただ撫でるだけになって、上手く拭えていない。
もう一筋、別の涙が、頬を伝う。
「ちょ、待って、待って」
いつもの軽さが、消えていた。
その代わりに、わずかな焦りが混じっている。
「な、泣いた? 今、泣いてる?」
「……っ」
答えられなかった。
伊吹は、寝台から半歩、後ずさった。
でも、すぐに身を乗り出して、また小夜の頬を見る。
乗り出して、引いて、また乗り出して。
完全に、動きが落ち着かない。
「いや、あの、うん。ごめん」
軽い口調にしようとしている。
けれど、声が、上ずっている。
「あの、あれ。やりすぎた。うん。やりすぎた、かも」
頭を、軽く掻く。
その手も、いつもの優雅さがなかった。
「……ごめんね。小夜ちゃん、こういうので泣くんだ」
その言い方はどこかズレていた。
けれど、伊吹の指先は少し震えていた。
「えー、と、その。痛かった? 唇」
全然違う方向の問いを投げてくる。
「噛んだの、強かったよね? うん、強かった。ごめん。あ、舐めて治そうか? いや、それで泣いてるなら逆効果か」
ぶつぶつと、独りで喋り続けている。
いつもの伊吹なら、絶対に言わないことを、口走っている。
「……」
小夜は、答えられない。
涙が、また零れた。
「ああ、また」
伊吹が、視線を泳がせる。
部屋の中を、見回す。
文机を見て、寝台を見て、障子を見て。
まるで、何かを探しているみたいに。
最終的に、伊吹は寝台の縁に置いてあった、自分の隊服の袖を引っ張った。
「これ、使う?」
差し出された。
黒の隊服の袖。
まったく適切な提案ではなかった。
涙を拭うのに、自分の隊服を渡してくる人は、普通いない。
「……」
小夜は、それを見て、ふっと、笑いそうになった。
いつもの、計算された軽さじゃない。
完全に、伊吹が狼狽している。
見たことのない顔だった。
「……いりません」
ようやく、声が出た。
まだ、涙混じりだったけれど。
「あ、いらない? そっかぁ……」
伊吹は、慌てて隊服を引っ込めた。
それから、また視線を泳がせる。
「えーと、あの、じゃあ、何が、ほしい?」
その問いが、的外れすぎて、また涙が滲んだ。
今欲しいのは、何かではなくて――でも、それを伝える言葉が、見つからなかった。
「……いえ」
首を、わずかに振る。
「大丈夫、です」
「全然、大丈夫そうじゃないけど」
伊吹は、低く呟いた。
それから、ようやく、深く息を吐いた。
頭を、両手で軽く掻く。
いつもの軽さが、ゆっくりと戻ってくる。
「……ごめん、ね」
ぽつりと、言った。
今度は、ちゃんと謝罪の重みがある声。
「……やりすぎた、よね。たぶん」
短く、繰り返した。
その目が、いつもの軽さを取り戻していく。
けれど瞳の奥には、まだ、動揺が残っていた。
伊吹は、そっと、小夜の頬の涙を指先で拭った。
今度は、慌てた手つきではなく、ちゃんと、優しい手つきで。
意外なほど、優しい指先だった。
「小夜ちゃんに……泣かれると、困るよ」
ぽつりと、真顔で言った。
「どうしたらいいか、分かんないから」
小夜は、答えられなかった。
目を、開けることもできなかった。
ただ、伊吹の指先の冷たさだけが、頬に残っていた。
その温度だけが――今、自分が触れている、唯一の現実だった。
しばらく、二人とも動かなかった。
障子越しの夕刻の光は、少しずつ赤みを失っていく。
帳の白さが、薄い緋色の中で、ぼんやりと浮かんでいた。
部屋の隅に置かれた洋灯は、まだ火を入れられていない。
夜は、すぐそこまで来ていた。
伊吹が、小さく息を吐いた。
ゆっくりと、小夜から離れる。
「……ごめんね」
もう一度、ぽつりと、言った。
声には、もう狼狽の色はなかった。
いつもの軽い笑顔で、頭を掻く。
まるで、さっきまでのことが、すべて嘘だったみたいに。
「次は、泣かせないようにするね」
くすっと笑う。
でも、その笑みは、いつもより、わずかに弱かった。
「……傷跡も治しておくから」
そう言って、伊吹は小夜の唇に軽く触れた。
ほんの一瞬だけ。
治癒のためだと言い訳できるほど短く、けれど、ただの処置ではないと分かるほど近かった。
「えーっと、それで? 今夜、任務だよね?」
その切り替えが、あまりにも、自然だった。
怖いほど、自然だった。
けれど――その不自然さの裏に、さっきの狼狽が、まだ少しだけ残っているのが、小夜には分かった。
小夜は、寝台の縁に座り込んだまま、伊吹を見上げた。
唇が熱い。
頬の涙の跡も、乾いていない。
なのに、伊吹は――
もう、いつもの伊吹に戻ろうとしていた。
(……このひとは)
軽い口調で、致命的なことを言って。
軽い口調で、それを、なかったことにする。
でも、さっきの一瞬――伊吹が、本当に慌てていた。
小夜の涙のひと粒で、伊吹の仮面が、剥がれた。
軽さの下にあるものを、ほんの一瞬だけ、見てしまった気がした。
計算なのか、無自覚なのか。分からないけれど。
「……はい」
ようやく、声が出た。
今夜の任務のこと、と問われたのだから、答えるしかなかった。
「夜の鐘のあと、出発と聞いています」
「了解」
伊吹は、軽く頷いた。
それから、寝台から立ち上がる。
戸口で草履を履き直して、扉に向かう。
部屋を出る前に、一度だけ、振り返った。
「……小夜ちゃん」
ふと、声が、低くなった。
いつもの軽さが、わずかに引いた声。
「逃げるならさ。ちゃんと俺のこと、嫌いになってからにしてね」
伊吹は、扉に手をかけたまま笑った。
一拍置いて、少しだけ声を落とす。
「そんな顔で逃げられたら……俺、たぶん追いかけたくなっちゃうから」
その目が、黄昏の光の中で、いつもより暗く沈んでいた。
小夜は、何も言えなかった。
息が、上手く吸えない。
伊吹は、それ以上、何も言わなかった。
扉が、ゆっくりと閉まる。
部屋に、また静寂が戻った。
障子越しの光だけが、変わらず、畳の上に落ちていた。
小夜は、しばらく動けなかった。
寝台の縁で、両手を握りしめた。
涙が、また滲んだ。
拭うことも、できなかった。
(……『ちゃんと俺のこと、嫌いになってから』)
その言葉が、頭の中で、何度も繰り返された。
――無理だった。
もう、嫌いになれる気がしなかった。
だから――逃げる場所も、もう、ない。
夕暮れの光が、少しずつ畳の上から退いていく。
帳の白さが、夕闇の中で、静かに揺れていた。




