第十一話 約束の手を取れなくて
朝になっても、小夜は眠れなかった。
本来なら、夜勤を外されたあとは、夜明け前には眠っているはずだった。
けれど今朝だけは、眠気が少しも訪れなかった。
特別区にある小夜の部屋には、障子越しの薄い光が差し込んでいる。
畳敷きの部屋に、白い帳のかかった細い寝台。障子の向こうには硝子戸があり、朝の光を冷たく受け止めていた。文机の上には、書きかけの記録紙と、結界札を入れた小箱。壁際の薬箱の隣には、昨夜消し忘れた洋灯が置かれている。火はとうに落ちているのに、硝子の火屋だけが、朝の淡い色を映していた。
障子の隙間から入る風には、もう夏の濃さがなかった。
夜露を含んだ庭土の匂いと、どこか乾いた葉の匂い。秋の入口の気配が、部屋の中にまで薄く忍び込んでいる。
遠く、本館の方から朝餉の支度の音が、かすかに聞こえた。
包丁の音。
木の桶を運ぶ音。
誰かの低い話し声。
日常の音のはずなのに、それがひどく遠かった。
昨夜の感触が、まだ肌の奥に残っている気がした。
唇を塞がれた息苦しさ。
背中をなぞった指先。
耳元に落ちた、甘い声。
(……嫌だった、はずなのに)
小夜は、ぎゅっと衣を握った。
――怖かった。
――逃げたかった。
それなのに、あの一瞬、続きを待ってしまった自分がいた。
そのことが、何より苦しかった。
「小夜ちゃん」
扉の向こうから声がした。
小夜の体が、びくりと震える。
「起きてる?」
伊吹の声だった。
いつも通り、軽い。
けれど、その軽さを聞いただけで、昨夜のことが一気に蘇る。
壁の冷たさ。
近すぎる距離。
逃げられない手。
小夜は返事ができなかった。
扉が、わずかに開く。
「……返事ないから入るね」
「入らないでください」
思ったより強い声が出た。
伊吹の動きが止まる。
扉の隙間から、蜂蜜色の瞳がこちらを見た。
「……へえ」
笑っている。
けれど、目が笑っていない。
「今日はずいぶん冷たいね」
「……昨日のことを、何もなかったみたいにしないでください」
言ってから、小夜は自分の声が震えていることに気づいた。
伊吹は少しだけ首を傾ける。
「何もなかったわけじゃないでしょ」
「……っ」
「ちゃんと止めたよ。小夜ちゃんが本当に壊れる前に」
その言い方に、胸の奥が冷える。
そうじゃない。
そういうことではない。
けれど、伊吹には伝わらない。
小夜は一歩、後ろへ下がった。
畳の縁を踏んで、足の指がわずかに沈む。
それを見た瞬間、伊吹の顔から笑みが薄くなった。
「……避けるんだ」
声が落ちる。
「伊吹」
「俺のこと、怖くなった?」
答えられなかった。
沈黙が落ちる。
伊吹は、それを答えとして受け取ったのだろう。
ふっと笑った。
「そっか」
いつもの軽さに戻ったようで、戻っていない。
「じゃあ、今日は近づかないでおく」
伊吹はそう言って、扉から手を離した。
「……小夜ちゃんが、逃げないならね」
その一言だけ残して、扉が閉まる。
蝶番が、低く軋む音がした。
小夜はその場に立ち尽くした。
(……逃げる?)
その言葉が、胸に刺さる。
逃げたい。
でも、どこへ。
(……どこに、行けば)
答えが出ない。
それでも、ふと、頭の奥に浮かんだ。
――朔夜のところへ。
その考えが浮かんだ瞬間、心臓が大きく鳴った。
(……朔夜)
つーちゃん。
(本当に、あのひとが待っていてくれている……?)
小夜は首を振る。
分からない。
伊吹も怖い。
朔夜も、分からない。
けれど、このままこの部屋にいたら、自分がどんどん分からなくなる気がした。
小夜は羽織を掴み、部屋を出た。
特別区の奥には、小さな庭がある。
高い塀と結界に囲まれていて、外の音はほとんど届かない。
石灯籠が、苔むした地面の上に二つ。手入れされた赤松が、塀の内側に静かに立っている。
季節の終わりの萩が、まだわずかに花を残していた。
白い砂利には、丁寧な箒目が引かれている。けれど、その上にどこから落ちたのか、薄く色づきかけた葉が一枚、ひっそりと乗っていた。
朝の空気は涼しかった。
夏の湿りはまだ地面に残っているのに、風だけは少し乾いている。
庭の隅にある池からは、かすかな水音がした。
小夜は池のそばに立った。
水面に映る自分の顔は、ひどく頼りなかった。
(……私は、何を信じればいいんだろう)
――伊吹は嘘を吐いた。
けれど、ずっとそばにいてくれた。
朔夜は約束を守ろうとしてくれている。
けれど、今の彼を小夜は知らない。
息が、重くなる。
そのとき、背後で、かすかな気配がした。
空気の温度が、わずかに変わる。
「……っ」
小夜は振り返る。
誰もいない。
白い砂利。
揺れる枝。
淡く光る結界。
人影はなかった。
(……気のせい?)
そう思った瞬間。
「……やっと思い出した?」
声がした。
静かで、深い声。
小夜の心臓が止まりそうになる。
「誰……」
返事はない。
けれど、気配だけが、すぐそこにある。
背後――すぐ近くだ。
小夜は振り向いた。
そこに、青年が立っていた。
青墨色の髪に、白い肌。
人の形をしているのに、整いすぎた顔立ち。
そして――右目の下に、小さなほくろ。
息が止まった。
伊吹と同じ顔だけど、違う。
伊吹よりも、どこか夜に近い青墨色の髪。
蜂蜜色ではなく、銀色の瞳。
まるで月のようなその瞳が、ただまっすぐに小夜を見ている。
朝の光が、銀の瞳の奥で薄く揺れていた。
「……朔夜?」
名前が、自然にこぼれた。
「……小夜」
朔夜の声は静かだった。
九年前と、変わらないようで、変わっている。
その声の底に、何かが深く沈んでいた。
「迎えに来た」
朔夜は、小夜の手を取ろうとして――止めた。
指先が、わずかに震えていた。
その手を、ゆっくりと下ろす。
「……傷は、ないか」
短い問いだった。
けれど、その問いに込められた九年が、小夜にも伝わった気がした。
胸の奥が、痛いほど熱くなる。
「……どうして、ここに」
「朱嶺が捕らわれたことで、内側から道ができた」
「……道?」
「あれは俺の気配を持っている。封鬼寮の結界が、完全には弾けなかった」
庭を覆う結界が、かすかに軋んだ。
淡い光の網目が、風もないのに揺れる。
「長くは持たないだろう」
「……そんなことが」
「それでも来た」
ただ、それだけだった。
「……約束を守るために」
「……覚えてたの?」
「忘れたことなどない」
即答だった。
胸が、痛いほど熱くなる。
嬉しい。
でも――怖い。
「小夜」
名前を呼ばれる。
朔夜が、もう一度手を差し出した。
今度は、震えていなかった。
彼は無理やり小夜の手を掴んだりせず、ただ待っている。
伊吹のように、強制しない。
差し出された手のひらの線が、朝の光の中で、はっきりと見えた。
長い指。
戦う者の手。
なのに、強引な気配は微塵もなかった。
小夜は、迷う。
あの夜の約束を思い出す。
(……一緒に、行けば)
彼ならば、伊吹よりも、小夜のことを尊重してくれるだろう。
――それは、きっと正しい選択だ。
手が、ゆっくりと伸びる。
指先が、朔夜の指に触れた。
冷たい。
温度が、ない。
伊吹の指の冷たさとは、また違う冷たさだった。
夜の岩肌のような、深い場所の冷たさ。
その瞬間、胸の奥に、静かな波紋が広がった。
――共鳴。
けれど、伊吹や朱嶺のときとは違う。
押し寄せる飢えも、焦燥もない。
ただ、ひどく深いところに沈んだ、静かな意志だけがあった。
水底に沈んだ、動かない石のような意志。
(……約束)
言葉になる前に、分かってしまう。
この人は、本当に覚えていた。
――ずっと。
それが嬉しくて、苦しかった。
そのまま、もう一歩だけ近づきかけて――そのときだった。
「――へえ」
軽い声が、背後から落ちてきた。
小夜の心臓が跳ねる。
「お客さんが来てたんだ」
振り返るより先に、空気が変わった。
朝の光の中で、結界の揺らぎがいっそう乱れる。
いつの間に来ていたのか。
伊吹が、白い砂利の上に立っていた。
いつもの軽い笑み。
けれど、目だけが――冷たい。
「あっ、朔夜じゃん。久しぶり〜」
飄々とした声。
九年ぶりの兄弟の再会を、まるで街角の挨拶のように済ませる。
朔夜は、答えなかった。
ただ、ゆっくりと視線を伊吹に向けた。
「……伊吹」
声は静かだった。
その目には、九年分の何かが、静かに積もっていた。
その視線だけで、何かが伝わったのだろう。
伊吹の笑みが、わずかに固まる。
「やだなぁ、そんな目で見ないでよ。怖いじゃん」
軽口。
けれど、声の温度が、ほんの少し違っていた。
小夜は、二人の間に立ち尽くしていた。
朔夜の指先が、まだ小夜の指に触れている。
冷たい温度。
その手を握ってしまえばいいのか。
離してしまえばいいのか。
動けない。
――息も、できない。
二人の視線が、小夜の頭上で交わっている。
目に見える刃ではなかったけれど、空気が張りつめていた。
「……伊吹」
朔夜が、もう一度その名を呼んだ。
今度は、わずかに低かった。
「お前は、いつから――」
言いかけて、飲み込んだ。
朔夜は、小夜に視線を戻した。
銀色の瞳には感情を抑え込んだような、深い色があった。
首筋の刻印が、じわりと熱を持った。
朔夜の視線が、そこに落ちている気がした。
見られているはずがない。
昨夜のことなど、朔夜が知るはずもない。
それなのに、唇に残る熱も、背中を這った指先も、全部見透かされているような気がした。
恥ずかしさと罪悪感が、一度にこみ上げる。
息が詰まる。
小夜の指が、わずかに震えた。
強く、目を閉じた。
――こんなに、伊吹のことで揺れている状態で、朔夜のところには行けない。
小夜は手を、引っ込めた。
「……ごめんなさい。今は、行けません」
小さな声だった。
「まだ……分からないから」
沈黙が落ちる。
朔夜は離された手をじっと見つめていた。
(……怖いのは、伊吹だけじゃない)
それが、やっと分かった。
朔夜も怖い。
知らないひとになってしまっているかもしれないことが。
九年分の時間が、彼の中に何を積もらせたのか、まだ何も知らないことが。
(……なぜ、朔夜の方が怖くないと思ったんだろう)
朔夜は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そうか」
それだけで、小夜を責めることはなかった。
「なら、今はいい……でも次は迷うな」
朔夜の視線が、もう一度、伊吹に向く。
今度は、ほんの一瞬だけ。
けれど、その視線には、明らかに敵意の色があった。
伊吹は、それを受け止めて、片手を上げた。
いつもの軽い笑みのまま。
そのとき――警報が鳴った。
封鬼寮本館の方角から、けたたましく響き渡る。
結界が強く揺れる。
人の気配が集まり始める。
駆ける足音が、塀の向こうから幾重にも重なって聞こえてきた。
朔夜の輪郭が、わずかに揺らいだ。
「……時間だ」
小夜は何も言えなかった。
ただ、その姿を見ていた。
朔夜は一歩だけ後ろに下がる。
「また来る」
それだけ言って、最後にもう一度だけ、小夜を見た。
彼は何も言わなかった。
罪悪感で、胸が潰れそうだった。
――次の瞬間、朔夜は、音もなく消えた。
残ったのは、静寂だけだった。
結界の揺らぎが、ゆっくりと静まっていく。
さっきまでそこにあったはずの彼の気配は、もうどこにもない。
庭には、朝の光と冷えた風だけが戻っていた。
水面の波紋だけが、ゆっくりと広がって、消えた。
小夜はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
差し出された手を、自ら拒絶してしまった。
(……行かなかった)
行けなかったのか。
行かなかったのか。
分からないまま、胸の奥だけがざわついている。
「一緒に行かなかったんだね」
すぐ後ろから、声が落ちてきた。
心臓が、跳ねる。
振り返るより先に、小夜の髪に伊吹が手で触れた。
やわらかく、撫でるように。
「えらいね」
甘い声だった。
何もなかったみたいに。
優しく、子供でも褒めるみたいに。
「ちゃんと帰ってきた」
指先が、髪をすくう。
その仕草があまりにも自然で、逃げるタイミングを失う。
小夜は、わずかに顔を逸らした。
「……まだ、はっきり決められないだけですから」
掠れた声だった。
それでも、どうにか言葉にする。
伊吹は口の端を上げた。
「それでもさ」
すぐ近くで、囁く。
「俺がいるほうを選んでくれたんでしょ」
「違っ……」
否定しようとした瞬間、唇に軽く触れられた。
ちゅ、と音がした。
本当に一瞬だけの接触。
「……っ」
思わず顔を引く。
けれど、逃げるより早く、伊吹の親指が下唇をなぞった。
昨夜、噛まれた名残を確かめるみたいに。
ゆっくりと。
「まだ覚えてる?」
「……何を」
「昨日のこと」
軽い声。
けれど、指先はやけに丁寧だった。
唇の端をなぞられるだけで、昨夜の息苦しさが蘇る。
押しつけられた壁の冷たさ。
背中を這った指先。
逃げたいのに、足が動かなかったこと。
「……やめてください」
「なんで?」
何も悪いことをしていないみたいな顔。
小夜は眉を寄せた。
「そんなんじゃないから……!」
強く言ったはずなのに、声が揺れる。
伊吹はそれを面白そうに見ていた。
「ふーん」
気のない相槌。
そのまま、耳元に唇が近づく。
「じゃあ、まだ決めてないならさ」
甘い声で言いながら、伊吹は小夜の頬に指を添えた。
「そのままでいいよ……どうせ最後は、俺のところに戻って来るし」
小夜は思わず息を呑む。
当たり前みたいに言う。
逃げ場なんて、最初からないみたいに。
小夜の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……違います」
「うん」
伊吹は笑った。
「今はね」
優しい声だった。
けれど、その優しさが余計に怖い。
小夜は一歩下がろうとした。
けれど、伊吹は追わない。
ただ、視線だけで捕まえる。
「焦らなくていいよ」
その声は、朝の庭にひどく静かに落ちた。
「ちゃんと、好きにさせてあげるから」
何事もなかったみたいに、伊吹は手を離す。
拘束はされていない。
逃げようと思えば、逃げられる。
それなのに、小夜はその場から動けなかった。
水面に、薄く色づいた葉が一枚、ひらりと落ちる。
波紋が広がって、朝の光を細かく揺らした。
残ったのは、伊吹の声と、消えない唇の熱だけだった。




