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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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第十話 逃げられない夜

 封鬼寮の特別区は、夜になるとひどく静かだった。

 外界から切り離されたようなその空間は、昼間よりもずっと現実感が薄い。

 帝都のどこかから聞こえるはずの市電のベルも、人の声も、塀と結界に阻まれてここまでは届かない。

 あるのは、自分の呼吸の音だけ。

 障子の向こうで、月が高く昇っているのが分かった。

 夜気が、わずかに障子を冷やしている。

 小夜は自室の窓際に立ったまま、動けずにいた。

 

(……同じ顔)

 

 朱嶺の言葉が、頭から離れない。

 

『――あの方と同じ顔をしておきながら』

 

 胸が、静かに軋む。

 

(……違う)

 

 そう思いたいのに。

 記憶は、確かに見せていた。

 月明かりの中。

 納屋の奥。

 血の匂い。

 藁の匂い。

 そして――ほくろの位置が、逆だった。

 

「……」

 

 息が浅くなる。

 

(……私、間違えてた?)

 

 伊吹と、つーちゃん……朔夜。

 もし、本当に双子で。

 自分が――違う方を。

 

(……好きに、なってた……?)

 

 膝が、かすかに震えた。

 そのとき扉が、静かに叩かれた。

 節度のある、控えめな音。

 

「……朝霧さん」

 

 聞き慣れた声だ。

 

「神崎です。少し、よろしいでしょうか」

 

 小夜は一瞬だけ迷って、それから頷いた。

 

「……どうぞ」

 

 扉が開く。

 神崎志乃が、静かに入ってきた。

 いつも通り整った姿勢。けれど、その顔色は少しだけ悪かった。

 黒の隊服のまま、結い上げた髪にも乱れはない。

 それなのに、どこか、いつもの志乃とは違って見えた。

 

「夜分に失礼します」

 

「……いえ」

 

 言葉が続かない。

 小夜が戸惑っていると、志乃は少しだけ目を伏せた。

 

「……これまでのことを、謝りに来ました」

 

「謝る……?」

 

「朝霧さんに、失礼なことを申し上げました。伊吹様のことも、あなたのことも、分かったつもりでいました」

 

 志乃の指先が、かすかに震えている。

 

「でも、今日……分かりました」

 

 顔を上げた志乃の目には、はっきりとした恐怖の名残があった。

 

「あの方は、鬼なのですね」

 

 小夜の胸が、ぎゅっと縮む。

 

「知っていたつもりでした。人ではないことも、封鬼寮にいる誰より危険な方だということも。でも、目の前で見るのとは違いました」

 

 志乃の声が、わずかに低くなる。

 

「あのとき、伊吹様があなたを壁に押しつけて……血を奪うように口づけたとき」

 

 小夜の頬が熱くなる。

 同時に、背筋が冷えた。

 

「あれは、ただの嫉妬ではなかった。恋情だけでもない。もっと深い、本能のようなものに見えました。……正直に言えば、とても怖かったです」

 

 小夜は息を呑んだ。

 

「私には、あの方を受け止めきれません。荷が重すぎます」

 

 志乃は、ほんの少しだけ笑った。

 けれど、その笑みはいつもの強いものではなかった。

 

「ようやく、伊吹様を諦める決心がつきました。だから、謝ります。これまでの態度を」

 

「……そんな、謝らないでください。私だって、伊吹のことを受け止められているわけじゃありません。むしろ……」

 

 言葉が詰まる。

 ――怖い。

 分からない。

 逃げたい。

 それなのに、離れられない。

 その全部を、うまく言葉にできなかった。 

 志乃は、小夜の沈黙を見て、静かに言った。

 

「……分かります。あのとき、私も怖かったから」

 

 小夜の胸の奥に、何かが落ちた。

 怖かった。

 自分だけではなかったのだ。

 

「でも、同時に……少しだけ、羨ましいとも思いました」

 

「……羨ましい?」

 

 小夜が顔を上げる。

 志乃は苦笑した。

 

「おかしいでしょう。怖かったのに。あんなふうに向けられる感情は、普通なら恐ろしいだけのはずなのに」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

「でも、伊吹様は、あなたが他の鬼に血を与えようとしたことを許せなかった。理屈ではなく、本能で」

 

 小夜の唇に、まだあの痛みの記憶が残っている。

 噛まれた瞬間の鋭い痛み。

 血を奪われる感覚。

 他の鬼に渡しかけたものを、伊吹が自分のものに戻すように舐め取ったこと。

 思い出すだけで、体の奥が震えた。

 

「……あれは、何なんでしょうか」

 

 かすれた声で、小夜は言った。

 志乃は、すぐには答えなかった。

 

「……分かりません。私が知っている恋や愛とは違います。少なくとも、綺麗なものではないと思います」

 

 それから、静かに続ける。

 

「けれど、あれほど強く、誰かに執着されることを……私は一度も経験したことがありません」

 

 その声には、淡い羨望があった。

 けれど、もう嫉妬ではなかった。

 

「だから、羨ましいと思ってしまった自分もいます。……同時に、私には無理だとも思いました」

 

 志乃は小さく息を吐く。

 

「朝霧さん。伊吹様から逃げたくなるのは、自然なことだと思います。怖いと思うのも、当然です」

 

 小夜の喉が詰まる。

 

「でも、あなたが逃げずに向き合おうとするなら……私は、もう邪魔をしません」

 

「……ありがとうございます」

 

 ようやく、小夜はそれだけ言った。

 志乃は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ほんのわずかに笑った。

 

「……礼を言われることではありません」

 

 そう言って、背を向ける。

 扉の前で、志乃は一度だけ足を止めた。

 

「……それから」

 

「はい」

 

「伊吹様は、危うい方です。けれど、今日のあの方は……あなたを失うことだけは、本気で恐れているように見えました」

 

 小夜の胸が、強く鳴った。

 

「それが幸せなことかどうかは、私には分かりません。でも、あの方があなたを見ていることだけは、間違いないと思います」

 

 それだけ言って、志乃は部屋を出ていった。 

 扉が、低い音とともに閉まる。

 静寂が戻る。

 扉が閉まったあとも、小夜はしばらく動けなかった。

 

(……怖かった)

 

 やっと、言葉になった。

 自分だけではなかった。

 あの伊吹を見て、志乃も怖いと思った。

 けれど――。

 

(『羨ましい』か……)

 

 志乃は言った。

 それが、小夜には分からなかった。

 分からないはずなのに、胸の奥が妙に熱かった。

 怖い。

 ――逃げたい。

 でも、知りたい。

 伊吹が何を隠しているのか。

 朔夜が誰なのか。

 そして、あのとき自分を噛んだ感情が、ただの本能なのか、それとも別の何かなのか。

 

(……向き合わなきゃ)

 

 小夜はゆっくりと顔を上げた。

 


 廊下に出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。

 特別区は静まり返っている。

 板張りの廊下を踏むたびに、低く軋む音が響いた。

 行灯の灯が、廊下の角ごとに、ぽつりぽつりと揺れている。

 足音だけが、その光の合間に落ちていく。

 伊吹はすぐに見つかった。

 壁に背を預けて、退屈そうにしている。

 小夜が休むよう榊に命じられたせいで、伊吹も今夜は暇になったのだろう。

 羽織の裾が、廊下の風にわずかに揺れていた。

 

「……あ、小夜ちゃん」

 

 軽い声。

 いつも通りの笑み。

 それが、逆に怖い。

 小夜は一歩だけ距離を詰めた。

 周囲に人の気配はない。

 

「……伊吹」

 

「なに?」

 

 首を傾げる。

 無邪気な仕草なのに。

 

「……どうして」

 

 喉が詰まる。

 それでも、続ける。

 

「どうして、嘘を吐いたの?」

 

 一瞬だけ。

 空気が止まった。

 行灯の灯すら、その瞬間だけ、揺れを止めたように見えた。

 伊吹は、きょとんとした顔をした。

 

「嘘?」

 

「……伊吹が、つーちゃんだって嘘を吐いたこと」

 

 伊吹は数秒だけ黙って、それから、ふっと笑った。

 

「ああ、それ?」

 

 軽い。

 あまりにも軽い。

 

「そっちのほうが楽しいかなって思って」

 

 小夜の思考が止まる。

 

「……楽しい?」

 

「うん」

 

 頷く。

 悪びれもせず。

 ――理解が追いつかない。

 

「だってさ、小夜ちゃん、あいつのことすごい好きそうだったし」

 

 にこりと笑う。

 

「誤解されたままのほうがいいかなって」

 

 背筋が、冷えた。

 理解できない。

 まるで人の感情を、玩具のように扱っている。

 

「……っ」

 

 言葉が出ない。

 伊吹は気にした様子もなく、肩をすくめる。

 

「え〜、これって、そんな怒ること?」

 

 小夜は何も言えなかった。

 ただ、一歩後ろに下がる。距離を取る。

 それを見て、伊吹の目がほんの少しだけ細まった。

 小夜は伊吹から離れて、そのまま地下へ向かった。

 考えるより先に、体が動いていた。

 階段を下りるたび、地下の冷気が、肌に纏わりついてくる。

 先ほども来た場所のはずなのに、夜が深まった地下牢は、別の場所のようだった。

 行灯の数が減っているのか、廊下が、いつもより暗い。

 

(……確かめたい)

 

 ――あの鬼。

 朱嶺という名だったはず。

 彼なら、きっと真実を知っている。

 尋問室の奥――牢の前に立つ。

 見張りの隊員が一瞬驚いた顔をしたが、何も言わなかった。

 鉄と血の古い匂いが、鼻の奥に戻ってくる。

 石壁の冷たさが、小夜の足元から、ゆっくりと這い上がってきた。

 小夜はゆっくりと口を開く。

 

「……朱嶺」

 

 暗がりの中で、鬼が目を開けた。

 

「……来たか、稀血の娘」

 

「……聞きたいことがあります」

 

 朱嶺は、かすかに笑った。

 

「何だ」

 

「……朔夜、という人のことです」

 

 沈黙が落ちる。

 小夜は一歩、檻のほうに近づいた。

 

「……あの人は」

 

 喉が震える。

 

「……昔、私と会ったことがありますか?」

 

 朱嶺の目が細まる。

 

「……ようやく、思い出したか」

 

 息が止まった。

 

(……やっぱり)

 

 心臓が、大きく鳴る。

 

「あの方は、お前との約束を守ろうとしている」

 

「約束……」

 

「会いに行く、と」

 

 小夜の胸が熱くなる。

 ――あの夜、月明かりの中で結んだ、小さな約束を。

 

(……覚えてた。覚えていてくれた……つーちゃんは)

 

 涙が滲みそうになる。

 嬉しい。

 どうしようもなく。


「……一緒に来い」

 

 朱嶺が手を伸ばす。

 結界具に拘束された手のひらが、わずかに震えていた。

 

「我々はお前を傷つけないと約束する。それが、朔夜様のご命令だ」

 

「……あ」

 

 一瞬、迷う。

 手が、わずかに動いた。

 ――その瞬間だった。

 後ろから、腕を掴まれた。

 

「つーかまえた」

 

 全身が、すくむ。

 

(……いつから、いた?)


 まったく気配がなかった。

 振り返ると、伊吹がいた。

 笑っているけれど、目が、笑っていない。

 行灯の灯を背にしているせいで、その顔は半分だけ影に沈んでいた。

 

「……どこ行くつもりだったの、小夜ちゃん。その男と」

 

 低い声が落ちた。

 ――逃げられない。

 そう、本能で悟る。

 

「……離してください」

 

「だめでしょ。小夜ちゃん」

 

 ぐっと、つかんだ腕を引き寄せられる。

 気づけば、伊吹の腕の中にいた。

 

「小夜ちゃんのいる場所はさ」

 

 耳元で、優しく囁かれる。

 

「俺のそばでしょ」

 

 心臓が、一度だけ大きく跳ねた。

 ――怖いのに。

 体が、逃げられない。



  

 そのまま引きずられるようにして、伊吹の部屋に連れ込まれた。

 気づけば、壁に押しつけられていた。

 背中に、夜気を吸った漆喰の冷たさが触れる。

 前には、伊吹。

 

「……逃げるの?」

 

 すぐ耳元で問われる。

 甘い匂いが、すぐ鼻先にあった。

 

「逃げて、ない……」

 

 言い切る前に、唇を塞がれた。

 

「……っ」

 

 強引だった。

 最初から、逃がすつもりなんてないみたいに。

 押し返そうとした手首を、簡単に捕まえられる。

 力の差なんて、最初から分かっている。

 それなのに、唇が離れた瞬間、足りないと思ってしまった。

 息を吸うより先に、伊吹の匂いを探してしまう。

 そんな自分に気づいて、ぞっとする。

 伊吹の親指が、小夜の下唇をなぞった。

 さっき噛んだ名残を確かめるみたいに、ゆっくりと。

 

「……まだ、血の味する」

 

 低く囁かれて、喉の奥が詰まった。

 

「小夜ちゃんさ」

 

 唇が離れる。

 顎を持ち上げられ、視線を合わせられた。

 

「俺のこと、嫌いになった?」

 

 答えられなかった。

 沈黙をどう受け取ったのか、伊吹は小さく笑う。

 そのまま、首筋に顔を寄せた。

 

「……っ」

 

 歯が触れる。

 噛まれる、と思った。

 けれど、伊吹はそこで止まった。

 唇だけが、刻印の上をかすめる。

 触れているのか、触れていないのか分からないほど軽いのに、そこから熱が広がっていく。

 

「……やめとく」

 

 ぽつりと、囁く。

 

「今やったら、小夜ちゃん、壊れちゃいそうだし」

 

 頬に、指先が触れる。

 その瞬間、わずかに何かが流れ込んできた。

 ――共鳴。

 けれど。

 

(……なにも、ない)

 

 伊吹の中は、空っぽだった。

 飢えも、怒りも、意志も。

 何も流れてこない。

 ただ、風のない夜の池のように、静まり返っている。

 なのに、その底にひとつだけ。

 小夜へ向かう、じわりとした熱があった。

 

(……なに、これ)

 

 意味が分からない。

 分からないのに、胸が締めつけられる。

 伊吹の手が、捕まえていた手首から、ゆっくりと下りていく。

 指先が腕をなぞり、肩をかすめ、背中へ回った。

 衣越しなのに、触れられた場所だけがはっきり分かる。

 逃げようとすればできるはずなのに、その手の動きを追ってしまう。

 伊吹の指先が、小夜の背中に触れた。

 衣越しに、背筋をゆっくりとなぞられる。

 

「……っ」

 

 ぞくり、と震えが走った。

 逃げたいのに、足が動かない。

 その反応を見て、伊吹が目を細める。

 

「そういう顔、するんだ」

 

「……見ないでください」

 

「無理」

 

 即答だった。

 甘い声なのに、逃がす気のない声だった。

 

「だって、小夜ちゃんが俺の前でそういう顔するの、好きなんだよね」

 

 息が止まる。

 伊吹は、もう一度だけ小夜の唇に触れた。

 今度は深くない。

 触れるだけの、優しい口づけ。

 けれど、さっきよりもずっとたちが悪かった。

 乱暴に奪われるより、優しくされるほうが、逃げ道を失う気がした。

 

「俺から逃げてもいいけどさ」

 

 伊吹が、耳元で囁く。

 

「次は、逃げられないようにしちゃうかも」

 

 冗談みたいな声だった。

 けれど、その指先は、まだ背中に残っている。

 まるで、そこから体の芯まで縫い止められてしまったみたいに。

 

「……そういうところが、怖いんです」

 

「うん、知ってる」

 

 伊吹は、くすっと笑った。

 少しも冗談に見えない笑みだった。

 優しい言い方なのに、最初から逃げ道は塞がれている。

 その手の込んだやり方が、何より怖かった。

 

(……嫌だったのに)

 

 ちゃんと、嫌だったはずなのに。

 

(……止めてほしいって思ったのに)

 

 ――少しだけ、続きを期待してしまったのか。

 

 そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。

 これ以上、自分を嫌いになりたくないのに。

 

(怖いのに――どうして、あっちを、選ばなかったの)

 

 外で、夜回りの拍子木が、ぽーん、と一つだけ鳴った。

 その音が、なぜか、ひどく遠く聞こえた。




 

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