第七話 月は何も悼まない
夕方の特別区は、静かだった。
小夜は、文机の前に座っていた。
障子越しに、夕暮れの光が薄く滲んでいる。
硝子戸の向こうで、空が橙色に染まり始めていた。
遠くで、蜩が力なく鳴いている。
夏の終わりの、最後の声。
夜勤の時間まで、まだ少しある。
身支度を済ませた小夜の手元には、白い紙が置かれていた。
この体質になってからは、できる限り共鳴したときの状況記録をつけるようにしていた。
昨日の堕ち鬼の女の最後の声が、まだ耳に残っている。
でも、書き始めると、言葉が見つからなかった。
筆先が、紙の上で迷う。
硯の墨が、わずかに乾きかけていた。
(……何を、書けばいいんだろう)
書こうとして、また止まる。
その繰り返しだった。
部屋の隅に置かれた洋灯は、まだ火を入れていない。
夕暮れの光が、まだ部屋を満たしているからだった。
扉が、軽く叩かれた。
「小夜ちゃん、入っていい?」
返事を待たずに、扉が開いた。
いつものことだった。
伊吹が、片手に湯飲みを持って入ってくる。
「お茶、淹れてきたよ」
「……自分でできます」
「知ってる。でも、俺がしたかっただけ」
くすっと笑って、文机の脇に湯飲みを置く。
茶葉の香りが、ふわりと部屋に広がった。
帳のかかった寝台の縁に、伊吹は当然のように腰を下ろした。
寝台の縁が、わずかに沈む。
小夜は、思わず半歩、文机の方へ動いた。
「何を書いてるの?」
「……」
「昨日のこと?」
「……ええ、まあ」
短く答える。
書いている内容を、伊吹に見られたくはなかった。
筆を置いて、紙を裏返した。
その動きを、伊吹はじっと見ていた。
「俺に見せたくない?」
「……特に意味はありません」
「ふーん」
くすっと笑う。
そのまま、伊吹は寝台から立ち上がり、文机の前に来た。
肩越しに、小夜の手元を覗き込もうとする。
近い。
冷たい指先が、頬に触れた。
「……っ」
息を呑んだ。
逃げようとしたら、軽く顎を持ち上げられる。
「だめ?」
近い距離で、囁かれる。
甘い声。
夕暮れの光の中で、蜂蜜色の瞳が、薄く揺れていた。
「……だめです」
絞り出すように、答える。
でも、声が震えていた。
伊吹は、それを面白そうに見ていた。
「やっぱり、誘ってるよね」
「誘ってません」
「そう?」
ちゅ、と軽く触れられた。
唇に、一瞬だけ。
「……っ」
顔が、真っ赤になる。
心臓が、跳ねた。
「冗談だよ」
くすくす笑って、伊吹はあっさりと離れた。
寝台に戻って、また腰を下ろす。
「お茶、冷めるよ」
まるで何もなかったみたいに。
小夜は、唇に触れた感触を、まだ感じていた。
(……このひとは、いつもこう)
軽くて、近くて。
なのに、たまに、何かが違う。
その違和感の正体が、まだ分からない。
小夜は、震える指先で湯飲みを取った。
お茶は、温かかった。
舌の上で、ゆっくり広がっていく茶葉の香り。
夕暮れの光が、湯飲みの縁を、薄い橙色に染めている。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼します」
扉の向こうから、若い男の声がした。
補助班の使いだろう。
「朝霧さん、お休みのところ申し訳ありません」
「どうぞ、入ってください」
扉が開いて、若い隊員が入ってくる。
黒の隊服を着た、二十代前半の男だった。
手には、書類の束を持っている。
彼は伊吹を見ると、一瞬、ぎこちなく頭を下げた。
「あ、伊吹様もいらしたんですね」
「やぁ」
軽く手を上げる伊吹。
隊員は、書類を文机に置いた。
「索敵班からの追加資料です」
それから、ほんの少しだけ、声を落とした。
「あの……ご存じですか。昨夜のこと」
「昨夜?」
小夜が、首を傾げる。
隊員は、わずかに視線を落とした。
「下町で、若い男が刺されて……この資料の中にも載っていますが」
「鬼?」
伊吹が、軽い声で聞いた。
まるで、天気の話でもするみたいに。
「いえ。強盗です。鬼の仕業ではありません」
隊員の声が、わずかに震えた。
「私の、知り合いなんです。新婚で、子どもが生まれたばかりで……」
言葉が、途切れる。
しばらく、沈黙が落ちた。
障子越しの光が、文机の上にやわらかく落ちている。
その光だけが、変わらなかった。
「……それは、お辛いですね」
小夜は、ようやくそれだけ言った。
声が、掠れていた。
隊員は、唇を噛んだ。
「……すみません。任務とは関係のない話でした」
「そうだね。人間同士の事件なら、俺の仕事じゃないし」
伊吹は浅く笑って、湯飲みに口をつけた。
隊員の顔は引きつっている。
彼は小夜と伊吹に一度ずつ頭を下げて、出て行った。
扉が、低く軋んで閉まる。
部屋に、また静寂が戻った。
障子越しの光だけが、変わらず文机の上にある。
外で、蜩がもう一度、力なく鳴いた。
「……伊吹」
小夜は、思わず伊吹を睨んでいた。
伊吹は、湯飲みを傾けながら、障子の向こうを見ていた。
「……何ですか、あの反応」
「ん?」
あっさりと振り返る。
「あの方、ご友人を亡くされたんですよ」
「うん。聞いてた」
「それなのに、あんな態度を取るなんて……」
「何か問題があった?」
小夜は、立ち上がりたくなった。
でも、足に力が入らなかった。
「人ひとり亡くなったんですよ」
「うん、聞いたってば。それで?」
「そんなふうに、聞き流していいことじゃないですよ。せめて、悼む言葉くらい……」
「そんなのいいでしょ、別に」
軽い声。
伊吹は、湯飲みを文机に置いた。
「俺の知り合いじゃないし」
「……」
「ここは、生と死が隣り合わせの世界でしょ。だから生きてる実感ができて楽しいんじゃん」
小夜の指先が、わずかに震えた。
(……このひとは)
本当に、そう思っているのだ。
冗談ではない。
昨日、堕ち鬼の女を斬ったときの、あの一瞬の重さ。
あれは、確かに何かを感じていた。
なのに今は、こうやって、軽く流す。
その差が、分からなかった。
もしかしたら――伊吹自身にも、分からないのかもしれない。
「……でも」
小夜は、絞り出すように言った。
「人の死を軽く扱えば、いつかは自分も同じ扱いを受けることになるでしょう」
伊吹は、しばらく黙った。真顔で。
障子越しの光が、わずかに弱まった。
夕暮れが、一段、深くなっていく。
それから、伊吹はくすっと笑った。
「……どうでもいいよ」
短い声。
「今さえ楽しければ」
小夜は、何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
(……どうでもいいなんて)
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
このひとは、本当にそう思っている。
自分の命も、他人の命も。
全部、同じくらい軽く。
(……もしかして、私のことも、そうなのかな)
考えてしまった。
考えてはいけないと思いながら。
それでも、考えてしまった。
伊吹の指先の冷たさ。
唇の熱さ。
甘い匂い。
全部、本気じゃなくて。
ただの、暇つぶしで。
――それは分かっているつもりだったのに。
手の先まで、冷たくなる。
「大事にしなければ、人は壊れますよ」
「……壊れても直せばいいんだよ」
ぽつりと、伊吹が言った。
冗談みたいに。軽く。
まるで、おもちゃの話でもしているみたいに。
小夜は、息を呑んだ。
(……っ)
心臓が、強く鳴る。
言葉の意味を、すぐには受け止められなかった。
受け止めたくなかった。
「……何の、話ですか」
ようやく、声が出た。
「ん?」
伊吹が、首を傾げる。
「なんとなく」
軽い。
あまりにも軽い。
「壊れたら、直せば元通りだよ。だいたいのものは」
ふっと笑う。
それから、小夜の顔をちらりと見た。
「……心配しなくても、小夜ちゃんは壊さないよ」
その一言で。
心臓が、また跳ねた。
(……今、私の話、してた?)
分からない。
分からないのに。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……伊吹のそういうところ、気持ち悪いです」
絞り出した声は、震えていた。
「えー、なんで?」
不服そうに、唇を尖らせる。
「優しくしてるでしょ、俺。こんなに甲斐甲斐しく、尽くしてるし」
「優しくないです」
「伝わってないのは残念だなぁ」
くすくす笑う。
いつも通り、何もなかったみたいに。
小夜は、それ以上、何も言えなかった。
ただ、湯飲みを握っていた。
お茶は、もう冷めかけていた。
*
夕食の刻限を告げる、本館の鐘が鳴った。
ゴーン、と一つ。
夕暮れの空気の中で、その音が、低く響いた。
「あ、もう時間だね」
伊吹が、ふわりと立ち上がる。
「食堂、行こっか」
いつも通りの温度で。
さっきまでの会話が、なかったみたいに。
「……はい」
小夜は、ようやく頷いた。
立ち上がろうとして、足に力が入らないのに気づく。
文机に手をついて、なんとか立った。
伊吹はそれに気づいたのか、ふと小夜の方を振り返った。
「大丈夫? 疲れてるなら、だっこして連れてってあげようか?」
軽い声。
でも、目だけは、ほんの少しだけ気遣いの色があった。
「……大丈夫です」
「そう? 残念。じゃ、行こ」
伊吹は、扉に向かって歩き出す。
小夜は、その背中を見た。
黒い羽織の裾が、夕暮れの光の中で、薄く揺れている。
(……このひとは)
小夜は、ゆっくりと立ち上がった。
障子の向こう、空はもう赤みを失って、藍色に変わり始めている。
部屋の隅の洋灯に、まだ火は入っていない。
暗くなる前に、火を入れに戻ってこよう、と思った。
扉に向かう。
でも、その前に、もう一度だけ振り返った。
文机の上の、書きかけの紙。
白いままの、ほとんどの部分。
あの女の最後の声を、書き残せないまま、夕暮れが終わろうとしていた。
*
夜の任務を終えて、封鬼寮に戻る道。
夜が、深くなっていた。
市電のベルは、もう聞こえない。
最終便が、とっくに終わった時間だった。
今夜の任務は、簡単なものだった。
郊外の古い祠で、迷い鬼が一体。
伊吹が、一瞬で斬って、終わった。
小夜の共鳴も、ほとんど反応しなかった。
あっけないほど、静かな夜だった。
なのに――胸の奥に、夕方の伊吹の言葉が、まだ残っていた。
(……壊れても直せばいいんだよ?)
その声が、耳の奥で、何度も繰り返される。
夜風が、頬を撫でていく。
夏の終わりの、湿った匂い。
石畳の上を、二人分の足音が、ゆっくりと響いていた。
小夜は、ふと空を見上げた。
月が、雲の隙間から覗いていた。
白くて、静かで、何の感情もなく。
ただ、そこにある月。
(……このひとは)
もしかしたら、月と同じなのかもしれない。
誰かの死も。
誰かの痛みも。
全部、同じ高さから見下ろしている。
近くにいるようで、本当はずっと遠い。
手を伸ばしても、届かない場所にいる。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
なぜ痛むのか、分からなかった。
ただ――
(……怖い)
その感情だけが、はっきりと残った。
怖い。
このひとが。
――それなのに。
(……離れたくない、って)
どこかで、そう思っている自分がいた。
そんな自分が、いちばん怖かった。
離れると不安になる。
強く触れられると、契約した血が反応する。
(……きっと、そのせいだ)
風が、吹いた。
月が、雲に隠れた。
暗い夜道の中で、小夜は、伊吹の隣を歩き続けた。
足音が、石畳に低く響いていた。




