第八話 朔夜という名
神崎志乃と話をしてから、数日が経っていた。
堕ち鬼の女のこと。
強盗事件の夜のこと。
いくつもの夜が、小夜の中で重なっている。
帝都の南区へ向かう途中、索敵班との合流地点で待機していた。
大通りの外れに、警邏局の馬車がいくつも止まっている。
夕日が、煉瓦造りの外壁を、深い橙色に染めていた。
商家の軒先には、すでに大戸が下ろされ始めている。
軒先に吊られた風鈴は、もう夏の盛りほど賑やかには鳴らず、ぬるい風の中で、思い出したように一度だけ震えた。
道端には、どこから飛ばされてきたのか、乾きかけた桐の葉が一枚、石畳に張りついている。
人払いがされている範囲だ。
大通りからほんの少し離れただけなのに、空気が重い。
「お疲れさまです」
声がした。
振り返ると、神崎志乃が立っていた。
索敵班の制服。きっちりと結われた黒髪。
切れ長の目元には、いつも通りの隙のなさ。
でも、今日はその瞳の奥に、わずかな熱があった。
小夜は会釈を返した。
志乃の視線は、すぐに伊吹へ向く。
「伊吹様」
「やぁ、志乃ちゃん」
いつもの軽さ。
志乃は一歩近づいて、声を落とした。
「今日の現場は、危険度が高いと聞いています」
「みたいだね」
「……どうか、ご無理は」
志乃の指が、わずかに動く。
伊吹の袖に触れたかったのか、それとも単なる仕草だったのか。
でも、伊吹は気づかない。
――もしかしたら気づかないふりだったのかもしれないが――軽く笑った。
「ありがと。志乃ちゃんも気をつけてね」
「……はい」
志乃は、すっと身を引いた。
切れ長の目が、一瞬だけ、小夜に向いた。
――何かを、探るような視線。
小夜は、思わず視線を逸らした。
茶屋の日のことが、まだ記憶の中に生々しく残っている。
あの日の志乃の言葉。
『私だったら――絶対に、逃げたりしないのに』
その声が、ふと耳の奥で蘇った。
(……今、私が、何を言える)
言葉が、出ない。
ただ、自分の役目に集中するしかなかった。
小夜は、腰紐に吊るされた結界札の束に手を触れる。
墨で丁寧に書かれた、補助班専用の札。
それから、小さな鈴。
稀血の音と共鳴する、小夜の符具。
――戦う準備はできている。
「小夜ちゃん。準備、できてる?」
伊吹が、横で覗き込んだ。
「……はい」
「危なくなったら、すぐ俺に言うんだよ?」
その軽い声に、小夜は答えられなかった。
なぜか茶屋の日からずっと、伊吹に何かを頼むことに、躊躇してしまう。
伊吹を受け入れられないのに、彼を利用することに抵抗感を感じていた。
志乃が、己の場所へ戻っていく。
最後にもう一度だけ振り返って、伊吹を見た。
伊吹は志乃のほうを見ない。
彼女の視線に、小夜は気づかないふりをした。
「行こっか」
伊吹が、軽く声をかける。
小夜は、結界札の束を握り直した。
札の墨の匂いが、わずかに鼻先に届く。
夕暮れの空気の中で、その匂いだけが、いつもと変わらなかった。
帝都の南区は、昼間の賑わいが嘘みたいに静まり返っていた。
商家の軒先には、すでに大戸が下ろされている。
いつもなら市電が走るはずの大通りも、人の姿がほとんどない。
石畳には昼の熱がまだ薄く残っているのに、路地から抜けてくる風だけは、どこか乾いていた。
夏の終わりの湿りと、秋の入口の乾いた気配が、夕暮れの底で混ざり合っている。
夕日が、煉瓦造りの外壁を、深い橙色に染めていた。
人払いがされている。
警邏局の人員が、遠巻きに結界を張っていた。
白い結界札が塀や電柱にあちこち貼られて、淡く光っている。
「この先です」
小夜が告げる。
空気が、重い。
――いる。
気配が、濃い。
「……ほんとだ」
伊吹が、楽しそうに呟いた。
「いいね、当たりっぽい」
その声音に、わずかな高揚が混じる。
その瞬間。
影が、動いた。
屋根の上。
黒い影が、ゆらりと立ち上がる。
夕日の光を背にして、輪郭だけが浮かび上がっていた。
――鬼。
その瞳は、濁っていない。
底の見えない、黒。
(……黒夜)
息が詰まる。
そのとき。
式神が、弾けるように震えた。
榊からの命令だ。
文字が浮かび上がる。
『生け捕りにしろ』
「……っ」
小夜は思わず息を呑んだ。
(無茶だ)
この気配。
この圧。
討伐でも危険なのに、生け捕りなんて。
「聞いた?」
伊吹が、横で笑う。
「生け捕りだってさ」
「……はい」
声が、少しだけ硬くなる。
鬼が、こちらを見た。
視線が、絡みつく。
その瞬間。
(……痛い)
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
――共鳴。
鬼の感情が、流れ込んでくる。
苦痛。焦燥。
そして――強い、飢え。
けれど、それだけではなかった。
数日前、堕ち鬼の女に共鳴したときと、似ていた。
深い場所からの、声にならない叫び。
ただ暴れているだけの鬼ではない。
(……苦しい)
喉の奥が詰まる。
胸を内側から押し潰されるような感覚。
何かに縛られている。
逃げようとしても逃げられない。
命じられている。
進め、と。
連れて行け、と。
――遂行しろ、と。
(……この鬼、ただ暴れているんじゃない)
小夜は息を呑んだ。
黒い瞳の奥にあるのは、ただの飢えではなかった。
痛み。
恐怖。
それでも何かを果たそうとする、切迫した意志。
(止めなきゃ)
このままでは、暴れる。
被害が出る。
でも、それだけじゃない。
この鬼自身も、壊れてしまう。
――鬼が、動いた。
屋根の上から、ふわりと地面へ降り立つ。
石畳の上で、低い唸り声。
目は、まっすぐ小夜を見ていた。
(……まずは、動きを止める)
小夜は、結界札の束を握った。
墨の匂いが、指先で立ち上る。
それから腰に下げた小さな鈴に、そっと指を添えた。
りん、と澄んだ音が鳴る。
その音に合わせて、札に書かれた朱墨の術式が淡く光った。
鈴の音は、鬼を祓うためのものではない。
荒ぶる気を鎮め、結界の内側へ意識を向けさせるためのものだ。
(……お願い、止まって)
小夜は札を放った。
「――留」
札は、鬼の周囲の地面に円を描くように落ちる。
鈴の音が細く響き、淡い結界の光が立ち上った。
「……っ」
鬼の動きが、止まる。
結界の中で、足が止まる。
でも、それは長くは続かなかった。
黒い瞳が、ぐらりと揺れる。
鈴の音に引き戻されかけた意識を、もっと強い命令が塗り潰していく。
鬼の体が、ぐっと前に押し出された。
結界の光が、ぴしり、と軋む。
(……抗ってる)
小夜は、もう一枚、札を投げる。
鈴を、もう一度鳴らす。
りん、りん、と二度。
澄んだ音が、夕暮れの空気の中で、二重に重なる。
乾いた風が、札の端をかすかに震わせた。
でも――鬼の体が、結界の縁を越えた。
札が、ぱきり、と砕ける音。
結界の光が、霧散する。
(……だめ)
止まらない。
強い命令が、鈴の音も、結界も、上回っている。
黒夜の鬼。
普通の鬼とは、力の桁が違う。
(……いつもなら)
伊吹に頼む。
封印を緩めてもらって、稀血で動きを止める。
それが最善だと、分かっている。
――なのに。
(……お願いすれば)
頭に浮かぶのは、いくつもの光景だった。
茶屋での、あのやり取り。
志乃に向けた、軽い顔。
同じ距離。
同じ顔。
(……同じ、なのに)
胸の奥が、ざらつく。
それに堕ち鬼の女の、最後の声。
『……夫の側に、いきたかっただけなの』
あの夕暮れの境内で見た、絶望。
今、目の前の鬼も――何かを抱えている。
強い意志に、縛られている。
あの女と同じように。
(……自分で、止められないか)
稀血を持っているのは、自分だ。
誰かに頼らなくても、自分の血で。
この鬼を、止められるかもしれない。壊さずに。
(……できるはず)
喉が、詰まる。
(……お願いしたら)
また、あの人は。
同じ顔で、触れてくる。
誰にでもするみたいに。
それは、嫌だった。
一瞬の躊躇。
その間に。
――鬼が、動いた。
「……っ!」
速い。
一気に距離を詰めてくる。
小夜は反射的に手を上げた。
(……だったら)
下唇を、強く噛む。
じわり、と血の味が広がる。
鉄の味と、わずかな甘さ。
稀血の匂いが、空気にひろがるのを、自分の鼻で感じた。
(これで――)
自分の血でも、止められる。
あるいは――そのまま、口づけて。
直接、与える。
(止まるはず)
理屈は分かっている。
だから、小夜は一歩踏み出した。
その瞬間――腕を、強く引かれた。
「なにしてんの」
低い声だった。
今まで聞いたことのない温度。
振り返る間もなく、壁に押しつけられる。
背中が、冷たい石に当たる。
夕日に温められたはずの煉瓦の壁が、ひどく冷たく感じた。
「小夜ちゃんの血を、あいつに渡すつもりだった?」
低い声だった。
「それが何を意味するかも知らないで?」
冷たい眼差し。
すぐ目の前に、あの甘い匂いがある。
鬼特有の、底のない甘さ。
怖いのに、引き寄せられるような。
「……っ」
息が、出ていかない。
顎を、掴まれる。
逃げられない。
真正面から、見下ろされる。
蜂蜜色の瞳。
――笑っていない。
夕日の光が、伊吹の頬を、紅く染めていた。
「……さやちゃんってさ」
低く、ゆっくりとした声。
「誰にでも、そういうことするんだ」
「伊吹様……?」
背後で、志乃の声がした。
いつの間にか、現場まで来ていたのだろう。
その声は、かすかに震えていた。
けれど伊吹は振り返らない。
意味が、分からない。
けれど体が、動かない。
「……違っ」
言いかけて、止まる。
否定できない。
だって今、やろうとしたのは――
誰にでも、同じように血を与えること。そのための行為。
『鬼が自らの血を与え、相手の血を受け取る。それは、単なる治療ではありません』
小夜は、かつての白瀬の横顔を思い出す。
『――伴侶。眷属。あるいは、どうしても失いたくない相手』
――鬼にとって、血の契りは深い意味を持つ。
分かっていたはずだった。
なのに、共鳴に引きずられて、目の前の鬼を止めることしか考えられなくなっていた。
伊吹の指に、力がこもる。
顎を支える指が、肌に深く食い込む。
痛いというほどではない。
でも、逃げられない。
伊吹の指が、顎から口元へ滑る。
息を封じるみたいに、親指が唇の端を押さえた。
「そんなことしたらさ」
にこり、と笑う。
形だけは、いつもの笑顔。
でも声は、笑っていなかった。
目つきが怖い。優しさを失った空気。
伊吹が、小夜と頬が触れるほど近づいてくる。
呼気が皮膚に触れる。
「あいつ、殺しちゃうよ?」
押し付けられていた手から、ようやく解放される。
数回、咳込んだ。
とっさに息を吸おうとして開いた小夜の唇に、伊吹が噛みついた。
甘い口づけではなかった。
逃がさないための、罰のような噛み方だった。
「……っ」
さきほど自分で噛んだ傷が、さらに開き、血の味が舌に広がる。
伊吹はその血を、口づけるように舐め取った。
舌先が下唇の傷口をなぞり、あふれた血をゆっくりと奪っていく。
まるで、他の鬼に渡りかけたものを、自分のものに戻すみたいに。
思わず痛みでしかめる。
しかし頬と片手を伊吹に拘束されて、動けない。
「っは、ぁ……」
息が上がった。
「ははっ、誘ってるみたい」
「伊吹様、待ってください……!」
志乃の制止が飛ぶ。
小夜を庇うためなのか、鬼を生け捕りにするためなのか。
そのどちらか、小夜には分からなかった。
ただ、志乃の声には明らかな動揺があった。
ぞくり、と背筋が冷える。
視線だけで、押さえつけられる。
逃げられない。
ただ、見上げることしかできない。
鬼が、目前まで迫っていた。
なのに小夜の意識は、伊吹から離れない。
(……怖い)
今までとは、違う。
この人は――こんな顔をする人だった?
――鬼の動きが、止まった。
視線が、伊吹に向く。
じっと凝視する。
まるで、信じられないものを見るように。
「……朔夜様……?」
小さく、漏れた。
空気が、凍りつく。
夕日の光も、夜風も、その一瞬だけ止まったように感じた。
ほんの一瞬、伊吹の動きが止まった。
息が、かすかに浅くなる。
目が、細まる。
それから――伊吹は、ふっと笑った。
いつもの軽さではなかった。
もっと、奥のほうから滲んだ笑み。
「……違うよ」
短く、呟く。
声に、これまでにない冷たさが混じっていた。
「俺のこと、そう呼ばないでね」
小夜の体を、ゆっくりと放す。
壁から離れた小夜は、その場に膝をつきそうになった。
伊吹は、もう小夜を見ていなかった。
ただ、鬼を見ていた。
夕日が、伊吹の輪郭を、紅く縁取っていた。
黒い羽織の裾が、夜風に揺れる。
鞘走りの音。
しゃり――。
刀が、抜かれる音だった。
黒い刃が、夕日の最後の光を反射して、鈍く光る。
いつもの軽さは、消えていた。
伊吹の蜂蜜色の瞳が、深く沈んでいた。
鬼が、わずかに後ずさろうとした。
でも、間に合わなかった。
伊吹の姿が、消える。
次の瞬間――鬼の眼前に、立っている。
その手が、刀を振り下ろした。
夕日が、刃の軌跡だけを、紅く焼く。
「《喰縛》」
低い声だった。
ほとんど、囁きに近かった。
けれど――その一言で、空気の温度が変わった。
刃が、鬼の体に触れる。
いや、触れる前に。
黒い影が、刃の先から、鬼の体へと広がった。
夕暮れの光の中で、その黒だけが、別の世界の色のように際立っていた。
影は、生きているように動いた。
鬼の体を、内側から這うように。
伸びて、絡みつき、縛り上げる。
鬼が、声を上げようとした。
でも、その声は途中で、消えた。
飲み込まれるように。
影が、鬼の妖力を、ゆっくりと喰らっていく。
吸い上げる、というより――
根こそぎ奪っていく。
逃げ場ごと、封じるように。
「……っ」
志乃が、息を呑んだ。
石畳の上、鬼の体から、力が抜けていく。
目の色が、ゆっくりと薄れる。
黒い影は、最後にひとつ、鬼の心臓の場所で、ぐっと締めつけた。
そして――鬼は、動かなくなった。
気絶したのではない。
死んだのでもない。
ただ、力を、奪われた。
石畳の上に、力なく沈む。
夕日の橙色が、その体を、ただ淡く照らしていた。
伊吹は、刀を鞘に納めた。
からり、と低い音。
夕暮れの空気の中で、その音だけが、はっきりと残った。
「……今のが……喰縛……?」
志乃が呆然とつぶやく。初めて見たのかもしれない。
切れ長の目が、見開かれている。
斬った相手の妖力を喰らい、逃げ場ごと封じる妖術。
それを、伊吹はほとんど力を入れずに使った。
まるで、息を吐くみたいに。
「はい、終わり」
声が、元に戻っている。
声も、距離も、元に戻っている。
「生け捕り、成功だね」
いつもの軽い笑み。
まるで、さっきの冷たさと熱が、嘘みたいに。
小夜は、その場に立ち尽くした。
言葉が出ない。
心臓だけが、うるさく鳴っている。
(……今の)
何?
何が起きた?
そして――
(……朔夜って、誰……?)
その言葉が、骨の奥まで刺さる気がした。
思い出しそうで、思い出せない。
そのまま、言葉にならずに沈んでいく。
足先が、じんと冷たかった。
夕闇が、ゆっくりと街を覆っていった。
日が落ちた途端、石畳に残っていた熱がすっと引いていく。
夏の名残だけを残した風が、血の匂いを薄くさらっていった。
*
少し離れた場所で、志乃が立ち尽くしていた。
切れ長の目を見開いたまま、伊吹を見ている。
まるで、知らないものを見てしまったみたいに。
――憧れていた伊吹様とは違う。
けれど、目を逸らせない。
そんな顔だった。




