第六話 悲しみの共鳴
その翌日。
封鬼寮の本館へ向かう途中で、伊吹が言った。
「今日、軽めの任務あるって。行こ」
いつもの調子だった。
「軽め、ですか」
「うん。郊外の寺。人喰い鬼の目撃情報があった」
あっさりと言う。
軽め、と言いながら人喰い鬼。
封鬼寮に来て九年経つが、伊吹の基準だけは今でもよく分からない。
小夜は黙って、伊吹のあとを歩いた。
昨日の茶屋の出来事は、まだ胸の奥に沈んでいた。
志乃の言葉。
伊吹の視線。
考え続けても、答えは出なかった。
考えないようにしても、勝手に浮かんできてしまう。
(……気持ちを、切り替えなきゃ)
任務だ。
これは、ただの任務だ。
小夜は、自分にそう言い聞かせた。
*
封鬼寮の馬車で、町外れまで運ばれた。
帝都の中心から離れるにつれ、街並みの色が変わっていく。
煉瓦造りの建物が減り、土壁の家が増える。
市電の線路も、途中で途切れていた。
それでも道沿いには電柱が立ち、夕日に黒く染まった電線が細く空を横切っている。
馬車を降りると、道は石ころ混じりの土道に変わった。
夕暮れの光が、道の両脇の田を金色に染めている。
遠くで、稲を運ぶ農夫の声が聞こえた。
刈り残された田の稲が、夕風に重たげに揺れていた。
大正の帝都から、ほんの少し離れただけで、世界の色が変わってしまう。
寺は、その町外れのさらに奥――山の麓にあった。
古い造りだ。屋根の瓦は欠け、参道の石畳には苔が這っている。
石燈籠が、参道の両脇に並んでいた。火は灯っていない。
夕日が、その石の表面を、淡い橙色に染めていた。
山門の奥に、淡い結界の光が見えた。
すでに索敵班が現地調査を済ませているらしい。
小夜は山門をくぐる前に、立ち止まった。
空気が、重い。
湿った土と、線香の名残の匂い。
いつもの癖で、腰紐に下げた結界札の束に手を当てる。
墨の匂いが、わずかに鼻先に届いた。
遠くで、蜩が、力なく鳴いていた。
夏の終わりの、最後の声。
その奥に、別の匂いが混じっている。
鉄。
血。
鬼の気配だ。
(……いる)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
――共鳴だ。
けれど、いつものような飢えではない。
もっと、引きずられるような。
まるで、深い悲しみを抱え込んでいるようだった。
「……っ」
小夜は思わず、胸を手で押さえた。
「小夜ちゃん?」
伊吹が振り返る。
「大丈夫?」
「……はい。でも、なにか、変です」
「変、って?」
「鬼なのに……悲しい、感じが、します」
小夜は、自分の言葉に自分で戸惑った。
悲しい。
そんな共鳴は、初めてだった。
伊吹は、しばらく小夜を見ていた。
それから、軽く頭を撫でた。
手のひらの冷たさが、髪を通して伝わってくる。
「鬼にも、いろいろあるんだね」
短い言葉だった。
「行こっか」
そのまま、参道を歩き出す。
小夜のブーツの底が、苔の上でわずかに滑った。
石燈籠の影が、二人の足元に長く伸びている。
小夜は、その背中を追った。
本堂の裏手に、それはいた。
手入れされていない、古い墓石が並ぶ一角。
草が伸び、夕日が斜めに差し込んでいる。
その中央に、若い女の姿をした、鬼。
長い髪が乱れ、白い着物の裾が血で染まっている。背を丸めて、地面に膝をついていた。
夕日の橙色が、そこだけ吸い込まれてしまったように、薄暗い。
顔を上げた瞬間、目が合った。
濁ってはいない。
ただ、ひどく暗かった。
光の届かない、深い穴のような瞳。
「……あ」
鬼が、小さく声を漏らした。
稀血の匂い――小夜の存在に気づいたのだろう。
けれど、その鬼は飛びかかってこなかった。
ただ、こちらを見ていた。
「……あなたは」
声を出した。
鬼の声だった。
でも、まだ人間の名残があった。
「……綺麗な、匂いね」
ゆっくりと、立ち上がる。
着物の裾が、夕風に揺れた。
小夜は息を呑んだ。
体が、震える。
(怖い……)
怖いけれど――胸の奥が、引きずられる。
鬼の感情が、流れ込んでくる。
悲しみ。
絶望。
会いたい人に、もう会えないという諦め。
(……これ)
小夜は、目を見開いた。
共鳴している。
今までで、いちばん深く。
「……お前さぁ」
伊吹が、鬼の女からかばうように小夜の前に出た。
彼は女を見据えて、淡々と言う。
「人間だったでしょ、元は。匂いで分かる」
鬼の女が、わずかに笑った。ぼろぼろの笑みだった。
小夜は息を呑んだ。
「――堕ち鬼か」
伊吹の声が耳に残った。
人でありながら、鬼の血や呪いに触れ、鬼へと堕ちた者。
封鬼寮の記録でしか見たことのない名が、胸の奥で冷たく響いた。
「……ええ。そうよ」
「だれ、喰った?」
「……夫を」
女が、答えた。
「殺された、夫を。弔うつもりだったのに……気づいたら、喰っていた」
その声には、悔恨すら残っていなかった。
悔いる力も、もう残っていないようだった。
風が、止まったように感じた。
夕暮れの蜩の声も、遠くなる。
小夜の指先が、冷えた。
「夫は……鬼に殺されたの。私の目の前で」
女は、淡々と話した。
「私は、生き残ったわ。でも、もう何も食べられなくて。喉を通らなくて」
血で汚れた手が、自分の胸を押さえる。
「気づいたら――肉が、欲しくなっていたの」
声が、震える。
「人の、肉が」
小夜の喉が、ぎゅっと詰まった。
「……夫の側に、いきたかっただけなの」
女が、囁く。
「鬼になれば、強くなれるって、聞いたことがあったから」
「夫を殺した鬼を追おうとしたのか」
伊吹が、続ける。
「……ええ。でも、できなかったけれど……」
「追って、どうするつもりだったの」
「……殺す」
短い答えだった。
「殺して――そのあとは、どうでもよかった」
小夜の胸が、激しく軋んだ。
共鳴が、強くなる。
女の絶望が、流れ込んでくる。
(……苦しい)
息ができない。
女の感情が、自分の感情のように体を満たしていく。
その人の、暖かい手。
もう触れられない手。
届かない場所にいる、たった一人の人。
失ったものの輪郭が、自分の輪郭と重なっていく。
(……違う)
これは、私じゃない。
私の感情じゃない。
なのに、涙が出そうになる。
「小夜ちゃん」
伊吹の声がした。
すぐ近くで。
「下がって」
短く、低く。
「……でも」
「下がって。共鳴に、引きずられてる」
手を、引かれる。
強くではない。
でも、確かに。
小夜は、後ろに下がった。
体が、震えていた。
女が、笑った。
涙がこぼれ落ちそうな笑み。
「……私を、狩るの?」
「うん。それが仕事だから」
伊吹が、答えた。
「悪い?」
「……いいえ」
女は、首を振った。
「もう、止めてほしかった」
その目に、初めて、わずかな光が宿った。
「自分でも、止められないの。人間を喰いたい衝動が、止められないの。もう誰でもいいから」
声が、震えた。
「お願い」
女は、目を閉じた。
「終わらせて」
風が、吹いた。
女の長い髪が、夕風に流れる。
その姿は、儚かった。
伊吹は、しばらく女を見ていた。
それから、ゆっくりと刀を抜いた。
刃が、夕日を反射して、紅く光る。
いつもの軽さは、なかった。
「……うん」
短く、答える。
「いいよ」
次の瞬間――《喰縛》。
黒い光が、女の体に走った。
斬った相手の妖力を喰らい、封じる、伊吹の妖術。
夕日の中で、その黒だけが、別の世界の色のように浮かんでいる。
女の体から力が抜け、淡く崩れていく。
砂が風に運ばれるように。
ゆっくりと、形を失っていく。
「……あり、がとう」
最後の声が、聞こえた。
夕風の中で、ふっと薄れた。
それから、女は消えた。
風だけが、残った。
女がいた場所には、白い着物の切れ端が、ひとつ。
それも、夕風に煽られて、ゆっくりと墓石の間に流れていった。
寺の境内に、戻る。
夕日が、本堂の屋根を、深い橙色に染めている。
小夜は、何も言えなかった。
胸の奥に、まだ女の感情が残っている。
悲しみ。
絶望。
諦め。
それを、抱きしめたまま消えていった、ひとりの命。
涙が、勝手に流れた。
拭おうとしても、止まらなかった。
頬を伝う涙が、夕日の光を映して、わずかに光った。
伊吹は、何も言わなかった。
ただ、小夜の隣を歩いていた。
「……鬼にも」
ようやく、声が出た。
「悲しみが、あるんですね」
自分の声とは思えないほど、掠れていた。
伊吹は、少しだけ歩く速度を緩めた。
「そりゃ、あるんじゃない? 彼女は……元は人間だし」
あっさりと、言う。
「……そう、ですか」
「うん」
しばらく、沈黙が続いた。
参道の苔を、夕日が照らしている。
石燈籠が、二人の影を長く後ろに引いている。
風が、頬を撫でていく。
小夜は、ふと、伊吹の横顔を見た。
「……伊吹も、ですか?」
言ってしまってから、ハッとした。
伊吹は、人間ではない。
もとから、鬼だ。
聞いてはいけないことだったかもしれない。
けれど、伊吹は驚いた様子もなく、首を傾げた。
「俺?」
「……はい」
「俺は、元から鬼だからなぁ」
あっさりと答える。
小夜は、伊吹の横顔を見た。
夕日が、頬を照らしていた。
まつ毛の影が、頬に落ちている。
「悲しみは?」
小夜は、聞いた。
彼をこの世界に繋ぎ留めているものが、戦い以外にもあればいいのに、と思った。
あの女のひとのように、何かに執着する心が。
「ないかな〜」
即答だった。
「……ないんですか」
「うん」
いつもの軽さで、笑う。
「ないよ。そんなこと聞いて、どうするの? あの女に共感しちゃった?」
その声は、いつものように軽かった。
けれど――その横顔は、ほんの一瞬だけ、寂しそうだった。
笑っているのに、何かが抜け落ちたような顔。
――いや、本当はそこにあって、それを見せないようにしている顔。
そのほうが、近い気がした。
夕日の中で、伊吹は遠くを見ていた。
いや、遠くを見ているふりをして、何も見ていないのかもしれなかった。
その横顔は、どこか――。
うまく、言葉にならない。
ただ、ふと、思ってしまった。
(……ひとりにしたら、消えてしまいそう)
なぜ、そう思ったのだろう。
伊吹は強い。
誰よりも強い特務封鬼師で、軽口ばかり叩いていて、自分のことを大切にしているようには見えないけれど、それでもそんなに簡単に消えるはずがないひとだ。
――なのに。
今、この瞬間だけ。
風が一吹きすれば、本当に、どこかへ行ってしまいそうに見えた。
(……包んであげたい)
ふと、そんな衝動が湧いた。
自分の中から出てきた感情に、小夜は驚いた。
そんなことを思う相手ではない。
何度も怖いと思った。
何度も逃げたいと思った。
それなのに。
包む?
誰を?
伊吹を?
(……だめ)
すぐに、頭を振った。
このひとにそんなことをしたら、たぶん、引きずり込まれる。
どこか、戻れない場所へ。
それは、分かっているはずだった。
なのに、彼に優しくしたい衝動は、すぐには消えず、胸の奥に残っていた。
*
帰り道、日は完全に落ちていた。
空が、深い藍色に変わっていく途中だった。
遠くの山際に、夕日の名残の橙が、細く滲んでいる。
封鬼寮へ戻る道は、ひと気がなかった。
石畳を歩く足音が、二人分、ゆっくりと響いていた。
道の両脇では、刈り残された稲が夜風に低く揺れている。
どこかの田では、もう稲刈りが始まっているのだろう。
乾ききらない稲わらの青い匂いが、かすかに混じっていた。
その音だけが、サラサラと、二人を包んでいた。
「……あの女のひと」
小夜は、ぽつりと言った。
「……悲しかったですね。ずっと、旦那さんの側に行きたかっただけなのに」
「……うん。そうだね」
伊吹は、短く返した。
責めも、共感もしない。
ただ、聞いている。
小夜の中で、何かが落ち着いた。
共鳴の余韻が、ゆっくりと薄れていく。
それでも、女の最後の声だけは、耳に残っていた。
「……伊吹」
「なに?」
「あの女のひと、最後に『ありがとう』って言いました。……ちゃんと、聞こえましたか」
「……うん。聞こえたよ」
それだけだった。
でも、小夜の胸が、ほんの少しだけ、温かくなった。
(……このひとは)
軽くて、適当で、何も気にしていなさそうで。
でも――ちゃんと、聞いていた。
あの女の最後の声を。
(……鬼にも、悲しみがある)
伊吹は、ない、と言った。
本当だろうか。
本当に、ないのだろうか。
――もし、あるとしたら。
いつか、私は、それに気づいてあげられるだろうか。
小夜には、分からなかった。
ただ、夕日に照らされていた彼の横顔だけが――夜になっても、頭から離れなかった。




