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稀血の娘――私を喰らう鬼を、好きになってしまった  作者: 高八木レイナ
第一部 私を喰らう鬼を、好きになってしまった

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第六話 悲しみの共鳴

 その翌日。 

 封鬼寮の本館へ向かう途中で、伊吹が言った。

 

「今日、軽めの任務あるって。行こ」

 

 いつもの調子だった。

 

「軽め、ですか」

 

「うん。郊外の寺。人喰い鬼の目撃情報があった」

 

 あっさりと言う。

 軽め、と言いながら人喰い鬼。

 封鬼寮に来て九年経つが、伊吹の基準だけは今でもよく分からない。

 

 小夜は黙って、伊吹のあとを歩いた。

 昨日の茶屋の出来事は、まだ胸の奥に沈んでいた。

 志乃の言葉。

 伊吹の視線。

 考え続けても、答えは出なかった。

 考えないようにしても、勝手に浮かんできてしまう。

 

(……気持ちを、切り替えなきゃ)

 

 任務だ。

 これは、ただの任務だ。

 小夜は、自分にそう言い聞かせた。



 封鬼寮の馬車で、町外れまで運ばれた。

 帝都の中心から離れるにつれ、街並みの色が変わっていく。

 煉瓦造りの建物が減り、土壁の家が増える。

 市電の線路も、途中で途切れていた。

 それでも道沿いには電柱が立ち、夕日に黒く染まった電線が細く空を横切っている。

 馬車を降りると、道は石ころ混じりの土道に変わった。

 夕暮れの光が、道の両脇の田を金色に染めている。

 遠くで、稲を運ぶ農夫の声が聞こえた。

 刈り残された田の稲が、夕風に重たげに揺れていた。

 大正の帝都から、ほんの少し離れただけで、世界の色が変わってしまう。

 寺は、その町外れのさらに奥――山の麓にあった。

 古い造りだ。屋根の瓦は欠け、参道の石畳には苔が這っている。

 石燈籠が、参道の両脇に並んでいた。火は灯っていない。

 夕日が、その石の表面を、淡い橙色に染めていた。

 山門の奥に、淡い結界の光が見えた。

 すでに索敵班が現地調査を済ませているらしい。

 小夜は山門をくぐる前に、立ち止まった。

 空気が、重い。

 湿った土と、線香の名残の匂い。

 いつもの癖で、腰紐に下げた結界札の束に手を当てる。 

 墨の匂いが、わずかに鼻先に届いた。

 遠くで、蜩が、力なく鳴いていた。

 夏の終わりの、最後の声。

 その奥に、別の匂いが混じっている。

 鉄。

 血。

 鬼の気配だ。

 

(……いる)

 

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 ――共鳴だ。

 けれど、いつものような飢えではない。

 もっと、引きずられるような。

 まるで、深い悲しみを抱え込んでいるようだった。

 

「……っ」

 

 小夜は思わず、胸を手で押さえた。

 

「小夜ちゃん?」

 

 伊吹が振り返る。

 

「大丈夫?」

 

「……はい。でも、なにか、変です」

 

「変、って?」

 

「鬼なのに……悲しい、感じが、します」

 

 小夜は、自分の言葉に自分で戸惑った。

 悲しい。

 そんな共鳴は、初めてだった。

 伊吹は、しばらく小夜を見ていた。

 それから、軽く頭を撫でた。

 手のひらの冷たさが、髪を通して伝わってくる。

 

「鬼にも、いろいろあるんだね」

 

 短い言葉だった。

 

「行こっか」

 

 そのまま、参道を歩き出す。

 小夜のブーツの底が、苔の上でわずかに滑った。

 石燈籠の影が、二人の足元に長く伸びている。

 小夜は、その背中を追った。




 本堂の裏手に、それはいた。

 手入れされていない、古い墓石が並ぶ一角。

 草が伸び、夕日が斜めに差し込んでいる。

 その中央に、若い女の姿をした、鬼。

 長い髪が乱れ、白い着物の裾が血で染まっている。背を丸めて、地面に膝をついていた。

 夕日の橙色が、そこだけ吸い込まれてしまったように、薄暗い。

 顔を上げた瞬間、目が合った。

 濁ってはいない。

 ただ、ひどく暗かった。

 光の届かない、深い穴のような瞳。


「……あ」

 

 鬼が、小さく声を漏らした。

 稀血の匂い――小夜の存在に気づいたのだろう。

 けれど、その鬼は飛びかかってこなかった。

 ただ、こちらを見ていた。

 

「……あなたは」

 

 声を出した。

 鬼の声だった。

 でも、まだ人間の名残があった。

 

「……綺麗な、匂いね」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 着物の裾が、夕風に揺れた。

 小夜は息を呑んだ。

 体が、震える。


(怖い……)

 

 怖いけれど――胸の奥が、引きずられる。

 鬼の感情が、流れ込んでくる。

 悲しみ。

 絶望。

 会いたい人に、もう会えないという諦め。


(……これ)

 

 小夜は、目を見開いた。

 共鳴している。

 今までで、いちばん深く。

 

「……お前さぁ」

 

 伊吹が、鬼の女からかばうように小夜の前に出た。

 彼は女を見据えて、淡々と言う。

 

「人間だったでしょ、元は。匂いで分かる」

 

 鬼の女が、わずかに笑った。ぼろぼろの笑みだった。

 小夜は息を呑んだ。


「――堕ち鬼か」


 伊吹の声が耳に残った。

 人でありながら、鬼の血や呪いに触れ、鬼へと堕ちた者。

 封鬼寮の記録でしか見たことのない名が、胸の奥で冷たく響いた。

 

「……ええ。そうよ」


「だれ、喰った?」

 

「……夫を」

 

 女が、答えた。

 

「殺された、夫を。弔うつもりだったのに……気づいたら、喰っていた」


 その声には、悔恨すら残っていなかった。

 悔いる力も、もう残っていないようだった。 

 風が、止まったように感じた。

 夕暮れの蜩の声も、遠くなる。

 小夜の指先が、冷えた。

 

「夫は……鬼に殺されたの。私の目の前で」

 

 女は、淡々と話した。

 

「私は、生き残ったわ。でも、もう何も食べられなくて。喉を通らなくて」

 

 血で汚れた手が、自分の胸を押さえる。

 

「気づいたら――肉が、欲しくなっていたの」

 

 声が、震える。

 

「人の、肉が」

 

 小夜の喉が、ぎゅっと詰まった。

 

「……夫の側に、いきたかっただけなの」

 

 女が、囁く。

 

「鬼になれば、強くなれるって、聞いたことがあったから」

 

「夫を殺した鬼を追おうとしたのか」

 

 伊吹が、続ける。

 

「……ええ。でも、できなかったけれど……」

 

「追って、どうするつもりだったの」

 

「……殺す」

 

 短い答えだった。

 

「殺して――そのあとは、どうでもよかった」

 

 小夜の胸が、激しく軋んだ。

 共鳴が、強くなる。

 女の絶望が、流れ込んでくる。

 

(……苦しい)

 

 息ができない。

 女の感情が、自分の感情のように体を満たしていく。

 その人の、暖かい手。

 もう触れられない手。

 届かない場所にいる、たった一人の人。

 失ったものの輪郭が、自分の輪郭と重なっていく。

 

(……違う)

 

 これは、私じゃない。

 私の感情じゃない。

 なのに、涙が出そうになる。

 

「小夜ちゃん」

 

 伊吹の声がした。

 すぐ近くで。

 

「下がって」

 

 短く、低く。

 

「……でも」

 

「下がって。共鳴に、引きずられてる」

 

 手を、引かれる。

 強くではない。

 でも、確かに。

 小夜は、後ろに下がった。

 体が、震えていた。

 女が、笑った。

 涙がこぼれ落ちそうな笑み。

 

「……私を、狩るの?」

 

「うん。それが仕事だから」

 

 伊吹が、答えた。

 

「悪い?」

 

「……いいえ」

 

 女は、首を振った。

 

「もう、止めてほしかった」

 

 その目に、初めて、わずかな光が宿った。

 

「自分でも、止められないの。人間を喰いたい衝動が、止められないの。もう誰でもいいから」

 

 声が、震えた。

 

「お願い」

 

 女は、目を閉じた。

 

「終わらせて」

 

 風が、吹いた。

 女の長い髪が、夕風に流れる。

 その姿は、儚かった。

 伊吹は、しばらく女を見ていた。

 それから、ゆっくりと刀を抜いた。

 刃が、夕日を反射して、紅く光る。

 いつもの軽さは、なかった。

 

「……うん」

 

 短く、答える。

 

「いいよ」

 

 次の瞬間――《喰縛しょくばく》。

 黒い光が、女の体に走った。

 斬った相手の妖力を喰らい、封じる、伊吹の妖術。

 夕日の中で、その黒だけが、別の世界の色のように浮かんでいる。

 女の体から力が抜け、淡く崩れていく。

 砂が風に運ばれるように。

 ゆっくりと、形を失っていく。

 

「……あり、がとう」

 

 最後の声が、聞こえた。

 夕風の中で、ふっと薄れた。

 それから、女は消えた。

 風だけが、残った。

 女がいた場所には、白い着物の切れ端が、ひとつ。

 それも、夕風に煽られて、ゆっくりと墓石の間に流れていった。




 寺の境内に、戻る。

 夕日が、本堂の屋根を、深い橙色に染めている。

 小夜は、何も言えなかった。

 胸の奥に、まだ女の感情が残っている。

 悲しみ。

 絶望。

 諦め。

 それを、抱きしめたまま消えていった、ひとりの命。

 涙が、勝手に流れた。

 拭おうとしても、止まらなかった。

 頬を伝う涙が、夕日の光を映して、わずかに光った。

 伊吹は、何も言わなかった。

 ただ、小夜の隣を歩いていた。

 

「……鬼にも」

 

 ようやく、声が出た。

 

「悲しみが、あるんですね」

 

 自分の声とは思えないほど、掠れていた。

 伊吹は、少しだけ歩く速度を緩めた。

 

「そりゃ、あるんじゃない? 彼女は……元は人間だし」

 

 あっさりと、言う。

 

「……そう、ですか」

 

「うん」

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 参道の苔を、夕日が照らしている。

 石燈籠が、二人の影を長く後ろに引いている。

 風が、頬を撫でていく。

 小夜は、ふと、伊吹の横顔を見た。

 

「……伊吹も、ですか?」

 

 言ってしまってから、ハッとした。

 伊吹は、人間ではない。

 もとから、鬼だ。

 聞いてはいけないことだったかもしれない。

 けれど、伊吹は驚いた様子もなく、首を傾げた。

 

「俺?」

 

「……はい」

 

「俺は、元から鬼だからなぁ」

 

 あっさりと答える。

 小夜は、伊吹の横顔を見た。

 夕日が、頬を照らしていた。

 まつ毛の影が、頬に落ちている。

 

「悲しみは?」

 

 小夜は、聞いた。

 彼をこの世界に繋ぎ留めているものが、戦い以外にもあればいいのに、と思った。

 あの女のひとのように、何かに執着する心が。

 

「ないかな〜」

 

 即答だった。

 

「……ないんですか」

 

「うん」

 

 いつもの軽さで、笑う。

 

「ないよ。そんなこと聞いて、どうするの? あの女に共感しちゃった?」

 

 その声は、いつものように軽かった。 

 けれど――その横顔は、ほんの一瞬だけ、寂しそうだった。

 笑っているのに、何かが抜け落ちたような顔。

 ――いや、本当はそこにあって、それを見せないようにしている顔。

 そのほうが、近い気がした。

 夕日の中で、伊吹は遠くを見ていた。 

 いや、遠くを見ているふりをして、何も見ていないのかもしれなかった。

 その横顔は、どこか――。

 うまく、言葉にならない。

 ただ、ふと、思ってしまった。

 

(……ひとりにしたら、消えてしまいそう)

 

 なぜ、そう思ったのだろう。

 伊吹は強い。

 誰よりも強い特務封鬼師で、軽口ばかり叩いていて、自分のことを大切にしているようには見えないけれど、それでもそんなに簡単に消えるはずがないひとだ。

 ――なのに。

 今、この瞬間だけ。

 風が一吹きすれば、本当に、どこかへ行ってしまいそうに見えた。

 

(……包んであげたい)

 

 ふと、そんな衝動が湧いた。

 自分の中から出てきた感情に、小夜は驚いた。

 そんなことを思う相手ではない。

 何度も怖いと思った。

 何度も逃げたいと思った。

 それなのに。 

 包む?

 誰を?

 伊吹を?

 

(……だめ)

 

 すぐに、頭を振った。

 このひとにそんなことをしたら、たぶん、引きずり込まれる。

 どこか、戻れない場所へ。

 それは、分かっているはずだった。

 なのに、彼に優しくしたい衝動は、すぐには消えず、胸の奥に残っていた。



 帰り道、日は完全に落ちていた。

 空が、深い藍色に変わっていく途中だった。

 遠くの山際に、夕日の名残の橙が、細く滲んでいる。

 封鬼寮へ戻る道は、ひと気がなかった。

 石畳を歩く足音が、二人分、ゆっくりと響いていた。 

 道の両脇では、刈り残された稲が夜風に低く揺れている。

 どこかの田では、もう稲刈りが始まっているのだろう。

 乾ききらない稲わらの青い匂いが、かすかに混じっていた。

 その音だけが、サラサラと、二人を包んでいた。

 

「……あの女のひと」

 

 小夜は、ぽつりと言った。

 

「……悲しかったですね。ずっと、旦那さんの側に行きたかっただけなのに」

 

「……うん。そうだね」

 

 伊吹は、短く返した。

 責めも、共感もしない。

 ただ、聞いている。

 小夜の中で、何かが落ち着いた。

 共鳴の余韻が、ゆっくりと薄れていく。

 それでも、女の最後の声だけは、耳に残っていた。

 

「……伊吹」

 

「なに?」

 

「あの女のひと、最後に『ありがとう』って言いました。……ちゃんと、聞こえましたか」

 

「……うん。聞こえたよ」

 

 それだけだった。

 でも、小夜の胸が、ほんの少しだけ、温かくなった。

 

(……このひとは)

 

 軽くて、適当で、何も気にしていなさそうで。

 でも――ちゃんと、聞いていた。

 あの女の最後の声を。

 

(……鬼にも、悲しみがある)

 

 伊吹は、ない、と言った。

 本当だろうか。

 本当に、ないのだろうか。

 ――もし、あるとしたら。

 いつか、私は、それに気づいてあげられるだろうか。

 小夜には、分からなかった。

 ただ、夕日に照らされていた彼の横顔だけが――夜になっても、頭から離れなかった。



 

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