36.キス
「わっはっはっ! 良く、言ったぞ! リアナは偉い!」
アイリスが私の背中をぽんぽんと叩きながら、満面の笑みを浮かべる。
「なんじゃ、自分の気持ちが言えるじゃないか。良かったな、リアナ。これで、もう嫌な思いをせずに済むのじゃ!」
「……心配かけて、すいませんでした。でも、もう大丈夫です」
「うむ、良かった。本当に良かった」
そう言うアイリスの目は少し潤んでいた。だけど、それをごまかすように豪快に笑う。
「これで安心して決戦の地に行けるのじゃ!」
その笑顔を見ていると、自然と私の頬も緩んだ。両親を亡くしてから、誰かにこんなふうに喜んでもらえることなんて、ほとんどなかった。
だけどアイリスは、昔から何も変わらない。私が泣けば隣で怒ってくれて、私が笑えば、自分のことのように喜んでくれる。
そんな幼馴染がいてくれることが、今はただ嬉しかった。
「さて、私たちも行かなくてはな。私は先に行って準備がある。だから、早く祝福を授けてくれないか?」
「はい、任せてください」
私は一歩近づく。もう、怖くはなかった。
アイリスも安心したように少しだけ身を屈めてくれる。その何気ない仕草が昔と変わらなくて、思わず笑みが零れた。
「なんじゃ?」
「……いえ。アイリスは昔から変わらないなって」
「当たり前じゃ。リアナの幼馴染なんじゃからな」
胸を張って言い切る姿がおかしくて、小さく笑ってしまう。私はそっとアイリスの額へ唇を寄せた。
一瞬、柔らかな光が溢れ出し、祝福が静かにアイリスの体へと染み込んでいく。
「おぉ? なんか以前よりも力が強いような気がする。これも、リアナの気持ちに整理がついたからかのぅ」
「……はい。私もそう思います。以前よりも強い力を感じます」
「うむ、良い事じゃ」
アイリスは満足そうに頷くと、私の頭をくしゃっと撫でた。
「帰ってきたら、また昔みたいにゆっくり話そう。積もる話もたくさんあるからの」
「……はい。約束です」
その約束だけで、不思議と「きっと帰ってきてくれる」と思えた。
「うむ! では、この祝福で最大限の成果を出してくる。楽しみに待っておれよ!」
力強く笑って駆け出していく幼馴染の背中を見送りながら、私は静かに両手を胸の前で重ねた。
どうか、無事に帰ってきて。その願いは、さっきまでの不安とは違う、温かな祈りになっていた。
「リアナ、もう大丈夫そうだね」
そんな声がして振り返ると、ずっと傍にいてくれたフィオナ様とシグリッドさんが笑って立っていた。
すると、シグリッドさんが近づいてきて、変わらない手つきで優しく頭を撫でてくれる。
「本当に良く言ったね。怖かっただろうに、よく頑張った」
「……お二人がいてくださったお陰です。本当にありがとうございました」
改めて二人と向かい合うと、感謝の気持ちがこみ上げてきた。深々のお辞儀をして気持ちを伝えると、二人は照れたように笑う。
「リアナを守ることが出来て本当に良かった。他に不安なことはないかい?」
「はい、もう大丈夫です。なんか、生まれ変わった気がします」
「生まれ変わった? それは、大きな変化だね。どんな風に変わったの?」
「えっと……自分の気持ちがちゃんと伝えられるようになったと思います」
私は二人の顔をゆっくりと見つめた。
フィオナ様も、シグリッドさんも、私が何を望んでいるのかを決して決めつけなかった。自分たちの考えを押しつけるのではなく、いつだって私の言葉を待ってくれて、私の気持ちを一番大切にしてくれた。
だからこそ私は、自分でも気づいていなかった本当の想いに、ようやく辿り着くことができたのだと思う。
もし二人と出会わず、こうして笑い合ったり、一緒に食事をしたり、他愛もない話をしたり。困った時に何度も手を差し伸べてもらったりする日々を過ごしていなかったら、私はきっと最後まで「嫌だ」という気持ちすら自覚できず、自分さえ我慢すればいいのだと思い込みながら、生き続けていたに違いない。
私が自分の気持ちを伝えられるようになったのも、自分を大切にしてもいいのだと思えるようになったのも、全部、この二人がいてくれたからだった。
だから、この変化は私一人の力じゃない。二人が、私を変えてくれたんだ。そう思った瞬間、不思議なくらい世界が違って見えた。
さっきまで張りつめていた礼拝堂の空気さえ柔らかく感じられ、窓から差し込む朝日も、忙しそうに行き交う人たちの姿も、どこか眩しく見える。
私はもう一度、二人を見つめた。目が合うと、フィオナ様は優しく微笑み、シグリッドさんも安心したように口元を緩める。
その笑顔を見ているだけで、胸がどきりと高鳴った。この気持ちは、何だろう。
安心する。嬉しい。傍にいてほしい。その笑顔を、ずっと見ていたい。
胸の奥から溢れてくるのは、今まで感じたことのない、温かくて、愛おしくて、大切にしたいという想いだった。
その感情を抱きしめるように、私は自然と二人へ微笑み返していた。
「さて、我々も戦場へ行かないとな。リアナ、祝福をしてくれないか?」
「あたしにもお願いしたい」
……そうだ。今は、二人に祝福を授ける時間だった。そう思って二人を見つめた瞬間、胸がどくりと高鳴る。だけど、その鼓動は以前とはまるで違っていた。
怖さでも、拒絶したい気持ちでもない。もっと近づきたい。自分から触れたい。そんな、胸の奥から静かに溢れてくる温かな想いだった。
キスが嫌だったんじゃない。私の気持ちを置き去りにされることが、ずっと苦しかったんだ。
だから今は違う。二人は、私が嫌がることを決してしない。私の意思を、誰よりも大切にしてくれる。私は安心してこの人たちに触れることができる。
……そして、もっと強い祝福を授けたい。
心から、そう思った。唇への祝福は、私にとって特別なものだ。だからこそ、誰にでも授けたいとは思わない。
だけど、この二人になら――私自身が授けたい。
それは誰かに言われたからでも、王国のためでもない。私自身が選んだ、初めての答えだった。
私は小さく息を吸い、穏やかに微笑む。
「では、その場で屈んでください」
そう告げると、二人は何も疑うことなく片膝をついた。その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
信じてくれている。私を、心から。その想いに応えたい。
「……次に、目を閉じてください」
二人は素直に目を閉じる。私は二人を見つめながら、静かに続けた。
「私が合図をするまで、決して目を開けないでください」
二人は理由を尋ねることなく、小さく頷いた。その姿を見て、私は静かに息を吸う。
――大丈夫。これは、誰かに強いられたものじゃない。私が、自分で選ぶ。
怖くないと言えば嘘になる。それでも、胸を締めつけていたあの日の恐怖は、もうそこにはなかった。フィオナ様も、シグリッドさんも、私が嫌だと言えば、きっとすぐに離れてくれる。
私の気持ちを、一番大切にしてくれる人たちだから。だから私は、自分の意思で一歩を踏み出した。そっと身をかがめ、最初にフィオナ様の前へ立つ。
目を閉じた横顔は、いつもの凛々しさとは違って穏やかで、私を急かすことなく、ただ静かに待ってくれていた。その姿が愛おしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
私はゆっくりと唇を重ねた。触れ合ったのは、一瞬だけ。それだけなのに、眩い祝福の光が二人を包み込むように溢れ出し、礼拝堂いっぱいへと優しく広がっていく。
フィオナ様の肩が小さく震えた。それでも約束を守り、決して目を開けようとはしない。その信頼が嬉しくて、自然と笑みが零れた。
私は静かに唇を離し、そのままシグリッドさんの前へ歩く。目を閉じて待つその姿を見つめると、優しく頭を撫でてくれた温もりや、真っ直ぐ言ってくれた言葉が胸によみがえった。
そのすべてが、私をここまで連れてきてくれた。だから今度は、私が応えたい。
私はそっと身を寄せ、触れるように唇を重ねた。柔らかな光が、今度はシグリッドさんを包み込む。
祝福は今までとは比べものにならないほど澄み渡り、まるで私の想いまで一緒に伝えてくれるように、優しく温かく輝いていた。
二人とも、びくりと肩を震わせる。それでも約束を信じて、最後まで目を閉じたままでいてくれた。だから私は、安心してその場を離れることができた。
「……もう大丈夫です。目を開けてください」
私が声を掛けると、二人はゆっくりと瞼を開く。目が合った瞬間、二人とも驚きと戸惑い、それ以上に隠しきれない喜びを滲ませた表情で私を見つめていた。
その視線を受け止めた途端、頬が熱くなる。恥ずかしくて堪らなくなり、私は思わず目を伏せ、胸の前で両手を組んだ。
「……女神様の祝福がありますように」
祈るようにそう告げると、しばらく沈黙が流れる。やがて立ち上がる気配がして、静かな、それでいて決意に満ちた声が聞こえた。
「必ず戻ってくる。だから、待っていて」
「絶対に帰ってくる。今度は笑顔で会おう」
その言葉には、一切の迷いがなかった。私はゆっくりと顔を上げ、小さく、けれど確かな笑みを浮かべる。
「……はい。待っています」
二人は優しく頷くと、振り返り、決戦の地へ向かって力強く歩き出した。
その背中は、これまで見てきたどの背中よりも頼もしく、そして――誰よりも愛おしく見えた。




