26.過去の残滓
強く押し返しても、びくともしない。体を捩っても逃げ出せない。顔を背けようとしても、両手で押さえつけられ、ほんのわずかに動かすことすら許されなかった。
息が詰まる。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、頭の中がじわじわと白く霞んでいく。
なのに、その不快な感触だけは、嫌というほど鮮明だった。口の中を容赦なく蹂躙される感覚。
逃げ場のない口内を好き勝手になぞられ、粘つく感触がまとわりつくたび、全身にぞわりと鳥肌が立つ。
気持ち悪い。吐きそう。今すぐ全部洗い流してしまいたい。
必死に抵抗しても、そのたびに押さえつける力は強まり、逃げることすら許されない。
嫌だ。やめて。お願いだから、離して。
心の中で何度叫んでも、その願いは届かない。終わりが見えない恐怖と生理的な嫌悪感に、精神が少しずつ削られていく。
このまま壊れてしまう――そんな絶望だけが、胸の中で膨れ上がっていった。
「はっ!」
そこで意識が戻った。体を起こして、手で口を覆う。……大丈夫だ、なんともない。
鼓動がバクバクと動き、呼吸が乱れる。
「だ、大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせて、落ち着かせる。深呼吸をしていると、鼓動も呼吸も落ち着いてきた。そこでようやく、深く息をする。
「……まだ、この夢を見るんだ」
しばらく見ないと思ったら、また見始めた悪夢。忘れようとしていた感触を思い出して、胸が苦しくなる。
また、眠れない夜が始まりそうだった。
◇
……眠い。どうしようもなく眠い。昨夜は、あれから一睡もできなかった。
体力はほぼ空っぽ。精神力に至っては、とっくに地面を突き抜けて地の底に埋まっている。もはや「コンディション最悪」という言葉すら、生ぬるい。
……なのに。今日も祝福業務は、いつも通り始まる。女神様、労働基準法ってご存じですか?
聖女にだって人権はあると思うんです。睡眠時間とか、休憩時間とか、あと「今日は心が死んでるのでお休みします」っていう有給とか。
……ありませんよね。知ってました。というか、私が休んだら困る人が山ほどいるのも分かっています。だから休めないんですけど。
ボーッとしながら祝福業務をしていると――。
「やぁ、リアナ」
「あっ、シグリッドさん」
今日もシグリッドさんが様子を見に来てくれた。最近、無理に唇の祝福を欲しがる人がいるので、シグリッドさんが手助けをしに来てくれる。凄く、助かる。
シグリッドさんが睨みを利かせると、祝福を受けに来た人は委縮して控えめに祝福を求めてくる。シグリッドさん効果、凄い。毎日、傍に立って欲しい。
そうしていると、祝福業務は何も問題なく終わった。
「シグリッドさん、ありがとうございます。今日は特に問題なく終わることが出来ました」
「いいんだよ。少しでもリアナが楽になってくれれば、それだけで嬉しいから」
にこやかにそう言ってきてくれて、心がジーンと感動で震えた。この間は怖かったけれど、今は普通のシグリッドさんだ。
「でも、リアナ……。今日は体調が悪そうだったけど、どうしたの?」
「あっ、はい……。その……悪夢を見まして、寝付けなかったんです」
「悪夢か……。最近は色々あったから、そういう夢を見ているのかもね」
唇のキスを強く意識したせいで、蘇ってきた悪夢。そのせいで、日常でもあの嫌な感じが思い出されて、心をかき乱される。
「大丈夫? しばらくは、悪夢を見てしまうんじゃない?」
「あははっ、そうかもしれません。何か、気がまぎれることがあればいいんですけれど」
「気がまぎれること、か……」
何気なく言った言葉にシグリッドさんが真剣に考える。いや、私なんかのためにそこまで考えなくても。
そう思っていると、シグリッドさんが何かを思いついたように手を叩いた。
「だったら、添い寝をしてあげよう」
「……はい?」
どうして、そうなった?
◇
「やぁ、リアナ。来たよ」
夜、扉を開くとそこにはシグリッドさんがいた。昼の約束を果たしに来たみたいだ。……どうして、こうなった?
「えっと……昼も言いましたけれど、ベッドは一人用ですし、体の大きなシグリッドさんにはキツイですよ。それに、何か失礼な事をしてしまうかもしれません。やはり、私は床の上で寝るというのがベストだと」
「それじゃあ、意味がない。二人でベッドに横になろう」
「……はい」
陰キャはね、一度押し切られると「ここで断ったら空気が悪くなるかも」と考え始める生き物なんだよ。
そして気づけば、自分の希望より相手を優先して「……はい」と頷いてしまう。そういう、か弱い生態なんです。
すると、シグリッドさんが服を脱ぎ始めた。
「な、何を!?」
「いや、寝間着に着替えようと思って」
「あわわっ、そ、そうですよね! あっち向いてます!」
何をしでかすのかと思ったら、そういうことか! 私は慌てて後ろを向くと、クスクスと笑う声が聞こえる。
「見てもいいよ?」
「えぇっ!? いえっ、それはとても失礼なのでしません!」
そ、そんなこと言われると、余計に意識してしまう! うぅ、絶対に見ない、絶対に見ない!
固い決意で目を瞑っていると、肩に手を置かれた。
「お待たせ。さぁ、寝ようか」
振り向くと、寝間着に着替えたシグリッドさんがいた。それを見るだけで、鼓動が高鳴って緊張してしまう。
ガチコチに固まりながらベッドに横になる。その隣にシグリッドさんが乗り、一緒に横になる。
狭いベッドで出来るだけシグリッドさんに触れないようにした。――していたのに。
シグリッドさんの腕が私の腰に周り、力強く引き寄せられた。あっという間に私はシグリッドさんの腕の中。
どどど、どうしてこうなったっ!?




