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木漏れ日の嘘  作者: reika1021


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9/10

第9章:木漏れ日の嘘

朝の光は、まだ春になりきれない冷たさを薄く残していた。緑景管理の事務所の前では、冬の間硬く閉じていた枝先がいつの間にか淡い緑を解き始め、樹守雫葉は作業用手袋をはめる前にその若い葉の色をしばらく見上げていた。


花はすでにいくつかの街角で開き始めており、咲いたら見に来よう、とあの日交わした短い予定は仕事の予定表には書かれていないのに、雫葉の中では朝から何度もページをめくるように現れていた。


「雫葉、今日は枝先じゃなくて空まで見てる」


朝凪伊吹が、荷台のそばで測定具を確認しながら言った。春の光の中で作業着の襟元が、いつもより少し柔らかく見えた。伊吹は平気そうな顔をしていたが、道具を並べる手つきだけがわずかに遅かった。


「今日は空も点検対象」


「対象範囲が広すぎる」


「伊吹の軽口よりは管理しやすいよ」


「俺の軽口、そんなに繁茂してる?」


「定期剪定が必要」


「春だから伸びるんだよ」


雫葉は笑った。笑いは自然に出たはずなのに、その奥で少しだけ胸が痛んだ。笑っていればいつも通りに見えるが、最近になって「いつも通り」という言葉に少し嘘の匂いを感じるようになっていた。


今日の現場は春前に点検した場所と、その近くにある小さな公園だった。花芽を確認した木々がどれほど開花しているか、冬に剪定した枝がどんなふうに春を受け入れているかを見る、という仕事だが、雫葉の胸には別の意味が混じっていた。


「咲いているかな」


雫葉が図面を見ながら言うと、伊吹は少しだけ視線を上げた。


「咲いているといいな」


「仕事として?」


「仕事としても」


「便利な言い方」


「今日は半分だけ便利」


雫葉は図面をたたみ、荷台に置いた。半分だけ便利。残りの半分を聞く勇気はまだない。けれど、聞かなくてもそこに何かがあることだけは、もうわかっていた。


作業車が走り出すと、東京の朝は春の音を少しずつ増やしていった。歩道の人たちの服は軽くなり、店先の植木鉢には新しい葉が出ていた。車窓に流れる街路樹は、冬の線だけの姿から薄い緑の膜をまとい始めていた。


雫葉は窓の外を見ながら日誌の中の葉を思い出した。失われたケヤキの葉、途中の色をした秋の葉。今日は何も持ち帰らないかもしれない。咲いているものはそこに残しておく方が良い。


「今日は拾わない顔してる」


伊吹が前を向いたまま言った。


「そんな顔ある?」


「ある。持ち帰るより見届けるって顔」


「また見えてる」


「見えてしまうから」


「春になってもその言葉を使うんだ」


「常緑だから」


雫葉は笑った。伊吹も少し笑った。車内の空気は軽かったが、その軽さが逆に苦しかった。大切な予定の日に限って、いつもの冗談がうまく働きすぎる。


最初に着いた通りでは、冬に剪定したケヤキが春の光を受けていた。まだ葉は小さかったが、枝先には細かな緑が点々とついており、空の硬さを解すように揺れていた。切り口のそばにも新しい動きがあった。


雫葉は作業車を降りてしばらくその木を見上げた。冬に見たときは枝の線だけが空へ伸びていたが、今はその線の先にやわらかな色が灯っている。約束が目に見える形になったようで、雫葉は息をするのが少し遅れた。


「咲いたな」


伊吹が隣で言った。


「うん」


「仕事じゃなくても、って言ったやつだ」


「今日は仕事だけどね」


「そうだな」


短いやりとりの後、言葉が途絶えた。通りには人が行き来しているが、誰も立ち止まらない。雫葉と伊吹だけが、その枝先の小さな変化を特別なもののように見つめていた。


「でも、見られたね」


雫葉が言った。


「うん」


伊吹の声は低かったが、たったそれだけなのに雫葉の胸には十分すぎた。約束は果たされたのか、それともまだ続いているのか。どちらとも言えない曖昧さが春の光の中に浮かんでいた。


点検はすぐに始まった。花芽の開き具合、枝の回復状況、根元の土の状態、通行への影響など、雫葉は記録用紙に必要なことを書き込むたびに、何度も視線を枝先に戻していた。


「仕事、進んでる?」


伊吹が横から覗き込んだ。


「進んでる」


「顔が少し浮いている」


「花が咲いているから」


「それだけ?」


雫葉はペンを止め、伊吹は冗談を言っているような顔をしていたが、その瞳だけが少し静かだった。


「それだけにしておく」


「了解」


伊吹はそれ以上聞かなかった。その聞かない姿勢が優しかった。優しいために余計に胸が苦しくなった。聞いてほしいわけではない。しかし、聞かれなかったことに寂しさを感じる自分もいた。


通りの先では、ハナミズキが少しずつ花を咲かせる準備を始めていた。まだ満開ではなく、白くなる前の淡い花が枝先にひっそりと咲いている。雫葉はそれを見て、開ききっていない花の方が胸に響くと思った。


「ここ、少し遅いね」


雫葉が言うと、伊吹が枝を見た。


「日当たりの差かな」


「うん、向こう側の建物の影が長く残るから」


「急がない木だな」


「そういう言い方、好き」


言ってから、雫葉ははっとした。仕事の言葉への感想にすればいい、それだけのはずだった。けれど、「好き」という音が口の中に残ってしまう。


伊吹は一瞬だけ動きを止め、それからいつものように鼻の横を軽くかいた。


「木の話だよな」


「木の話」


「うん、木の話」


会話はそこで途絶えた。途絶えたはずなのに、途絶えた場所が熱い。雫葉は記録用紙に視線を落とし、文字の形を整えようとしたが、ペン先がわずかに揺れた。


午前の作業は小さな公園に移った。前に花芽を確認したサクラはまだ満開ではなかったが、いくつかの枝に花が開き始めており、淡い色が空へ少しずつにじみ出ていた。


公園には朝の静かな人影があった。ベンチに座る人、犬を連れて歩く人、遠くで写真を撮る人。まだ花見というほどのにぎわいではないが、花に気づいた人だけが立ち止まり、少しだけ顔を上げる。


雫葉はその様子を見て胸の中がやわらかくなるのを感じた。木は何も言わない。ただ咲くだけで人の歩く速度を変える。春は派手にやってくるのではなく、視線の角度を少しずつ変えていくのかもしれない。


「雫葉、うれしそう」


伊吹が言った。


「うれしいよ」


「素直」


「今日は隠す必要ないでしょ。花が咲いたんだから」


「花のせいにした」


「便利」


「俺の言葉が根付いているな」


雫葉は笑った。春の空気の中で、その笑いは少し長く残った。伊吹と笑うことが好きだ、と雫葉は思った。その瞬間、胸の奥に痛みが走った。好きなのに笑ってごまかしている。好きだから笑っていられる形を失いたくない。


サクラの根元を確認していると、小さな女の子が母親の手を引きながら近づいてきた。花を見上げて「あれ、咲ってる」と嬉しそうに言った。母親は「本当だね」と笑い、ほんの少し足を止めた。


雫葉はその声を聞きながら記録を書いた。開花初期、枝の状態は良好、根元の踏圧に注意、と。事務的な言葉の奥で女の子の声が小さく弾んでいる。


「こういうの、書けないのが惜しいね」


雫葉が言うと、伊吹が横を見た。


「女の子の声?」


「うん、木が人を止めた瞬間」


「雫葉の報告書、いつか詩集になるぞ」


「ならないように抑えてる」


「抑えて、あれか」


「失礼」


伊吹は笑った。雫葉も笑った。周囲から見れば、いつもの掛け合いだろう。仕事中に軽口を交わす同期。そう見られることに慣れてきたはずなのに、今日はその見え方が少しだけ痛かった。


誰かから「付き合えばいいのに」と言われたわけではないが、そう見える距離なのに実際には何も言えないその距離が、春の光の中でくっきりと見えてしまう。


昼に向かうころ、公園の空気は少し温まっていた。雫葉はベンチのそばで水筒を開けた。飲み物はまだぬるくならず、口に含むとほんの少し冬の名残を感じた。


伊吹は少し離れた柵にもたれてパンの袋を開けていた。花の下で食べるパンは作業の昼食なのに、どこか休日のように見えた。雫葉は、その姿を見て咲いたら仕事じゃなくてもと交わした言葉を思い出した。


「今日、仕事じゃなかったらさ」


と、伊吹が先に言った。


雫葉は、水筒を閉める手を止めた。


「うん」


「たぶん、もう少しゆっくり見てたな」


「今もわりと見てるよ」


「仕事の目で見てる」


「伊吹は?」


「半分仕事」


「残り半分は?」


伊吹はパンを持ったまま少しだけ笑った。


「言うと、雫葉が困るやつ」


心臓が一度強く鳴り、雫葉は視線をサクラへと逸らした。困る、と。何度も使ってきた言葉なのに、今日はいつもより柔らかく、逃げ場がなかった。


「困るかどうか、聞いてから決めればいいのに」


と言ってから、雫葉は自分で驚いた。前より少しだけ強い言葉だった。


伊吹は黙った。春の風が桜の枝を揺らし、まだ少ない花びらが光の中で小さく震えている。遠くで犬の鳴き声が聞こえた。


「聞いてもいいのか」


伊吹の声は思ったより低かった。


雫葉はすぐに答えられなかった。「いい」と言えば何かが進む。「だめ」と言えば何かが閉じる。どちらも怖かった。


「今日は」


雫葉はゆっくりと言った。


「まだ、聞かないで」


伊吹は頷いたが、すぐに「わかった」とは言わなかった。少しだけ間を置いてから、静かに頷いた。


「わかった」


「ごめん」


「謝らなくていい」


「でも」


「雫葉が自分で言えるまで待つって言っただろ」


その言葉に雫葉は胸が痛んだ。優しさが痛むことがある。待ってくれることがこんなにもありがたくて、こんなにも苦しいなんて知らなかった。


「待たせてる?」


「待ってる」


伊吹はそう言った。責める響きはなく、ただ事実のようにそこへ置かれた言葉だった。


雫葉は水筒を握ったまま花を見た。咲き始めた花はまだまばらで、満開になるには少し時間がかかるだろう。しかし、開きかけた花を閉じ直すことはできない。


午後の点検は公園の奥にある花水木から始まった。花はまだ準備の途中で、枝先には淡い色がひっそりと集まっている。雫葉は根元の土を見て、枝の角度を確認し、記録を取った。


伊吹は少し距離を置いて別の木を確認していた。いつもなら自然に近くで作業をする場面でも、今日は少しだけ距離がある。その距離は冷たくはなく、むしろ先ほどの会話を乱さないための余白のようだった。


雫葉はその余白に気づき、胸がまた痛くなった。伊吹は本当に踏み込まないようにしてくれている。けれど踏み込まれないことで自分が何を望んでいるのか余計にはっきりしていく。


「雫葉、こっちの枝、見られる?」


伊吹が呼んだ。


「うん」


雫葉が近づいて枝先を見ると、花芽のつき方に少し偏りはあるものの、全体としては悪くなかった。伊吹は隣に立たず、半歩引いた位置で待っていた。


「近くで見ないの?」


雫葉が聞くと、伊吹は少し困った顔をした。


「近づいていいのか迷った」


雫葉は息を止めた。木の話ではないとわかった。現場での距離の話をしているようだが、そうではない。


「仕事中でしょ」


「便利な言葉を使われた」


「使った」


「じゃあ、近づく」


伊吹は半歩近づいた。肩が触れるほどではないが、枝を見上げる視線の高さは近づいた。雫葉は、その距離の近さに胸の奥が少しずつ熱くなるのを感じた。


「ここ、花芽は少ないけど、葉芽はしっかりしてる」


雫葉がそう言うと、伊吹は枝先を見た。


「花が少なくても、葉が出るなら悪くないか」


「うん。花が咲くだけが春じゃないから」


「それ、報告書に書く?」


「書かない」


「でも、いい言葉だ」


伊吹の声が近づいてくる。雫葉は、枝を見つめたままうなずいた。咲くだけが春じゃない。恋も、言葉になることだけがすべてではないのかもしれない。けれど、ずっと葉だけのままでいられるのかはわからない。


「雫葉」


「何?」


「このままでいいって思ってる?」


その問いは静かだった。静かすぎて逃げられず、雫葉は枝先から目を離せなかった。淡い花芽が揺れている。


「思ってるふりをしてる」


声は小さかったが、嘘ではなかった。


伊吹は黙った。雫葉も黙った。公園の向こうで子どもの声がして、ベンチにいた人が立ち上がる音がした。世界はいつもどおり動いているのに、そこだけ空気が止まったようだった。


「俺も」


伊吹の声がした。


たったそれだけだったけれど、雫葉の胸には大きすぎた。「思ってるふりをしている」その言葉が同じ場所に落ちた。軽口では戻せないし、戻したくもなかった。


「このままでいいって言ったら、嘘になる」


伊吹が続けた。


雫葉はようやく彼を見た。伊吹の目はいつもの冗談の奥に隠れておらず、怖がっているけれど逃げていないことがわかった。


「でも、変したら怖い」


雫葉が言うと、伊吹はうなずいた。


「怖い」


「伊吹でも?」


「雫葉のことでは、たぶんずっと怖い」


春の光が枝の間から差し込み、木漏れ日の下で雫葉は、自分の笑顔がもう作れないことに気づいた。笑おうと思えば笑える。けれど、その笑いはきっと嘘になる。


「私、笑ってごまかすの、うまくなりすぎた」


「知ってる」


「知ってたの?」


「見えてしまうものだから」


その言葉に雫葉は少しだけ笑った。泣きそうな笑いだった。伊吹も同じようにわずかに笑ったが、そこにはいつもの軽さがない。ただ、積み重ねた日々のくせだけが残っていた。


「じゃあ、今日はごまかさない」


雫葉は言った。


伊吹の表情が少し変わった。


「うん」


「でも、全部は言えない」


「それでいい」


「伊吹も?」


「全部は言えない。でも、このままでいいとは思っていない」


その言葉ははっきりと胸に届いた。告白ではないけれど、もうただの同期の会話ではなかった。雫葉は指先が冷えるのを感じた。春の光は温かいのに体の奥が震えている。


公園の木漏れ日は風に揺れ、足元へ流れていた。葉はまだ少ないのに、枝の間から落ちる光は細かく割れ、作業着の袖に淡い模様を作っていた。雫葉は、その光を見た。嘘のようにきれいだと思った。


木漏れ日の嘘。明るいのに隠している、やさしいのに影を作る。自分の笑顔も伊吹の軽口もずっとそんな光だったのかもしれない。


「仕事、戻ろうか」


伊吹が言った。声は少し掠れていた。


「うん」


戻るしかなかった。現場はまだ終わっていないし、記録も残っている。木は待ってくれないし、春は静かに進んでいる。


その後の作業は驚くほど淡々と進んだ。花芽の数を確認し、枝の傷みを記録し、根元の保護についてメモする。しかし、雫葉の心の中ではさっきの言葉がずっと響いていた。


「このままでいいとは思っていない」と伊吹も言っていた。自分だけではなかったのだ。そのことが嬉しく、怖く、少しだけ息苦しかった。嬉しさと怖さが同じ場所にあることを、雫葉は初めて正面から知った。


夕方に向かう前、公園の桜は光を受けてさらに色を濃くしていた。朝よりも少し花が開いたように見えるが、実際には気のせいかもしれない。しかし、雫葉にはそう見えた。


「咲くの、早いね」


雫葉がそう言うと、伊吹は枝先を見上げた。


「見ている間にも、少しずつ変わっているんだろうな」


「怖いね」


「うん。でも、きれいだ」


「うん」


短い会話だったが、今日の核心はすでにそこにあった。変わることは怖い。しかし、変わるものはきれいでもある。失うことだけではない。開くことでもある。


会社に戻る車内は、疲れているからではなく、言葉が多すぎると今日交わした会話が薄れてしまいそうだったからか、静かだった。雫葉は窓の外を流れる春の街並みを見ていた。


通りには花を見上げる人が少しずつ増えていて、誰かが写真を撮り、誰かが足を止めていた。東京はいつも忙しないのに、春の花の前では少しだけ歩みを緩める。そのわずかな変化が雫葉にはたまらなく愛おしかった。


助手席の伊吹は図面を膝に置いたまま黙っていたが、時々窓の外に視線を向けていた。彼も今日のことを反芻しているのだろう。雫葉はそれを確かめたかったが、あえて聞かなかった。


聞かなくても、同じ重さを持っている気がした。そう思えることが、今は怖いくらいに大切だった。


会社に戻ると、事務所には夕方の光が低く差し込んでいた。窓際の観葉植物の新しい葉は透けるように明るく、雫葉は手を洗って指先に残った土の匂いが水で薄れていくのを感じた。


報告書には開花状況や枝の回復、根元の保護の必要性、今後の観察予定などを書く。事務的な言葉の中に今日の木漏れ日は入らない。伊吹の言葉も自分の震えもどこにも書けない。


「雫葉」


隣の席から伊吹が呼んだ。


「何?」


「ここ、次回確認は満開前でいい?」


「うん、満開前。人が増える前に見たい」


「仕事で?」


雫葉は手を止め、伊吹は画面を見ていたが、声の奥には昼間の続きがあった。


「仕事で」


「仕事じゃなくても?」


雫葉は少しだけ息を吸った。


「それは、別の日」


伊吹は画面を見たまま、ゆっくりとうなずいた。


「別の日」


「うん」


「決まったな」


「まだ日にちは決まっていない」


「でも、別の日は決まった」


雫葉は笑った。胸が痛む。けれど、嫌な痛みではない。それは、開きかけの花芽が殻を押すように、内側から広がる痛みだった。


夜が事務所の外に降りてくるころ、雫葉はロッカーの前で日誌を開いた。今日は何も挟まないつもりだったけれど、ページの端に小さな花びらが1枚ついているのに気づいた。公園で落ちた花が、いつの間にか作業着の袖についていたらしい。


拾ったわけではなく、持ち帰るつもりもなかったが、それでもそこにあったので、雫葉はしばらく迷った末に、その花びらを日誌の間にそっと挟んだ。


「今日は拾ったんだな」


伊吹が隣から言った。


「勝手についてきた」


「じゃあ、連れて帰るしかないな」


「うん」


「今日の記録?」


「たぶん」


伊吹はそれ以上聞かなかったし、雫葉も説明しなかった。今日の記録。木漏れ日の下で嘘をやめきれなかったこと。全部は言えなかったこと。でも、このままでいいとは思っていないと、同じ場所に立てたこと。


会社を出ると、夜の東京は春の匂いを少しだけ含んでいた。花の匂いというほど甘くはなく、土の温かさ、舗装の冷たさ、飲食店の湯気、そしてどこか遠くから漂う柔らかな植物の気配が混ざり合っていた。


雫葉と伊吹は今日は駅に向かう前に、会社近くの小さな緑道に入った。いつもの帰り道ではない。祭りのあった商店街でも、冬に通った裏道でもない。低い照明の下にまだ若い葉をつけた木々が並んでいる。


「遠回り?」


伊吹が聞いた。


「少しだけ」


「理由は?」


「今日、まっすぐ帰ると考えすぎそうだから」


伊吹は静かに笑った。


「じゃあ、少し歩くか」


緑道は人通りが少なく、足元には細かな砂が混じって舗装とは異なる柔らかい音がした。頭上の葉はまだ小さく、街灯の光を完全に隠すことはなかった。木漏れ日ではなく、木漏れ灯りのような夜だった。


「今日のこと」


と伊吹が言った。


「うん」


「言えてよかったのか、まだ分からない」


「私も」


「でも、言わない方が良かったとは思っていない」


雫葉はゆっくりとうなずいた。


「私も」


その言葉を返すと、胸の中の何かが少し落ち着いた。同じ答えを持っている。全部ではないけれど、今はそれで十分だった。


緑道の途中で、歩道に細い枝が張り出していた。まだ若い葉が数枚ついている。雫葉はそれを避けて通ろうとしたが、伊吹が先に手を伸ばして枝をそっと持ち上げた。


「どうぞ」


「現場外でも樹木管理課」


「枝が雫葉に当たりそうだったから」


雫葉はその下を通った。伊吹が持ち上げた枝の影が彼女の肩をかすめたが、触れたわけではないのに、守られたような感覚が残った。


「ありがとう」


「うん」


「今のは困らない」


伊吹は少し驚いた顔をした後、静かに笑った。


「覚えておく」


「何でも覚えすぎ」


「忘れたくないから」


雫葉は何も言えなかった。忘れたくない。伊吹はそういう言葉を最近、まっすぐ置くようになった。雫葉もそれを避けきれなくなっている。


駅の灯りが遠くに見え始め、緑道はそこで終わり、大通りへ戻った。車の音が近づき、人の声も増えた。さっきまでの静けさが街の中にほどけていった。


「このままでいいって、嘘だったね」


雫葉は言った。自分の声が思ったより落ち着いていることに、雫葉は驚いた。


伊吹は隣で足を止め、雫葉も止まった。大通りの手前、街灯と木の影が重なる場所だった。


「うん」


伊吹は答えた。


「嘘だった」


それだけだったけれど、その言葉で十分だった。ずっと笑って隠してきたものに初めて、同じ名前ではなく同じ影が落ちた気がした。


「でも、まだ全部は言えない」


雫葉がそう言うと、伊吹はうなずいた。


「急がない」


「急がないけど」


「なかったことにしない」


言葉が重なりそうになって、雫葉は少し笑った。伊吹も笑った。笑いは小さかったけれど、もう嘘だけではなかった。


「また明日」


伊吹が言った。


「また明日」


雫葉は返した。


いつもの言葉が今日は少し深く聞こえた。明日はただの続きではなく、今日の言葉を持ったまま迎える新しい朝だ。


伊吹は駅の方へ歩いていった。雫葉は、その背中を見送る代わりに、緑道の終わりにある若い葉を見た。夜の灯りに透けるその葉は、昼間の花ほどには華やかではないが、確かに春の色をしていた。


雫葉は鞄の中の日誌に触れた。花びらが1枚、ページの間にある。木漏れ日の下で交わした言葉も、そこには書かれていないけれど、確かに残っている。


このままでいいという嘘は、まだ完全には消えていない。けれど、嘘だと知ってしまった。知ってしまったものを、もう知らないふりはできない。


春の夜風が若い葉を小さく揺らし、雫葉はそれを聞きながら駅へと歩き出した。胸の奥ではまだ言えない言葉が花びらのように薄く震えていた。それは、落ちるのではなく開く前の静けさとして。


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