第8章:まだ咲かぬ声
朝の空には冬の硬さがまだ少し残っていたが、光の端は柔らかくほどけ始めていた。緑景管理の事務所前で、樹守雫葉は作業手袋をはめながら街路樹の枝先を見上げた。
まだ葉は生えていない。幹も枝も冬のままに見えるが、細い枝の先には小さなふくらみがあった。近づいてみると、見過ごしてしまえばただの点にしか見えないそのふくらみは、確かに春を抱えている。
「雫葉、今日は枝先と面談?」
朝凪伊吹が、荷台の横で測定具を確認しながら声をかけた。まだ寒さはあるのに、彼の首元には冬用のマフラーが見当たらず、季節に少しだけ先を越されたような格好だった。
「今日は面談じゃなくて、健康診断」
「花芽の?」
「うん。まだ小さいから、見落とさないように」
「俺の軽口も見落とさないで」
「それは落としても春に影響ない」
「剪定対象か」
雫葉は笑い、道具箱のふたを閉じた。その笑い声は朝の空気に白く溶けず、少しだけその場に漂った。冬の終わりは音の消え方まで変える。冷たさはあるのに、どこかで次の季節の準備が始まっている気がした。
今日の現場は春前の樹木点検で、公共施設や遊歩道、公園に植えられた木々の花芽や冬芽を確認し、剪定後の枝の状態を見るものだった。冬空の下で春の約束を交わした木も今日の点検対象に入っていた。
「今日は、仕事じゃなくても見るやつもあるね」
雫葉が図面を見ながら言うと、伊吹はほんの少し動きを止めた。
「覚えてた?」
「伊吹が忘れないって言ったから」
「雫葉も覚えていたんだね」
「見に来ようって言ったから」
伊吹は鼻の横を軽くかんだ。それは、照れたときのしぐさだった。雫葉はそれを見て、すぐに視線を図面に戻した。あの夜の約束は、仕事の予定に紛れながらも、まだ少しだけ別の温度を持っている。
作業車が会社を離れると、東京の朝は淡く乾いていた。路面には雨の跡もなく、車の音も冬ほど硬くない。歩道を行く人の服はまだ厚手だが、マフラーを外して手に持っている人もいる。
雫葉は窓の外を見た。街路樹の枝先が光を受けて細く浮かび上がり、葉がない分、芽のふくらみがよく見えた。まだ誰も気づかないような春が街のあちこちで息を潜めている。
「春って、意外と静かに始まるよね」
雫葉が言うと、伊吹は前を向いたまま頷いた。
「咲いてから騒がれるけど、その前が長いんだよな」
「花になる前の方がたぶん大事」
「雫葉らしいな」
「またそれ」
「いい意味で」
「悪い意味のときもあるの?」
「雫葉に怒られそうなとき」
雫葉は笑った。いつもの軽口。けれど、その奥にあるものはもう隠れきれない。「少しずつ」という言葉がまだ胸に残っている。急がない。けれど、見ないふりはしない。花芽のような関係だと思うと、少し恥ずかしかった。
最初の現場は小さな児童公園だった。冬の間静かだった砂場にはすでに小さな靴跡がいくつか付いていた。滑り台の金属は朝の冷えを残していたが、陽の当たる側だけが少し温かくなっていた。
雫葉は公園の入口に立つハナミズキに近づいた。硬い殻に包まれた花芽が枝先にいくつかついていたが、まだ色は目立たない。しかし、指先で触れなくてもそこに力が溜まっているのがわかった。
「ちゃんとついてる」
雫葉が言うと、伊吹も横から見上げた。
「去年より多いか?」
「たぶん。枝の状態も悪くない」
「冬の剪定、効いたかな」
「うん、光が入るようになったから」
雫葉はそう言いながら枝の間を見た。冬に落とした枝の跡があり、その隙間から光が差し込んで花芽のふくらみを照らしていた。切られた場所にはもう戻れないが、その空白が新しい芽を支えている。
「落としたものがちゃんと効いているんだね」
雫葉がそう小さく言うと、伊吹は少しだけこちらを見た。
「平気なふり?」
雫葉は手元の記録用紙に視線を落とした。
「少しは」
「俺の怖がりすぎも?」
「少しは」
「経過観察中か?」
「うん、春まで」
伊吹は笑ったが、その笑いは柔らかかった。雫葉は記録を取りながら胸の奥に温かいものが差すのを感じた。花芽はまだ閉じているが、そこにあるだけで季節は少し変わる。
公園にはまだ人が少なく、遠くのベンチには犬を連れた人が座っていた。犬は地面の匂いを嗅ぎ、時々鼻先で枯れた葉を押していた。冬の名残と春の気配が足元で混ざり合っていた。
「こういう時期って地味だよな」
伊吹が言った。
「地味だけど好き」
「咲いてないのに?」
「咲いてないから」
「どういうこと?」
「まだ誰にも見られていない感じがする。これから咲くものを、先に少しだけ見せてもらっているみたいで」
伊吹は黙って花芽を見つめた。雫葉もまた、同じ枝先に視線を向けていた。言葉がなくても、その小さなふくらみに同じように心を奪われていることが伝わってきた。
「雫葉は、そういうのを見つけるのがうまいな」
「仕事だから」
「仕事以外でも」
雫葉は少しだけ息を吸った。伊吹はなんでもないように言ったが、仕事以外という言葉は少し前から特別な意味を持ち始めていた。
「伊吹も、見つけるでしょ」
「何を」
「私が隠している顔とか」
言ってから雫葉は、自分で驚いた。以前なら飲み込んでいた言葉だったのに、今は声が小さくても外に出てしまう。
伊吹は目を細めた。笑ったのではなく、まぶしいものを見たときのような顔だった。
「見つけても、全部は言わないようにしてる」
「どうして?」
「雫葉が自分で言うまで待ちたいときもある」
雫葉は記録用紙を持つ手に力を入れた。待つ。伊吹はそういう人だ。踏み込みすぎない。けれど、離れすぎもしない。だからこそ苦しい。だからこそ、ここまで来られたのかもしれない。
「待たれるのも緊張する」
「急かすよりはいいだろ」
「うん」
「でも、待ちすぎてもだめなんだろうな」
伊吹の声は低かった。雫葉は枝先を見た。花芽はまだ硬いけれど、ずっと閉じたままではいられない。季節が来れば開くしかない。
「それも木が教えてくれるね」
「また木側」
「今日は七割くらい」
「残り三割は?」
雫葉は少し迷い、伊吹を見た。
「人間側で、緊張してる」
伊吹は返事をしなかったが、目元が少しだけ柔らかくなった。言葉にするほどではない反応でも、雫葉にはちゃんと届いた。
次の現場は施設前の通りで、冬に剪定したケヤキが並んでいた。葉のない枝は前に見たときよりも少し明るく、切り口周辺に小さな膨らみが見え始めていた。春はまだ遠く感じられるが、実際にはもう枝の中に入っているのだ。
雫葉は幹に軽く手を添えた。冬よりも冷たさが弱く、樹皮の硬さはそのままなのに、内側で動いているものを感じる気がした。もちろん気のせいかもしれないが、現場ではそういう気のせいも時として大切な手がかりになる。
「ここ、見に来ようって言った木だな」
伊吹が言った。
「うん」
「仕事で来たな」
「仕事で来たね」
「仕事じゃなくてもまだ有効?」
雫葉は枝を見上げたまま口元を緩めた。
「花が咲いたら」
「じゃあ、咲いたら」
「覚えてる?」
「覚えてる」
その短い返事が春前の空気に静かに残った。仕事の予定ではない。はっきりとした誘いでもない。けれど、それを曖昧な冗談に戻すことももうできなかった。
通りには、施設へ向かう人や散歩中の人、買い物袋を持った人が行き交っていたが、誰も枝先の小さな芽には気づかなかった。雫葉はそのことが少し嬉しかった。まだ自分たちだけが知っているような気がした。
「秘密みたいだね」
思わず言うと、伊吹が横を見た。
「花芽?」
「うん、まだ目立たないから」
「雫葉、秘密好き?」
「隠しごとは苦手」
「そうか?」
伊吹の声には少し笑いが混じっていた。雫葉は彼をにらむふりをした。
「何?」
「いや、結構抱えてるだろ」
「伊吹だって」
「そうだな」
返ってきた肯定に雫葉は少し黙った。以前ならそこで冗談をもう一つ挟んだかもしれないが、今日は伊吹も逃げなかった。
「秘密って、ずっと隠すものばかりじゃないのかもな」
伊吹が言った。
「じゃあ何?」
「開く前のもの」
雫葉は息を止めた。花芽の前でそんなことを言うのはずるいと思ったが、彼の声があまりに静かなので、責める気にはなれなかった。
「伊吹、今日は詩的」
「雫葉に寄せた」
「責任取れない」
「もう少し取ってるだろ」
雫葉は返せなかった。取っている。自分の言葉が伊吹の中に残っていることを、もう何度も知っている。伊吹の言葉もまた、自分の中に残り続けている。
作業は点検が中心だった。花芽の数、枝の状態、切り口の回復、病害の兆候。華やかな作業ではないが、雫葉は枝先を見て回る時間が好きだった。まだ何も起きていないように見えて、実はたくさんのことが準備されている。
伊吹は少し先の木を確認していた。枝を見上げる横顔は、冬のときよりも柔らかく見えた。それは光のせいかもしれないし、季節のせいかもしれない。あるいは、雫葉の見方が変わったからかもしれない。
「雫葉、こっち」
伊吹が呼んだ。
「何?」
「ここ、芽が少ない」
雫葉が近づいて枝先を見ると、確かに他の木よりも花芽が少なく、枝の伸び方にも少し勢いがなかった。根元を確認すると、土が硬く締まっており、人の踏み込みが多い場所だった。
「踏圧かな」
「通り道になってるな」
「根元を少し保護した方がいいかも」
「花だけ見ても分からないな」
「根元まで見ないとね」
雫葉はしゃがんで土に触れた。表面は乾いているが、内側はまだ冷たい。人が何度も踏んだことで固くなった土は、水も空気も通しにくい。花が少ない理由は、枝先だけにあるわけではない。
「見えてるところだけじゃ、わからないことばかりだね」
雫葉がそう言うと、伊吹は少し黙った。
「雫葉の話?」
「木の話」
「早いな」
「先に言った」
伊吹は笑った。雫葉も笑ったが、そこに少しだけ本心が見え隠れしていることは隠せなかった。笑顔だけではわからない。軽口だけではわからない。根元の硬さを見極めないと、花が少ない理由はわからない。
昼に近づくころ、空気は少しだけ温かくなった。通り沿いのベンチに座る人が増え、手袋を外している人もいた。冬から春に向かう途中の東京は、着るものも歩く速度も少し迷っているように見えた。
雫葉と伊吹は施設横の小さな休憩スペースで昼食を取った。コンクリートの縁に座ると、陽の当たっていた部分だけがほのかに温かい。近くの植え込みからは、湿った土の匂いではなく、乾いた芽の匂いがした。
「芽の匂いってあると思う?」
雫葉が聞くと、伊吹はパンの袋を開けながら首を傾げた。
「また難しいことを」
「花の匂いじゃなくて、開く前の匂い」
「それは雫葉にしか分からない匂いじゃないか」
「そんな特殊能力、いらない」
「樹守雫葉、花芽探知型」
「やめて」
雫葉は笑いながら水筒を開けた。まだ少し温かい中身を含み、体の内側からゆっくりと温度が戻っていくのを感じた。伊吹はパンをかじりながら植え込みを見ていた。
「開く前の匂い、あるかもな」
しばらくして伊吹が言った。
「本当に?」
「うん。何か、乾いているのに湿っている感じ」
「それ、わかる」
「雫葉語が移った」
「責任取れないって言ったでしょ」
「じゃあ、俺が勝手に芽吹いた」
雫葉は、水筒のふたを閉める手を止めた。伊吹は笑っていたが、その言葉は軽口の形をしているだけで、どこか別の意味を帯びていた。
「芽吹いたの?」
雫葉は聞いた。
伊吹はパンを持ったまま少しだけ固まり、それから鼻の横を軽くかいた。
「言葉の話」
「便利な言い訳」
「便利じゃない。今のは逃げた」
素直に認められて、雫葉はかえって困った。伊吹は「逃げた」と言った。以前ならごまかして笑っていたはずの場面で、伊吹は今は逃げたことを隠さない。
「逃げてもいいよ」
と雫葉は言った。
「でも、なかったことにはしない?」
「うん」
「雫葉、それ、強いな」
「伊吹が教えたんでしょ?」
「そうだった」
伊吹は小さく笑った。休憩スペースの陽だまりが少しだけ明るくなった気がした。冬の終わりの光は何かを急かすほど強くはないが、そこにあるものを見えやすくする。
午後は公園内の桜の花芽を確認しに回った。まだ花の季節には早いが、枝先には丸みのある芽がいくつも並んでいる。雫葉はそれを見ただけで胸の奥が少し柔らかくなるのを感じた。
桜は特別扱いされやすい木だ。咲く前から期待され、咲けば見上げられ、散れば惜しまれる。けれど、花のない時期もそこに立ち続けている。雫葉は、その時間こそ見落としたくないと思った。
「桜って大変だよな」
伊吹が言った。
「期待されすぎ?」
「うん、咲いて当然みたいに見られる」
「咲くまでが長いのにね」
「雫葉はそこを見るんだな」
「伊吹も見てるでしょ」
「雫葉が言うから、見えるようになったんだ」
雫葉は、枝先を記録する手を止めた。伊吹の言葉には少しずつ遠慮がなくなっている。遠慮がなくなったというよりも、遠慮を隠さなくなっているのだ。
「私のせい?」
「影響」
「また」
「根づいたから」
その一言に雫葉は視線を落とした。自分の言葉が伊吹の中に根づいた。伊吹の言葉が自分の中に根づいた。恋と呼ぶにはまだ怖いけれど、ただの同期の気安さだけではもう説明できない。
公園には冬の終わりを待つ人の気配があった。ベンチに座る人、遊具のそばで立ち話をする人、犬を連れてゆっくり歩く人。誰も桜を見上げてはいないが、もう少しすればここには多くの視線が集まるだろう。
雫葉は枝先の花芽を見ながら、自分の胸の中にも同じようなものがあると感じた。まだ開いていないけれど、確かに膨らんでいる。もうただの枝先には戻れない。
「雫葉」
伊吹が近くで呼んだ。
「何?」
「その顔、春を見てる」
「まだ咲いてないよ」
「でも、見てるだろ」
「うん、見てる」
「俺も」
その短い言葉に、雫葉は伊吹を見た。彼は桜の枝先ではなく、雫葉のほうを見ていた。ほんの一瞬だった。すぐに枝へ視線を戻したけれど、雫葉の胸にはその一瞬が残った。
「木の話?」
雫葉が聞くと、伊吹は少し笑った。
「木の話にしておく」
「ずるい」
「でも、なかったことにはしない」
またその言葉。けれど、今度はいつものような逃げ道ではなく、確かめるための印のようだった。雫葉はうなずいた。声に出すと、何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。
作業の終わりが近づくころ、空の色は柔らかく傾き始めていた。冬の夕方ほど早く暗くはならないが、光は少しずつ低くなり、枝先の芽に薄い金色を乗せていた。
雫葉は最後の桜の記録を終えた。花芽は順調、枝の傷みも少ない、根元の踏圧には今後注意が必要、と。文字にすると簡単だが、その一つひとつの奥に、春へ向かう時間がある。
「今年、咲くの早いかな」
伊吹が言った。
「少し早いかも」
「じゃあ、仕事じゃなくても見に来る予定、早まるな」
雫葉は顔を上げた。伊吹は図面をたたんでいて、何でもないように言っていたが、耳のあたりが少し赤かった。
「予定になってる」
「なってない?」
「なってる」
自分でそう答えると、雫葉は胸の奥が温かくなるのを感じた。予定。約束より軽く、偶然より確か。その言葉が、今はちょうどよかった。
「じゃあ、咲いたら」
伊吹が言った。
「咲いたら」
「仕事じゃなくても」
「うん」
今度は逃げなかった。雫葉はちゃんと頷いた。風が枝を揺らし、まだ閉じたままの花芽が小さく震えた。何かが静かに決まった気がした。
会社に戻る途中、車内は少し眠たげだった。春前の点検は派手ではないものの、細かな確認が多くて目が疲れる。雫葉は窓の外を流れる枝先を眺めながら、今日見た花芽のことを思い返していた。
伊吹は助手席で図面を膝に置いたまま外を見ており、その横顔には夕方の光が薄くかかっていた。雫葉は伊吹の横顔を見て、ふと胸の奥が苦しくなった。好きだと思った。もう何度目かわからないが、今日のそれは以前より静かだった。
苦しさだけではない。怖さだけでもない。育っているものを見るような、手を伸ばしたいけれど急に触れてはいけないものを見るような感覚だった。
「雫葉」
伊吹が振り返らずに言った。
「何?」
「見てる?」
雫葉は息を止めた。視線に気づかれていた。
「枝を」
「今、枝は窓の外」
「外を見てた」
「そういうことにしておく」
伊吹の声は笑っていた。雫葉は窓へ視線を戻した。頬が少し熱い。見つけられることにまだ慣れないが、今日は嫌ではなかった。
「伊吹も、さっき見てたでしょ」
「何を」
「私を」
少し沈黙が訪れた。車内の空調音が小さく響く。伊吹は振り返り、今度はちゃんと雫葉を見た。
「見てた」
認められると、雫葉の胸はさらに困った。冗談で返してほしいような、返してほしくないような。どちらも本当だった。
「どうして?」
「春を見てる顔だったから」
「それ、さっき言った」
「まだ見てたから」
雫葉は何も言えなかった。伊吹もそれ以上は言わず前を向いたが、その沈黙は冷たくなかった。花芽の殻の内側のように何かを抱えた沈黙だった。
会社に戻ると、事務所には夕方の光が淡く残っていた。窓際の観葉植物にも新しい葉が出ており、雫葉は手を洗った後、その葉を少しだけ見た。葉は薄く、まだ柔らかい緑色をしていた。
報告書には花芽の状態、根元の踏圧、剪定後の回復、今後の開花確認を記録した。伊吹は隣の机で写真を整理していた。桜の枝先、ハナミズキの芽、ケヤキの切り口。画面の中の小さな芽は実物よりもさらに小さく見えた。
「この写真、使える?」
伊吹が聞いた。
「うん、花芽の状態がわかる」
「雫葉が見つけたやつ」
「伊吹も見たでしょう」
「見えたのは雫葉が先」
「競争じゃないよ」
「でも、先に見つける人がいると見えるようになる」
雫葉は手を止めた。伊吹の声はいつもより静かだった。
「それ、私のこと?」
「仕事の話」
「便利な言葉」
「今日は半分だけ」
「残り半分は?」
伊吹は画面を見たまま少しだけ笑った。
「まだ開く前の話」
雫葉は視線を落とした。胸の奥で何かがまた膨らむ。まだ開く前。それは秘密でもあり、予感でもある。言葉にすれば壊れそうで、黙っていれば膨らみ続けるもの。
「じゃあ、記録には書けないね」
雫葉が言うと、伊吹はうなずいた。
「書けないな」
「でも、忘れない?」
「忘れない」
その返事は早かった。雫葉は笑った。忘れないと言われることに少し慣れてきたが、慣れた分だけその重さもわかるようになった。
夜が近づき、事務所の明かりが外の暗さに浮かび始めた。雫葉は日誌を開き、今日のメモを確認する。ケヤキの葉と秋の葉の間に、今日は何も挟まないつもりだった。花芽は摘むものではない。枝に残してこそ意味がある。
「今日は拾わないんだな」
伊吹が隣から言った。
「花芽は持って帰れないから」
「だな」
「見に行くものだから」
伊吹は少しだけ黙った。
「咲いたら」
「うん、咲いたら」
それだけで、今日の終わりが少し柔らかくなった。雫葉は日誌を閉じ、鞄にしまった。
会社を出ると、夜の空気が冬よりも軽くなっていた。風は冷たいが、刺すようではない。街路樹の枝先には、昼間よりも見えにくくなったものの、それでも確かに芽がある。見えないからといって、なくなるわけではない。
雫葉と伊吹は、今日は駅へまっすぐ向かわず、公共施設の横を抜ける明るい歩道を選んだ。そこには適度な人通りがあり、店先からこぼれる明かりが歩道の端をやさしく照らしていた。
「今日は枝、見えにくいね」
雫葉が言った。
「夜だからな」
「でも、ある」
「うん。見えなくてもある」
その言葉が胸に静かに響いた。見えなくてもある。花芽も、約束も、言えない想いも。誰かに見えなくても、自分たちがまだ言葉にしきれなくても、そこにあるものは消えない。
歩道の途中で雫葉は、小さな街路樹の前に立ち止まった。枝先に、ごく小さな芽があった。夜の光ではほとんど見えないが、昼間から芽ばかり見ていた目にはそこにあることがわかった。
「これも」
雫葉が指さすと、伊吹が少し身を寄せてのぞき込んだ。肩先が近づく。触れてはいないが、距離の近さははっきりとわかった。
「本当だ」
伊吹の声が近かった。
「よく見つけたな」
「今日はそういう日だから」
「花芽の日?」
「予感の日」
雫葉は言ってから恥ずかしくなったが、伊吹は笑わず、枝先を見たまま静かにうなずいた。
「予感の日か」
「変?」
「いや、いいと思う」
夜の歩道に短い沈黙が落ちた。近くの店から温かい食べ物の香りが漂い、遠くではバスが停まって扉が開く音がした。東京の夜は日常の音で満ちているのに、その枝先だけが小さな秘密のように感じられた。
「雫葉」
伊吹が呼んだ。
「何?」
「咲いたら、本当に見に来よう」
「うん」
「仕事じゃなくて」
雫葉は、枝先から伊吹へと視線を移した。彼の目はまっすぐで、もう冗談の形にはしていなかった。
「うん、仕事じゃなくて」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが静かに開きかけた。まだ花ではないが、殻の内側に光が入ったような感覚だった。
伊吹は少しだけ息を吐いた。それは、安心したようにも緊張したようにも見えた。
「じゃあ、予定だな」
「うん、予定」
「忘れない」
「知ってる」
雫葉がそう言うと、伊吹は笑った。その笑いはいつもの軽口を言う前の笑いではなく、何かを受け取った後の静かな笑みだった。
駅の方へ歩き出すと、夜の風が枝先を揺らした。芽は小さすぎて揺れたかどうかはわからなかったが、雫葉には確かに動いたように見えた。
「伊吹」
今度は雫葉が呼んだ。
「何」
「今日、少し怖くない?」
伊吹はゆっくりこちらを見た。
「何が?」
「変わっていくこと」
その言葉は、ずっと胸にあったものだった。ケヤキが失われた朝から、風が通るようになった公園、緑がなくなった街、雨を宿すようになった枝、夏の影、秋の葉、冬に剪定される木々。そのすべてが、少しずつ今につながっている。
伊吹は黙って聞いていた。
「まだ怖いけど、でも全部が終わるわけじゃないのかもって今日、少し思った」
雫葉は足元を見た。舗道には小さな影が落ちていた。それは、枝先から伸びるまだ葉のない影だった。
「うん」
伊吹の声がした。
「俺も、少し」
それだけだったけれど、十分だった。全部を言わなくても今は伝わることがあり、言わなければ届かないものもある。どちらも本当で、その境目を、並んだ歩幅は少しずつ確かめるように進んでいた。
駅の明かりが近づいてきた。人の流れが増え、現場帰りの人々は街の中に紛れていった。雫葉は、今日いつもの分かれ道をいつもと違う気持ちで見つめた。そこを別れの場所ではなく、次に続くための場所に見えた。
「また明日」
伊吹が言った。
「また明日」
雫葉は返した。
そのあと、ほんの少しだけ間があった。以前ならそこで軽口が交わされたかもしれないが、今日は何も言われなかった。ただ、何も言わなくても残るものがあった。
「咲いたら」
伊吹が小さく言った。
雫葉はうなずいた。
「咲いたら」
約束はそれだけでよかった。伊吹は改札に向かい、雫葉は地下へ続く通路へ歩き出した。振り返らなくても、胸の中には小さな枝先が残っている。
階段を降りる前に、雫葉はもう一度だけ外の街路樹を見た。夜の枝は黒く、芽はほとんど見えないが、そこには確かに春があった。見えないものを信じるのは怖いけれど、今日は少しだけ信じられる気がした。
雫葉はゆっくり息を吐いた。胸の奥ではまだ言えない言葉が、花芽のように膨らんでいた。開く時を急かさず、でもなかったことにはせずに、その小さな予感を抱えたまま地下へ降りる階段に足を掛けた。




